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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第9章 第5話:自己肯定感の授業――褒め言葉を信じられない少女


 総合学習校の朝は、面談表の白さから始まった。


 職員室前の掲示板には、進路面談の日程が貼り出されている。廊下を通る生徒たちは、立ち止まって自分の名前を探し、友だちと時間を確認し合っていた。


 美桜は、その掲示板の前で少しだけ足を止めた。


 自分の名前は、明日の放課後の欄にあった。


『佐倉美桜 十六時二十分』


 進路面談。


 その四文字を見ただけで、胸の奥が少し重くなる。


 進路希望調査の紙は、鞄の中に入っている。


 まだ空欄のままだ。


 やりたいこと。


 興味のある分野。


 自分の強み。


 どれも書けなかった。


 何もないわけではない。


 気になる仕事はある。


 福祉、図書館、相談、子どもに関わる仕事。


 誰かの小さな困りごとに気づいて、少し支えるような仕事に惹かれる。


 でも、それを書いた瞬間に、期待される気がした。


 あなたなら向いている。


 美桜ならできる。


 そう言われるのが怖かった。


 できなかった時に、やっぱり自分には無理だったと証明されるようで。


「美桜、おはよう」


 友人の菜月が手を振った。


「おはよう」


 美桜は笑って返す。


「昨日の委員会、助かったよ。返却棚、全部整えてくれたんでしょ」


「たまたま時間があっただけ」


「でも、誰も気づいてなかったところまでやってくれたじゃん。美桜って本当にしっかりしてるよね」


 しっかりしている。


 その言葉が、美桜の胸に落ちる前に、すぐ跳ね返った。


「そんなことないよ」


「あるよ」


「たまたまだって」


 美桜は笑ってごまかした。


 菜月は少し不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は言わなかった。


 教室に入ると、担任の遠野先生が進路希望調査の回収準備をしていた。


 遠野先生は、生徒の話をよく聞いてくれる教師だった。美桜のことも、いつも気にかけてくれる。


「佐倉さん」


「はい」


「進路希望調査、今日の帰りまでで大丈夫です。まだ迷っているなら、面談で一緒に考えましょう」


「すみません」


「謝らなくていいですよ」


 遠野先生は優しく言った。


「あなたはいつも周りをよく見ています。焦らなくても、自分に合う道を見つけられると思います」


 美桜は小さく頷いた。


 周りをよく見ている。


 それも、何度か言われたことがある。


 優しい。


 気が利く。


 真面目。


 頑張っている。


 そのたびに、美桜は胸の中で思う。


 違う。


 そんなに良い人ではない。


 本当は面倒だと思うこともある。


 誰かを手伝う時も、断るのが怖いだけかもしれない。


 返却棚を整えたのも、散らかったままなのが気になっただけ。


 褒められるほどのことではない。


 褒め言葉は、美桜の中に入ってこない。


 むしろ、褒められるほど苦しくなる。


 褒められている自分と、自分が知っている自分が、離れていく気がするから。


 ホームルームの後、教室の扉が開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 朝の廊下の光を背に、その人は教室全体を見渡し、机の上に置かれた進路希望調査の紙に目を留めた。


「白瀬先生」


 遠野先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は総合学習の時間に少し混ぜていただきます」


 美桜は灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、遠野先生から紹介されていた。


 灯理は、生徒たちの机をゆっくり見て回った。


 進路希望調査に何か書いている生徒。


 友人と相談している生徒。


 白紙のまま伏せている生徒。


 美桜の紙は、白紙のまま机の端に置かれていた。


 灯理はその紙を見てから、美桜の方を向いた。


「まだ書きにくいですか」


 美桜は少し慌てた。


「はい。でも、考えてはいます」


「はい」


「何も考えていないわけではないです」


「うん」


 灯理は責めるように見なかった。


「褒められることはありますか」


 急な質問に、美桜は戸惑った。


「え?」


「周りの人から、こういうところが良いね、と言われること」


「ありますけど」


「その言葉は、受け取れますか」


 美桜は少し黙った。


 受け取れるか。


 答えは決まっていた。


「受け取れません」


「どうしてでしょう」


 美桜は指先で机の角をなぞった。


「先生、褒められるほど、本当の私は違うって思います」


 声に出すと、胸の奥が少し痛んだ。


「たまたまだし、他の人の方がすごいし。私がやったことなんて、大したことないし」


 灯理は頷いた。


「うん。では、褒め言葉ではなく、あなたが実際にしてきたことから見てみませんか」


 美桜は顔を上げた。


「実際に、してきたこと?」


「はい。すごいかどうかを決める前に、事実を集めます」


 午前の総合学習の時間、灯理は黒板に大きく書いた。


『褒め言葉ではなく、事実を集める』


 生徒たちは首を傾げた。


「褒めないの?」


「自己分析って、自分の長所を書くんじゃないんですか」


「長所、苦手」


「短所なら書ける」


 教室に小さな笑いが起きる。


 灯理は言った。


「今日は、長所や短所を決める前に、自分が実際にしてきたことを書き出します。立派なことだけでなくてかまいません」


 黒板に項目が並ぶ。


『続けてきたこと』

『途中でやめたけれど挑戦したこと』

『誰かにした小さな行動』

『失敗した後に戻ってきたこと』

『自分で選んだこと』

『断ったこと』

『まだ決められないこと』


 生徒たちにカードが配られた。


 一枚に一つ、事実を書く。


 美桜はカードを前にして固まった。


 続けてきたこと。


 すごいことは何もない。


 部活で全国大会に行ったわけではない。


 委員長を務めたわけでもない。


 成績が飛び抜けて良いわけでもない。


 誰かにした小さな行動。


 小さすぎて書くほどではない。


 失敗した後に戻ってきたこと。


 戻っただけで、成功したわけではない。


 美桜のカードは白いままだった。


 灯理がそばに来た。


「何も浮かびませんか」


「すごいことがないです」


「すごいことを探しているんですね」


「はい」


「自分を認めるためには、すごい証拠だけが必要なのでしょうか」


 美桜は答えられなかった。


 すごい証拠。


 確かな結果。


 誰かに見せても恥ずかしくないもの。


 それがないと、自分を認めてはいけない気がしていた。


 灯理は続けた。


「たとえば、今朝、何かしましたか」


「今朝ですか」


「はい」


「……委員会の返却棚を少し直しました」


「どうして?」


「本の順番が乱れていたので」


「それは、誰かに頼まれましたか」


「いいえ」


「では、美桜さんが気づいて、選んで、手を動かしたことですね」


 美桜は少し困った。


「でも、そんなの普通です」


「普通かどうかを決める前に、事実としてカードに書けますか」


 美桜はしぶしぶカードに書いた。


『返却棚の本の順番を直した』


 文字にすると、やっぱり大したことがないように見える。


 でも、白紙ではなくなった。


 灯理は頷いた。


「一つ、事実が増えましたね」


 そこから、美桜は少しずつ書き始めた。


『菜月の忘れ物を職員室まで届けた』


『図書委員の当番を半年続けた』


『発表が苦手な子に、読む順番を先に選んでもらった』


『部活で失敗して一度休んだけど、次の週に練習へ戻った』


『頼まれたポスターを最後まで描いた』


『文化祭の片付けで、誰も見ていないゴミ袋を運んだ』


『苦手なグループ活動で、一回だけ意見を言った』


『嫌だった頼みごとを、一度だけ断った』


 書いているうちに、忘れていたことが少しずつ出てきた。


 どれも小さい。


 誰かに誇れるほどではない。


 でも、確かに自分がしたことだった。


 他の生徒たちも、カードを書いている。


「朝練を三か月続けた」


「英単語のアプリを一週間でやめたけど、始めた」


「妹の宿題を見た」


「試合でミスした後、次の試合に出た」


「友だちの誘いを断って休んだ」


「まだ進路を決められない」


 最後の項目に、教室が少し静かになった。


 まだ決められないことも、カードにしていい。


 それは、美桜にとって少し意外だった。


 決められないことは、だめなことだと思っていた。


 でも、今の自分の事実として置いていいのかもしれない。


 美桜はカードに書いた。


『進路をまだ決められない』


 そのカードだけ、少し手が震えた。


 昼休み、美桜は図書室にいた。


 いつものように、返却棚を整える。


 乱れた背表紙を揃えると、少し気持ちが落ち着いた。


 菜月がやって来た。


「またやってる」


「気になっただけ」


「それ、カードに書いた?」


「書いた」


 美桜は少し照れくさくて、背表紙を触るふりをした。


 菜月は笑った。


「よかった。ちゃんと事実じゃん」


「でも、本当に小さいよ」


「小さいけど、私だったら気づかない」


「気づいても、やらない人もいるかもしれない」


 灯理の声が後ろからした。


 美桜が振り返ると、灯理が本を数冊抱えて立っていた。


「小さい行動は、見えにくいです。でも、見えにくいから存在しないわけではありません」


 美桜は返却棚を見た。


 整った本の背表紙。


 誰かが次に本を探す時、少し見つけやすくなる。


 それだけ。


 でも、それだけのことを、自分は何度もしてきた。


 午後の授業で、灯理は小さな箱を用意した。


 白い紙箱。


 蓋には何も書かれていない。


「今日は、自分の証拠箱を作ります」


「証拠箱?」


 生徒たちが反応する。


「褒め言葉を入れる箱ではありません。自分が実際にしたこと、選んだこと、戻ってきたこと、まだ決められないこと。そういう事実のカードを入れる箱です」


 遠野先生が、生徒たちに小さな箱を配った。


 それぞれ、シールやペンで自由に名前を書いていい。


 美桜は箱の蓋に、小さく書いた。


『証拠』


 飾りはつけなかった。


 華やかにすると、嘘っぽくなる気がしたから。


 カードを一枚ずつ入れる。


『返却棚の本の順番を直した』


『菜月の忘れ物を職員室まで届けた』


『図書委員の当番を半年続けた』


『発表が苦手な子に、読む順番を先に選んでもらった』


『部活で失敗して一度休んだけど、次の週に練習へ戻った』


『嫌だった頼みごとを、一度だけ断った』


『進路をまだ決められない』


 箱の中にカードが重なる。


 褒め言葉ではない。


 美桜は優しい。


 美桜はしっかりしている。


 美桜なら大丈夫。


 そういう言葉ではない。


 ただ、したこと。


 選んだこと。


 戻ったこと。


 迷っていること。


 それだけなのに、箱は少し重くなった。


 遠野先生が机のそばに来た。


「佐倉さん」


「はい」


「見せてもらってもいいですか」


 美桜は少し迷ったが、箱を開けた。


 遠野先生はカードを一枚ずつ、声に出さずに読んだ。


 そして、静かに言った。


「あなたなら大丈夫、と私はよく言っていました」


 美桜は顔を上げた。


「励ましたかったんです」


「はい」


「でも、その言葉があなたには遠かったのかもしれませんね」


 美桜は小さく頷いた。


「大丈夫って言われると、大丈夫じゃなかった時が怖くなります」


「そうですね」


 遠野先生はカードを箱へ戻した。


「これからは、あなたがしてきたことを一緒に見よう、と言います」


 その言葉は、美桜の中に少し入ってきた。


 あなたなら大丈夫。


 それは未来への期待で、重く感じることがある。


 でも、あなたがしてきたことを見よう、なら、今ここにあるカードを一緒に見ることができる。


 逃げ道がある言葉だった。


 翌日の放課後。


 進路面談の日。


 美桜は証拠箱を持って面談室に入った。


 窓の外は夕方の光で淡く染まっている。


 机の上には、進路希望調査の紙がある。


 まだ、すべては埋まっていない。


 でも、一つだけ書いてある欄があった。


『興味のある分野』


 そこに、美桜は小さく書いた。


『人の小さな困りごとに気づいて支える仕事』


 面談室には、遠野先生と灯理がいた。


 遠野先生が優しく言う。


「では、佐倉さん。今、考えていることを聞かせてもらえますか」


 美桜は指先を膝の上で組んだ。


 緊張している。


 自信もない。


 これが本当に自分に合っているのか、まだわからない。


「まだ、自信はないです」


 最初にそう言った。


 遠野先生は頷いた。


「はい」


「向いているって言われても、たぶんすぐには信じられません」


「はい」


「でも」


 美桜は証拠箱を開けた。


 カードを一枚、机に置く。


『返却棚の本の順番を直した』


 もう一枚。


『菜月の忘れ物を職員室まで届けた』


 もう一枚。


『発表が苦手な子に、読む順番を先に選んでもらった』


「人の小さな困りごとに気づくことは、少し多いかもしれません」


 声は小さかった。


 でも、自分の言葉だった。


「それが仕事になるかは、まだわからないです。でも、そういうことに関わる分野を調べてみたいです」


 遠野先生は、すぐに大げさに褒めなかった。


 ただ、カードを見て、静かに言った。


「これは、佐倉さんが続けてきたことですね」


 美桜は頷いた。


「はい」


「自信はまだなくても、ここに事実がありますね」


「はい」


 その「はい」は、いつもより少しだけはっきり出た。


 灯理が尋ねた。


「今、その進路希望調査の紙は、昨日より少し書けそうですか」


 美桜は紙を見た。


 白い欄はまだ多い。


 でも、全部を一度に埋めなくてもいい気がした。


「少しだけ」


「はい」


「全部は無理です。でも、一つなら」


「その一つから始められますね」


 美桜は小さく頷いた。


 面談が終わった後、美桜は空き教室に残った。


 夕方の光が机の上に伸びている。


 証拠箱の蓋を開ける。


 カードを一枚、新しく書いた。


『まだ自信はない。でも、今日、自分の言葉で一つ話した』


 それを箱に入れる。


 箱の中で、カードがまた少し重なった。


 美桜はしばらく箱を見ていた。


 自分を好きになったわけではない。


 褒め言葉をすべて信じられるようになったわけでもない。


 明日も、誰かに「しっかりしてるね」と言われたら、たぶん「そんなことない」と返してしまう。


 でも、今日のカードは消えない。


 自分が話したこと。


 自分が選んだ言葉。


 自分が持ってきた箱。


 それは、誰かの褒め言葉ではなく、自分のしたことだった。


 放課後の廊下で、菜月が待っていた。


「面談どうだった?」


「少し話せた」


「すごいじゃん」


 美桜は反射的に「そんなことない」と言いかけた。


 けれど、途中で止まった。


 すごいかどうかは、まだわからない。


 でも、話したのは事実だ。


「自信はないけど」


 美桜はゆっくり言った。


「これは、私が話した」


 菜月は少し驚いて、それから笑った。


「うん。そうだね」


 その返事が、思ったより嬉しかった。


 夜、灯理は総合学習校を出た。


 校舎の窓には、まだいくつかの明かりが残っている。進路資料室では、遠野先生が生徒たちの面談記録を整理していた。


 校門まで見送りに来た遠野先生は、手に小さな白い箱を持っていた。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、皆さんの証拠を見せていただきました」


 遠野先生は箱を見た。


「私も作ってみました」


「先生の証拠箱ですか」


「はい。生徒に言うなら、自分でもやってみようと思って」


 彼女は少し照れたように笑った。


「褒めることは、悪いことではないですよね」


「もちろんです」


「でも、褒め言葉が届かない生徒もいる。その時に、もっと褒めればいいと思ってしまっていました」


 遠野先生は校舎を振り返った。


「これからは、あなたがしてきたことを一緒に見よう、と言いたいです。結果だけでなく、続けたこと、戻ってきたこと、断ったこと、まだ決められないことも」


「きっと、生徒たちは少し呼吸しやすくなると思います」


 夜の風が、掲示板の進路面談表を小さく揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が一通入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 校舎の中では、美桜が証拠箱を鞄にしまっている。


 その箱は小さい。


 華やかでもない。


 けれど、中には、誰かの評価ではなく、美桜自身が選び、動き、戻り、迷ってきた事実が入っている。


 自分を急に好きになれなくてもいい。


 褒め言葉をすぐに信じられなくてもいい。


 まず、自分がしてきたことを一枚ずつ見つける。


 その小さなカードが積み重なった時、人はほんの少し、自分の足元を信じられるようになるのかもしれない。


 灯理は総合学習校の明かりを振り返り、静かな夜道へ歩き出した。

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