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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第13章 第1話:待てない先生の授業――沈黙を埋めてしまう声


 教室の時計の秒針は、思っているより大きな音を立てる。


 相良先生は、黒板の前に立ちながら、その音を聞いていた。


 かち、かち、かち。


 国語の授業中、生徒たちの視線が教科書へ落ちている。窓の外では、冬に近い風が校庭の木を揺らしていた。蛍光灯の白い光が、開かれたノートの上に薄く広がっている。


 今日扱うのは、短い物語文だった。


 主人公が、友人とすれ違ったまま、最後に何も言わずに教室を出ていく場面。


 文章は短い。


 けれど、その沈黙に何が込められているのかを考えるには、少し時間がいる。


「では、最後の場面を見ましょう」


 相良先生は、教科書を片手に言った。


「主人公は、友人に何も言わずに立ち去ります。この沈黙には、どんな気持ちが表れているでしょうか」


 生徒たちが教科書を見る。


 ページをめくる音が小さく重なった。


 相良先生は教室を見渡した。


 すぐに手は挙がらない。


 かち、かち、かち。


 時計の秒針が進む。


 相良先生の胸の奥が、少しざわついた。


 沈黙。


 この時間が苦手だった。


 生徒が考えているのか、何もわかっていないのか、ただ待っているのか、判断がつかない。


 授業が止まっているように感じる。


 誰も答えない。


 空気が重くなる。


 後ろの席の生徒が鉛筆を回し始める。


 窓際の生徒が外を見そうになる。


 このままでは、教室がほどけてしまう。


「怒り、でしょうか」


 相良先生は、沈黙に耐えきれず言った。


「友人に裏切られたように感じている。だから何も言えなかった、と考えられますね」


 生徒たちの何人かが、慌ててノートに書き始める。


 相良先生は続けた。


「ただ、怒りだけではありません。悲しみもあります。信じていた相手に言葉が届かなかった悲しみ。その二つが、この沈黙に表れています」


 チョークが黒板を滑る。


『沈黙=怒り+悲しみ』


 授業は進んだ。


 相良先生の声に合わせて、生徒たちはノートを取る。


 黒板には、きれいに要点が並んでいく。


 発問。


 説明。


 まとめ。


 次の段落。


 相良先生の授業は、いつもそうだった。


 わかりやすい。


 止まらない。


 要点が整理されている。


 生徒からも「相良先生の授業は進みがいい」と言われている。


 それは、相良先生にとって誇りでもあった。


 けれど、教室の中で一人、ノートの端に小さく別の言葉を書いた生徒がいた。


 真央だった。


『違う気がする』


 真央は、その文字をすぐに手で隠した。


 相良先生の言う「怒り」と「悲しみ」は間違っていないと思う。


 主人公は、たしかに怒っている。


 悲しんでもいる。


 けれど、それだけではない気がした。


 最後に何も言わなかったのは、相手を責めたくなかったからではないか。


 言葉にしたら、相手を傷つけてしまうとわかっていたから、黙って出ていったのではないか。


 その沈黙には、まだ言葉にしたくない優しさもあるのではないか。


 真央はそう思った。


 でも、相良先生はもう黒板にまとめを書いている。


 授業の流れは次へ進んでいる。


 今さら手を挙げて「違う気がします」と言える空気ではなかった。


 真央は、ノートの端の文字を消しゴムで薄くこすった。


 完全には消えなかった。


 授業の後ろには、見学者が一人立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 世界の学校を旅しながら、さまざまな教室を訪ねる先生だと、朝の職員打ち合わせで紹介された。


 灯理は、黒板よりも生徒たちのノートを見ていた。


 きれいに写された要点。


 赤線。


 囲み。


 その端に、小さく残った消し跡。


 言いかけた言葉。


 書かれたけれど、授業の中には置かれなかったもの。


 授業後、職員室の隣にある小さな会議室で、相良先生は灯理と向かい合った。


 机の上には、今日の指導案と教材文が置かれている。


「授業を見ていただいて、ありがとうございました」


 相良先生は丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ、見せていただきました」


 灯理も頭を下げる。


「生徒たちは、よくノートを取っていましたね」


「はい。うちのクラスは、比較的落ち着いています」


「相良先生の説明も、整理されていました」


「ありがとうございます」


 相良先生は少しほっとした。


 しかし、灯理は続けた。


「ただ、生徒たちが自分の言葉を探す時間は、少し短かったかもしれません」


 相良先生は指導案を見る。


「自分の言葉を探す時間、ですか」


「はい」


「発問はしました」


「はい」


「でも、誰も答えなかったので」


 相良先生は、少し早口になった。


「国語の授業で沈黙が続くと、どうしても授業が止まってしまう気がするんです。生徒も不安になりますし、時間も限られています。だから、こちらで言い換えたり、ヒントを出したり、まとめたりして」


 そこまで言ってから、相良先生は小さく息を吐いた。


「先生、沈黙が続くと、授業が止まってしまう気がするんです」


 灯理は、すぐに否定しなかった。


「うん。では、その沈黙の中で、生徒たちの考えも止まっているのでしょうか」


 相良先生は答えられなかった。


 沈黙の中で。


 生徒の考え。


 止まっているのか、動いているのか。


 授業中の相良先生には、それが見えない。


 見えないから、不安になる。


 だから話す。


 言葉で埋める。


 授業が止まらないように。


 生徒が迷子にならないように。


 自分自身が、沈黙に飲み込まれないように。


 灯理は、教材文を開いた。


「今日の最後の場面。主人公の沈黙について、生徒たちはいろいろ考えていたように見えました」


「そうでしょうか」


「はい。ノートの端に、言いかけた跡がありました」


「言いかけた跡」


「まだ発言になっていない言葉です」


 相良先生は、教室の様子を思い出した。


 誰も手を挙げなかった。


 だから、考えていないのだと思った。


 でも、もし考えていたのだとしたら。


 もし、言葉になる前に自分がまとめてしまったのだとしたら。


 胸の奥に、小さな痛みが走った。


 灯理は言った。


「次の授業で、沈黙を少し測ってみませんか」


「測る?」


「発問のあと、三十秒だけ待ちます」


「三十秒」


 相良先生は思わず時計を見た。


 三十秒。


 授業中の沈黙としては、とても長い。


「ただ待つだけですか」


「いいえ。放置ではありません。生徒たちに、沈黙の中でできることを渡します」


 灯理は紙に書いた。


『すぐ話す』

『ノートに書く』

『まだ言葉にならない印をつける』

『友人の考えを聞いてから話す』

『「違う気がする」だけでも置く』


「言葉にできる速さは、生徒によって違います。すぐ話せる生徒もいれば、まず書きたい生徒もいます。まだ言葉にならず、違和感だけ持っている生徒もいます」


 相良先生は、紙を見た。


「違う気がする、だけでも」


「はい」


「それを認めるんですか」


「そこから始まることがあります」


 相良先生は黙った。


 沈黙を待つ。


 三十秒。


 できるだろうか。


 翌日の国語の授業。


 相良先生は、いつもより少し早く教室に入った。


 黒板の左側には、今日の目標を書いた。


『主人公の沈黙に込められた気持ちを考える』


 右側には、灯理と相談して決めた「沈黙の中でできること」を書いた。


『すぐ話す』

『ノートに書く』

『まだ言葉にならない印をつける』

『友人の考えを聞いてから話す』

『「違う気がする」だけでも置く』


 生徒たちは、黒板を見て少しざわついた。


「違う気がする、だけでいいの?」


「印って何?」


「沈黙の中でできること?」


 相良先生は、教卓に置いた小さなタイマーを見た。


 三十秒。


 それだけの時間を待つ。


 できる。


 そう自分に言い聞かせた。


 授業が始まった。


 昨日読んだ物語文の最後の場面に戻る。


 相良先生は、教科書を開いた。


「昨日、私はこの沈黙には怒りと悲しみがあると説明しました」


 生徒たちがノートを見る。


「今日は、その解釈を出発点にして、他の可能性も考えてみます」


 相良先生は、一度息を吸った。


「主人公は、なぜ最後に何も言わずに立ち去ったのでしょうか」


 教室が静かになる。


 いつもなら、ここで相良先生はすぐに言葉を足す。


「たとえば怒りですね」と。


「悲しみもあります」と。


「本文のこの表現に注目しましょう」と。


 けれど、今日は口を閉じた。


 タイマーを押す。


 三十秒。


 かち、かち、かち。


 時計の秒針の音が、教室に広がる。


 相良先生の喉まで、言葉が上がってくる。


 本文のここを見て。


 友人への怒りが。


 別れの悲しみが。


 黙っているのは。


 言いたい。


 説明したい。


 沈黙を埋めたい。


 でも、黒板の右側を見る。


『ノートに書く』

『まだ言葉にならない印をつける』

『「違う気がする」だけでも置く』


 生徒たちは、何もしていないわけではなかった。


 真央はノートの端に何かを書いている。


 前の席の悠人は、本文の一文に線を引いている。


 窓際の莉子は、鉛筆を止めたり動かしたりしている。


 後ろの拓也は、まだ何も書いていないが、教科書の最後の行をじっと見ている。


 考えは、止まっていないのかもしれない。


 相良先生は、タイマーが鳴るまで待った。


 小さな電子音が鳴る。


 三十秒が終わった。


 相良先生は、声を出した。


「今、すぐ話せる人はいますか。まだまとまっていなくてもかまいません」


 すぐには手が挙がらなかった。


 相良先生の胸がまたざわつく。


 けれど、今日はもう一つの道がある。


「では、ノートに書いた言葉を、そのまま読んでもいいです。『違う気がする』だけでも構いません」


 少し間があった。


 真央が、小さく手を挙げた。


 相良先生は、思わず驚きそうになった。


 昨日、真央は何も言わなかった。


「真央さん」


 真央はノートを見ながら、ゆっくり言った。


「怒りと悲しみもあると思います」


「はい」


「でも、それだけじゃなくて」


 声が小さくなる。


 教室が静かに聞いている。


「主人公は、相手を責めたくないから黙ったんじゃないかと思いました」


 相良先生は、チョークを持ったまま止まった。


 責めたくないから黙った。


 昨日、自分のまとめにはなかった言葉だった。


 真央は続けた。


「言葉にしたら、相手を傷つけるかもしれないから。自分も傷ついてるけど、相手のことも少し考えている沈黙なのかなって」


 相良先生は黒板へ向かった。


 すぐにまとめ直さない。


 真央の言葉を、そのまま書く。


『相手を責めたくない沈黙』

『言葉にすると傷つけるかもしれない』

『怒り・悲しみ+まだ言葉にしたくない優しさ』


 教室の空気が少し動いた。


 悠人が手を挙げる。


「僕は、黙ったのは諦めたからだと思いました。でも真央さんのを聞くと、諦めだけじゃない気がして」


 相良先生は頷く。


「どの部分からそう考えましたか」


「最後の『振り返らなかった』ってところです。怒ってたら振り返って何か言いそうだけど、言わないで出ていくから」


 相良先生は板書する。


『諦め』

『振り返らない』


 莉子も言った。


「私は、言葉を探してたけど見つからなかったのかなと思いました。だから黙ったというより、言えなかった」


 拓也が続ける。


「でも、言えなかったのと、言わなかったのは違う気がする」


 教室に、小さなざわめきが起きた。


 相良先生は、黒板に書いた。


『言えなかった』

『言わなかった』

『違いは?』


 授業は、予定より遅れていた。


 板書も、いつもよりずっと散らかっている。


 けれど、相良先生は不思議と焦っていなかった。


 生徒たちの言葉が、黒板に増えていく。


 怒り。


 悲しみ。


 責めたくない。


 諦め。


 言えなかった。


 言わなかった。


 優しさ。


 迷い。


 沈黙の中に、こんなに多くのものがあったのか。


 いや、沈黙の中にあったのではない。


 生徒たちが、それぞれの読みで見つけていたのだ。


 自分が昨日、急いでまとめてしまった場所に。


 授業の最後、相良先生は黒板を見た。


「昨日、私はこの場面を『怒りと悲しみ』とまとめました」


 生徒たちが顔を上げる。


「それも、一つの読みです。本文から考えられます。でも、今日皆さんが出したように、沈黙には他の気持ちも重なっているかもしれません」


 相良先生は、真央の方を見た。


「相手を責めたくない沈黙。言葉を探しても見つからない沈黙。言わないことを選んだ沈黙」


 チョークを置く。


「沈黙を読むためには、こちらも少し沈黙を待つ必要があるのかもしれません」


 言ってから、相良先生は自分で少し驚いた。


 生徒たちも静かだった。


 けれど、その静けさは昨日のように怖くなかった。


 授業後、真央はノートを開いたまま席に残っていた。


 相良先生が近づく。


「真央さん」


「はい」


「今日の発言、ありがとう」


 真央は少し驚いた顔をした。


「昨日も、考えていましたか」


 真央は一瞬迷ってから、ノートの端を見せた。


 そこには、消し跡の中に薄く文字が残っていた。


『違う気がする』


「昨日は、先生がまとめたあとだったから、言えませんでした」


 相良先生の胸が、静かに痛んだ。


「そうでしたか」


「でも、今日は三十秒あったから」


「三十秒」


「その間に、ちょっとだけ言葉にできました」


 相良先生は、ノートの消し跡を見た。


 昨日、自分が見えないと思っていた沈黙の中で、真央は言葉を探していた。


 その時間を、自分は途中で終わらせていたのかもしれない。


「真央さんの『違う気がする』は、とても大事な始まりでした」


 相良先生が言うと、真央は少し照れたように頷いた。


「次から、消さずに置いておきます」


「ぜひ、置いてください」


 放課後、相良先生は教室に一人残っていた。


 黒板には、まだ授業の跡が残っている。


 いつものように整った板書ではない。


 矢印があり、丸があり、生徒の言葉があちこちに散っている。


 けれど、その散らかりは嫌ではなかった。


 黒板の端には、真央の言葉が残っている。


『まだ言葉にしたくない優しさ』


 相良先生は、指導案を開いた。


 いつもなら、授業後の反省欄に「時間配分」「発問改善」「板書整理」と書く。


 今日も、それらは必要だ。


 でも、最初に別の言葉を書いた。


『沈黙は空白ではない。まだ言葉になる前の時間』


 書いてから、ペンを置いた。


 会議室に戻ると、灯理が待っていた。


「授業、お疲れさまでした」


「予定より、かなり遅れました」


 相良先生は苦笑した。


「板書も、いつもより散らかりました」


「はい」


「でも、生徒の言葉が出ました」


「はい」


「沈黙の中で、あの子たちは止まっていたわけではなかったんですね」


 灯理は頷いた。


「考えが動いていました」


「私は、それを待てなかった」


「待つのは、難しいです」


「三十秒が、あんなに長いとは思いませんでした」


 相良先生は、教室の時計を思い出した。


 かち、かち、かち。


 あの音に、昨日までは追い立てられていた。


 今日は、同じ音が、生徒の言葉を育てる時間にもなった。


「白瀬先生」


「はい」


「私は、授業を止めないことを良いことだと思っていました」


「はい」


「でも、止まっているように見える時間の中で、生徒が動いていることもあるんですね」


「うん」


「これからは、沈黙を全部埋めないようにします。もちろん、ただ黙って待つだけではなくて、書く方法や、印をつける方法を渡しながら」


 灯理は微笑んだ。


「相良先生の待ち方ですね」


 相良先生は、自分の指導案を見た。


 余白に書いた言葉。


 それは、授業の技術というより、自分への注意書きだった。


 沈黙は空白ではない。


 まだ言葉になる前の時間。


 夜、灯理は中学校を出た。


 校舎の窓には、部活動を終えた生徒たちの影が映っている。国語教室の黒板は、もう消されていた。けれど、相良先生の指導案の余白には、今日の言葉が残っている。


 相良先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、沈黙の授業を見せていただきました」


 相良先生は少し笑った。


「沈黙の授業。まさにそうでした」


 彼は、校舎を振り返った。


「今まで私は、沈黙を授業の失敗のように感じていました。誰も答えない。空気が止まる。だから、急いで埋めていました」


「はい」


「でも、今日の真央の言葉は、昨日の沈黙の中にあったのですね」


 灯理は頷いた。


「きっと、そうだと思います」


「生徒の言葉が育つ前に、私の言葉で覆ってしまわないようにしたいです」


 夜風が、校門のそばの掲示物を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、生活指導が厳しい高校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 沈黙は、何も起きていない時間ではない。


 ときには、生徒が言葉を探している。


 違う気がする、とノートの端に書いている。


 まだ話せない考えに印をつけている。


 友人の言葉を待っている。


 自分の中の小さな違和感を、消さずに持とうとしている。


 教師の声が、そのすべてを助けることもある。


 けれど、ときには覆ってしまうこともある。


 灯理は、夜の校舎を振り返った。


 どこかの教室で、明日また時計の秒針が鳴る。


 その三十秒を、誰かの言葉が育つ時間として守れるか。


 問いを一つ鞄に入れて、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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