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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第10章 第4話:失敗の授業――落ちた試験の答案用紙


 専門コース棟の朝は、少し硬い音がする。


 廊下に並ぶ掲示板には、資格試験の日程、選抜プログラムの案内、実習室の使用予定が隙間なく貼られている。生徒たちは足早に教室へ入り、問題集を開き、単語帳をめくり、前日の小テストの点数について小声で話していた。


 その音の中で、怜央だけが鞄を膝の上に置いたまま動かなかった。


 鞄の底には、折り畳まれた答案用紙が入っている。


 希望していた専門プログラムの選抜試験。


 怜央は、それに落ちた。


 合格者の番号が掲示板に貼り出された昨日、怜央は自分の番号を何度も探した。


 上から下まで。


 もう一度、上から下まで。


 見落としているだけかもしれないと思った。


 でも、番号はなかった。


 返却された答案用紙には、赤い数字が書かれていた。


 合格点に届いていない点数。


 それだけ見て、怜央は答案をすぐに折った。


 何を間違えたのか。


 どこができていたのか。


 どんなコメントが書かれているのか。


 何も見なかった。


 見られなかった。


 答案用紙は、怜央に向かってこう言っている気がした。


 お前には無理だった。


 向いていない。


 努力しても届かない。


 もうやめろ。


 そんな言葉は、実際にはどこにも書かれていない。


 でも、点数の赤い数字だけで十分だった。


「怜央」


 担任で専門コース担当の槙先生が声をかけた。


 怜央は顔を上げる。


「答案、持ってきていますか」


「……はい」


「今日、見直しをしましょう。次の選抜もありますし、資格試験にもつながります」


「次とか、いいです」


 怜央は低く言った。


 槙先生は少し言葉に詰まった。


「まだ一回目です。次があります」


「次があるって言われても」


「怜央は努力していました。基礎力もあります。だから、ここで諦めるのは」


「じゃあ、なんで落ちたんですか」


 声が思ったより強く出た。


 周りの生徒が少しこちらを見る。


 怜央は唇を噛んだ。


「努力したのに落ちたなら、もう無理なんじゃないですか」


 槙先生は答えに迷った。


 励ましたい。


 でも、言葉が届いていないこともわかっていた。


 その時、教室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 専門コース棟の張りつめた空気に少し足を止め、その人は教室の中を見渡した。机の上の問題集、掲示板の試験日程、そして怜央の膝の上に置かれた鞄。


「白瀬先生」


 槙先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は試験の振り返りに少し混ぜていただきます」


 怜央は目を逸らした。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、槙先生から紹介されていた。


 灯理は怜央の机の前で立ち止まった。


「答案用紙は、鞄の中ですか」


 怜央は答えなかった。


 槙先生が少し困った顔をする。


 怜央は、渋々頷いた。


「見たくないですか」


「はい」


「どう見えていますか」


 怜央は鞄の口を押さえた。


「先生、この答案を見ると、自分には無理だったって書いてある気がします」


 灯理は静かに頷いた。


「うん。では、その紙は怜央くんを終わらせる判決文でしょうか。それとも、次に何を見るかを教える資料でしょうか」


 怜央は顔を上げた。


 判決文。


 資料。


 同じ紙が、そんなふうに変わるとは思えなかった。


 今の怜央には、答案用紙は赤い点数のついた判決文にしか見えない。


 でも、灯理はその紙をまだ開けとは言わなかった。


 午前の授業で、灯理は黒板に大きく書いた。


『失敗の解剖』


 教室に小さなざわめきが起きた。


「解剖?」


「怖い」


「失敗を?」


 灯理は頷いた。


「今日は、失敗を励ましで隠すのではなく、細かく見ます。痛い作業かもしれません。でも、痛いからといって、何も見ないままにすると、次に使える情報も取り出せません」


 黒板に項目が並ぶ。


『できていた部分』

『惜しかった部分』

『問題の読み違い』

『時間配分』

『知識不足』

『緊張によるミス』

『次に試せる一つの対策』

『もう一度挑戦するか、別の道も含めて考える材料』


 生徒たちは、自分の小テストや模擬課題を机に出し始めた。


 間違いが多かった課題。


 点数が低かった小テスト。


 発表でうまくいかなかった評価表。


 怜央だけは、鞄を開けなかった。


 灯理は急がせなかった。


「出せない人は、まず紙に書いてください。その答案や課題を見ると、どんな言葉が聞こえてくる気がするか」


 怜央は配られた紙を見た。


 答案を見ると聞こえる言葉。


 鉛筆を握る。


 少し迷ってから書いた。


『無理』

『才能がない』

『向いていない』

『努力しても意味がない』

『終わり』


 書き終えると、胸がさらに重くなった。


 でも、それらが答案に本当に書いてあるわけではないことも、少しだけ見えた。


 灯理がそばに来た。


「これは、答案に書かれていた言葉ですか」


 怜央は首を横に振った。


「違います」


「では、答案を見た怜央くんの中に出てきた言葉ですね」


「でも、点数がそう言ってます」


「点数は、何点だったかを示しています」


 灯理は静かに言った。


「それだけで、怜央くんの全部を判決できるでしょうか」


 怜央は答えられなかった。


 点数は低かった。


 落ちた。


 それは事実だ。


 でも、そこから「才能がない」「終わり」と言っているのは、自分なのかもしれない。


 槙先生が少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。


 中盤になって、怜央はようやく鞄の口を開けた。


 答案用紙を取り出す。


 折り目が深くついている。


 紙は少し皺になっていた。


 怜央は机に置いたが、まだ開けない。


 手のひらが汗ばんでいる。


 灯理は隣の席に座った。


「一度に全部を見なくてもいいです」


「はい」


「まず、赤い点数ではなく、解答欄を一つだけ見てみましょう」


 怜央は深く息を吸い、答案を開いた。


 赤い数字が目に入る。


 胸が痛む。


 反射的に閉じたくなる。


 でも、灯理が言った。


「点数の下に、問題があります」


 怜央は視線をずらした。


 第一問。


 基礎知識を問う問題。


 丸が多い。


 意外だった。


 全部だめだった気がしていた。


 でも、第一問はほとんど取れている。


「ここは、できていますね」


 灯理が言った。


 怜央は小さく頷いた。


「基礎は、取れてる」


「はい」


 第二問。


 計算問題。


 途中式に赤い線が引かれている。


 最後の数字は違うが、途中までは合っている。


「惜しかった部分ですね」


 灯理が言う。


 怜央は眉を寄せた。


「でも、間違いは間違いです」


「はい。点にはなりにくいかもしれません。でも、次に見る場所は変わります」


「どういうことですか」


「最初からわからなかったのか、途中で処理を間違えたのか。次の練習が違います」


 怜央は答案を見た。


 途中まで合っている。


 最後の符号を間違えている。


 完全にできなかったのではなく、途中でずれた。


 第三問。


 応用問題。


 ここで大きく時間を使った記憶がある。


 何度も考え直し、消しゴムで消し、書き直した。


 結果的に、最後の記述問題は空欄になった。


 答案の下の方に、大きな白い空欄がある。


 その空白を見た時、怜央の胸がまた痛んだ。


「ここ」


 怜央は言った。


「ここが、最悪です」


「空欄ですね」


「時間がなくて」


「応用問題に時間を使いましたか」


「はい」


「では、これは知識不足だけでしょうか」


 怜央は少し考えた。


 知識が足りなかった部分もある。


 でも、全部ではない。


 時間配分。


 問題を飛ばす判断。


 記述問題を後回しにしたこと。


「時間配分もあります」


「はい」


 灯理は黒板の項目を指した。


『時間配分』


 怜央は自分の答案に、付箋を貼った。


『応用問題に時間を使いすぎ』

『記述が空欄』


 次に、問題文を見直した。


 第四問。


 条件が複数ある問題。


 怜央の解答は、途中から条件を一つ使っていない。


 問題文に小さく赤線が引かれていた。


 そこに、槙先生のコメントがあった。


『条件二を読み飛ばし』


 怜央は舌打ちしそうになった。


「これ、読んでたらできたかもしれない」


「読み飛ばしたのですね」


「はい」


「緊張していましたか」


 怜央は少し黙った。


 試験の時、時計ばかり見ていた。


 手が冷たく、早く解かなければと焦っていた。


 問題文を最後まで読んだつもりで、目が滑っていた。


「緊張してました」


「では、次に試せることはありますか」


「条件に線を引く」


 怜央はすぐに言った。


 自分でも驚いた。


 次に試せること。


 その言葉が、少しだけ出てきた。


 灯理は頷いた。


「一つ出ましたね」


 午後の授業では、全員が自分の失敗を分類した。


 怜央も答案を机に広げたままにした。


 朝は、鞄の底に押し込んでいた紙。


 今は、赤い点数だけでなく、いくつもの付箋が貼られている。


『基礎は取れている』

『途中式は合っていた』

『符号ミス』

『応用に時間を使いすぎ』

『記述が空欄』

『条件二を読み飛ばし』

『緊張で目が滑った』


 答案用紙は、まだ痛い。


 見れば、落ちた事実を思い出す。


 でも、朝ほど一枚の真っ黒な紙には見えなかった。


 場所が分かれてきた。


 できていた場所。


 惜しかった場所。


 足りなかった場所。


 次に試せる場所。


 槙先生が怜央の机の横に来た。


「見直せていますね」


 怜央は少し照れくさくて、目を逸らした。


「見てるだけです」


「朝は、出すのもつらかったでしょう」


「まだつらいです」


「そうですね」


 槙先生は、答案の付箋を見た。


「私は昨日から、次がある、と言っていました」


「はい」


「でも、次があると言うだけでは、次に何をすればいいかは見えませんね」


 怜央は答案を見た。


「はい」


「次に何を試すか、一緒に見ましょう」


 槙先生は赤ペンではなく、青いペンを取り出した。


「赤は採点で使われています。今日は、次に見る場所を青で書いてみませんか」


 怜央は青いペンを受け取った。


 答案の余白に、最初の一行を書く。


『まだ結論ではない。次に見る場所』


 書いてから、少しだけ息がしやすくなった。


 終盤、灯理は生徒たちに「次の一か月で試すこと」を三つ書かせた。


 すぐに再挑戦を決める必要はない。


 諦めないと宣言する必要もない。


 別の道を考えることも逃げではない。


 ただ、この失敗から取り出した情報を、一か月だけ試してみる。


 その上で、もう一度考える。


 怜央は紙に書いた。


『時間を測って解く』

『問題文の条件に線を引く』

『記述問題を最後に残さない』


 少し考えて、もう一行足した。


『一か月後に、再挑戦するか、別の道も含めて考える』


 それを書いた時、胸の中にあった「終わり」という言葉が少し薄くなった。


 終わりではない。


 でも、無理に「絶対次は受かる」と言う気にもなれない。


 今できるのは、次に見る場所を決めること。


 それだけだった。


 放課後、怜央は自習室に残った。


 机の上には、答案用紙と問題冊子、青いペン、タイマーが置かれている。


 最初に解くのは、同じ形式の練習問題。


 タイマーを二十分に設定する。


 問題文を読む。


 条件に線を引く。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 応用問題に手をつける前に、記述問題の場所を確認する。


 全部はうまくいかない。


 途中で焦りそうになる。


 でも、今日は時間を見る。


 十五分を過ぎたところで、応用問題を一度飛ばす。


 記述へ進む。


 短くても何かを書く。


 空欄を作らない。


 タイマーが鳴った時、怜央の答案は完璧ではなかった。


 でも、記述欄は埋まっていた。


 怜央は机に突っ伏しそうになりながら、深く息を吐いた。


 灯理が自習室の入口に立っていた。


「試していましたね」


「はい」


「どうでしたか」


「難しいです」


「はい」


「応用を飛ばすの、怖かったです」


「うん」


「でも、記述は空欄じゃなかった」


 怜央は練習問題の答案を見た。


 まだ採点もしていない。


 でも、空欄ではない。


 それだけで、前回とは違う。


「先生」


「はい」


「この答案、まだ嫌いです」


 怜央は選抜試験の答案用紙を指した。


「見ると、落ちたって思います」


「はい」


「でも、全部が俺を否定してるわけじゃないって、少しわかりました」


「うん」


「ここには、次に試すことも書いてある」


 灯理は頷いた。


「怜央くんが読み取ったことですね」


 怜央は青いペンで書いた余白を見た。


『まだ結論ではない。次に見る場所』


 その文字は、赤い点数の横にあった。


 点数が消えたわけではない。


 落ちた事実も消えない。


 でも、その横に別の言葉を置くことはできた。


 翌週から、怜央は放課後の自習にタイマーを使い始めた。


 条件に線を引く。


 時間を区切る。


 記述を空欄にしない。


 うまくいく日もあれば、また焦ってしまう日もある。


 それでも、答案を鞄の底へ押し込むことは減った。


 槙先生は、怜央に毎回「次がある」とは言わなくなった。


 代わりに、答案を見て言う。


「次に何を試しますか」


 怜央は時々むっとした顔をしながらも、青いペンを持つ。


 失敗は痛い。


 結果は悔しい。


 でも、痛みの中に情報があるなら、見ないままにしておくのはもったいない。


 そう思える日が、少しずつ増えていった。


 夕方、灯理は専門コース棟を出た。


 窓の向こうでは、自習室の明かりがまだついている。怜央がタイマーを止め、答案の余白に青い文字を書き込んでいた。


 槙先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、答案用紙を一緒に読ませていただきました」


 槙先生は少し苦笑した。


「私は、落ちた生徒に『次がある』と言い続けていました」


「励ましたかったのですね」


「はい。でも、その言葉だけでは、失敗の痛みを越えられない生徒もいる。次があるなら、次に何をするのかを一緒に見なければならなかった」


 彼女は手元の青いペンを見た。


「赤で採点された答案に、青で次の情報を書き込む。これは続けます」


「生徒たちの助けになると思います」


「失敗を見せるのは勇気がいります。でも、隠したままでは、使える情報も眠ったままですね」


 校舎の外では、夕暮れの風が掲示板の試験日程を小さく揺らしていた。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、卒業前の総合学習校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 自習室の窓の向こうで、怜央が答案を畳まずにファイルへ入れている。


 鞄の底へ押し込むのではなく、次に見る資料として。


 失敗は、優しいものではない。


 落ちた点数は痛い。


 空欄は悔しい。


 読み飛ばした条件は、自分を責めたくなる。


 それでも、その紙は判決文だけではない。


 そこには、できていたこと、惜しかったこと、足りなかったこと、次に試せることが残っている。


 灯理は専門コース棟の明かりを振り返り、夕闇の校門をゆっくりと出ていった。

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