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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第15章 第4話:企業連携の授業――未来を語る大人が忙しすぎる


 企業紹介のスライドは、どれも眩しかった。


 青い空を背景にしたオフィスビル。


 笑顔で会議をする社員たち。


 海外の街並み。


 握手をするビジネスパーソン。


 画面の中央には、大きな文字が並んでいる。


『挑戦』

『成長』

『未来』

『グローバル』

『自己実現』


 澪は、体育館のパイプ椅子に座りながら、配られた進路ノートの端を指でなぞっていた。


 高校二年生。


 進路希望調査の提出期限が近い。


 周りの友人たちは、少しずつ志望学部や職業名を書き始めている。


 看護師。


 公務員。


 保育士。


 建築士。


 情報系。


 教育学部。


 経済学部。


 けれど澪の進路希望欄は、まだ空白だった。


 なりたい職業がないわけではない。


 興味のあることも、いくつかある。


 文章を書くこと。


 人の話を聞くこと。


 社会の仕組みを知ること。


 ものを作ること。


 でも、それを職業名にしようとすると、急に手が止まる。


 何を選べばいいのか。


 選んだ先で、自分はどんな一日を過ごすのか。


 大人になって働くということが、どうしても遠かった。


 今日の授業は、企業連携のキャリア教育プログラムだった。


 市内の大手企業から社員が来て、仕事について話してくれる。


 毎年行われているらしい。


 先生たちは言った。


「社会で働く人の話を聞いて、進路を考えるきっかけにしましょう」


 澪は、それ自体が悪いとは思っていなかった。


 ただ、あまり期待はしていなかった。


 こういう講演では、だいたい大人は未来を明るく話す。


 やりがい。


 成長。


 挑戦。


 夢。


 人とのつながり。


 社会貢献。


 それらが嘘だとは思わない。


 でも、画面に映る大人たちは、いつも少し眩しすぎる。


 失敗した日はどうしているのか。


 仕事が嫌になったことはないのか。


 疲れて帰った夜は、何を考えているのか。


 忙しすぎて、大切なものを後回しにしたことはないのか。


 そういう話は、あまり出てこない。


 体育館の前方では、企業の担当者がパソコンを確認していた。


 片桐さん。


 広報部所属。


 今日の講演者だった。


 紺色のスーツを着て、髪をきれいにまとめている。表情は穏やかで、動きに無駄がない。


 片桐さんは、スライドの順番を何度も確認していた。


 会社概要。


 事業内容。


 社員インタビュー。


 若手社員の一日。


 求める人物像。


 高校生へのメッセージ。


 どれも整っている。


 広報部として、会社の魅力を伝えるのが片桐さんの仕事だった。


 会社をよく見せること。


 高校生に前向きな印象を持ってもらうこと。


 将来、地域で働くことに興味を持ってもらうこと。


 それは大切な役割だ。


 しかし、片桐さんの手元には、もう一つ別のメモがあった。


 そこには、スライドには載っていない言葉が書かれている。


『失敗したプレゼン』

『育児と仕事の両立で泣いた日』

『残業が続いて体調を崩したこと』

『辞めたいと思った朝』

『上司に相談できなかった時期』

『仕事を続けるために変えた働き方』


 片桐さんは、そのメモを見て、そっと閉じた。


 こんな話をしていいのだろうか。


 企業講演で、会社の弱いところを見せていいのだろうか。


 高校生に、不安を与えないだろうか。


 自分の役割は、未来を明るく語ることではないのか。


 そう思っていた。


 講演開始の少し前、体育館の後方に一人の先生が入ってきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 世界各地の学校や学びの場を訪ねている先生だと、担任から紹介された。


 灯理は、前方の眩しいスライドを見た。


 それから、生徒たちの膝の上に置かれた進路ノートを見た。


 最後に、片桐さんが閉じた小さなメモに視線を落とした。


 講演が始まった。


 片桐さんは、落ち着いた声で話し始めた。


「本日は、私たちの会社の仕事についてお話しします」


 スライドが切り替わる。


 会社の歴史。


 地域との関わり。


 海外展開。


 新規事業。


 社員の挑戦。


 写真も、言葉も、整っていた。


 生徒たちは静かに聞いている。


 何人かはメモを取っている。


 澪もノートに書いた。


『挑戦』

『地域貢献』

『成長できる環境』


 書きながら、自分の字が少し冷めていることに気づいた。


 片桐さんの話は上手い。


 わかりやすい。


 会社のことも、仕事の面白さも伝わる。


 でも、やはりどこか遠い。


 きれいな未来の話。


 自分がそこに立つ姿は、想像できない。


 質疑応答の時間になった。


 生徒からいくつか質問が出た。


「仕事でやりがいを感じる時はいつですか」


「高校生のうちにやっておくべきことは何ですか」


「英語は必要ですか」


 片桐さんは、一つずつ丁寧に答えた。


 澪は、手を挙げるつもりはなかった。


 でも、気づくと右手が少し上がっていた。


 担任が澪に気づく。


「澪さん」


 体育館の視線が集まる。


 澪は、少し後悔した。


 でも、もう下ろせない。


 マイクが回ってくる。


 澪は、少し息を吸った。


「大人は、未来を明るく話しますよね」


 体育館が静かになった。


 片桐さんが、まっすぐこちらを見る。


「はい」


「挑戦とか、成長とか、やりがいとか。そういうのは大事だと思うんですけど」


 澪は、言葉を探した。


「しんどいところは、隠しますよね」


 先生たちが少し身じろぎした。


 澪はマイクを握る手に力を入れた。


「仕事が嫌になったこととか、失敗したこととか、生活と両立できない時とか。そういう話を聞かないと、未来が本当のものに見えないです」


 体育館の空気が、少し硬くなった。


 片桐さんは、すぐには答えなかった。


 広報部の担当者としては、きれいに返すこともできた。


 仕事には大変なこともありますが、それ以上にやりがいがあります。


 失敗も成長の糧です。


 前向きに挑戦することが大切です。


 そう言えば、講演は整って終われる。


 けれど、澪の目は、それでは納得しない目だった。


 その時、灯理が静かに口を開いた。


「片桐さん、少し授業の形を変えてみてもいいでしょうか」


 片桐さんは、驚いて灯理を見た。


「授業の形、ですか」


「はい。仕事紹介ではなく、働く一日の地図を見せていただく時間に」


 灯理はステージ横のホワイトボードに歩み寄った。


 黒いペンで大きく書く。


『働く一日の地図』


 その下に、項目を並べていく。


『出社前にしていること』

『仕事で楽しい瞬間』

『失敗した経験』

『予定通りにいかない日』

『誰かと相談する場面』

『休めなかった時のこと』

『仕事と生活の調整』

『辞めたいと思ったこと』

『それでも続けている理由』

『変えたい働き方』


 生徒たちの空気が変わった。


 さっきまでの講演を聞く姿勢から、少し身を乗り出すような空気になる。


 片桐さんは、ホワイトボードを見つめた。


 その項目は、閉じたメモの中身と重なっていた。


 灯理は澪の方を見た。


「澪さんは、大人がしんどいところを隠しているように感じたのですね」


「はい」


「うん。では、未来を学ぶ時、明るい部分だけを見れば十分なのでしょうか」


 澪は首を横に振った。


「違うと思います」


 灯理は頷き、片桐さんへ視線を戻した。


「働くことの眩しい面だけではなく、迷いや失敗、暮らしとの調整も含めて見せていただくことはできますか」


 片桐さんは、しばらく黙っていた。


 体育館の前方に映るスライドは、まだ『未来へ挑戦する人へ』というタイトルを表示している。


 眩しい言葉。


 整った写真。


 その隣に、ホワイトボードの生々しい項目が並んでいる。


 片桐さんは、静かにパソコンを閉じた。


 スライドが消え、スクリーンが白くなる。


 生徒たちがざわついた。


「少し、予定と違う話をします」


 片桐さんはマイクを持ち直した。


「会社の広報担当としては、きれいな話をする方が正しいのかもしれません。でも、皆さんが未来を考えるためには、もう少し本当の一日を話した方がいいのかもしれません」


 澪は、ノートにペンを置いた。


 片桐さんは、ホワイトボードの最初の項目を指した。


「出社前にしていること。私は、朝六時に起きます。子どもの弁当を作り、洗濯物を干し、保育園に送ってから出社します」


 生徒たちの何人かが顔を上げる。


「会社紹介のスライドには、出社後のかっこいい会議の写真が出ます。でも、その前に、家で洗濯物が乾いていないとか、子どもが熱を出したとか、朝から靴下が片方ないとか、そういう時間があります」


 体育館に小さな笑いが起きた。


 片桐さんの表情も少しやわらぐ。


「仕事で楽しい瞬間。自分が関わった企画が形になり、お客様や地域の人に届いた時です。誰かの役に立ったと感じる時は、やはり嬉しいです」


 そして、次の項目。


『失敗した経験』


 片桐さんは少し息を吸った。


「入社五年目の時、大きなプレゼンに失敗しました」


 体育館が静かになる。


「準備はしていました。でも、相手が本当に知りたいことを聞かず、自分たちが伝えたいことだけを話してしまいました。結果、企画は通りませんでした」


 澪は、ノートに書いた。


『相手が知りたいことを聞かなかった』


「その時は、会社に戻る電車で泣きました」


 片桐さんは、少し笑った。


「大人でも、電車で泣きます」


 生徒たちの空気が少しほどけた。


「予定通りにいかない日。これは、よくあります。急な問い合わせ、会議の延長、資料の修正、子どもの発熱、家族の用事。朝立てた予定通りに一日が終わることの方が少ないかもしれません」


 ホワイトボードに、灯理が一日の時間軸を書いた。


 六時。


 八時。


 九時。


 十二時。


 十五時。


 十八時。


 二十一時。


 片桐さんは、その上に自分の一日を書き込んでいった。


 家事。


 保育園。


 通勤。


 メール確認。


 会議。


 資料作成。


 昼食を取り損ねた日。


 急なトラブル対応。


 退社。


 買い物。


 夕食。


 子どもの宿題。


 夜のメール返信。


 その一日は、スライドの中の美しいオフィス写真とは違っていた。


 けれど、ずっと本物に近かった。


 澪は、食い入るように見ていた。


 仕事は、会社の中だけで完結していない。


 生活と重なっている。


 時間と体力と人間関係の中にある。


 灯理は言った。


「片桐さんが一人で話すだけでなく、他の社員の方にも少し伺えますか」


 今日、企業からは片桐さんの他に二人の社員が来ていた。


 若手の開発職、仁科さん。


 営業職の大谷さん。


 最初は補助として来ていた二人も、マイクを持つことになった。


 仁科さんは言った。


「僕は、仕事が楽しくて入社しました。でも、最初の一年はミスばかりでした。プログラムを書いても動かないし、先輩の説明もわからないし、会議で何を話しているのかも半分くらいしか理解できませんでした」


 生徒たちが少し笑う。


「辞めたいと思ったことはありますか」


 誰かが聞いた。


 仁科さんは頷いた。


「あります。朝、会社の最寄り駅で降りたくないと思った日がありました」


 体育館が静かになる。


「でも、その時に先輩に相談しました。全部ではないけれど、今何がわからないのかを分けてもらいました。それで少し続けられました」


 大谷さんは言った。


「営業は、人と話すのが好きなら楽しい仕事だと思われがちです。でも、断られることも多いです。相手に怒られることもあります。自分の提案が相手の事情に合っていないと、どれだけ熱心に話しても届きません」


 灯理が尋ねる。


「続けている理由は何ですか」


 大谷さんは少し考えた。


「断られた理由を聞いて、次に提案を変えられた時です。相手の仕事を少し理解できたと思える瞬間がある。その時、この仕事をしていてよかったと思います」


 片桐さんは、ホワイトボードの最後の項目を見た。


『変えたい働き方』


 少し迷った後、話した。


「私は、以前、長時間働くことが頑張ることだと思っていました。遅くまで残る人が評価される空気もありました」


 その声は、少し低くなった。


「でも、体調を崩しました。家族にも心配をかけました。その後、上司と相談して、働き方を変えました。今も完全ではありません。忙しい時期はあります。でも、続けるためには、働き方も変えなければならないと学びました」


 澪は、ノートに書いた。


『続けるために変える』


 それは、今日聞いた中で一番心に残った言葉だった。


 働くことは、ただ夢に向かって頑張ることではない。


 無理をして壊れるまで進むことでもない。


 迷ったり、失敗したり、相談したり、変えたりしながら続けることなのかもしれない。


 授業の後半、生徒たちは自分の進路ノートを開いた。


 灯理が黒板に、新しい項目を書いた。


『なりたい職業』

 ではなく、その横にこう書く。


『どんな一日を送りたいか』

『誰と関わりたいか』

『何に悩みそうか』

『どんな支えが必要か』

『どんな働き方は続けにくいか』

『何を大切にしたいか』


 担任が少し驚いたように灯理を見た。


 灯理は言った。


「職業名を書くことも大切です。でも、職業名だけでは、その人がどんな一日を生きるのかは見えません。今日は、未来の一日を考えてみます」


 生徒たちはペンを持った。


 澪は、進路希望欄の空白を見た。


 いつもなら、そこで手が止まる。


 なりたい職業。


 まだない。


 でも、今日は別の欄がある。


『どんな一日を送りたいか』


 澪は考えた。


 朝、急ぎすぎない一日がいい。


 人の話を聞く時間がある仕事がいい。


 文章を書いたり、考えを整理したりする時間もほしい。


 誰かと協力する時間も、一人で集中する時間もある方がいい。


 書いてみる。


『人の話を聞いて、言葉にする時間がある一日』

『一人で考える時間と、誰かと相談する時間が両方ある』

『忙しくても、食事と睡眠を削り続けない』


 次の欄。


『誰と関わりたいか』


 困っている人。


 何かを伝えたい人。


 地域の人。


 子ども。


 働く大人。


 まだうまく言葉にできない人。


『何に悩みそうか』


 断られること。


 相手の期待に応えられないこと。


 自分の言葉が足りないこと。


 忙しさに流されること。


『どんな支えが必要か』


 相談できる人。


 失敗しても話せる場所。


 働き方を見直せる環境。


 休むことを悪いと思わない職場。


 澪は、自分の字を見つめた。


 職業名はまだ書けない。


 でも、自分がどんな未来を怖がっているのか、どんな一日なら続けられそうなのかが、少しだけ見えた。


 最後の欄。


『何を大切にしたいか』


 澪は、少し迷ってから書いた。


『明るい話だけでなく、本当のことを見て考えること』


 授業の終わりに、片桐さんは生徒たちへ言った。


「今日、私は会社を良く見せるための話を準備してきました」


 生徒たちが前を見る。


「それも嘘ではありません。仕事にはやりがいもあります。成長もあります。挑戦もあります」


 片桐さんは、ホワイトボードの一日の地図を見た。


「でも、それだけではありません。失敗もあります。疲れる日もあります。誰かに助けてもらわないと続かない時もあります。働き方を変えなければならない時もあります」


 声が体育館に静かに響く。


「皆さんが未来を考える時、きれいな言葉だけで自分を急がせないでください。どんな一日なら続けられるか。どんな支えが必要か。何を大切にしたいか。それも、一緒に考えてください」


 澪は、ノートを閉じなかった。


 まだ書きたいことがあった。


 放課後、澪は体育館の後ろに残っていた。


 片桐さんが片づけをしている。


 スクリーンはもう白く、パイプ椅子も少しずつ片づけられていた。


 澪は進路ノートを手に、片桐さんのところへ行った。


「あの」


 片桐さんが振り返る。


「質問した生徒さんですね」


「はい。失礼な聞き方だったらすみません」


「いいえ」


 片桐さんは首を横に振った。


「あの質問がなければ、私も準備したスライドだけで終わっていたと思います」


 澪は、ノートを少し開いた。


「私、まだなりたい職業が書けないんです」


「はい」


「でも、今日、送りたい一日は少し書けました」


 片桐さんは、嬉しそうに頷いた。


「それは、とても大切だと思います」


「職業名がないと、進路を考えていないみたいで不安だったんです」


「私も、高校生の時に今の仕事を知っていたわけではありません」


「そうなんですか」


「はい。会社に入ってからも、何度も変わりました。部署も、働き方も、自分が大切にしたいことも」


 片桐さんは、少し笑った。


「未来は、最初に選んだ職業名だけで決まるわけではありません」


 澪は、その言葉をゆっくり受け取った。


「片桐さんは、今の仕事を続けたいですか」


 片桐さんは、すぐには答えなかった。


 そして、正直に言った。


「続けたい日と、立ち止まりたい日があります」


 澪は驚いた。


 でも、その答えがとても本当らしく聞こえた。


「だから、続け方を考えています。何を引き受けて、何を相談して、何を変えるか」


「続け方」


「はい。働くことは、選んだら終わりではありません。続け方を学ぶことでもあります」


 澪は進路ノートの端に、その言葉を書いた。


『続け方を学ぶ』


 灯理が、体育館の入口で二人を見守っていた。


 夕方の光が、床に長く伸びている。


 澪はノートを閉じ、片桐さんに頭を下げた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、質問してくれてありがとうございました」


 澪は体育館を出る前に、進路希望欄を見た。


 職業名を書く欄は、まだ空白だった。


 でも、その下に新しい一文を書いた。


『なりたい職業はまだない。でも、続けられる一日を考えてみたい』


 空白は、ただの空白ではなくなっていた。


 まだ言葉になっていない未来を置く場所になっていた。


 夜、灯理は高校を出た。


 校舎の窓には、職員室の明かりが残っている。体育館では、使われなかった企業紹介スライドの代わりに、ホワイトボードの「働く一日の地図」がまだ消されずに残っていた。


 校門まで、片桐さんが見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、働く一日を一緒に見せていただきました」


 片桐さんは、手元のスライド資料を見た。


「最初に準備していた話も、嘘ではなかったんです」


「はい」


「会社の良いところを伝えたい気持ちも本当です。挑戦や成長を語りたい気持ちも」


「大切なことですね」


「でも、それだけだと、生徒たちには少し遠かったのかもしれません」


 片桐さんは、校舎を振り返った。


「働く大人として、本当の経験を少し差し出すことも、キャリア教育なんですね」


 灯理は頷いた。


「片桐さんの迷いや失敗も、生徒たちが未来を見るための手がかりになっていました」


 片桐さんは、少し照れたように笑った。


「会社に戻ったら、広報資料に怒られない範囲で、今日の話を少し入れてみます」


「はい」


「成功談だけではなく、働く一日の地図も」


 夜風が、校門の横の木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、都市部の中学校と放課後の学習支援施設から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 仕事を学ぶことは、成功した大人の話を聞くことだけではない。


 美しいスライドに映る未来だけを見ることでもない。


 朝、家を出る前の慌ただしさ。


 失敗した日の帰り道。


 相談できずに抱え込んだ時間。


 誰かに助けを求めたこと。


 休めなかった日。


 働き方を変えた決断。


 それでも続けたいと思えた瞬間。


 それらを含めて、働くことは一日の中にある。


 灯理は夜の体育館を振り返った。


 白いスクリーンには、もう何も映っていない。


 けれど、ホワイトボードには、消されなかった一日の線が残っている。


 その線の上に、澪の未来がまだ名前を持たないまま静かに置かれていた。


 なりたい職業はまだない。


 でも、続けられる一日を考えてみたい。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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