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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第13章 第2話:叱る授業――怒鳴ったあとに残る教室


 机を叩く音は、思っていたより長く教室に残る。


 ばん、と乾いた音が響いたあと、教室は一瞬で静まり返った。黒板に向かっていた生徒たちの肩が跳ね、窓際のカーテンが風に揺れる音まで聞こえるようになった。


 拓海は、自分の右手を見下ろしていた。


 手のひらが熱い。


 叩いた机の表面には、シャープペンシルが一本転がり、ノートの端が少しめくれている。


 授業中だった。


 生活指導が厳しいことで知られる高校の、二年四組。


 国語の時間。


 若手の三浦先生が、評論文の要約を書かせていた。


 拓海は最初、黙ってノートを取っていた。


 隣の席の生徒が、小さな声で何か言うまでは。


「昨日も親、来てなかったよな」


 聞こえないふりをした。


「また家のことで呼ばれてんの?」


 拓海は、シャープペンシルを握りしめた。


「大変だな。まあ、そういう家だもんな」


 その一言で、胸の奥に火がついた。


 言い返す言葉より先に、手が動いた。


 ばん。


 机を叩いた音が、教室全体を止めた。


「何をしている!」


 後ろの扉が勢いよく開いた。


 巡回していた生活指導担当の篠田先生だった。


 背が高く、声がよく通る。廊下に立つだけで、生徒たちの背筋が伸びるような教師だった。


 三浦先生が驚いて振り返る。


「篠田先生」


 篠田先生は教室の前方へ進み、拓海の机の横に立った。


「授業中だぞ。机を叩いて授業を止めるとは何事だ」


 拓海は黙っていた。


 胸がまだ熱い。


 言えば、もっと悪くなる。


 そう思った。


「答えろ」


 篠田先生の声が強くなる。


 教室の空気がさらに重くなった。


 隣の生徒は下を向いている。


 さっきの言葉を、誰も聞いていなかったのだろうか。


 聞いていても、言わないのだろうか。


 拓海は唇を噛んだ。


「……別に」


「別に、で済むと思っているのか」


 篠田先生の声が教室に響いた。


「授業を妨害するな!」


 拓海の肩が少し動いた。


 怒鳴られたことより、その言葉が刺さった。


 授業を妨害した。


 それは、たしかにそうだ。


 机を叩いた。


 教室を止めた。


 悪いのは自分だ。


 でも、その前に何があったのかは、どこにもない。


 まるで、拓海だけが突然悪くなったように、教室の真ん中へ置かれた。


「放課後、指導室に来なさい。反省文を書いてもらう」


 篠田先生はそう言い、拓海の机から少し離れた。


 三浦先生は何か言いたそうにしたが、授業を再開するしかなかった。


「では、続けます」


 その声は、少し震えていた。


 生徒たちはノートに目を落とす。


 しかし、教室にはまだ机を叩いた音が残っていた。


 怒鳴り声も。


 拓海はシャープペンシルを持ち直したが、文字は何も書けなかった。


 放課後、拓海は指導室にいた。


 机の上には、反省文用紙が一枚置かれている。


『私は授業中に机を叩き、授業を妨害しました。今後はこのようなことがないようにします。』


 拓海は、最初の一文だけを書いた。


 その先は、止まった。


 反省。


 何を反省すればいいのか。


 机を叩いたこと。


 授業を止めたこと。


 それは悪かった。


 でも、あの言葉を言われて、黙っていればよかったのか。


 家庭のことをからかわれて、何も感じないふりをすればよかったのか。


 拓海はペンを置いた。


 指導室の外から、職員室の電話の音が聞こえる。


 廊下を誰かが歩く音。


 遠くの部活動の声。


 そのすべてが、自分とは別の世界の音のようだった。


 扉が開き、三浦先生が入ってきた。


「拓海」


 拓海は顔を上げない。


 三浦先生は若手教師だった。


 生徒との距離が近く、授業ではよく生徒の話を聞く。けれど、生活指導の場面ではまだ迷うことが多く、篠田先生の強い指導力を尊敬していた。


「反省文、進んでる?」


「……別に」


「さっきは、何があったんだ」


 拓海は、三浦先生をちらりと見た。


 聞くなら、なぜあの時聞かなかった。


 そう言いたかった。


 でも、言葉は喉で止まった。


「もういいです」


「拓海」


「どうせ俺が悪いで終わりでしょ」


 三浦先生は黙った。


 その沈黙が、拓海には答えのように聞こえた。


 指導室の扉が再び開いた。


 篠田先生が入ってくる。


 そして、その後ろに一人の女性がいた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 世界の学校を訪ね、さまざまな授業を見てきた先生だと、朝の職員打ち合わせで紹介されていた。


 拓海はほとんど興味を持っていなかった。


 けれど、灯理は部屋に入るなり、反省文用紙だけでなく、拓海の止まったペン先と、強く握られた左手を見た。


「白瀬先生、こちらが例の生徒です」


 篠田先生が言った。


「授業中に机を叩き、授業を中断させました。こういう行動は、強く指導しなければなりません」


 灯理は静かに頷いた。


「机を叩いて授業を止めたことは、見直す必要がありますね」


「当然です」


 篠田先生は腕を組んだ。


「強く叱らないと生徒は変わりません」


 灯理は少しだけ間を置いた。


「うん。では、強く叱ったあと、その生徒の中には何が残っているのでしょうか」


 指導室が静かになった。


 拓海は顔を上げた。


 その生徒の中。


 そこを聞かれたことは、ほとんどなかった。


 篠田先生は眉を寄せた。


「残るもの、ですか」


「はい。叱った言葉が何を伝え、何を伝えきれず、何を閉じてしまったのか。そこを一度見てみませんか」


「叱ること自体を否定されるのですか」


「いいえ」


 灯理は首を横に振った。


「行動を止めることは必要です。机を叩いて授業を止めたことを、そのままにする必要はありません。ただ、その後に何が残ったかを見なければ、次の行動につながりにくいことがあります」


 三浦先生が、少し身を乗り出した。


「叱ったあとに残ったもの……」


 灯理は、反省文用紙の横に新しい紙を置いた。


「今日は、反省文を書く前に、起きたことを分けて見てみませんか」


 白い紙の上に、灯理は項目を書いた。


『何が起きたか』

『誰が困ったか』

『どんな感情が出たか』

『叱った言葉で何が伝わったか』

『伝わらなかったものは何か』

『次に同じことが起きた時、どう行動するか』

『関係を修復するために必要な一言は何か』


 拓海は、その項目をじっと見た。


 反省文とは違う。


 「すみませんでした」で終わる紙ではなかった。


 面倒くさい紙だと思った。


 でも、少しだけ息がしやすかった。


 翌日の放課後、特別授業として「叱ることを見直す時間」が設けられた。


 対象は二年四組。


 授業を止めた出来事を、個人名を責める時間にしないことを確認した上で、三浦先生、篠田先生、灯理が前に立った。


 拓海も教室にいた。


 隣の席の生徒もいた。


 空気は重い。


 生徒たちは、昨日のことに触れるのを避けているようだった。


 灯理は黒板に書いた。


『叱ったあとに残ったもの』


 教室がざわついた。


「昨日のこと?」


「これ授業なの?」


「気まずい」


 灯理は言った。


「昨日、授業中に机を叩く音がありました。その行動によって授業が止まり、困った人がいました。それは見直す必要があります」


 拓海は拳を握った。


 やはり、自分が責められる時間なのだと思った。


 しかし、灯理は続けた。


「同時に、その音の前に何があったのか、叱った後に何が残ったのかも見ます。これは、誰か一人を責めるためではなく、次に同じようなことが起きた時、どう行動するかを考えるための時間です」


 黒板に、昨日と同じ項目が並ぶ。


 生徒たちには、匿名で書けるカードが配られた。


『昨日、何が起きたと見えましたか』

『その時、教室の中で何を感じましたか』

『困ったことは何でしたか』

『言えなかったことはありますか』

『次に必要だと思うことは何ですか』


 最初、生徒たちは戸惑っていた。


 けれど、少しずつ鉛筆が動き始めた。


 カードが集められる。


 三浦先生が、何枚か読み上げた。


「机の音にびっくりした」


「授業が止まって怖かった」


「先生の声も怖かった」


「何が原因かわからなかった」


「拓海だけが悪いみたいに見えた」


 教室が少し揺れた。


 三浦先生の手も、少し止まる。


 さらに読む。


「隣の席の人が何か言っていた気がする」


 その瞬間、拓海の胸が熱くなった。


 聞いていた人がいた。


 何も言わなかっただけで。


「でも、言ったら巻き込まれそうで黙っていた」


「授業中にからかうのも悪いと思う」


「机を叩くのは怖い。でも、何か言われたのかなと思った」


 篠田先生は、黒板の横で黙って聞いていた。


 表情は硬い。


 けれど、昨日のようにすぐ声を張り上げることはなかった。


 灯理は、今度は拓海の方を見た。


「拓海くん。話せるところだけでかまいません。机を叩く前に、何が起きていましたか」


 拓海は、机の木目を見つめた。


 言いたくない。


 家のことを、教室の中で話したくない。


 また誰かに笑われるかもしれない。


 でも、黙っていれば、昨日と同じだ。


 自分だけが突然机を叩いたことになる。


「……隣に」


 声がかすれた。


 教室が静かになる。


「家のことを言われた」


 隣の生徒が、びくっと肩を揺らした。


 拓海は続けた。


「親が来てないとか、そういう家だとか」


 言葉にすると、胸の中の熱がまた少し戻ってきた。


「言い返したかったけど、授業中だし、でも我慢できなくて、机を叩いた」


 灯理は頷いた。


「机を叩く前、体にはどんなことが起きていましたか」


「胸が熱くなった」


「はい」


「耳がうるさくなった。先生の声も、周りの音も、遠くなった」


「何をしてほしかったですか」


 拓海は少し黙った。


 何をしてほしかったか。


 そんなこと、考えたことがなかった。


「止めてほしかった」


 小さく言った。


「その話、やめろって。誰かに」


 教室の空気が変わった。


 三浦先生が、深く息を吸った。


 篠田先生は、腕を組んだまま黒板を見ている。


 灯理は黒板に書いた。


『机を叩く前』

『家のことをからかわれた』

『胸が熱くなった』

『音が遠くなった』

『止めてほしかった』


 その下に、別の色で書く。


『机を叩いた』

『授業が止まった』

『周りが驚いた』

『怖くなった生徒がいた』


「行動と背景を、分けて見ます」


 灯理は言った。


「背景があるからといって、机を叩いていいことにはなりません。でも、行動だけを見て背景を消してしまうと、次に何をすればよいかが見えなくなります」


 篠田先生が、低い声で言った。


「行動を叱ることは必要ですね」


「はい」


 灯理は頷いた。


「ただし、背景を聞く道を残しながら」


 次に、隣の生徒が話す番になった。


 彼はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。


「俺が、言いました」


 声が小さい。


「家のこと。冗談のつもりだったけど、言っていいことじゃなかったです」


 拓海は、その言葉を聞いても、すぐには顔を上げられなかった。


 謝られたからといって、胸の熱がすぐ消えるわけではない。


 でも、昨日はなかったものが、今はあった。


 机を叩く前に何があったのか。


 それが、教室の中に置かれている。


 篠田先生は、黒板の前に立った。


 生徒たちの視線が集まる。


「昨日、私は拓海を強く叱りました」


 声はいつもより少し低かった。


「授業中に机を叩き、授業を止めたことは、指導が必要な行動です。その考えは変わりません」


 拓海は唇を結んだ。


「しかし」


 篠田先生は一度息を吸った。


「その前に何があったのかを聞かずに怒鳴ったことは、私の不足でした」


 教室が静かになった。


 篠田先生が、生徒の前で自分の不足を言う。


 そんな場面を、拓海は初めて見た。


「拓海」


 篠田先生は、拓海を見る。


「机を叩いて授業を止めたことは、改めて指導する。だが、その前に何があったのかを聞かずに怒鳴ったことは、私の不足だった」


 拓海は、机の下で拳を握った。


 謝られたのか、指導されたのか、よくわからない。


 でも、昨日の「授業を妨害するな」だけとは違った。


 拓海はゆっくり立った。


「机を叩いたのは悪かったです」


 声は小さいが、教室に届いた。


「授業止めたし、周りもびっくりしたと思う」


 少し間を置く。


「でも、あれを言われて黙れなかった」


 隣の生徒が、下を向いた。


「次は」


 拓海は言葉を探した。


 次。


 昨日までは、次なんてなかった。


 反省文に「しません」と書いて終わりだった。


 でも、また同じように胸が熱くなったら。


 また何かを言われたら。


 机を叩かないために、何ができるのか。


「次は、机を叩く前に、席を離れるか、先生に言う」


 三浦先生が頷いた。


「言い方も決めておこうか」


 灯理が言う。


「短い言葉でいいです。怒りが強い時に長く説明するのは難しいので」


 拓海は考えた。


「今、それ言われると無理」


「はい」


「やめて」


「はい」


「先生、ちょっと外出たい」


 灯理は黒板に書いた。


『今、それ言われると無理』

『やめて』

『先生、ちょっと外出たい』


 三浦先生が続ける。


「教師側は、その言葉が出た時にどうするかも決めておきます。まず止める。必要なら廊下で話を聞く。授業を守りながら、背景を確認する」


 篠田先生は黙って頷いた。


 授業の終わりに、灯理は反省文用紙ではなく、新しい用紙を配った。


『次にどうするかの対話メモ』


 そこには、こう書かれていた。


『起きた行動』

『その前にあったこと』

『困った人』

『悪かった行動』

『聞いてほしい背景』

『次に試す行動』

『教師ができる支え』

『関係を修復する一言』


 拓海は、その紙を見つめた。


 面倒くさい。


 けれど、昨日の反省文よりは書けそうだった。


『起きた行動』

 机を叩いた。授業を止めた。


『その前にあったこと』

 家のことをからかわれた。


『困った人』

 授業を受けていた人。三浦先生。自分。


『悪かった行動』

 机を叩いたこと。音で周りを怖がらせたこと。


『聞いてほしい背景』

 家のことを言われるのは嫌だった。止めてほしかった。


『次に試す行動』

 「やめて」と言う。先生に言う。外に出たいと言う。


 最後の欄で、拓海は手を止めた。


『関係を修復する一言』


 何を書けばいいのか。


 隣の生徒は、少し離れた席で同じ紙を書いている。


 拓海はしばらく迷い、短く書いた。


『机を叩いたのは悪かった。でも、家のことはもう言わないでほしい』


 書き終えて、息を吐いた。


 反省文とは違う疲れ方だった。


 でも、空っぽではなかった。


 放課後、三浦先生は職員室の机に座り、指導記録を見つめていた。


 昨日までは、篠田先生の強い叱り方を手本にしようとしていた。


 授業を止めた生徒には、毅然とした態度で。


 強く、短く、迷わずに。


 それは必要な場面もある。


 けれど、今日見たものは、それだけではなかった。


 叱ったあとに残るもの。


 恐怖。


 沈黙。


 言えなかった背景。


 修復されない関係。


 次にどうするかが見えない反省文。


 三浦先生は、指導記録の端にペンで書いた。


『叱る声の後に、聞く時間を残す』


 書いてから、もう一行足した。


『行動と背景を分ける。次の行動を一緒に決める。』


 篠田先生が職員室に戻ってきた。


 三浦先生は立ち上がりかけたが、篠田先生が手で制した。


「三浦先生」


「はい」


「昨日の件、私も考え直すところがありました」


 三浦先生は少し驚いた。


 篠田先生は、自分の机に反省文用紙と対話メモを並べた。


「私は、反省文を書かせれば指導したことになると思っていたのかもしれません」


「そんなことは」


「いや」


 篠田先生は首を横に振った。


「反省文には、『すみませんでした』と『もうしません』が並ぶ。だが、次に何をするかが書かれていないことが多い」


 彼は拓海の対話メモを見た。


「机を叩く前に、何と言えばいいのか。教師はどう受け取るのか。そこまで決めなければ、同じ場面で同じことが起きる」


 三浦先生は頷いた。


「叱ることを、終わりにしないということですね」


「そうだな」


 篠田先生は少しだけ疲れたように椅子に座った。


「強く止めることが必要な場面はある。だが、強く止めたあとに、聞く時間を残すことも必要だ」


 職員室の窓の外では、部活動の声が夕方の校庭に響いていた。


 翌日、拓海は少し早く教室に入った。


 昨日の机は、何事もなかったようにそこにある。


 叩いた時の音は、もう消えている。


 でも、自分の中にはまだ残っている。


 隣の生徒が入ってきた。


 二人の間に、少し気まずい沈黙が落ちた。


 先に口を開いたのは、隣の生徒だった。


「昨日は、ごめん」


 拓海は机の上を見たまま、少し頷いた。


「もう言わない」


「……うん」


 それだけだった。


 すぐに元通りになるわけではない。


 でも、昨日のように何もなかったことにされるよりはよかった。


 三浦先生が教室に入ってきた。


 朝のホームルームの前に、教卓に手を置く。


「昨日、クラスで確認したことがあります」


 生徒たちが顔を上げる。


「誰かの家庭のこと、体のこと、成績のこと、人に知られたくない事情をからかうことは、教室で許されません」


 声は強すぎず、でもはっきりしていた。


「また、怒りが出た時に机を叩いたり、物に当たったりすることも、周りを怖がらせます。困った時に使う短い言葉を、クラスで確認しておきます」


 黒板に三つの言葉を書く。


『やめて』

『今、それは無理』

『先生、少し外に出たいです』


「この言葉が出た時、周りの人は一度止まります。教師は、授業を守りながら話を聞きます」


 拓海は黒板を見た。


 自分のためだけではない。


 誰かが次に困った時のための言葉になっている。


 それは少し不思議だった。


 夜、灯理は高校を出た。


 校舎の窓には、職員室の明かりがまだ残っている。生活指導室の机には、昨日の反省文用紙と、今日の対話メモが並べられていた。


 三浦先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、指導の後に残るものを一緒に見せていただきました」


 三浦先生は、手元の指導記録を見た。


「私は、篠田先生のように強く叱れる教師にならなければと思っていました」


「強く止めることが必要な場面もありますね」


「はい。でも、今日わかりました。叱ることは、声の強さだけではないんですね」


 彼は記録の端に書いた一文を見せた。


『叱る声の後に、聞く時間を残す』


「これを、忘れないようにします」


 少し離れたところで、篠田先生も校門の方へ歩いてきた。


「白瀬先生」


「はい」


「私は、叱ることを少し急ぎすぎていたようです」


 灯理は静かに聞いた。


「行動を止めることは、これからもします。そこは譲れません」


「はい」


「ただ、その後に何を聞くか。何を次の行動にするか。そこまで含めて指導だと考え直します」


 篠田先生は校舎を振り返った。


「怒鳴ったあとに残る教室を、今まであまり見ていませんでした」


 夜風が、校門の横の旗を小さく揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、小学校と夜の職員室から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 叱ることは、必要な時がある。


 危ない行動を止めるために。


 誰かを傷つける言葉を止めるために。


 教室の学びを守るために。


 けれど、叱った声のあとに何が残るのかを見なければ、次の行動は生まれにくい。


 怖さだけが残ることがある。


 言えなかった背景だけが沈むことがある。


 反省文の言葉だけが整い、心が置き去りになることがある。


 行動と背景を分けて見る。


 悪かったことを曖昧にせず、聞いてほしいことも消さない。


 そして、次に使える短い言葉を一緒に探す。


 灯理は、夜の校舎を振り返った。


 机を叩いた音は、もう教室には響いていない。


 けれど、その音の前に何があり、その後に何を残すのか。


 その問いを鞄に入れて、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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