第10章 第2話:夢の授業――なりたいものが変わった少年
人工芝のグラウンドは、朝の光を細かく弾いていた。
白いラインがまっすぐに引かれ、ゴールネットには夜露が少し残っている。校舎の影がまだ半分ほどピッチにかかり、ボールを蹴る音だけが、早い時間の空気に乾いて響いていた。
スポーツ推薦を目指す生徒が多いこの学校では、朝練は日常の一部だった。
走る足音。
コーチの笛。
スパイクが芝を噛む音。
短く飛ぶ掛け声。
その中で、翔はピッチの外に立っていた。
右膝にはサポーターを巻いている。
大きな怪我ではない。
でも、無理をすれば長引くと言われ、今は練習を制限されていた。
翔は幼い頃からプロサッカー選手を目指してきた。
家の玄関には、小学校の大会でもらったトロフィーが並んでいる。部屋には憧れの選手のポスターが貼ってある。小さな頃に初めて買ってもらったサッカーボールも、今でも棚の上に置いてある。
周りの人たちは、翔を見るといつも言った。
「プロを目指してるんだよな」
「翔ならいける」
「怪我を治したら、また前みたいに走れる」
その言葉に、翔はずっと頷いてきた。
プロになる。
それ以外の未来は、考えたことがなかった。
考えないようにしてきたのかもしれない。
「翔先輩、これで合ってますか?」
一年生の颯太が、ドリブル練習の列から外れて駆け寄ってきた。
翔は無意識にその足元を見た。
「今、体が先に倒れてる」
「え?」
「ボールを触る前に上半身が前に行きすぎ。相手がいたら、そこで読まれる」
「どうすればいいですか」
「一歩目を小さくして、膝をもう少し柔らかく。ボールを押し出すんじゃなくて、足元に置いたまま次へ行く感じ」
翔は自分の体で軽く動きを示した。
右膝に痛みが出ない範囲で、ゆっくり。
「こうですか?」
颯太が真似る。
「近い。でも、今度は顔が下がってる。相手を見る」
「難しいです」
「最初はみんなそう」
翔は颯太の動きを見ながら、少しだけ楽しくなっている自分に気づいた。
颯太の足の運びが少し変わる。
ボールの置き方が変わる。
さっきまで引っかかっていた動きが、ほんの少し滑らかになる。
「あ、今のいい」
翔が言うと、颯太の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「うん。今の感じ、覚えとけ」
「はい!」
颯太は列へ戻っていった。
翔はその背中を見送った。
胸の中に、試合でゴールを決めた時とは違う熱が残っていた。
誰かの動きが変わる瞬間。
うまくいかなくて曇っていた顔が、少し晴れる瞬間。
最近、それを見るのが嫌ではなかった。
むしろ、練習に参加できない時間、翔は後輩のフォームを見たり、練習メニューを考えたりすることが増えていた。
最初は、自分が動けない悔しさをごまかすためだった。
でも、今は少し違う。
選手として走ることとは別に、人が上達する過程を見ることに、引っかかるものがある。
それが怖かった。
プロ選手になりたい。
そう言い続けてきた。
家族も、コーチも、友人も、後輩も、その夢を知っている。
もし今、自分が別のことにも惹かれていると言ったら。
選手としての夢が揺らいでいると言ったら。
それは、今までの自分を裏切ることになるのではないか。
朝練の終わり、久我コーチがグラウンドに笛を鳴らした。
「集合!」
生徒たちが集まる。
久我コーチは厳しいが、選手を見る目は確かだった。翔のことも、ずっと期待してくれている。
「翔」
「はい」
「膝の調子はどうだ」
「だいぶ良いです」
「焦るな。ただ、戻れる準備はしておけ。復帰したら、また前みたいにチームを引っ張ってもらう」
前みたいに。
翔は頷いた。
「はい」
でも、その言葉が胸に重く残った。
前みたいに。
本当に、自分は前と同じ場所へ戻りたいのだろうか。
戻りたい。
そう思う。
ピッチを走りたい。
試合に出たい。
ゴールを決めたい。
でも、それだけではなくなっている。
それを認めるのが怖い。
グラウンドの入口に、見慣れない先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
朝の風に少し髪を揺らしながら、彼女は練習を静かに見ていた。
「白瀬先生」
久我コーチが声をかける。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は、皆さんの進路学習に少し混ぜていただきます」
翔は灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。
昨日、学校で紹介されていた。
灯理の視線は、ボールを追う選手たちではなく、さっきまで後輩の動きを見ていた翔にも向けられていた。
午前の進路学習は、視聴覚室で行われた。
壁には、有名選手や卒業生の写真が飾られている。
プロチームに進んだ先輩。
大学で競技を続ける先輩。
トレーナー、理学療法士、スポーツ用品メーカー、指導者、教員。
スポーツに関わる進路は、選手だけではない。
頭ではわかっている。
けれど、翔にとってそれは、自分以外の誰かの選択だった。
灯理は黒板に大きく書いた。
『夢の履歴書』
生徒たちがざわめく。
「履歴書?」
「夢にもあるんですか」
「将来の夢を書くやつ?」
灯理は頷いた。
「今日は、今の夢だけではなく、その夢がどこから来たのか、途中で何が変わったのかを見てみます」
黒板に項目が並ぶ。
『いつから持っていた夢か』
『誰の影響か』
『その夢のどこに惹かれたか』
『途中で変わったこと』
『まだ残っている部分』
『変わった理由』
『夢の中にある本当の関心』
翔はプリントを見た。
夢。
プロサッカー選手。
それだけなら、すぐに書ける。
でも、その夢のどこに惹かれたか。
まだ残っている部分。
夢の中にある本当の関心。
その欄で手が止まった。
いつから持っていた夢か。
小学校一年生。
父に連れて行かれた試合で、プロ選手のゴールを見た時。
誰の影響か。
父。
テレビで見た選手。
小学校のコーチ。
その夢のどこに惹かれたか。
翔は鉛筆を握ったまま考えた。
ゴールを決めること。
歓声を浴びること。
試合に勝つこと。
チームの中心になること。
それは確かにある。
でも、それだけではなかった。
身体の使い方を工夫すること。
昨日できなかった動きが、今日少しできるようになること。
仲間と連動して、ボールが思い通りに動く瞬間。
誰かのプレーが変わって、チーム全体が変わること。
翔はゆっくり書いた。
『身体の使い方が変わる瞬間が好き』
『人が上達するところを見るのが好き』
『チームの動きが変わるのが面白い』
書いてから、胸がざわついた。
これは、プロ選手の夢の中に入れていいのだろうか。
それとも、別の夢なのだろうか。
灯理が近くに来た。
「書けていますね」
「はい」
「少し苦しそうにも見えます」
翔はプリントを見たまま言った。
「先生、夢を変えるのは、今までの自分を裏切ることですか」
視聴覚室の音が少し遠くなった。
灯理は、翔のプリントに書かれた言葉を見た。
プロサッカー選手。
身体の使い方。
上達する瞬間。
チームの動き。
「うん。では、変わった夢の中に、前の夢から残っているものはありませんか」
翔は答えられなかった。
前の夢から残っているもの。
もし選手ではなく、指導やトレーニングに関わる道を考えるとしても、そこに残るもの。
身体。
上達。
チーム。
サッカー。
確かに、全部が消えるわけではない。
でも、夢が変わるという言葉は、まだ怖かった。
授業の中盤、生徒たちは「夢の履歴書」を小さなグループで共有した。
ある生徒は、幼い頃は選手になりたかったが、今はスポーツ栄養に関心があると言った。
別の生徒は、競技を続けたいが、怪我を経験して理学療法にも興味が出たと言った。
また別の生徒は、最初は親に勧められて始めた競技だったが、今は仲間と大会を作る側にも興味があると言った。
翔は少し驚いた。
夢が揺らいでいるのは、自分だけではなかった。
みんな、口に出していなかっただけなのかもしれない。
翔の番が来た。
彼は少し迷ってから、プリントを見た。
「僕は、小さい頃からプロサッカー選手を目指してきました」
それはいつもの言葉だった。
言い慣れている。
でも、今日はその続きがあった。
「今も、試合に出たい気持ちはあります。復帰もしたいです」
久我コーチが後ろで聞いている。
翔は少し声を落とした。
「でも、怪我で練習を休んでいる間に、後輩のフォームを見たり、練習メニューを考えたりするのが、嫌じゃないと思いました」
嫌じゃない、では足りない気がした。
翔は言い直した。
「面白いと思いました」
視聴覚室が静かになる。
「人が少し上達する瞬間を見るのが、楽しいです。身体の使い方を考えるのも好きです」
言葉にするほど、自分の中の不安も大きくなる。
「でも、そう思うと、プロになるって言い続けてきた自分を裏切っているみたいで」
そこまで言って、翔は言葉を止めた。
久我コーチの顔を見るのが怖かった。
灯理が黒板に、翔の言葉を整理して書いた。
『選手として走りたい』
『身体の使い方を考えたい』
『人が上達する瞬間を見たい』
『チームが変わることに関わりたい』
「これは、互いに必ず打ち消し合うものでしょうか」
灯理が尋ねた。
翔は黒板を見た。
一つを選べば、他が消える。
ずっとそう思っていた。
でも、並べられると違って見える。
選手としての夢。
指導への関心。
スポーツ科学。
トレーニング。
それらは、サッカーから離れるものではなく、サッカーの中にある別の入口かもしれない。
午後、グラウンドで実習が行われた。
テーマは「上達する瞬間の観察」。
灯理は、生徒たちに選手役と観察役を交代で行わせた。
ただうまい、下手を見るのではない。
動きが変わる前に何があったか。
どんな声かけで変わったか。
身体のどこが変わったか。
本人は何に気づいたか。
翔は観察役になった。
颯太がドリブル練習をする。
朝より少し良くなっているが、まだ切り返しで体が流れる。
翔はノートに書いた。
『切り返し前に上半身が先に倒れる』
『足元のボールが離れる』
『視線が下がる』
そして、声をかける。
「颯太、右に行く前に、左足の置き場所を少し変えてみて」
「どのくらいですか」
「靴半分くらい」
颯太が試す。
一回目は失敗。
二回目も少し大きい。
三回目、ボールが足元から離れず、切り返しが鋭くなった。
「あ」
颯太が声を上げる。
「今の、できたかも」
「今の」
翔も思わず声が出た。
「今の覚えて。左足の置き場所」
「はい!」
翔はノートに書いた。
『靴半分で変わった』
『本人が気づいた瞬間、顔が上がった』
その瞬間、胸が熱くなった。
自分がゴールを決めた時とは違う。
でも、確かに嬉しい。
人が上達する瞬間には、音があるような気がした。
体がわかる音。
表情が変わる音。
その人の中で、何かがつながる音。
灯理が隣に立った。
「今、何を見ていましたか」
「左足の置き場所です」
「それだけですか」
翔は少し考えた。
「颯太が、自分でわかった顔をしたところ」
「はい」
「そこが一番、面白かったです」
灯理は頷いた。
「翔くんの関心が、よく出ていますね」
実習後、久我コーチが翔を呼んだ。
グラウンドの端、ベンチのそば。
夕方の光がネット越しに差し込んでいる。
「翔」
「はい」
翔は少し身構えた。
怒られるかもしれない。
がっかりされるかもしれない。
プロを目指す気持ちが弱くなったと思われるかもしれない。
久我コーチはしばらく黙っていた。
それから言った。
「驚いた」
翔の胸が固くなる。
「すみません」
「謝るな。驚いたのは、悪い意味じゃない」
久我コーチはグラウンドを見る。
「お前が後輩をよく見ているのは知っていた。でも、今日のノートを見て、思った以上に細かく見ているとわかった」
翔は黙っていた。
「復帰したらまた前みたいに、と俺は言ったな」
「はい」
「でも、前と同じでなくても、続けられるものがあるのかもしれない」
翔は顔を上げた。
久我コーチは少し不器用に続けた。
「選手として戻る道もある。トレーニングや指導を学ぶ道もある。両方を見ながら考える時期があってもいい」
「裏切りじゃないですか」
思わず聞いていた。
「何がだ」
「プロになりたいって、ずっと言ってきたのに」
久我コーチは少し笑った。
「お前がサッカーをやめると言ったら、寂しいとは思う」
翔の胸が小さく痛む。
「でも、今日見ていたお前も、サッカーから逃げているようには見えなかった」
久我コーチは颯太の方を見た。
「むしろ、かなり深く見ていた」
翔は言葉を失った。
「夢の形が一つとは限らない。俺も、そう見られていなかったかもしれない」
久我コーチは翔の肩を軽く叩いた。
「膝を治せ。選手として戻る準備もする。同時に、上達の記録も続けろ」
「はい」
「それを持って、進路相談をしよう」
翔は深く息を吸った。
胸の重さが、全部消えたわけではない。
でも、少しだけ動かせる重さになった。
放課後、翔は部室に残った。
ロッカーの上には、幼い頃から使っていた古いサッカーボールが置いてある。
小学校の時、初めて父に買ってもらったものだった。
表面は擦り切れ、白い部分は灰色になっている。
そのボールを見ると、プロになりたいと初めて思った日のことを思い出す。
スタジアムの歓声。
父の大きな手。
ゴールネットが揺れた瞬間。
胸が熱くなったこと。
あの気持ちは嘘ではない。
今も、消えていない。
翔は古いボールの横に、新しいノートを置いた。
表紙にペンで書く。
『上達する瞬間の記録』
一ページ目を開く。
『颯太』
『切り返し』
『左足の置き場所』
『靴半分』
『顔が上がった瞬間』
書きながら、翔は気づいた。
これは、プロ選手になる夢を消すノートではない。
自分がサッカーの何を見てきたのか、何に惹かれてきたのかを確かめるノートだ。
その先が選手なのか、指導なのか、スポーツ科学なのか、まだわからない。
でも、前の夢から残っているものはここにある。
身体が変わること。
人が上達すること。
チームが変わること。
サッカーに関わり続けたいこと。
灯理が部室の入口に立っていた。
「いいタイトルですね」
翔は少し照れた。
「まだ、ただのメモです」
「はい。でも、翔くんの関心が入っています」
「先生」
「はい」
「夢が変わるのは、やっぱり怖いです」
「はい」
「応援してくれた人に、申し訳ない気もします」
「うん」
「でも、全部なくなるわけじゃないって、少し思いました」
翔は古いボールを見る。
「このボールを蹴っていた時の自分が見つけたものが、別の形で残っているなら」
「はい」
「それは、裏切りじゃなくて、続きなのかもしれません」
灯理は静かに頷いた。
「翔くん自身が見つけた言葉ですね」
夕方、灯理は学校を出た。
グラウンドには、まだ数人の生徒が残っている。夕陽に照らされた人工芝の上で、颯太が何度も切り返しの練習をしていた。
少し離れた場所で、翔がノートを手にその動きを見ている。
時々、膝に負担をかけないよう気をつけながら、短く動きを示す。
久我コーチが校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、グラウンドで多くの学びを見せていただきました」
久我コーチは苦笑した。
「私は、翔を選手として見ていました」
「期待されていたのですね」
「ええ。もちろん今も期待しています。だが、選手としての翔だけを見すぎていたかもしれません」
彼はグラウンドを振り返った。
「あいつは、後輩の動きの変化をよく見ている。あれは才能です」
「今日、翔くん自身も気づいていましたね」
「夢が変わることを、諦めと呼ぶのは簡単です。でも、残っているものを見れば、そうではない場合もあるのですね」
灯理は頷いた。
「夢の中にあった関心は、形を変えて続くことがあります」
「これからは、選手としての進路だけでなく、スポーツに関わる複数の道を一緒に見せます。トレーニング、指導、分析、医療。もちろん、競技復帰も含めて」
久我コーチの声は、いつもより少し柔らかかった。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、地域企業と連携する職業体験プログラムの学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
グラウンドの向こうで、ボールが転がる。
翔が拾い、颯太へ投げ返す。
その手つきは、選手のものでもあり、誰かの上達を支える人のものでもあった。
夢は、いつも一つの形で続くとは限らない。
変わることもある。
広がることもある。
けれど、その奥に残っている熱を見つけられたなら、過去の自分が見つけたものは、別の道でも生きていく。
灯理は夕暮れのグラウンドを振り返り、ゆっくりと校門を出ていった。




