表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/204

第1章 第5話:地理の授業――地図にない帰り道


 港町の朝は、二つの海の匂いがした。


 一つは、本当にそこにある海の匂いだ。


 塩と魚と濡れた木箱の匂い。船の錆びた鎖が軋み、白い鳥が市場の屋根をかすめて飛ぶ。岸壁では漁師たちが網をほどき、波止場に積まれた荷物の間を、色とりどりの布をまとった人々が行き交っていた。


 もう一つは、遠い場所の匂いだった。


 香辛料。焼き菓子。乾いた土。知らない言葉で交わされる挨拶。港に届く荷物と一緒に、この町にはいつも別の土地の気配が流れ込んでくる。


 ここは、いくつもの文化が混ざる町だった。


 古い石造りの教会の隣には、青いタイルで飾られた祈りの場所があり、その向かいには移民の家族が営むパン屋がある。通りの看板には複数の言葉が並び、学校の校庭では、子どもたちが違う発音の名前を呼び合っていた。


 サミルは、その校庭の端に立っていた。


 手には、丸めた紙を持っている。


 昨日、地理の授業で配られた白地図だった。


 家に持ち帰って、色を塗ってくるように言われていた。山脈は茶色、川は青、海は水色、国境は赤。首都には丸をつける。


 サミルの地図は、ほとんど白いままだった。


 紙の端だけが、何度も握ったせいで少し皺になっている。


「サミル、また塗ってないの?」


 校庭のベンチに座っていた少女が声をかけた。


 同じクラスのレイラだった。彼女は色鉛筆の箱を膝に置き、白地図を丁寧に塗っている。川の線は細く、山脈の影まで描き込んであった。


「忘れた」


 サミルは短く答えた。


「昨日も忘れたって言ってた」


「じゃあ、今日も忘れた」


「ファリド先生、怒るよ」


「怒ればいい」


 レイラは少し眉をひそめた。


「地理、嫌い?」


 サミルは答えなかった。


 嫌い、という言葉では少し足りなかった。


 地図を見ると、胸の奥がざらつく。


 線がある。


 国境がある。


 海がある。


 山がある。


 道がある。


 けれど、自分が本当に知っている場所は、その紙の上にはうまく載っていない。


 祖父の家の裏にあった井戸。


 夏の夕方に友だちと走った細い路地。


 母が焼いた平たいパンの匂いが流れる台所。


 朝、遠くから聞こえてきた祈りの声。


 名前のない空き地。


 壊れた門。


 もう戻れない家。


 地図には国名がある。首都がある。川がある。


 でも、サミルが思い出す場所は、そこにはない。


 校舎の鐘が鳴った。


 サミルは白地図を鞄に押し込み、教室へ向かった。


 地理の授業は、いつも世界地図から始まる。


 教室の正面には大きな世界地図が貼られていて、その横には古い地球儀が置かれていた。地球儀は少し傾き、何度も回されたせいで、海の青が薄くなっている。


 ファリド先生は、地理を愛している人だった。


 黒板に国名を書く時も、山脈の名前を読む時も、どこか嬉しそうだった。彼はよく言った。


「世界は広い。地図を読めば、君たちはどこへでも行ける」


 生徒たちの多くは、その言葉が好きだった。


 遠い国の写真を見るのは楽しい。知らない町の名前を覚えるのも、少しだけ冒険のようだ。


 けれどサミルは、世界地図が黒板に貼られるたびに、机の木目を見つめた。


「今日は、主要な川と港の位置を確認します」


 ファリド先生が言った。


「この町がなぜ交易で栄えたのかを考えるためには、地形を理解する必要があります」


 先生が地図を広げる。


 その瞬間、サミルは反射的に目をそらした。


 レイラが隣の席から小さく囁く。


「大丈夫?」


「何が」


「顔、怖い」


「いつもだろ」


 レイラはそれ以上何も言わなかった。


 ファリド先生は棒で地図を指しながら説明を続ける。


「川は物を運びます。人も運びます。文化も運びます。この町がある場所を見てください。海と陸の道が交わる位置にありますね」


 地図上の点。


 そこが今いる町だった。


 小さな赤い丸。


 サミルはその赤い丸を見た。


 自分が今いる場所。


 今の家。


 今の学校。


 今の友だち。


 それでも、その点はまだ自分のものではないように思えた。


「サミル」


 名前を呼ばれ、彼は顔を上げた。


 ファリド先生がこちらを見ている。


「この川の名前を読んでください」


 先生の棒の先には、一本の青い線があった。


 その川は、サミルの故郷の近くを流れていた。


 息が詰まった。


 教室の空気が急に薄くなる。


 サミルは唇を開いたが、声が出なかった。


「サミル?」


 ファリド先生の声が少し心配そうになる。


 サミルは机の下で拳を握った。


「わかりません」


「昨日、予習範囲に入っていました」


「わかりません」


 今度は強い声になった。


 教室が静かになる。


 サミルは立ち上がると、黒板の地図を見ないようにして言った。


「地図なんて、覚えても意味ない」


 ファリド先生の表情が固まった。


「どういう意味ですか」


「道が描いてあっても、帰れない場所がある」


 言ってしまってから、サミルは後悔した。


 胸の奥にしまっていたものが、教室の床に落ちたような気がした。


 誰も何も言わない。


 その時、教室の扉が静かにノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは、旅装の先生だった。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。長い移動の後なのか、鞄の革には細かな傷がいくつもついている。けれど、その人の声は穏やかで、教室のざらついた空気を少しだけ柔らかくした。


「白瀬先生」


 ファリド先生が驚いたように言った。


「到着は午後と聞いていましたが」


「港の船が早く着きました。授業中にすみません」


「いえ、ちょうど……」


 ファリド先生は言葉を濁した。


 白瀬灯理は教室を見回した。


 黒板の世界地図。


 古い地球儀。


 机の上の白地図。


 そして、立ったまま拳を握っているサミル。


 灯理はすぐに何かを言わなかった。


 ただ、ファリド先生に軽く頷くと、教室の前へ歩いていった。


「少しだけ、授業に混ぜてもらってもいいですか」


 ファリド先生は戸惑いながらも頷いた。


「もちろんです」


 灯理は黒板の世界地図を見た。


 それから、生徒たちに言った。


「この地図を、一度しまってもいいですか」


 教室がざわついた。


 ファリド先生が目を丸くする。


「しまう、ですか?」


「はい」


「今日は地理の授業ですが」


「だからこそです」


 灯理は世界地図を丁寧に畳んだ。


 国境も、海も、山も、川も、紙の折り目の中へ消えていく。


 サミルはその様子を見ていた。


 少しだけ、息がしやすくなった。


 灯理は鞄から大きな白い紙を取り出した。


 それを黒板に貼るのではなく、教室の床に広げた。


 真っ白な紙だった。


 地名も、国境も、海岸線もない。


 ただの白い広がり。


「今日の問いです」


 灯理は紙の中央に、太い鉛筆で一つの点を描いた。


「君たちにとって、大切な場所はどこですか」


 生徒たちは顔を見合わせた。


「国の名前ですか?」


 レイラが尋ねる。


「国でもいいです。家でもいい。道でも、木でも、店でも、まだ行ったことのない場所でもいい」


「地図じゃなくなるよ」


 後ろの席の少年が言った。


 灯理は頷いた。


「そうかもしれないね」


「じゃあ、何を作るんですか」


「君たちの地図です」


 ファリド先生は黙ってそのやり取りを見ていた。


 生徒たちは床に集まり、白い紙を囲んだ。


 灯理は色鉛筆をいくつか置く。


「正確でなくていい。縮尺も気にしません。大切なのは、なぜそこを描きたいのか、自分でわかっていること」


 最初に描き始めたのは、レイラだった。


 彼女は紙の端に小さなパン屋を描いた。


「お母さんの店。朝、ここから学校に来るから」


 次に、サッカーが好きな少年が校庭を描いた。


「ここ。ゴールポストの左側。初めてシュートが入った場所」


「それ、狭すぎるだろ」


「でも大事なんだよ」


 別の子は、海を描いた。


「父さんの船が戻ってくるところ」


 誰かは、祖母の家へ続く坂道を描いた。


 また別の子は、まだ行ったことのない北の国を描いた。雪を見たいから、という理由だった。


 白い紙は、少しずつ賑やかになっていった。


 道は曲がり、家は大きさを無視して描かれ、海は紙の真ん中まで広がった。誰かの思い出の木と、誰かの未来の国が隣り合う。不思議な地図だった。


 サミルだけは、何も描かなかった。


 膝を抱え、紙の端に座っていた。


 灯理は彼に鉛筆を渡さなかった。


 描くようにも言わなかった。


 ただ、他の生徒たちの話を聞いていた。


「先生、ここ変です。海の隣に山があって、その隣にレイラのお母さんのパン屋があります」


「実際には離れているね」


「地理の点数、悪くなりそう」


「今日は点数をつけません」


「じゃあ、何でいい地図ってわかるの?」


 灯理は少し考えた。


「この地図を見て、誰かが『そこへ行ってみたい』とか『その話を聞きたい』と思ったら、いい地図かもしれない」


 サミルは、その言葉を聞いていた。


 誰かが描いたパン屋。


 誰かが描いた海。


 誰かが描いたゴールポスト。


 それらは、世界地図には載らない。


 でも、その子たちにとっては確かにある場所だった。


 サミルの指が、鞄の中の色鉛筆に触れた。


 出さなかった。


 出せなかった。


 昼前、白い紙はほとんど埋まり始めていた。


 生徒たちは自分の場所を説明し合っている。


「ここは、祖父がいつも座ってる椅子」


「椅子を地図に描くの?」


「だって大事だから」


「ここは、去年迷子になった通り」


「そんな場所、描きたい?」


「今は笑えるから」


 笑い声が起きる。


 その時、教室の奥にいた少年が、サミルの方を見て言った。


「サミルは描かないの?」


 サミルは顔を上げた。


「別に」


「故郷とか描けば?」


 教室の空気が少し止まった。


 少年は悪気なく言ったのだろう。


 だが、言葉はまっすぐサミルの胸に刺さった。


 レイラが慌てて言う。


「やめなよ」


「なんで? 大切な場所なんでしょ」


 サミルは唇を固く結んだ。


 少年は続けた。


「でも、地図に載ってないような場所なら、描いてもわかんないか」


 その瞬間、サミルは立ち上がった。


 紙の上の色鉛筆が転がる。


「地図に載ってないからって、ない場所じゃない」


 声が震えていた。


 怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。


 少年は驚いて口をつぐむ。


 サミルは教室を飛び出した。


 廊下を走り、階段を下り、校舎の外へ出る。


 校庭の端まで来て、足を止めた。


 海が見える。


 この町の海。


 青く、広く、知らない船を受け入れる海。


 サミルは息を切らしながら、フェンスのそばに座り込んだ。


 帰り道なんてない。


 朝、そう言った。


 本当はずっとそう思っていた。


 地図には道がある。港から港へ。町から町へ。国から国へ。けれど、それは紙の上の線だ。


 自分が来た道は、もっとぐちゃぐちゃだった。


 夜のバス。


 混み合う船。


 知らない言葉の看板。


 母の握る手。


 荷物を少しずつ減らして進んだ道。


 泣いている弟の声。


 見ないようにした窓の外。


 そんなものを、地図は描いてくれない。


 足音が近づいてきた。


 白瀬灯理だった。


 灯理は何も言わず、サミルの少し隣に座った。


 二人の間には、拳一つ分くらいの距離があった。


 しばらく、波の音だけが聞こえた。


「追いかけてきたんですか」


 サミルが言った。


「歩いてきた」


「同じです」


「少し違うかなと思って」


 サミルは返事をしなかった。


 灯理は海を見たまま言った。


「地図にない場所は、存在しないのかな」


 サミルは強く首を振った。


「ある」


「うん」


「あるに決まってる」


「うん」


「でも、描けない」


 灯理はサミルの横顔を見た。


「描きたくない?」


「描いたら、思い出す」


「うん」


「思い出したら、帰りたくなる」


「うん」


「でも、帰れない」


 サミルの声は、最後だけほとんど聞こえなかった。


 灯理はすぐに慰めなかった。


 大丈夫とも、いつか帰れるとも、言わなかった。


 言えないことを知っているからだった。


 その代わりに、ゆっくりと言った。


「地図は、帰るためだけにあるのかな」


 サミルは顔を上げた。


「え?」


「もちろん、帰り道を探す地図もある。でも、歩いてきた道を忘れないための地図もある。今いる場所を確かめるための地図もある。これから行きたい場所を考えるための地図もある」


「歩いてきた道……」


「うん」


「それは、帰り道とは違う?」


「違うと思う」


 サミルは黙った。


 港に一隻の船が入ってくる。


 白い船体に、知らない国の文字が書かれている。


 ここには、いろいろな場所から人が来る。


 自分もその一人だ。


 来たくて来たわけではない。


 でも、ここまで来た。


 その道は、消えない。


 消したくても、消えない。


「先生」


「うん」


「地図に、悲しい場所を描いてもいいんですか」


 灯理は頷いた。


「いいと思う」


「怒ってる場所も?」


「いいと思う」


「もうない場所も?」


 灯理は少しだけ間を置いた。


「誰かの中に残っているなら、描けると思う」


 サミルは膝の上で拳を開いた。


 手のひらに、爪の跡がついていた。


「……少しだけなら」


「うん」


「全部は無理です」


「全部じゃなくていい」


 サミルは立ち上がった。


 校舎へ戻る足取りは、重かった。


 けれど、さっき逃げ出した時とは違っていた。


 教室に戻ると、生徒たちは静かに待っていた。


 誰も茶化さなかった。


 さっきの少年は、気まずそうに立ち上がった。


「サミル、ごめん。俺、変なこと言った」


 サミルは彼を見た。


 まだ少し胸は痛かった。


 でも、怒鳴る力はもうなかった。


「いい」


「よくないよ」


 少年は小さく言った。


「ごめん」


 サミルは少しだけ頷いた。


 灯理は白い紙の前に膝をついた。


 その隣に、サミルも座る。


 紙はたくさんの場所で埋まっている。


 パン屋。


 海。


 坂道。


 ゴールポスト。


 祖父の椅子。


 まだ見ぬ雪の国。


 サミルは青い色鉛筆を取った。


 けれど、すぐに置いた。


 今度は茶色を取る。


 紙の端に、小さな丸を描いた。


「これは?」


 レイラが静かに尋ねる。


 サミルは丸を見つめた。


「井戸」


 声は小さかった。


「僕の家の近くにあった。朝、ここで水を汲んだ。石の縁が冷たくて、夏でも手が冷えた」


 教室は静かだった。


 サミルは丸の横に、細い線を描いた。


「ここが路地。走ると、角のところでパンの匂いがした」


 次に、小さな四角を描く。


「ここは、祖父の家。壁が白かった。でも、雨の後は少し灰色になった」


 鉛筆の先が止まる。


 そこから先は描けなかった。


 家の形を描くと、胸が苦しくなる。


 サミルは色鉛筆を置こうとした。


 その時、レイラがそっと言った。


「そこに、名前を書かなくてもいいよ」


 サミルは彼女を見た。


「え?」


「今は、井戸だけでもわかるなら」


 サミルは、もう一度紙を見た。


 井戸。


 路地。


 祖父の家。


 それだけで、今は十分だった。


「うん」


 彼は色鉛筆を置いた。


 けれど、少ししてから、別の色を取った。


 薄い灰色。


 自分の描いた井戸から、今いる町の赤い丸まで、細い線を引いた。


 線はまっすぐではなかった。


 途中で何度も曲がり、海を渡り、山を避け、紙の中の誰かのパン屋や校庭の横を通った。


 最後に、この町へ着いた。


「それは、帰り道?」


 誰かが尋ねた。


 サミルは首を振った。


「ここまで来た道」


 その言葉が教室に落ちた時、ファリド先生は古い地球儀に手を置いていた。


 彼は長い間、地理とは世界を知るための授業だと思っていた。


 国名を覚え、川を覚え、山脈を覚え、町と町の関係を知る。広い世界を前にして、生徒たちの目が輝く瞬間が好きだった。


 けれど、地図が誰かの痛みに触れることがあるとは、深く考えていなかった。


 彼は静かに言った。


「サミル」


 サミルが顔を上げる。


「その線を、見せてくれてありがとう」


 サミルは返事に迷った。


 そして、小さく頷いた。


 午後の授業では、生徒たちはそれぞれの場所について短い説明を書いた。


 正確な地理の言葉ではなかった。


 でも、どの説明にも、その場所を大切に思う理由があった。


『母のパン屋。朝はいつも粉の匂いがする。』


『校庭の左のゴール。初めて自分で決めた場所。』


『父の船が帰ってくる港。海が荒れている日は少し怖い。』


『祖父の椅子。誰も座らないけど、そこにあると安心する。』


『まだ行ったことのない雪の国。いつか本物の雪を見たい。』


 サミルは、長く考えてから書いた。


『井戸。僕が最初に水の冷たさを覚えた場所。』


 それ以上は書かなかった。


 でも、消しもしなかった。


 授業の終わり、灯理は白い紙を教室の壁に貼った。


 それは地図と呼ぶには不正確だった。


 国境はない。


 縮尺もめちゃくちゃだ。


 海の横に雪の国があり、パン屋の隣に遠い井戸がある。


 けれど、生徒たちはその地図の前に集まり、いつまでも話していた。


「このパン屋、本当においしいよ」


「じゃあ今度行く」


「ここがサミルの井戸?」


「うん」


「水、冷たいの?」


「すごく」


「触ってみたい」


 サミルは少し驚いた。


 自分の描いた井戸を、誰かが見たいと言った。


 その場所は、もう戻れない場所だ。


 けれど、紙の上で誰かが立ち止まってくれた。


 それだけで、胸の奥の痛みが少し形を変えた気がした。


 ファリド先生は、世界地図を再び黒板の横に貼った。


 大きな地図。


 国境も、海も、川も、山脈も描かれている。


 その隣に、生徒たちの手作りの地図が並んだ。


 正確な地図と、不正確な地図。


 どちらも、同じ教室の壁にあった。


「明日からは、また国名や川の名前も学びます」


 ファリド先生が言った。


 生徒たちは少しだけ身構えた。


 先生は続けた。


「でも、その時に覚えていてください。地図の上には、名前のある場所があります。そして、名前を書かれていなくても、誰かにとって大切な場所があります」


 彼はサミルの描いた細い線を見た。


「地理は、場所を覚える授業です。でもそれだけではなく、場所に生きている人を知る授業でもあるのだと思います」


 教室は静かだった。


 それから、レイラが小さく拍手をした。


 一人、また一人と続いた。


 ファリド先生は少し照れたように咳払いをした。


 サミルは壁の地図を見ていた。


 世界地図を見るのは、まだ痛い。


 川の名前を読むのも、故郷の近くを指されるのも、きっと明日から急に平気になるわけではない。


 でも、地図を全部拒まなくてもいいのかもしれない。


 地図は、帰れない場所を突きつけるだけではない。


 ここまで来た道を、消さずに置いておくこともできる。


 放課後、教室には夕方の光が差し込んでいた。


 生徒たちは帰り支度を終え、次々に校庭へ出ていく。


 サミルは最後まで壁の地図を見ていた。


 白瀬灯理は、鞄を肩にかけて教室を出ようとしていた。


「先生」


 サミルが呼び止めた。


 灯理が振り返る。


「いつか」


 サミルは言葉を探した。


「いつか、僕の町も、ちゃんと説明できるようになるかな」


 灯理はすぐには答えなかった。


 サミルの描いた井戸を見た。


 そこから伸びる細い灰色の線を見た。


 それから、サミルの目を見た。


「急がなくていいよ」


 灯理は言った。


「地図は、何度でも描き直せるから」


 サミルは少しだけ目を伏せた。


 その言葉を、胸の中で何度か繰り返す。


 何度でも。


 描き直せる。


「じゃあ、次は路地をもう少し描きます」


「うん」


「パンの匂いも、描けたらいいのに」


「それは難しいね」


「地図なのに?」


「地図にも、まだできないことがある」


 サミルは少し笑った。


「じゃあ、僕が考えます」


「それは楽しみだね」


 校庭からレイラの声がした。


「サミル、帰るよ!」


 サミルは鞄を背負った。


 教室を出る前に、もう一度だけ壁の地図を見た。


 井戸は小さい。


 けれど、確かにそこにある。


 サミルは教室を出て、夕方の光の中へ走っていった。


 夜、灯理は港にいた。


 波止場には船の灯りが揺れ、遠くの倉庫からは荷物を運ぶ音が聞こえてくる。夜風には、昼間よりも強い塩の匂いがあった。


 灯理は木箱に腰を下ろし、鞄から小さなノートを取り出した。


 そのページには、今日の授業で生徒たちが言った言葉がいくつか書かれている。


『地図に載ってないからって、ない場所じゃない』


『ここまで来た道』


『パンの匂いも、描けたらいいのに』


 灯理はその最後の一文を見て、小さく笑った。


 ノートを閉じると、鞄の中から一通の依頼状がのぞいていた。


 新しい封筒。


 遠い料理学校から届いたものだ。


 けれど灯理は、すぐには開かなかった。


 港の向こうに、町の学校の明かりが見える。


 きっと明日、あの教室では二つの地図が並んでいる。


 一つは、世界を知るための地図。


 もう一つは、自分たちの場所を忘れないための地図。


 波が岸壁に当たり、静かに砕けた。


 灯理は立ち上がり、鞄を持ち直した。


 夜の港には、いくつもの道があった。


 海へ続く道。


 町へ戻る道。


 まだ知らない学校へ向かう道。


 灯理はそのうちの一つを選び、ゆっくりと歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ