第9章 第3話:怒りの授業――机を蹴ったあとに残る音
朝の教室には、まだ昨日の音が残っているようだった。
椅子を引く音。
鞄を机に置く音。
窓を開ける音。
いつもの音が少しずつ重なっていく中で、三年四組の生徒たちは、教室の中央にある一つの机を避けるように動いていた。
机の脚には、うっすらと新しい傷がある。
昨日、海斗が蹴った机だった。
班活動の途中だった。
地域課題について意見を出し合う時間。
海斗が考えた案を、同じ班の生徒がこう言った。
「それ、どうせ無理じゃない?」
その瞬間、海斗の顔が変わった。
椅子が鳴り、机が大きく揺れた。
次の瞬間、教室中に鋭い音が響いた。
がん、と。
机の脚が床を滑り、プリントが散らばった。
誰も動けなかった。
海斗はすぐに「うるせえ」と言って教室を出ていった。
その後も、音だけが残った。
机を蹴った音。
空気を裂いた音。
誰かが息を止めた音。
海斗は翌朝、自分の席に座っていた。
周りの生徒は、彼を見ないようにしている。
見ればまた怒るかもしれない。
そう思われていることは、海斗にもわかった。
わかるから、余計に腹が立った。
すぐキレる。
怖い。
面倒くさい。
どうせまた怒る。
声に出されなくても、そう思われている気がする。
海斗は机の下で拳を握った。
昨日のことを思い出すと、胸の奥がまだ熱い。
あの言葉。
どうせ無理。
ただの一言だった。
でも、その一言が刺さった瞬間、頭の中が真っ赤になった。
次に何をしたのかは、半分しか覚えていない。
気づいたら、机を蹴っていた。
「海斗」
担任の岩瀬先生が教室に入ってきた。
がっしりした体つきの教師で、声も大きい。問題が起きるとすぐに止めに入る先生だった。
「昨日のこと、少し話せるか」
海斗は顔を逸らした。
「別に」
「机を蹴るのはだめだ。物に当たるなと何度も言っている」
「わかってます」
「わかっているなら」
「わかってるって言ってんだろ」
声が強くなる。
教室がまた静かになった。
岩瀬先生は息を吸った。
「落ち着け」
その言葉が、さらに海斗の胸を熱くした。
落ち着け。
いつもそれだ。
落ち着け。
怒るな。
物に当たるな。
ちゃんとしろ。
そんなことはわかっている。
でも、止まらないから困っている。
教室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。
廊下から差し込む朝の光を背に、その人は一度、教室の空気を確かめるように立ち止まった。それから、中央の傷のついた机を見た。
「白瀬先生」
岩瀬先生が少し声を整える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は授業に少し混ぜていただきます」
海斗は無言で視線を逸らした。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。
昨日、岩瀬先生から紹介されていた。
灯理は、傷のついた机へ近づいた。
机を責めるようでも、海斗を見るようでもなく、ただそこに残った跡を見た。
「大きな音がしたんですね」
海斗は唇を噛んだ。
「俺が蹴りました」
「はい」
「悪いって言えばいいんですか」
「悪かったと思っていますか」
海斗は答えに詰まった。
悪いとは思っている。
机を蹴ったこと。
みんなを怖がらせたこと。
プリントを散らしたこと。
それは悪い。
でも、あの言葉を言われた時の腹立たしさまで、全部なかったことにされるのは嫌だった。
「わかんないです」
海斗は低く言った。
「怒ったら、もう止められません」
灯理は頷いた。
「うん。では、怒りが走り出す前に、小さな足音はありませんでしたか」
海斗は眉を寄せた。
怒りの足音。
そんなもの、考えたこともなかった。
午前の授業で、灯理は黒板に大きく書いた。
『怒りの温度計』
教室がざわつく。
「温度計?」
「怒りに温度あるの?」
「また反省文?」
海斗は窓の外を見た。
どうせ、怒る前に深呼吸しましょう、とか言うのだろう。
そんなことで止まるなら、苦労しない。
灯理は黒板に線を引いた。
零度。
三十度。
五十度。
八十度。
百度。
「怒りが百度になると、言葉より先に体が動いてしまうことがあります。今日は、百度になった後ではなく、十度、三十度、五十度の時に何が起きているかを見てみます」
生徒たちにプリントが配られた。
項目が並んでいる。
『顔』
『肩』
『胸』
『手』
『足』
『耳』
『目』
『言いたくなる言葉』
『したくなる行動』
『本当は聞いてほしかったこと』
灯理は言った。
「怒りは悪い感情だと決める前に、観察してみましょう」
生徒たちは少し戸惑いながら書き始めた。
海斗は鉛筆を持ったまま、しばらく動かなかった。
怒りを観察する。
そんなの馬鹿みたいだと思った。
怒っている時に、顔とか肩とか考えていられるわけがない。
でも、周りが書いているので、仕方なくプリントを見た。
顔。
熱くなる。
肩。
力が入る。
胸。
詰まる。
手。
拳になる。
足。
立ち上がりたくなる。
耳。
相手の声が遠くなる。
目。
相手の顔だけ見える。
言いたくなる言葉。
うるせえ。
黙れ。
どうせ。
したくなる行動。
机を蹴る。
教室を出る。
殴りたい。
海斗はそこで鉛筆を止めた。
最後の項目。
『本当は聞いてほしかったこと』
何だそれ。
怒りは怒りだ。
聞いてほしかったことなんて、あるのか。
海斗は空欄のままにした。
灯理は教室を回り、生徒たちのプリントを見ていく。
何人かが発表した。
「私は、怒る前に声が早くなります」
「僕は耳が熱くなる」
「相手の言葉を最後まで聞けなくなる」
「笑われたと思うと、すぐ言い返したくなる」
「黙っているけど、机の下で足を揺らします」
海斗は少しだけ驚いた。
怒るのは自分だけだと思っていた。
いや、怒り方が大きいのは自分だ。
でも、他の生徒たちにも、怒りの手前の反応はあるらしい。
灯理は黒板に、生徒たちの言葉を書いていった。
『顔が熱い』
『肩が固い』
『耳が熱い』
『声が速い』
『相手の言葉が聞こえにくい』
『足が動く』
『手が拳になる』
「怒りは、急に百度になるように感じることがあります」
灯理は言った。
「でも、体はその前に小さな合図を出していることがあります」
海斗はプリントの「肩が固い」という文字を見た。
昨日、どうだったか。
思い出したくない。
でも、思い出してみる。
班の机。
プリント。
自分の案。
相手の声。
どうせ無理。
その瞬間、まず胸が詰まった。
肩が上がった。
手が机の端を掴んだ。
立ち上がる前に、足に力が入った。
確かに、何かはあった。
でも、すぐだった。
あっという間だった。
「先生」
海斗は低い声で言った。
「そんな小さい合図に気づけるなら、最初から蹴ってません」
教室が静かになる。
灯理は海斗を見る。
「はい。昨日の海斗くんには、難しかったのだと思います」
責める言い方ではなかった。
「だから、怒っていない今、地図を作っています」
「地図?」
「はい。怒っている最中に初めて道を探すのは難しいです。落ち着いている時に、戻る道を見つけておくために」
海斗は黙った。
戻る道。
怒りが走り出す前の道。
そんなものが、自分にもあるのだろうか。
中盤の授業では、昨日の班活動の場面を振り返ることになった。
岩瀬先生は少し迷ったが、灯理に促され、本人たちの同意を取ってから、出来事を黒板に整理した。
『海斗の案』
『同級生の言葉』
『机を蹴る』
『教室が静かになる』
『海斗が出ていく』
灯理は尋ねた。
「同級生の言葉は、何でしたか」
海斗は答えなかった。
代わりに、同じ班の拓真が小さく言った。
「どうせ無理じゃない、って言いました」
拓真の声は小さかった。
彼も気まずそうだった。
「どういうつもりで言いましたか」
灯理が尋ねる。
「別に、馬鹿にしたかったわけじゃなくて」
拓真は視線を下げた。
「予算とか、時間とか、難しいと思っただけで。でも、言い方が悪かった」
海斗は机を見ていた。
また胸が熱くなる。
どうせ無理。
その言葉が、教室の壁に跳ね返るように聞こえた。
灯理は海斗に尋ねた。
「その言葉を聞いた時、体のどこが最初に動きましたか」
海斗は答えたくなかった。
でも、昨日の音が頭の中に残っている。
机を蹴った音。
その後の静けさ。
「胸」
小さく言った。
「胸が詰まった」
「次は?」
「肩。手」
「その時、頭の中にはどんな言葉がありましたか」
「まただ、って」
海斗は自分で言って、少し驚いた。
まただ。
昨日、自分はそう思ったのか。
「また、とは?」
灯理は静かに聞いた。
海斗は口を閉じた。
言いたくなかった。
家庭のことを、教室で話したくなかった。
親のこと。
家の中の空気。
引っ越しの話。
どちらと暮らすか。
自分の部屋がなくなるかもしれないこと。
それらが、勝手に教室へ出てきそうで怖かった。
灯理は言った。
「今、ここで話さなくてもいいです」
海斗は少しだけ息を吐いた。
「ただ、『まただ』という言葉が、怒りの中にあったのですね」
海斗は頷いた。
授業の後半、灯理は個別に話す時間を作った。
教室の隅、窓際。
他の生徒たちはプリントに取り組んでいる。
海斗は灯理と向かい合って座った。
「話せる範囲でいいです」
灯理が言った。
「昨日の『どうせ無理』は、何に触れたのでしょう」
海斗は窓の外を見た。
校庭では、別のクラスが体育をしている。
笛の音が遠くから聞こえる。
「家で」
海斗は言った。
「勝手に話が進んでます」
灯理は黙って聞いている。
「親が離婚するかもしれなくて。引っ越すとか、どっちと暮らすとか、俺の学校はどうするとか」
言葉にすると、胸の奥がまた詰まる。
「俺のことなのに、俺に聞かない」
「はい」
「大人の話だからって。決まったら言うって。俺が何か言っても、今はわからないって」
海斗は拳を握った。
「だから、昨日、無理って言われた時」
「うん」
「また聞かれないと思った」
灯理はゆっくり頷いた。
「机を蹴った音の前に、聞いてほしかった言葉はありましたか」
海斗は唇を噛んだ。
胸が熱くて、目の奥も熱い。
「理由を聞いてほしかった」
絞り出すように言った。
「無理って言う前に、どう考えたのか聞いてほしかった」
「はい」
「家でも、学校でも」
声が震える。
「俺の話を、途中で終わりにしないでほしかった」
灯理はすぐに何かを言わなかった。
その沈黙は、海斗の言葉を置くための場所のようだった。
午後、クラス全体で「怒りが上がる前に使う行動」を考えた。
灯理は黒板に書いた。
『百度になる前の行動』
生徒たちは意見を出した。
「水を飲む」
「一回席を立つ」
「紙に書く」
「相手に待ってと言う」
「机から手を離す」
「椅子を一歩引く」
「廊下で深呼吸する」
「今、腹が立っていると言う」
「後で話したいと伝える」
海斗は最初、黙っていた。
でも、黒板の「机から手を離す」という言葉に目が止まった。
昨日、自分の手は机の端を掴んでいた。
あの時、手を離せていたら。
足を動かす前に、椅子を一歩引けていたら。
それだけで、机は蹴らなかったかもしれない。
完全に怒りが消えるわけではない。
でも、音になる前に、別の動きがあったかもしれない。
海斗はプリントに書いた。
『机から手を離す』
『椅子を一歩引く』
『今、腹が立ってると言う』
『理由を聞いてほしいと言う』
『無理なら廊下に出る』
岩瀬先生が海斗のプリントを見た。
少し驚いたような顔をしてから、静かに言った。
「海斗」
「はい」
「昨日、俺は落ち着けとしか言えなかった」
海斗は顔を上げた。
「それも必要な時はある。でも、何を聞いてほしかったか、俺は聞かなかった」
岩瀬先生は少し不器用に続けた。
「次から、止めるだけじゃなくて、後で聞く」
海斗は返事に困った。
でも、少しだけ頷いた。
翌日の班活動。
海斗は同じ班の席に座っていた。
拓真もいる。
空気はまだ少しぎこちない。
テーマは昨日の続きだった。
海斗は新しい案を出した。
「地域センターの空き教室を使って、中学生が小学生に宿題を教える日を作る。予算はそんなにかからないと思う」
拓真は資料を見た。
「でも、人が集まるかな」
その言い方は、昨日より慎重だった。
それでも海斗の胸は少し詰まった。
また否定される。
また無理と言われる。
肩が上がる。
手が机の端へ伸びる。
海斗は気づいた。
手。
机。
百度になる前。
彼は、机から手を離した。
椅子を一歩引く。
脚が床を擦って小さな音を立てた。
教室の何人かがこちらを見る。
海斗は息を吸った。
胸はまだ熱い。
でも、言葉を探す。
「今、それ言われると腹立つ」
声は硬かった。
拓真が目を丸くする。
海斗は続けた。
「でも、蹴らない」
誰かが息を呑んだ。
「理由を聞いてほしい。俺がどう考えたか、先に言う」
拓真はすぐに頷いた。
「わかった。聞く」
海斗はプリントを指した。
「地域センターは、前に先生が空いてる日があるって言ってた。小学生向けの宿題会なら、道具もそんなにいらない。大人の見守りは必要だけど、全部先生がやるんじゃなくて、ボランティアを募る」
話しながら、海斗の声は少しずつ落ち着いた。
怒りはまだ残っている。
でも、机を蹴るほどではない。
拓真はメモを取りながら言った。
「それなら、無理じゃないかも。人をどう集めるかを考えれば」
海斗は肩の力を抜いた。
岩瀬先生が教室の後ろで見ていた。
灯理も、少し離れた場所から見ている。
班活動の終わり、拓真が海斗に言った。
「昨日、ごめん。言い方、悪かった」
海斗は少し黙った。
「俺も、蹴って悪かった」
「怖かった」
「うん」
海斗は机の脚を見た。
「次は、音にする前に言う」
拓真は頷いた。
放課後、海斗は昨日蹴った机の前にしゃがんでいた。
脚が少し曲がっていた。
岩瀬先生に工具を借り、ネジの緩みを直す。
ぎし、と金属が鳴る。
昨日の音とは違う、小さな修理の音だった。
灯理がそばに来た。
「直していますね」
「俺が蹴ったんで」
「はい」
「傷は残ります」
「そうですね」
「でも、ぐらつきは直せます」
灯理は頷いた。
海斗は工具を置き、机の脚を軽く押した。
もう大きく揺れない。
「先生」
「はい」
「怒りって、なくならないですよね」
「たぶん、なくすものではないのだと思います」
「じゃあ、また怒ります」
「はい」
「でも、次は少し早く気づきたいです」
「どこに?」
「胸。肩。手」
海斗は自分の手を見た。
「手が机に行ったら、まず離す」
灯理は微笑んだ。
「怒りの小さな足音ですね」
海斗は少し照れたように顔を逸らした。
「変な言い方だけど、覚えやすいです」
夕方、灯理は学校を出た。
校舎の窓には、まだ岩瀬先生と海斗が机を元の場所へ戻している姿が見える。教室の中には、昨日とは違う音があった。机を引く音。ネジを締める音。誰かに謝る小さな声。
岩瀬先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、皆さんと怒りの手前を見せていただきました」
岩瀬先生は腕を組み、少し苦笑した。
「私は、問題行動を止めることばかり考えていました」
「必要なことですね」
「ええ。机を蹴る、怒鳴る、教室を出る。それを止めるのは当然です。でも、止めた後に『何を聞いてほしかった?』と聞くことを、してこなかった気がします」
彼は校舎を振り返った。
「落ち着け、では届かない時があるのですね」
「はい」
「次から、怒りの温度計を使います。怒っていない時に、戻る道を作っておく。海斗だけではなく、クラス全体で」
灯理は頷いた。
「怒りは、誰にでもある感情ですから」
岩瀬先生は静かに息を吐いた。
「机を蹴った音は、まだ教室に残っています。でも、今日、別の音も残せた気がします」
「どんな音でしょう」
「机を直す音です」
夕暮れの校庭に、部活動の声が響いていた。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、大規模校の図書室から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
教室の窓の向こうで、海斗が直した机を軽く叩いている。
大きな音ではない。
確かめるような、小さな音。
怒りは、消えるわけではない。
けれど、その手前にある胸の詰まり、肩の強ばり、手の動きに気づけた時、音になる前に言葉へ変えられることがある。
灯理は夕方の風を受けながら、ゆっくりと校門を出ていった。




