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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第2章 第1話:料理の授業――焦げたスープと星の味


 料理学校の朝は、音より先に匂いで始まる。


 焼きたてのパンの匂い。


 刻まれた香草の青い匂い。


 バターが熱を受けて溶ける甘い匂い。


 磨き上げられた厨房の床には、窓から差し込む朝日が白く伸びていた。銅鍋は棚の上で光り、包丁は布の上に整然と並べられている。


 この学校では、すべてのものに置き場所があった。


 鍋にも、皿にも、塩にも、砂糖にも。


 そして失敗にも、置き場所があった。


 ゴミ箱だ。


「火が強い」


 低い声が厨房に響いた。


 ノアは反射的に鍋の火を弱めた。


 背後に立っていたクラウス先生は、腕を組んだまま鍋の中を覗き込む。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、白いコックコートには一つの皺もない。


「野菜の甘みを出す前に焦がせば、香りが濁る」


「はい」


「返事ではなく、鍋を見なさい」


「はい」


 ノアは木べらを握り直した。


 鍋の底で、細かく刻んだ玉ねぎが透き通り始めている。まだ焦げてはいない。大丈夫だ。大丈夫なはずだ。


 けれど、ノアは鍋底が気になって仕方なかった。


 一度、木べらで底をこする。


 もう一度。


 さらにもう一度。


「触りすぎだ」


 クラウス先生が言った。


「食材にも、熱が入る時間が必要だ」


「すみません」


 ノアは手を止めた。


 止めた瞬間、不安になる。


 火が強すぎるのではないか。鍋底にくっついているのではないか。ほんの少し目を離した間に、黒い焦げが広がっているのではないか。


 焦げた匂いは嫌いだった。


 鼻の奥に残り、舌の上に苦みを想像させる。失敗を突きつけてくる匂いだった。


 隣の調理台では、同級生のエリックが鶏の骨を丁寧に砕いている。向かいの台では、ルチアが焼き菓子の生地を均一な厚さに伸ばしていた。


 みんな、手つきが迷いなく見える。


 この学校にいる生徒たちは、料理人になるために集まってきた者ばかりだ。誰もが、自分の腕に誇りを持っている。誰もが、いつか一流の厨房に立つことを夢見ている。


 その中で、ノアは「才能がある」と言われていた。


 味覚が鋭い。


 盛り付けの感覚がいい。


 火入れの勘がある。


 入学してから、何度もそう言われた。


 けれど、本人はその言葉を信じていなかった。


 才能があるなら、怖くないはずだ。


 鍋底を何度も確認しなくても、料理ができるはずだ。


 焦げた匂いに、こんなに胸が縮まなくてもいいはずだ。


「ノア」


 クラウス先生の声で、ノアは我に返った。


「はい」


「味見を」


 ノアは小さなスプーンでスープをすくった。


 今日は基礎実習の一つ、野菜のポタージュだった。材料は単純だ。玉ねぎ、じゃがいも、少量の香草、塩、バター、出汁。


 単純な料理ほど、ごまかしがきかない。


 ノアはスープを口に含んだ。


 舌の上で、じゃがいもの甘さと玉ねぎの香りが広がる。塩は足りている。舌触りも悪くない。焦げ臭さはない。


 大丈夫。


 胸の中でそう言い聞かせる。


 クラウス先生も味見をした。


 しばらく黙っていた。


「整っている」


 その言葉に、ノアの肩から少し力が抜けた。


 しかし先生は続けた。


「だが、顔が見えない」


「顔、ですか」


「誰に食べさせたい料理なのかが見えない」


 ノアは黙った。


 料理に顔が見える。


 意味はわかるようで、わからなかった。


 料理は正確でなければならない。


 味は安定していなければならない。


 盛り付けは美しくなければならない。


 皿の上に置かれた瞬間、料理は評価される。


 それ以外に、何が必要なのだろう。


 実習終了の鐘が鳴った。


 生徒たちはそれぞれの料理を片付け始める。流し台では水音が響き、皿が重なる音がした。


 ノアは鍋の底を確認した。


 焦げはない。


 銀色の底が見える。


 それなのに、なぜかほっとしきれなかった。


 その時、厨房の入口に一人の人物が立っていることに気づいた。


 黒い上着に、古びた革の鞄。


 料理学校の白い制服の中では、少しだけ場違いに見える旅装だった。


 けれど、その人は厨房に漂う匂いを確かめるように、静かに息を吸っていた。


「白瀬先生」


 クラウス先生が言った。


「到着されていたのですね」


「はい。少し早く着きました」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日一日、授業に混ぜていただきます」


 生徒たちが小さくざわついた。


 旅する先生。


 世界の学校を渡り歩いている先生。


 料理人ではないが、いろいろな教室で授業をしているらしい。


 ノアは鍋を拭きながら、灯理を横目で見た。


 料理のことを知らない先生に、何ができるのだろう。


 そう思った自分に、少しだけ嫌な気持ちになった。


 灯理は調理台の上に並んだ料理を一つずつ見ていった。


 エリックの澄んだスープ。


 ルチアの美しく焼き上がった菓子。


 ノアのなめらかなポタージュ。


 灯理はノアの皿の前で足を止めた。


「きれいなスープですね」


「ありがとうございます」


 ノアは反射的に答えた。


「何度も鍋底を見ていましたね」


 その一言に、ノアの指が止まる。


 見られていた。


「焦がしたくなかったので」


「焦げるのが怖い?」


 ノアは少しだけ眉を寄せた。


「料理人なら、焦がしたくないのは普通です」


「そうですね」


 灯理は素直に頷いた。


「でも、君は焦げる前から、焦げた匂いを探しているように見えました」


 ノアは返事をしなかった。


 クラウス先生が咳払いをした。


「白瀬先生、今日の特別授業ですが、午後の時間を使っていただけます。テーマはお任せします」


「ありがとうございます」


 灯理は厨房全体を見回した。


「では、午後はレシピを少し離れましょう」


 生徒たちが一斉に顔を上げた。


「レシピを離れる?」


 エリックが聞いた。


「はい」


「何を作るんですか」


 灯理は少し考えてから、黒板に文字を書いた。


『あなたが、誰かにもう一度食べてほしい料理』


 厨房が静かになった。


 クラウス先生も、腕を組んだままその文字を見ている。


 灯理は生徒たちの方を向いた。


「午後の授業では、その料理を作ってください」


 ルチアが困ったように手を挙げた。


「先生、それは課題料理ですか」


「はい」


「評価基準は?」


「まずは、自分で決めます」


「自分で?」


「誰に、何を、なぜ食べてほしいのか」


 ノアは黒板の文字を見つめた。


 誰かにもう一度食べてほしい料理。


 頭の中に、いくつかの料理が浮かんだ。


 学校で習った料理。


 美しく盛り付けた魚料理。


 初めて褒められたデザート。


 試験で高得点を取ったソース。


 けれど、それらは「誰かに食べてほしい」というより、「誰かに認めてほしい」料理だった。


 灯理は続けた。


「高級食材でなくて構いません。むしろ、今日はこの厨房にある基本の材料だけを使います」


 生徒たちから小さな不満の声が漏れた。


「それでは個性が出しにくいです」


 エリックが言う。


「出しにくいかもしれません」


 灯理は頷いた。


「でも、材料が少ない時ほど、自分が何を見ているのかが出ることがあります」


「料理は技術です」


 クラウス先生が静かに言った。


「気持ちだけでは皿は完成しません」


「はい」


 灯理はすぐに認めた。


「技術は必要です。包丁も、火加減も、塩も、盛り付けも。でも今日は、その技術がどこへ向かうのかを考えてみたいんです」


 クラウス先生は何も言わなかった。


 ただ、生徒たちを見る目が少しだけ鋭くなった。


 午後の厨房は、午前とは違う空気になった。


 いつもなら全員が同じ手順で同じ料理を作る。火の入れ方、切り方、盛り付けの高さまで比較しやすい。


 だが今日は違った。


 エリックは祖母が作っていた豆の煮込みを作ると言った。彼の祖母は今、歯が悪くなって固いものが食べられない。柔らかく、でも香りの立つ豆料理をもう一度食べてほしいのだという。


 ルチアは祭りの日に食べた焼き菓子を選んだ。屋台の菓子は形が不揃いで、学校で習う菓子よりずっと雑だった。でも、彼女はそれを父と半分ずつ食べた日のことを忘れられないと言った。


 他の生徒も、それぞれの料理を選んだ。


 病気の日に食べた粥。


 隣の家でもらったパン。


 港で食べた魚のスープ。


 遠い町の寮で、誰かが作ってくれた夜食。


 厨房には、いつもの競争とは違うざわめきが生まれた。


 誰かが記憶を話す。


 誰かが味を思い出す。


 誰かが笑い、誰かが少し黙る。


 ノアだけは、調理台の前で動けずにいた。


 材料は用意してある。


 玉ねぎ、じゃがいも、人参、香草、塩、バター、少しの鶏の出汁。


 スープなら作れる。


 完璧なスープを作ればいい。


 濁りのない、なめらかで、火加減も塩加減も正確なスープ。


 誰にも文句を言われない料理。


 しかし、黒板の文字が目に入る。


『誰かにもう一度食べてほしい料理』


 母の顔が浮かんだ。


 幼いころの台所。


 背の低い椅子。


 大きすぎる木べら。


 鍋から上がる湯気。


 そして、焦げた匂い。


 ノアは強く瞬きをした。


 思い出したくなかった。


「ノアくん」


 灯理の声がした。


「決まりましたか」


「スープを作ります」


「誰に?」


「……母に」


「どんなスープ?」


「野菜のスープです」


「それは、お母さんが好きだった?」


 ノアは答えるまでに少し時間がかかった。


「わかりません」


「わからない?」


「昔、作ったことがあります。子どものころに。でも、失敗したので」


 灯理は続きを待った。


 ノアは包丁を握った。


 人参の皮をむく。


 薄く切る。


 一定の厚さで。


 手を動かしていれば、話さなくて済む気がした。


「母が仕事で疲れて帰ってきた日でした。僕は料理人になりたかったわけじゃなくて、ただ、母を驚かせたかったんです。冷蔵庫にあった野菜を切って、鍋に入れて」


 包丁の音が、まな板の上で細かく鳴る。


「でも、火を強くしすぎました。鍋底が焦げて、台所じゅう変な匂いになって。僕は泣きました。母は笑って食べましたけど」


「食べてくれたんですね」


「母は優しいから」


 ノアの声が少し硬くなった。


「でも、あれは料理じゃありません。失敗です」


 灯理は鍋を見た。


「それから、焦げた匂いが嫌いに?」


 ノアは手を止めた。


「嫌いです」


「うん」


「料理を焦がす人間は、料理人になれません」


「そう思っているんですね」


「違うんですか」


 ノアは少し強い声で言った。


「焦げた料理なんて失敗です」


 灯理は否定しなかった。


「うん。焦げたままなら、そうかもしれない」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


「その焦げが、何を教えてくれたのかを味見するんだよ」


 ノアは灯理を見た。


 意味がわからなかった。


 焦げは焦げだ。


 苦く、黒く、失敗の証拠だ。


 味見するものではない。


「僕は、焦がしません」


 ノアはそう言って、鍋にバターを入れた。


 熱で溶けたバターが、淡い泡を立てる。


 玉ねぎを入れる。


 火を弱める。


 木べらで混ぜる。


 鍋底を確認する。


 焦げていない。


 もう一度、確認する。


 まだ大丈夫。


 人参、じゃがいもを加える。


 塩を少し。


 出汁を注ぐ。


 湯気が上がる。


 作業は順調だった。


 ノアの手は正確に動いた。切り方も、火加減も、手順も、すべて訓練の通りだった。


 けれど、厨房のあちこちから聞こえる声が、少しずつ彼の集中を揺らした。


「祖母の豆は、もっと潰れてた気がする」


「この香り、祭りの屋台に近いかも」


「うちの粥は、米粒が残ってた。完全に潰したら違う」


「夜食のパン、焦げてたよね」


「そうそう、端っこが黒かった」


 焦げ。


 その言葉が耳に入った瞬間、ノアの手が止まった。


 ほんの数秒。


 ほんの数秒だけ、鍋から目が離れた。


 次の瞬間、鼻の奥をかすかな匂いが刺した。


 焦げ。


 ノアは慌てて木べらを入れた。


 鍋底に、ほんの少しだけ茶色くなった部分がある。


 黒くはない。


 ひどい焦げではない。


 けれど、確かに焦げていた。


「あ……」


 胸が冷たくなる。


 手の中の木べらが重くなる。


 まただ。


 またやった。


 クラウス先生がこちらを見る気配がした。


 ノアは火を止めた。


「捨てます」


 低い声で言った。


 隣にいたルチアが驚く。


「まだ大丈夫じゃない?」


「焦げた」


「少しでしょ」


「焦げたんだ」


 ノアは鍋を持ち上げようとした。


 その手を、灯理がそっと止めた。


「まだ捨てなくていい」


「失敗です」


「味見はした?」


「しなくてもわかります」


「本当に?」


「焦げた匂いがします」


「うん。しますね」


「だったら」


「その匂いの奥に、何があるかは、まだ見ていない」


 ノアは唇を噛んだ。


 見たくなかった。


 焦げた鍋の奥にあるものなんて、失敗以外に決まっている。


 クラウス先生が近づいてきた。


 厳しい顔をしている。


 ノアは叱られると思った。


 しかしクラウス先生は、鍋の中を見て言った。


「焦げは浅い。苦みになるか、香ばしさになるかは、この後の扱い次第だ」


 ノアは目を見開いた。


「捨てなくていいんですか」


「捨てる判断は、味を見てからだ」


 それは、クラウス先生らしい言葉だった。


 厳しい。


 けれど、公平だった。


 ノアは小さなスプーンを手に取った。


 鍋の上澄みではなく、焦げた部分に近いところを少しだけすくう。


 口に運ぶ。


 舌の上に、温かさが広がった。


 最初に来たのは、野菜の甘み。


 次に、バターの香り。


 そして、奥の方に、かすかな苦みと香ばしさ。


 焦げている。


 でも、ただ嫌な味ではなかった。


 ノアの中で、何かがゆっくりとほどけた。


 幼い日の台所。


 焦げた鍋。


 泣いている自分。


 母がスプーンを持って笑っている。


『星みたいな味がするね』


 母はそう言った。


 ノアは泣きながら怒った。


『星は焦げた味なんかしない』


 母は笑って、もう一口飲んだ。


『でも、夜の匂いがする。あったかい夜の味』


 そんなことを、忘れていた。


 忘れたことにしていた。


 あのスープは失敗だった。


 それは変わらない。


 でも、母は確かに食べた。


 笑ってくれた。


 あの日の自分は、完璧な料理を作りたかったわけではない。


 疲れた母に、温かいものを出したかったのだ。


「ノアくん」


 灯理の声が、遠くから戻ってきた。


「何がありましたか」


 ノアはスプーンを握ったまま、鍋を見た。


「母が」


 声が少し震えた。


「母が、星みたいな味だって言いました」


「この焦げた味を?」


「昔のスープです。たぶん、僕を慰めるために言ったんです。でも……」


 ノアはもう一度味見をした。


 今度は、逃げなかった。


「少し、わかる気がします」


 クラウス先生が黙って聞いていた。


 ノアは火を弱くつけ直した。


「焦げを隠すんじゃなくて、香りにしたいです」


 灯理は頷いた。


「どうしますか」


「少し甘みを足します。人参をもう少し。あと、香草は強くしすぎない。焦げの香ばしさを消さないように」


 ノアは新しい鍋を出さなかった。


 焦げた鍋を、そのまま使った。


 ただし、鍋底を乱暴にこすらず、焦げの強い部分は残しすぎないよう慎重に火を入れる。


 人参を加え、少量の牛乳で丸みを出し、塩を調整する。


 最後に、ほんの少しだけ黒胡椒を挽いた。


 皿は、いつものように白いものを選びかけて、手を止めた。


 棚の奥に、深い藍色の小さな器があった。


 夜空に似た色だった。


 ノアはその器にスープを注いだ。


 表面に薄く油が光る。


 仕上げに、細かく刻んだ香草をほんの少し散らした。


 緑の粒が、藍色の器の中で星のように見えた。


 試食の時間になった。


 生徒たちはそれぞれの料理を並べた。


 祖母の豆の煮込み。


 祭りの焼き菓子。


 病気の日の粥。


 夜食のパン。


 どれも、学校の試験料理ほど整ってはいなかった。


 けれど、皿の前に立つ生徒たちの顔は、午前とは違っていた。


 自分の料理を守るような、少し照れくさい顔。


 食べてほしい誰かを思い浮かべる顔。


 クラウス先生は一皿ずつ味見をした。


 いつものように姿勢を崩さず、表情も大きく変えない。


 しかし、コメントはいつもより長かった。


「豆はもう少し塩を控えてもいい。だが柔らかさはいい。噛む力の弱い人を考えている」


「焼き菓子は形が不揃いだ。だが、それが屋台の記憶に近いなら、すべて揃える必要はない」


「粥は少し水分が多い。しかし、病気の日の喉にはこの方が通りやすいかもしれない」


 最後に、ノアの器の前に立った。


 厨房が少し静かになる。


 ノアは息を止めた。


 クラウス先生はスプーンでスープをすくい、口に運んだ。


 長い沈黙。


 鍋の中で、小さな泡が弾ける音がした。


「焦げている」


 クラウス先生が言った。


 ノアの心臓が跳ねた。


「はい」


「だが、苦みだけではない」


 先生はもう一口味見をした。


「香ばしさがある。野菜の甘みが、それを支えている。器の色も悪くない」


 ノアは拳を握った。


 クラウス先生は、スープを見つめた。


「午前のポタージュは整っていた」


「はい」


「だが、これは誰かのための料理に見える」


 その言葉に、ノアは目を伏せた。


 胸の奥が熱くなった。


 褒められたからではなかった。


 ようやく、あの日の台所に戻れた気がした。


 失敗として閉じ込めていた記憶の中に、母の笑った顔が残っていたことを、思い出せたからだった。


「先生」


 ノアは小さく言った。


「料理は、皿の上で完成するんじゃないんですか」


 クラウス先生は少しだけ眉を動かした。


 それは、朝、自分が言った言葉だった。


 彼はしばらく考えた後で、静かに答えた。


「皿の上で完成させる努力は必要だ」


「はい」


「だが、食べる人の中で、もう一度完成する料理もあるのかもしれない」


 灯理はそのやり取りを、厨房の端で静かに聞いていた。


 試食が終わった後、ノアは自分のスープを小さな容器に移した。


 それを見たルチアが聞く。


「持って帰るの?」


「母に送る」


「スープを?」


「冷凍すれば何とかなる。たぶん」


「手紙も入れたら?」


 ノアは少し考えた。


 手紙。


 何を書けばいいのかわからない。


 でも、書くべきことは一つだけある気がした。


『星の味を、少し思い出しました』


 それだけで、母には伝わるだろうか。


 伝わる気がした。


 夕方、料理学校の厨房は片付けを終えて静かになっていた。


 磨かれた調理台には、水滴一つ残っていない。鍋は棚に戻され、包丁も布の上に並んでいる。


 ノアは一人で、自分の使った鍋を洗っていた。


 鍋底には、焦げた跡が少しだけ残っている。


 いつもなら、力を込めてこすり落とす。


 失敗の痕跡を、消すように。


 けれど今日は、すぐにはこすらなかった。


 指先で、黒くなった部分の縁に触れる。


 ざらりとしている。


 焦げは焦げだ。


 でも、もうそれは、ただの失敗ではなかった。


「落とさないんですか」


 灯理が厨房の入口から声をかけた。


 ノアは振り返った。


「落とします」


「うん」


「でも、少し見てから」


 灯理は微笑んだ。


「いい時間ですね」


「焦げを見る時間が?」


「何かを失敗と決める前の時間が」


 ノアは鍋底を見た。


「僕、ずっと焦げた匂いが嫌いでした」


「うん」


「でも、今日の匂いは、少しだけ嫌いじゃありませんでした」


「それは大きな変化だね」


「料理人になれますか」


 言ってから、ノアは自分で驚いた。


 そんなことを他人に聞いたのは初めてだった。


 才能があると言われても、不安は消えなかった。


 失敗を恐れる自分は、料理人に向いていないのではないかと、ずっと思っていた。


 灯理はすぐに答えなかった。


 厨房の窓の外には、夕暮れの空が広がっている。薄い紫色の中に、一番星が小さく光っていた。


「なれるかどうかは、私には決められない」


 灯理は言った。


「でも、今日の君は、焦げた鍋を捨てずに味見した」


 ノアは黙って聞いた。


「それは、料理人にとって大切なことの一つだと思う」


 ノアは小さく頷いた。


 胸の奥にあった不安が、すべて消えたわけではない。


 明日もきっと、鍋底を確認する。


 火加減を怖がる。


 焦げた匂いに、体が強張るかもしれない。


 でも、もしまた焦がしたら。


 その時は、すぐに捨てる前に、味を見てみようと思った。


 夜、灯理は料理学校を出た。


 石畳の道に、厨房から漏れる明かりが細長く伸びている。遠くの町では、夕食の匂いが家々の窓からこぼれていた。


 パンを焼く匂い。


 肉を煮込む匂い。


 香草を刻む匂い。


 どれも、誰かのもとへ帰っていく匂いだった。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 校門のそばで、クラウス先生が待っていた。


「白瀬先生」


「はい」


「今日の授業は、少々予定外でした」


「すみません」


「謝る必要はありません」


 クラウス先生は校舎を振り返った。


 厨房の窓には、まだノアの影が見える。鍋を洗っているのだろう。小さな影が、ゆっくりと動いていた。


「私は、料理は皿の上で完成すると教えてきました」


「大切なことだと思います」


「ええ。今もそう思っています」


 クラウス先生は少しだけ口元を緩めた。


「ですが、今日のノアのスープは、皿の外にも何かを持っていました」


 灯理は頷いた。


「食べる人の中で、もう一度完成する料理」


「自分で言っておいて、少し照れますね」


「いい言葉でした」


「生徒には聞かせないでください」


「たぶん、もう聞いています」


 厨房の窓の向こうで、ノアがこちらを見ていた。


 クラウス先生は一瞬だけ固まり、それから小さく咳払いをした。


「明日から、課題の最初に一つ質問を増やします」


「どんな質問ですか」


「誰に食べさせたいのか」


 灯理は微笑んだ。


「きっと、いい授業になります」


 クラウス先生は返事の代わりに、静かに頭を下げた。


 灯理は夜の道を歩き出した。


 空には星が出ている。


 料理学校の明かりが背中から遠ざかっていく。


 鞄の中には、次の依頼状が入っていた。


 封筒の紙は少し厚く、角には工業系専門学校の印が押されている。


 灯理はそれをまだ開かなかった。


 今はただ、夜風の中にかすかに残るスープの匂いを感じていた。


 焦げた匂い。


 野菜の甘み。


 バターの香り。


 そして、誰かが遠い昔に「星みたい」と呼んだ味。


 灯理は小さく息を吸い、次の町へ続く道を歩いていった。

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