表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/204

第10章 第1話:進路の授業――白紙の希望調査票


 高校の朝は、紙の擦れる音で少し落ち着かない。


 教室のあちこちで、進路希望調査票が広げられていた。誰かが鉛筆で欄を埋め、誰かが消しゴムで文字を消し、誰かが友人の紙を覗き込んで笑っている。


「第一希望、書いた?」


「一応、大学」


「俺は専門かな」


「家の仕事、継ぐかも」


「留学って書いてみた」


 言葉が飛び交うたび、湊は机の上の白い紙を見下ろした。


 進路希望調査票。


 氏名欄だけは書いてある。


 それ以外は空白だった。


 紙には、何度も折った跡がついている。鞄にしまっては出し、またしまっては出し、昨日の夜も机の前で何度も眺めた。


 けれど、何も書けなかった。


 湊は成績が悪いわけではない。


 得意不得意はあるが、どの教科も大きく崩れてはいない。先生からはよく「選択肢が多い」と言われる。


 それが苦しかった。


 選択肢が多い。


 何でもできそう。


 まだ決めなくても大丈夫。


 その言葉は、湊にとって自由ではなかった。


 むしろ、どこへも行けない白い霧のようだった。


 何でも選べるなら、何を選べばいいのか。


 一つ選んだら、他の道を捨てることになるのではないか。


 間違えたらどうするのか。


 紙に書いた瞬間、未来がその方向へ固定されてしまう気がした。


「湊、まだ白紙?」


 前の席の怜が振り返った。


「うん」


「湊なら、大学でいいんじゃない?」


「何学部?」


「知らないけど。何でもいけそうじゃん」


 怜は悪気なく言った。


 湊は曖昧に笑った。


「何でもいけそう」は、「何にも決められない」と似ている。


 少なくとも、湊の中ではそうだった。


 教室の扉が開き、担任の相沢先生が入ってきた。


 手には回収用の封筒がある。


「おはようございます。今日は進路希望調査票の提出日です。まだ迷っている人もいると思いますが、現時点での希望を書いてください」


 ざわめきが少し大きくなる。


 湊の指先が、白紙の端を押さえた。


 現時点。


 希望。


 その言葉が、遠い。


 相沢先生は机の間を歩き、提出された紙を集めていく。


 湊の机の前で足が止まった。


「湊」


「はい」


「まだ書けていない?」


「すみません」


「謝らなくていいけど、今日中には出してほしい。何でもいいから、今考えていることを書いてみよう」


 何でもいい。


 それがまた難しかった。


 何でもいいなら、何を書けばいいのかわからない。


「湊は成績も安定しているし、選択肢が多い。だからこそ、早めに考え始めた方がいい」


「はい」


「一緒に考えるから」


 相沢先生は優しく言った。


 けれど、湊の手は動かなかった。


 その時、教室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 朝の光を背に、その人は教室の中をゆっくり見渡した。机の上に並ぶ進路希望調査票、すでに書き込まれた紙、まだ伏せられている紙、そして湊の白紙。


「白瀬先生」


 相沢先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は進路の授業に少し混ぜていただきます」


 湊は灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、さまざまな授業をしている先生。


 昨日、相沢先生から紹介されていた。


 灯理は湊の机の横で立ち止まった。


「白紙なんですね」


 湊は少し身構えた。


「はい」


「書きたくないですか」


「書きたくないというか」


「はい」


「書いたら、決まる気がします」


 言葉にしてしまうと、胸の中にあったものが少し形になった。


 湊は続けた。


「先生、ここに書いたら、もうその道に行かなきゃいけない気がします」


 灯理は白紙を見つめた。


 責めるでもなく、急がせるでもなく。


「うん。では、その紙は未来を閉じる鍵でしょうか。それとも、調べに行くための仮の地図でしょうか」


 湊は顔を上げた。


「仮の地図?」


「はい。まだ道を決めるためではなく、まず歩いて調べる方向を描く紙かもしれません」


 湊は調査票を見た。


 白い紙。


 提出しなければならないもの。


 決めなければならないもの。


 そう思っていた。


 でも、仮の地図。


 そう呼ばれると、少しだけ紙の重さが変わった。


 午前の進路授業で、灯理は黒板に大きく書いた。


『関心の仮置き』


 生徒たちは首を傾げた。


「進路希望じゃないの?」


「仮置きって何?」


「提出日なのに?」


 相沢先生も、少し驚いたように黒板を見ていた。


 灯理は言った。


「進路名をすぐに書ける人は、そのまま書いて大丈夫です。今日は、まだ書けない人も、書いた人も、自分の関心を一度見てみます」


 黒板に項目が並ぶ。


『気になること』

『嫌ではないこと』

『もう少し知りたいこと』

『続けても苦ではないこと』

『人から頼まれやすいこと』

『まだ選べない理由』

『選ぶと失いそうで怖いもの』


 湊はノートを開いた。


 進路名ではない。


 大学名でも、職業名でも、学部名でもない。


 気になること。


 それなら、少し書けるかもしれない。


 けれど、最初の一行はなかなか出てこなかった。


 周りでは生徒たちが少しずつ書き始めている。


「絵を描くのは嫌じゃない」


「人と話すのは疲れるけど、相談されることは多い」


「機械を分解するのが好き」


「小さい子と遊ぶのは苦じゃない」


「お金の計算がわりと好き」


 湊は鉛筆を持ったまま、窓の外を見た。


 校門の前の道。


 朝、駅から学校へ来る生徒たちが通る道。


 曲がり角の向こうには、小さな商店街がある。


 昔からあるパン屋。


 新しくできたカフェ。


 閉店した文具店。


 バス停。


 狭い歩道。


 雨の日に水が溜まる交差点。


 湊は、道を見るのが好きだった。


 地図を見るのも好きだ。


 知らない場所へ行く時は、目的地だけでなく、周りの道や川や駅の位置まで調べる。


 なぜこの道は曲がっているのか。


 どうしてこの場所に商店街ができたのか。


 駅前と旧道が少し離れているのはなぜか。


 そういうことを考えるのは、苦ではなかった。


 湊はノートに書いた。


『町の地図を見るのが好き』


 次に、


『知らない場所の成り立ちを調べるのが好き』


 そして、


『道案内は苦ではない』


 書いた瞬間、昨日のことを思い出した。


 放課後、駅前で一年生が迷っていた。


 バス停の場所がわからないと言うので、湊は地図アプリを見ずに説明した。


「この道をまっすぐ行くと、右に古い時計屋があるから、その角を曲がって。バス停は二つあるけど、学校方面なら手前じゃなくて奥」


 相手は少し驚いていた。


「詳しいですね」


 そう言われて、湊は「たまたま知ってるだけ」と返した。


 たまたまではない。


 湊は普段から、道や建物の位置をよく見ている。


 人がどこで迷いやすいかも、何となくわかる。


 灯理が湊のノートを覗き込んだ。


「いくつか出てきましたね」


「でも、進路じゃないです」


「はい。まだ進路名ではありません」


「これでいいんですか」


「関心の仮置きですから」


 灯理は湊の書いた言葉を見た。


「町の地図。場所の成り立ち。道案内」


「はい」


「この三つをつなぐと、どんな分野が見えてきそうですか」


 湊は困った。


「地理、とか」


「はい」


「交通……とか」


「うん」


「観光も、少し関係あるかもしれません。知らない場所を案内するなら」


「はい」


「あと、町をどう作るか、みたいな」


「都市計画や地域デザインですね」


 相沢先生が横から言った。


 湊は驚いた。


「地域デザイン」


「町の使い方や、人の移動、暮らしやすさを考える分野です」


 灯理が黒板の端に書いていく。


『地理』

『交通』

『観光』

『都市計画』

『地域デザイン』


 湊はその文字を見た。


 知らない言葉もある。


 でも、遠すぎる言葉ではなかった。


 自分の中の小さな関心から、いくつもの方向へ線が伸びている。


 まだ一本に決めなくてもいい。


 それらを調べに行くことなら、できるかもしれない。


 授業の中盤、生徒たちは自分の「関心の仮置き」をグループで共有した。


 湊は少し緊張した。


 進路名が言えないのは、恥ずかしい気がした。


 でも、灯理は最初に言った。


「今日は、決まっていないことも共有していいです」


 湊の番が来た。


「僕は、まだ進路は決まってません」


 そう言うと、胸が少し重くなった。


 でも、続けた。


「気になることは、町の地図を見ることと、知らない場所の成り立ちを調べることです。あと、道案内は嫌ではないです」


 怜が目を丸くした。


「ああ、湊って道詳しいよな」


「そう?」


「前に校外学習で、先生より先に近道見つけてたじゃん」


 別の生徒も言った。


「駅前のバス停、湊に聞いたらだいたいわかる」


「地図アプリみたい」


「人間地図」


 少し笑いが起きた。


 でも、馬鹿にする笑いではなかった。


 湊は戸惑いながらも、少し頬が緩んだ。


 自分では当たり前だと思っていたことを、周りは覚えていた。


 灯理は尋ねた。


「湊くんは、道案内をする時、何を見ていますか」


「何を?」


「相手に説明する時です」


 湊は少し考えた。


「その人が、何を目印にできるか」


「はい」


「地図を読める人なら通りの名前でいいけど、初めて来た人なら、建物とか、色とか、信号の数とか」


「うん」


「あと、間違えやすい場所を先に言います。手前にもバス停があるけど、そっちじゃないよ、とか」


 相沢先生が感心したように言った。


「かなり具体的ですね」


 湊は少し恥ずかしくなった。


「普通です」


「普通かどうかは別として、湊くんが見ていることですね」


 灯理は言った。


「人がどう迷うかを想像して、道を説明している」


 湊は黙った。


 そんなふうに言われると、自分の小さな癖が少し違って見えた。


 ただ道を知っているだけではない。


 誰かが迷う場所を考えている。


 人の移動を見ている。


 町の形と、人の困りごとをつなげている。


 午後の授業では、「選べない理由」について書く時間があった。


 湊は、ここでまた手が止まった。


 選べない理由。


 ありすぎる。


 間違えるのが怖い。


 一つ選んだら、他を失いそう。


 親にがっかりされるかもしれない。


 先生に中途半端だと思われるかもしれない。


 将来、自分で選んだ道を後悔するかもしれない。


 湊はカードに書いた。


『一つ選ぶと、他の道を捨てる気がする』


 もう一枚。


『書いたら、その道に行かなきゃいけない気がする』


 さらに一枚。


『間違えた時、戻れない気がする』


 書いているうちに、胸の奥が少し苦しくなった。


 でも、白紙のままよりは、苦しさの形が見えた。


 灯理はそのカードを見て、静かに言った。


「未来を閉じる鍵のように見えていたのですね」


「はい」


「では、今書く進路希望は、未来を閉じる鍵でしょうか。それとも、調べに行くための仮の地図でしょうか」


 湊は黒板を見た。


 地理。


 交通。


 観光。


 都市計画。


 地域デザイン。


 どれも、まだ知らない。


 知らないから決められない。


 でも、知らないなら、調べに行くことはできる。


 仮の地図に、いくつか印をつけるように。


「仮の地図なら」


 湊はゆっくり言った。


「書けるかもしれません」


 相沢先生が、湊の隣に座った。


「湊」


「はい」


「私は、早く決めよう、と言っていたかもしれない」


「いえ」


「提出日だから必要なことではある。でも、空欄を未提出としてしか見ていなかった。そこに、選ぶ怖さがあるとは、あまり聞けていなかった」


 相沢先生は湊のカードを見た。


「一緒に調べ始めよう」


 その言葉は、「早く決めよう」よりずっと呼吸しやすかった。


 放課後、湊は進路希望調査票を広げた。


 教室には、まだ数人の生徒が残っている。


 夕方の光が窓から入り、机の上の白い紙を薄く染めていた。


 湊は深く息を吸った。


 第一希望。


 その欄に、いきなり大学名や職業名を書く必要はない。


 相沢先生が、欄外に補足を書いてもいいと言ってくれた。


 湊は鉛筆を握った。


『地域や道、人の移動に関わる分野を調べたい』


 少し迷ってから、下に小さく書いた。


『地理・交通・都市計画・地域デザインなど』


 書けた。


 未来が固定された感じは、まだ少しある。


 でも、白紙の時よりも怖くなかった。


 これは決定ではない。


 調べに行くための印。


 仮の地図。


 湊は調査票の端に、小さく書き足した。


『まだ決定ではない。けれど、ここから調べに行く』


 灯理が教室の後ろから歩いてきた。


「書けましたね」


「はい」


「今、紙はどんなものに見えますか」


 湊は少し考えた。


「まだ怖いです」


「はい」


「でも、鍵というより、地図に近いです」


 灯理は微笑んだ。


「どこへ調べに行きたいですか」


「まず、地域デザインが何をする分野なのか知りたいです。あと、交通の仕事も」


「はい」


「それから、駅前の道がどうして今の形になったのか、調べたい」


「とても良い入口ですね」


 湊は自分の書いた調査票を見た。


 白紙ではない。


 でも、完成でもない。


 未完成の地図。


 だからこそ、持って歩けるのかもしれない。


 翌日、相沢先生は進路資料室に新しい棚を作った。


 そこには、大学案内や専門学校案内だけでなく、分野ごとの資料が並べられた。


『地域』

『交通』

『医療』

『福祉』

『情報』

『芸術』

『環境』

『教育』

『ものづくり』

『まだ決められない人のための調べ方』


 最後の棚を見て、生徒たちは少し笑った。


 でも何人かは、そこから資料を取った。


 湊も一冊手に取った。


『都市と暮らしを考える仕事』


 ページを開くと、道路、広場、駅、商店街、子どもの通学路、高齢者の移動について書かれていた。


 知らない言葉が多い。


 でも、読むのは嫌ではなかった。


 昼休み、怜が湊の机に来た。


「なあ、湊」


「何?」


「地域デザインって、何?」


「まだ知らない」


「知らないのに書いたの?」


「調べるために書いた」


 怜は少し笑った。


「それ、ありなんだ」


「ありらしい」


 湊も少し笑った。


「俺も、何となく大学って書いたけど、もう少し分野で見てみようかな」


「相沢先生に聞けば、資料あるよ」


「案内して」


「進路資料室?」


「うん。俺、あそこ迷う」


 湊は立ち上がった。


 進路資料室への道は簡単だ。


 でも、怜には少しわかりにくいかもしれない。


「こっち。階段を下りて、職員室の前を通らない方が近い」


「やっぱ詳しいな」


 湊は少しだけ笑った。


 二人で廊下を歩く。


 曲がり角。


 掲示板。


 渡り廊下。


 進路資料室。


 いつもの校舎の中にも、まだ知らない道がある。


 資料室に着くと、相沢先生が中で資料を整理していた。


「来ましたね」


「怜が迷うので」


「迷ってないし」


 相沢先生は笑った。


「じゃあ、二人ともここから調べ始めましょう」


 湊は棚から地域デザインの資料をもう一冊取った。


 その横に、交通計画の薄い冊子もあった。


 まだ決めたわけではない。


 でも、調べたい方向は少し見えた。


 夕方、灯理は高校を出た。


 校舎の窓からは、進路資料室の明かりが見える。中では、湊と怜が資料を広げ、相沢先生が地図を出して説明していた。


 校門まで見送りに来た相沢先生は、少しほっとした表情をしていた。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、進路の地図を一緒に見せていただきました」


 相沢先生は手元の調査票の束を見た。


「進路希望調査は、決めさせるための紙だと思っていました」


「必要な役割ですね」


「ええ。けれど、最初から決められる生徒ばかりではない。空欄の中には、何も考えていないのではなく、選ぶ怖さや、まだ言葉になっていない関心があるのですね」


 彼女は校舎を振り返った。


「これからは、希望調査の前に『関心の仮置き』をやります。決定ではなく、探索の入口として」


「生徒たちは、少し書きやすくなると思います」


「湊の紙も、提出物としてだけでなく、これから一緒に調べる地図として扱います」


 夕方の空は、薄い紫色に変わっていた。


 校門の前の道を、生徒たちがそれぞれの方向へ帰っていく。


 駅へ向かう道。


 バス停へ向かう道。


 自転車置き場へ向かう道。


 誰かと並んで歩く道。


 一人で考えながら歩く道。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、スポーツ推薦を目指す生徒が多い学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 校舎の窓の向こうで、湊が地図を広げている。


 そこには、まだ知らない線がたくさんあった。


 進路も、同じなのかもしれない。


 最初から正しい一本を選ぶのではなく、今の自分が気になる場所に印をつけ、歩きながら確かめていく。


 白紙だった紙に、小さな印がついた。


 そこから、湊の未来は少しずつ地図になっていく。


 灯理は暮れ始めた道を、ゆっくりと歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ