第10章 第5話:人生設計の授業――十年後の自分に嘘をつく子
卒業前の総合学習校には、春を待つ紙の匂いがあった。
廊下の掲示板には、卒業式の案内、進路決定者の一覧、在校生からのメッセージが並んでいる。教室の後ろには、使い終わった問題集や、寄せ書き途中の色紙が積まれていた。
窓の外では、まだ冷たい風が校庭を通り抜けている。
けれど、日差しだけは少しずつ柔らかくなっていた。
乃々花は、机の上に置かれた一枚のシートを見つめていた。
『十年後の自分への人生設計シート』
上には、名前を書く欄。
その下には、いくつもの項目が並んでいる。
『十年後、どんな仕事をしていますか』
『どんな場所で暮らしていますか』
『どんな人と関わっていますか』
『叶えていたい夢は何ですか』
『十年後の自分へメッセージを書きましょう』
周りの生徒たちは、少し照れながらも楽しそうに書き始めていた。
「十年後かあ。二十八歳?」
「海外に住んでるって書こうかな」
「起業してる予定」
「私は安定した仕事」
「結婚してるかも」
「まだ遊んでたい」
笑い声が教室に広がる。
乃々花は、鉛筆を持ったまま動かなかった。
十年後。
遠いようで、紙の上ではすぐそこに見える。
何かを書かなければならない。
ちゃんとした未来。
前向きな未来。
先生が安心するような未来。
友だちに見られても恥ずかしくない未来。
乃々花は、ゆっくり一行目を書いた。
『安定した仕事に就いている』
次に、
『人に尊敬される大人になっている』
さらに、
『毎日充実している』
『迷わず夢を叶えている』
文字は整っていた。
自分でも、うまく書けていると思った。
けれど、書けば書くほど胸の奥が冷たくなった。
これは、誰の未来だろう。
十年後の自分は、本当に迷わず夢を叶えているのだろうか。
そもそも夢は変わらないのだろうか。
途中で失敗しないのだろうか。
誰にも頼らず、毎日充実して、尊敬される大人になっているのだろうか。
そんな未来を、乃々花は信じていなかった。
でも、信じていないことを紙に書く方が怖かった。
十年後も迷っているかもしれない。
進路を変えているかもしれない。
仕事を辞めているかもしれない。
夢がわからなくなっているかもしれない。
誰かに頼って泣いているかもしれない。
そんなことを書いたら、失敗した未来みたいに見える。
負けた未来みたいに見える。
「乃々花、何書いた?」
隣の席の明里が覗き込もうとした。
乃々花は慌ててシートを少し隠した。
「まだ途中」
「私、十年後はカフェやってるって書いた。現実的かは知らないけど」
「いいね」
「乃々花は? ちゃんとしてそう」
ちゃんとしてそう。
その言葉に、乃々花は曖昧に笑った。
「そんなことないよ」
「あるよ。乃々花なら計画通りに進みそう」
計画通り。
それができたら、どれほど楽だろう。
乃々花はシートを見下ろした。
きれいな文字で書かれた未来が、自分を責めているように見えた。
総合学習を担当する水原先生が、教室の前に立った。
「皆さん、人生設計シートは卒業記念として封筒に入れ、十年後に開ける予定です」
教室が少し盛り上がる。
「え、本当に十年後?」
「忘れてそう」
「恥ずかしいかも」
水原先生は微笑んだ。
「未来は変わるかもしれません。でも、今の皆さんがどんな未来を描いたかを残しておくことは、きっと意味があります。前向きな未来を書いてみましょう」
前向きな未来。
その言葉に、乃々花は鉛筆を握り直した。
ちゃんと書かなければ。
明るく。
立派に。
十年後の自分に恥ずかしくないように。
教室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。
卒業前の教室に漂う少し浮き立った空気を、その人は一度ゆっくり見渡した。机の上に並ぶ人生設計シート、色ペン、封筒、そして乃々花の整いすぎた文字。
「白瀬先生」
水原先生が迎える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は人生設計の授業に少し混ぜていただきます」
乃々花は灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。
昨日、水原先生から紹介されていた。
灯理は生徒たちの机の間を歩き、乃々花の横で足を止めた。
「きれいに書けていますね」
乃々花は少し肩を強ばらせた。
「はい」
「この未来は、乃々花さんに似ていますか」
思いがけない問いだった。
「似ている、ですか」
「はい。十年後の乃々花さんに向けて書いているように感じますか」
乃々花は紙を見た。
安定した仕事。
尊敬される大人。
毎日充実。
迷わず夢を叶えている。
どれも悪い言葉ではない。
でも、そこに自分の不安や迷いは入っていない。
「わかりません」
小さく答えた。
「先生、十年後の自分には、ちゃんとした未来を書いた方がいいですよね」
灯理は少し考えた。
「うん。では、ちゃんとしていない時間があったら、その未来は失敗なのでしょうか」
乃々花は鉛筆を止めた。
ちゃんとしていない時間。
迷っている時間。
立ち止まる時間。
誰かに頼る時間。
それらは、未来の中にあってはいけないものだと思っていた。
午前の授業で、灯理は黒板に大きく書いた。
『十年後の自分に嘘をつかない手紙』
教室がざわつく。
「嘘?」
「人生設計じゃないの?」
「前向きな未来を書くんじゃないんですか」
水原先生も少し驚いたように黒板を見ていた。
灯理は言った。
「前向きであることは大切です。でも、前向きに見える言葉で、自分の不安や余白を消してしまうこともあります。今日は、立派な未来だけでなく、変わるかもしれない未来も含めて書いてみます」
黒板に項目が並んだ。
『叶っていたら嬉しいこと』
『叶っていなくても終わりではないこと』
『変わっていても残したいもの』
『困った時に頼っていい人や場所』
『十年後の自分に聞きたい問い』
『十年後の自分から今の自分へ返してほしい言葉』
生徒たちは、さっきまでのシートとは違う顔をした。
「叶っていなくても終わりではないこと、か」
「頼っていい人って書くの、ちょっと恥ずかしい」
「十年後の自分に質問していいんだ」
乃々花は新しい紙を受け取った。
さっきのシートよりも、余白が多い。
そこに何を書くか、すぐには決まらなかった。
叶っていたら嬉しいこと。
乃々花は少し考えて書いた。
『自分で選んだ仕事をしていたら嬉しい』
でも、すぐに不安になった。
自分で選んだ仕事をしていなかったら?
選べなかったら?
途中で違うと思ったら?
そこで次の欄が目に入る。
『叶っていなくても終わりではないこと』
乃々花は手を止めた。
終わりではないこと。
仕事が変わっていても。
進路が途中で変わっていても。
予定通りに進んでいなくても。
それは終わりではないのか。
乃々花はゆっくり書いた。
『最初に選んだ仕事と違う場所にいても、終わりではない』
書いた瞬間、少し息ができた。
次の欄。
『変わっていても残したいもの』
何だろう。
仕事も、住む場所も、人間関係も変わるかもしれない。
でも、残したいもの。
乃々花は考えた。
人の話を急いで決めつけないこと。
わからないことを、わからないと言えること。
迷っている人を笑わないこと。
それは、今の自分が大切にしたいことだった。
書いた。
『迷っている人を急がせないこと』
書いてから、乃々花は少し驚いた。
自分自身にも、そうしてあげたいと思った。
灯理がそばに来た。
「進んでいますね」
「はい」
「さっきのシートと、書いている時の感じは違いますか」
「違います」
「どう違いますか」
「さっきは、ちゃんとしている人のふりをしていました」
言ってから、乃々花は少し恥ずかしくなった。
でも、灯理は笑わなかった。
「今は?」
「まだ怖いです。でも、少し自分に近いです」
「はい」
「十年後の自分に、嘘をつかないって、難しいですね」
「そうですね」
「でも、嘘じゃない方が、十年後に読んだ時、怒られない気がします」
灯理は微笑んだ。
「十年後の乃々花さんは、きっとよく聞いてくれると思います」
昼休み、乃々花は校舎の中庭に出た。
ベンチに座り、書きかけの手紙を膝に置く。
卒業前の校舎は、どこも少しだけ特別に見える。
何度も通った廊下。
毎日見ていた掲示板。
掃除で使った水道。
昼休みに友だちと座った階段。
ここで過ごした時間も、もうすぐ過去になる。
明里が隣に座った。
「乃々花、白瀬先生の紙、書けてる?」
「少し」
「私、カフェって書いたけど、叶ってなかったら終わりじゃないことって欄で止まった」
「何で?」
「カフェやってなかったら、今の夢が嘘になる気がして」
乃々花は少し考えた。
「でも、カフェの何が好きなの?」
「え?」
「お店を持つこと? コーヒー? 人が集まる場所?」
明里は目を丸くした。
「人が集まる場所、かも。あと、誰かがほっとする場所を作りたい」
「それなら、カフェじゃなくても残るかもしれない」
言ってから、乃々花は自分でも驚いた。
今の言葉は、自分にも言えることだった。
形が変わっても、残るものがある。
仕事が変わっても、残したい姿勢がある。
明里は手紙を覗き込んだ。
「乃々花の、見てもいい?」
「少しだけ」
乃々花は紙を見せた。
『最初に選んだ仕事と違う場所にいても、終わりではない』
明里は静かに読んだ。
「いいね」
「そうかな」
「私も、それ書きたい」
「真似?」
「参考」
二人で少し笑った。
その笑いは、さっき教室で理想の未来を言い合っていた時より、少しだけ軽かった。
午後の授業では、封筒作りが行われた。
十年後の自分へ手紙を入れる封筒。
名前を書き、日付を書き、開封予定の年月を書く。
生徒たちは、シールや色ペンで飾り始めた。
乃々花は封筒の表に、控えめに名前を書いた。
『十年後の乃々花へ』
そして、手紙の続きを書き始めた。
『十年後の私は、ちゃんとしていますか。こう聞こうとしたけれど、やめます。ちゃんとしているかどうかだけで、未来を決めたくないからです。』
鉛筆の音が、紙の上に小さく響く。
『十年後の私は、安定した仕事に就いているかもしれません。そうだったら嬉しいです。でも、違う仕事をしているかもしれません。進路を変えているかもしれません。途中で失敗して、また選び直しているかもしれません。』
乃々花は少し息を吸った。
『それでも、終わりではないと思いたいです。迷っていても、何かを選び直しているなら、そこにも未来はあると思いたいです。』
次の欄。
『困った時に頼っていい人や場所』
乃々花は書いた。
『家族』
『明里』
『水原先生』
『学校の相談室』
『図書館』
『一人で考えたい時の川沿いの道』
頼っていい場所を書くのは、少し照れくさかった。
でも、十年後の自分が本当に困っているなら、これを見てほしいと思った。
自分一人で完璧に立つ未来だけが、立派な未来ではない。
誰かに頼る未来も、ちゃんとしていないわけではない。
次に、
『十年後の自分に聞きたい問い』
乃々花は長く考えた。
幸せですか。
夢は叶いましたか。
後悔していませんか。
どれも聞きたい。
でも、一番聞きたいのは違った。
彼女はゆっくり書いた。
『まだ選び直せていますか』
その一行を見て、胸の奥が少し熱くなった。
十年後の自分が、どんな場所にいるかはわからない。
成功しているかも、失敗しているかもわからない。
でも、まだ選び直せているなら。
自分の気持ちを聞き直し、道を変える勇気を少しでも持っているなら。
それは、悪い未来ではない気がした。
最後の欄。
『十年後の自分から今の自分へ返してほしい言葉』
乃々花は、しばらく何も書けなかった。
十年後の自分は、今の自分に何と言ってくれるだろう。
もっと頑張れ。
ちゃんと選べ。
迷うな。
そうではない言葉がほしかった。
乃々花は書いた。
『迷っていても、書いてくれてありがとう』
書いた瞬間、目の奥が少し熱くなった。
水原先生が教室を回りながら、生徒たちの手紙を見ていた。
乃々花の机の横で足を止める。
「書けましたか」
「はい」
「見せてもらってもいい?」
乃々花は少し迷ったが、頷いた。
水原先生は手紙を静かに読んだ。
途中で、表情が少し変わった。
「私は、前向きな未来を書こうと言いました」
「はい」
「でも、前向きという言葉を、少し狭く使っていたかもしれません」
乃々花は先生を見る。
「迷わない未来、成功している未来、きれいに整った未来。それだけを前向きだと思っていました」
水原先生は手紙を机に戻した。
「でも、あなたの手紙は、とても前向きです」
「これがですか」
「ええ。失敗や迷いを書いているけれど、そこで終わりにしていない。選び直せるかを問いにしている」
先生は微笑んだ。
「正直な未来への問いですね」
乃々花は手紙を見た。
きれいではない。
立派でもない。
でも、嘘は少ない。
少なくとも、さっきのシートよりは、自分の未来に似ている。
授業の終わり、生徒たちは封筒に手紙を入れた。
教室には、少し静かな空気が広がっていた。
最初のような賑やかな未来自慢ではない。
それぞれが、自分の十年後へ何かを渡そうとしている。
明里は封筒を閉じる前に、乃々花に小さく言った。
「私も書いた。カフェじゃなくても、誰かがほっとする場所を作れてますか、って」
「いいね」
「叶ってなかったら終わりじゃないって、ちょっと怖いけど、ちょっと楽」
乃々花は頷いた。
「うん」
自分の封筒を見る。
糊をつける前に、乃々花はもう一度手紙を開いた。
最後に、一行だけ書き足す。
『十年後の私へ。まだ選び直せていますか』
その一行を書いてから、封筒を閉じた。
糊が乾くまで、指でそっと押さえる。
十年後まで、この封筒は開かない。
その間に、自分は変わるだろう。
進路も、夢も、人間関係も、きっと変わる。
でも、この問いだけは、十年後の自分へ届いてほしいと思った。
放課後、封筒は学校の記念箱に入れられた。
木製の箱。
卒業年度とクラス名が書かれている。
生徒たちは一人ずつ封筒を入れていく。
乃々花の番が来た。
箱の中には、たくさんの十年後が重なっている。
華やかな夢。
迷いの手紙。
頼る場所の名前。
問い。
乃々花は自分の封筒をそっと入れた。
蓋が閉じられる。
小さな音がした。
未来が閉じ込められた音ではなく、未来へ預けられた音のようだった。
夕方、乃々花は中庭のベンチに座っていた。
手元には、最初に書いた人生設計シートがある。
『安定した仕事に就いている』
『人に尊敬される大人になっている』
『毎日充実している』
『迷わず夢を叶えている』
悪い言葉ではない。
けれど、そこに迷う自分は入れなかった。
乃々花はその紙を破らなかった。
代わりに、裏面に小さく書いた。
『これは、ちゃんとした未来を書こうとした私の紙。これも、今の私の一部。』
灯理が隣に座った。
「残すんですね」
「はい」
「どうしてですか」
「嘘だったけど、これを書こうとした気持ちも本当だから」
乃々花は紙を畳んだ。
「ちゃんとしたかったんです。失敗したくなかった。十年後の自分に、がっかりされたくなかった」
「はい」
「でも、がっかりしないでほしいからこそ、嘘じゃない手紙も必要だったのかもしれません」
灯理は静かに頷いた。
「十年後の乃々花さんに、二つの紙が届きますね」
「一つは、ちゃんとしたかった私」
「はい」
「もう一つは、迷っても終わりじゃないって言いたかった私」
「どちらも、今の乃々花さんですね」
乃々花は夕方の校庭を見た。
卒業まで、あと少し。
未来はまだ怖い。
でも、怖いままでも、問いを渡すことはできる。
「先生」
「はい」
「十年後の自分が、もし全然違う場所にいたら」
「はい」
「今日の手紙を読んで、笑うかもしれませんね」
「そうかもしれません」
「でも、怒らない気がします」
「どうして?」
「嘘をつかなかったから」
乃々花は小さく笑った。
「迷っていることも、頼りたい場所も、選び直したいことも、ちゃんと入れたから」
灯理は微笑んだ。
「きっと、十年後の乃々花さんは受け取ってくれます」
夜、灯理は総合学習校を出た。
校舎の窓には、卒業前の準備を続ける生徒たちの影が映っている。教室の後ろには、十年後への封筒を収めた木箱が置かれていた。
水原先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、未来への手紙を一緒に見せていただきました」
水原先生は少し反省するように笑った。
「私は、前向きな未来を書かせたいと思っていました」
「大切な願いですね」
「ええ。でも、前向きな未来を、成功している未来や迷わない未来に狭めていたのかもしれません。生徒たちは、こちらが思うよりずっと複雑な未来を抱えているのですね」
灯理は頷いた。
「迷いや変更も、未来の一部ですね」
「これからは、人生設計シートに余白を入れます。叶っていなくても終わりではないこと、頼っていい場所、十年後の自分への問い」
水原先生は校舎を振り返った。
「予定表ではなく、未来への問いの手紙として」
春を待つ夜風が、校門の桜の枝を小さく揺らした。
まだ花は咲いていない。
けれど、枝の先には小さな芽があった。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、新しい依頼状が一通入っている。
けれど、まだ開かなかった。
校舎の中で、木箱は静かに眠っている。
十年分の未来を抱えながら。
その中には、立派な夢も、明るい目標も、迷いも、不安も、頼る場所の名前も、選び直しの問いも入っている。
未来を描くことは、嘘のない予定表を完成させることではない。
変わるかもしれない自分へ、今の自分から問いを渡すことなのかもしれない。
十年後の自分へ。
まだ選び直せていますか。
その問いが、いつか封筒の中から静かに開かれる日を思いながら、灯理は夜の道をゆっくり歩いていった。




