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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第1章 第4話:国語の授業――手紙を書けない少女


 北の町では、雪が音を吸い込んでいた。


 朝の通学路は白く、家々の屋根も、街路樹の枝も、郵便ポストの赤い頭も、薄い雪をかぶっている。踏みしめるたびに、靴の下で雪が小さく鳴った。


 エマは手袋をした手で、鞄の紐を握りしめていた。


 鞄の中には、折り目のついていない便箋が三枚入っている。


 昨日、国語の授業で配られたものだった。


『大切な人へ、感謝の手紙を書きましょう』


 課題の説明を聞いた時、教室では小さな歓声が上がった。


 母親に書くと言った子。父親に書くと言った子。祖父母に書く子。離れて暮らす姉に書く子。家で飼っている犬に書いてもいいかと聞いて、ヨハン先生に苦笑された子もいた。


 エマは、笑わなかった。


 便箋を受け取った瞬間から、胸の奥が固くなった。


 書く相手なら、決まっている。


 母だ。


 遠い町の病院で働いている母。月に一度、帰ってこられるかどうかの母。電話ではいつも明るく話すのに、切る直前だけ声が少し疲れて聞こえる母。


 書くことも、たぶんある。


 ありがとう。


 お仕事がんばってね。


 体に気をつけてね。


 そう書けばいい。


 それなのに、エマの手は動かなかった。


 学校の門をくぐると、校庭では何人かの生徒が雪玉を作っていた。笑い声が、白い息と一緒に空へ上がる。


 エマは足を止めず、校舎へ入った。


 教室は暖かかった。


 窓際の暖房が低く唸り、濡れた手袋やマフラーが椅子の背にかけられている。黒板の端には、昨日の課題がまだ残っていた。


『手紙は、相手を思い浮かべて書くこと』


 エマは自分の席に座り、鞄から便箋を取り出した。


 真っ白だった。


 昨日と同じ。


 家でも、机に向かってみた。


 鉛筆を持った。


 最初の一文字を書こうとした。


 けれど、便箋の白さがあまりにもまぶしくて、エマは何も書けなかった。


 教室のあちこちでは、すでに手紙の話が始まっていた。


「僕、お父さんに書いた。雪かき手伝ってくれてありがとうって」


「それ、逆じゃない? 手伝ってるの君でしょ」


「だから、お父さんが僕を手伝ってくれてるんだよ」


「私はおばあちゃん。字が小さくなりすぎたから、清書しないと」


「ねえ、最後に絵を描いてもいいかな」


 エマは便箋の角を指で押さえた。


 その白い紙だけが、机の上で冷たく見えた。


「エマ」


 ヨハン先生の声がした。


 顔を上げると、先生が机の横に立っていた。背が高く、少し猫背で、眼鏡の奥の目はいつも穏やかだった。


「昨日の手紙、進みましたか」


 エマは便箋を見た。


「まだです」


「一行も?」


「はい」


 ヨハン先生は責めなかった。


 ただ、困ったように眉を寄せた。


「書く相手に迷っていますか」


「いえ」


「では、内容に?」


 エマは答えられなかった。


 内容に迷っている。


 そう言えば、そうかもしれない。


 でも、違う気もする。


 書きたいことがないのではない。ありすぎるのだ。感謝だけではない。寂しさも、怒りも、会いたい気持ちも、会った時に何を話せばいいかわからない不安も、全部が胸の中で絡まっている。


 感謝の手紙。


 その言葉が、エマには小さすぎた。


「……すみません」


 エマは小さく言った。


「謝る必要はありません」


 ヨハン先生はそう言ったが、そこから先の言葉を探しているようだった。


 その時、教室の扉が開いた。


 冷たい空気と一緒に、一人の先生が入ってきた。


 黒いコートの肩に、細かな雪がついている。片手には古びた革の鞄。もう片方の手には、町の郵便局で使われているような青い封筒を持っていた。


「おはようございます」


 その人は、静かに頭を下げた。


「白瀬灯理です。今日は少しだけ、皆さんの国語の授業に混ぜてもらいます」


 教室がざわついた。


 旅をしている先生。


 世界の学校を回っている先生。


 昨日、ヨハン先生がそう言っていた。


 エマはその人を見た。


 白瀬先生は、教室の前に立つと、黒板の課題を読んだ。


『大切な人へ、感謝の手紙を書きましょう』


 それから、机の上の便箋を眺めた。


 みんなの便箋には文字がある。


 エマの便箋だけが、真っ白だった。


 白瀬先生はエマを見た。


 エマは目を伏せた。


 また聞かれるのだと思った。


 何を書きたいの。


 どうして書けないの。


 誰に書くの。


 でも、白瀬先生は違うことを言った。


「今日は、郵便局へ行きましょう」


 教室が静かになった。


 ヨハン先生も驚いた顔をした。


「郵便局、ですか?」


「はい。手紙がどこへ行くのか、見てみたいので」


「授業中に?」


「国語の授業ですから」


 白瀬先生は、少しだけ笑った。


「言葉が、誰かのもとへ届く場所を見に行きましょう」


 町の郵便局は、学校から歩いて十分ほどの場所にあった。


 雪は止んでいたが、空は薄い灰色で、通りを歩く人々はマフラーに顔を埋めている。パン屋の窓は曇り、花屋の店先には冬でも枯れにくい小さな鉢植えが並んでいた。


 郵便局は古い建物だった。


 木の扉を開けると、ベルが澄んだ音を立てる。中には紙とインクと、少しだけ古い木の匂いがした。壁には世界地図が貼られ、窓口の奥では職員たちが封筒や小包を仕分けている。


 生徒たちは物珍しそうにあたりを見回した。


「ここから外国にも手紙が行くの?」


「この箱、全部今日出すのかな」


「切手ってこんなに種類あるんだ」


 白瀬先生は、郵便局の奥にいる年配の女性に挨拶した。


 局長のアンナさんだった。白い髪をきれいにまとめ、丸い眼鏡をかけている。彼女は生徒たちを見ると、にこりと笑った。


「ようこそ。今日は手紙の授業だそうですね」


 アンナさんは、古い木箱を机の上に置いた。


「これは、町の資料として残している昔の手紙の写しです。本物は傷まないように保管してありますが、読むことはできますよ」


 生徒たちは机を囲んだ。


 古い手紙は、どれも今の便箋とは違っていた。


 紙は黄ばんでいて、角が丸まっている。文字は流れるような筆記体だったり、子どもが書いたように大きく曲がっていたりした。ところどころにインクのにじみがあり、消した跡や書き直した跡もある。


 白瀬先生が一枚を手に取った。


「これは、どんな手紙でしょう」


 ヨハン先生が読み上げた。


「『無事です。春になったら帰ります』……それだけですね」


「短い」


 誰かが言った。


「これだけで手紙なの?」


 別の生徒が首を傾げる。


 アンナさんは頷いた。


「戦争の頃に送られたものです。書いた人は、それ以上のことを書く時間がなかったのでしょうね。でも、受け取った家族は、この一行を何度も読んだそうです」


 教室ではない場所なのに、急に静かになった。


 一行だけの手紙。


 それは、エマの胸に小さく引っかかった。


 たった一行でもいいのだろうか。


 手紙は、もっときちんと書くものだと思っていた。


 挨拶があって、理由があって、感謝の言葉があって、結びの言葉があって。正しく、読みやすく、相手が喜ぶように。


 でも、その古い手紙は、そんな形をしていなかった。


 それでも、誰かを待つ人に届いた。


 次に、アンナさんは絵葉書を見せてくれた。


 海辺の町から送られたもの。森の中の小さな村から送られたもの。雪山の絵が描かれたもの。


 裏には、短い言葉が並んでいる。


『空が広いです』


『あなたに見せたい花があります』


『まだ怒っています。でも元気です』


 その一枚を見た時、エマの指が止まった。


 まだ怒っています。


 そんなことを、手紙に書いてもいいのだろうか。


 白瀬先生は、エマの視線に気づいていた。


 けれど、何も言わなかった。


 郵便局の奥では、配達員の男性が大きな鞄を見せてくれた。


「この町は雪が多いから、冬の配達は大変だよ。住所が読めない手紙もあるし、封筒が濡れてしまうこともある」


「届かなかったらどうするんですか」


 生徒の一人が聞いた。


「探す。聞く。待つ。戻すこともある。でも、できるだけ届ける」


「どうしてそこまで?」


 配達員は少し考えてから言った。


「手紙は、紙だけど、紙だけじゃないからね」


 エマはその言葉を聞きながら、自分の鞄の中の便箋を思い出した。


 真っ白な紙。


 紙だけの紙。


 まだ、何も乗っていない紙。


 学校へ戻る途中、雪がまた少し降り始めた。


 細かな雪が、エマの睫毛に触れて溶ける。


 みんなは郵便局で見た手紙の話をしていた。


「一行だけの手紙、すごかったね」


「僕なら何を書くかな」


「『お腹すいた』とか?」


「それは手紙じゃなくて叫びだよ」


 笑い声が上がる。


 エマは少し後ろを歩いていた。


 白瀬先生が隣に並んだ。


 しばらく、二人は何も話さず歩いた。


 雪を踏む音だけが続く。


「エマさん」


 白瀬先生が言った。


 エマは肩を少し強張らせた。


「はい」


「手紙は、きれいな気持ちだけを入れる箱じゃないよ」


 エマは足を止めた。


 白瀬先生も止まった。


 前を歩いていた生徒たちの声が少し遠ざかる。


「……でも、感謝の手紙です」


「うん」


「ありがとうって書かないと」


「ありがとうを書きたくない?」


 エマは首を振った。


「書きたいです」


「なら、どうして書けないんだろう」


 その問いは、責める声ではなかった。


 だからこそ、エマの胸の奥に届いてしまった。


「ありがとうだけじゃないから」


 声が震えた。


「お母さんに、ありがとうって思ってます。働いてくれてることも、電話してくれることも、お土産を送ってくれることも。でも……」


 言葉が詰まる。


 雪が、肩に落ちる。


「でも、寂しいです。帰ってこない日は、嫌です。電話で『大丈夫?』って聞かれると、大丈夫って言います。でも本当は、大丈夫じゃない時もあります」


 白瀬先生は黙って聞いていた。


「そんなこと書いたら、お母さんが困るから」


「うん」


「だから、ありがとうだけ書こうとしたんです。でも、そうすると嘘みたいになって」


 エマは手袋の指を握りしめた。


「何を書いても、違う気がする」


 白瀬先生はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと言った。


「手紙は、相手を困らせないためだけに書くものではないと思う」


「でも」


「相手に、自分の本当の場所を少し知らせるために書くこともある」


「本当の場所?」


「心の中で、今どこに立っているのか」


 エマは雪の積もった歩道を見た。


 自分が今どこに立っているのか。


 母に感謝している場所。


 寂しい場所。


 怒っている場所。


 会いたい場所。


 その全部が、同じ胸の中にある。


「全部書かなくてもいいんですか」


「全部は、きっと一枚には入らない」


「じゃあ、どうすれば」


「今、いちばん渡せる言葉を一つ選ぶ」


 白瀬先生は、郵便局で見た一行だけの手紙を思い出すように目を細めた。


「短い言葉ほど、長い時間を抱えていることがあるよ」


 教室に戻ると、ヨハン先生は机を少し離して並べ替えていた。


 生徒たちは自分の席に戻り、便箋を広げる。


 郵便局へ行く前より、教室は静かだった。


 けれど、その静けさは重苦しくなかった。


 誰かが鉛筆を走らせる音。


 消しゴムで文字を消す音。


 封筒を選ぶ音。


 窓の外で雪が落ちる音。


 エマは便箋を前に置いた。


 鉛筆を持つ。


 最初に書いたのは、


『お母さんへ』


 その五文字だけで、胸が苦しくなった。


 エマは息を吸った。


 次に、


『いつもありがとう』


 と書こうとした。


 でも、途中で止まった。


 ありがとう。


 それは本当だ。


 でも、その言葉から始めると、他の気持ちがまた隠れてしまう気がした。


 エマは消しゴムを手に取った。


 ごしごしと消す。


 紙が少し毛羽立った。


 もう一度書く。


『お母さんへ』


 今度はその下に、


『元気です』


 と書いた。


 違う。


 消す。


『学校は楽しいです』


 違う。


 消す。


『お仕事がんばってください』


 違う。


 また消す。


 机の上に消しゴムのかすが増えていく。


 ヨハン先生が近づきかけたが、白瀬先生が軽く首を振った。


 待っている。


 エマはそれに気づいた。


 急かされていない。


 正しい文を求められていない。


 それでも、苦しかった。


 言葉にするということは、胸の中にあるものを外へ出すことだった。出してしまえば、自分でも見なければならない。


 母に会いたい。


 そう書いたら、会えない日の寂しさがもっと大きくなる気がした。


 怒っている。


 そう書いたら、母を傷つける気がした。


 ありがとう。


 そう書いたら、自分の寂しさをなかったことにする気がした。


 エマは鉛筆を置いた。


 便箋を見る。


 何度も消した跡だけが残っている。


 その時、給食室の方から、スープの匂いが漂ってきた。


 温かい野菜と、少し焦げた玉ねぎの匂い。


 エマは目を閉じた。


 母が帰ってきた夜は、よくスープを作ってくれた。


 特別な料理ではない。


 冷蔵庫にある野菜を切って、鍋に入れて、塩と香草で味を整えるだけ。


 母はいつも言った。


「疲れた日は、スープがいちばん」


 エマはその言葉が好きだった。


 向かい合って座り、湯気の向こうに母の顔がある時間が好きだった。


 お土産よりも、電話よりも、きれいな言葉よりも、ただ一緒にスープを飲む時間が欲しかった。


 エマは鉛筆を握った。


 今度は、消さなかった。


『お母さんへ』


 少し間を空ける。


 手が震える。


 それでも書く。


『帰ってきたら、一緒にスープを飲みたいです。』


 そこで手が止まった。


 短すぎる。


 感謝の手紙らしくない。


 ありがとうも、がんばっても、体に気をつけても、書いていない。


 でも、その一文を見た時、エマは胸の奥にあった結び目が少しだけほどけるのを感じた。


 涙が出そうになった。


 慌てて瞬きをする。


 白瀬先生が、少し離れた場所から見ていた。


 エマは小さく言った。


「先生」


「うん」


「こんなの、手紙じゃないです。短すぎる」


 白瀬先生は、郵便局で見た古い手紙のことを思い出すように、静かに微笑んだ。


「短い言葉ほど、長い時間を抱えていることがあるよ」


 エマは便箋を見つめた。


 一文だけの手紙。


 でも、その中にはたくさんの時間が入っている。


 待っていた夜。


 電話を切った後の静けさ。


 一人で飲んだスープ。


 母と向かい合って笑った食卓。


 言えなかった寂しさ。


 言いたかった願い。


 エマは便箋の下に、もう一文だけ書き足した。


『エマより』


 それから、鉛筆を置いた。


 ヨハン先生が机の横に来た。


 エマは少し身構えた。


 短すぎると言われるかもしれない。


 書き直しと言われるかもしれない。


 感謝の言葉が足りないと言われるかもしれない。


 ヨハン先生は便箋を読んだ。


 しばらく何も言わなかった。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「これは、エマの言葉ですね」


 エマは唇を噛んだ。


「はい」


「大事に封筒へ入れましょう」


 その声は、とても優しかった。


 放課後、雪は止んでいた。


 町の通りには、夕方の薄い光が差している。屋根の雪がところどころ溶け、軒先から雫が落ちていた。


 エマは封筒を両手で持ち、郵便局の前に立っていた。


 白瀬先生とヨハン先生は、少し離れたところで待っている。


 赤い郵便ポストは、朝よりもずっと大きく見えた。


 封筒の表には、母の働く病院の住所が書かれている。何度も確認したから、間違っていないはずだった。


 けれど、投函口の前で手が止まった。


 入れてしまえば、届く。


 届いてしまえば、母が読む。


 読んだ母は、どう思うだろう。


 困るだろうか。


 悲しむだろうか。


 帰ってこられないことを、もっとつらく思うだろうか。


 エマは封筒を胸に引き寄せた。


「出さなくてもいいよ」


 白瀬先生が言った。


 エマは振り返った。


「え?」


「手紙は、出すことだけが目的じゃない。書けたことも、もう一つの学びだから」


 ヨハン先生も頷いた。


「出すかどうかは、エマが決めていい」


 エマは封筒を見た。


 白い封筒。


 中には一文だけ。


 でも、それは初めて、自分の気持ちを消さずに書いた言葉だった。


 出さなければ、傷つけないかもしれない。


 でも、届かない。


 母は、エマがどこに立っているのか知らないままだ。


 エマはもう一度、ポストの前に立った。


 深く息を吸う。


 冷たい空気が胸に入る。


 指先が震えた。


 それでも、封筒を投函口に差し入れた。


 手を離す。


 ことん、と小さな音がした。


 たったそれだけの音だった。


 けれどエマには、教室中に響く鐘のように聞こえた。


「出せた」


 自分で言ってから、涙がこぼれた。


 悲しいのか、ほっとしたのか、自分でもわからなかった。


 ヨハン先生が慌ててハンカチを出そうとしたが、白瀬先生が先に鞄から白いハンカチを差し出した。


 エマはそれを受け取り、目元を押さえた。


「ありがとう、ございます」


「うん」


「お母さん、困るかな」


「もしかしたら、少し泣くかもしれない」


「え」


「でも、困るだけではないと思う」


 エマはポストを見た。


 もう封筒は見えない。


 けれど、なくなったわけではない。


 動き始めたのだ。


 紙が、言葉を乗せて。


 言葉が、エマの本当の場所を少しだけ乗せて。


 夜、白瀬灯理は駅へ向かう道を歩いていた。


 雪はやみ、石畳は街灯を映して濡れたように光っている。通りの家々の窓には明かりが灯り、どこかからスープの匂いが漂ってきた。


 駅前のポストの横を通り過ぎる時、灯理はふと足を止めた。


 この町のどこかで、今日も誰かの言葉が仕分けられ、袋に入れられ、列車か車に乗せられて運ばれていく。


 短い手紙。


 長い手紙。


 震えた文字。


 消した跡の残る紙。


 それらはみんな、誰かのところへ向かっている。


 駅のホームには、ヨハン先生が来ていた。


 コートの襟を立て、少し寒そうに立っている。


「白瀬先生」


「ヨハン先生。わざわざ」


「お礼を言いたくて」


 ヨハン先生は照れたように眼鏡を直した。


「私は、作文をどう評価するかばかり考えていました。構成、文法、語彙、読みやすさ。もちろん大切です。でも、今日のエマの一文を見て……言葉になるまで待つことを、忘れていた気がしました」


 灯理は静かに聞いていた。


「明日の授業で、生徒たちにもう一度聞いてみます。誰に届けばいいのか。どんな言葉なら自分のものと言えるのか」


「きっと、いい授業になります」


「そうでしょうか」


「先生が知りたいと思っているなら、生徒も一緒に考えられます」


 ヨハン先生は少し笑った。


「白瀬先生は、答えを置いていかないんですね」


「置いていけるほど、持っていないので」


「そんなふうには見えませんが」


 列車の到着を告げる灯りが、遠くに見えた。


 線路の向こうから、低い音が近づいてくる。


 灯理は鞄を持ち直した。


「エマさんの手紙、届くといいですね」


「はい」


 ヨハン先生は頷いた。


「きっと、届きます」


 列車がホームに入ってきた。


 扉が開き、暖かな空気が流れ出す。


 灯理は乗り込む前に、町の方を振り返った。


 雪に包まれた学校。


 古い郵便局。


 赤いポスト。


 一文だけの手紙。


 そして、白い便箋に残った、たくさんの消し跡。


 灯理は小さく息を吐いた。


 その息は白くなり、すぐに夜の中へ溶けていった。


 列車の座席に座ると、灯理は鞄から次の依頼状を取り出した。


 封筒には、海に近い港町の学校の名が書かれている。


『地理の授業で、地図を読む意味を教えてください』


 灯理は便箋を畳み、窓の外を見た。


 列車がゆっくり動き出す。


 遠ざかる町の明かりの中で、赤い郵便ポストだけが、最後まで小さく見えていた。

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