第9章 第2話:不安の授業――発表前に声が消える少女
都市部の学校の朝は、窓の外の車の音から始まる。
高い建物の間を抜けてくる風が、校舎のガラス窓をかすかに鳴らしていた。廊下には、生徒たちの足音と、開きっぱなしの教室から漏れる話し声が重なっている。電子黒板の起動音、椅子を引く音、プリントを配る音。
発表会の朝だった。
三年二組の教室では、生徒たちがそれぞれの端末を開き、プレゼン資料を確認している。
テーマは「自分たちの町の課題と提案」。
ごみ、交通、防災、商店街、子どもの居場所。
班ごとに調べ、資料を作り、今日、学年の前で発表する。
莉子の班は、駅前の歩道について調べていた。
朝の混雑。
自転車の通行。
ベビーカーや高齢者が通りにくい場所。
写真も撮った。
地図も作った。
改善案もまとめた。
スライドは見やすい。
データも揃っている。
原稿も、莉子が何度も直した。
準備はできている。
なのに、莉子の手は冷たかった。
原稿の紙を握る指先が、少し白くなっている。
紙の端には、何度もつかんだ跡があり、細かい皺が寄っていた。
「莉子、大丈夫?」
同じ班の真奈が声をかけた。
「大丈夫」
莉子はすぐに答えた。
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
「昨日、あんなに練習したし」
「うん」
「スライドも完璧だよ」
「うん」
完璧。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
莉子は資料作りが得意だった。
調べることも、整理することも、文章を整えることも好きだ。
発表原稿だって、班の中で一番うまく書ける自信があった。
でも、人前に立つと声が消える。
頭の中から言葉が抜け落ちる。
目の前に並んだ顔が、一斉にこちらを見ていると感じた瞬間、喉が狭くなって、息が浅くなる。
去年の発表で、莉子は一度、言葉に詰まった。
たった数秒だった。
でも、その数秒の間に、後ろの席で誰かが小さく笑った。
たぶん、悪気はなかった。
ただ、空気をごまかすための笑いだったのかもしれない。
それでも莉子には、その音だけが耳に残った。
その後、原稿を読み直しても、文字がぼやけた。
発表は最後までできた。
先生も「よく頑張った」と言った。
でも莉子の中では、あの数秒で終わっていた。
今日も、同じことが起きるかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥がぎゅっと縮む。
「莉子さん」
担任の三枝先生が近づいてきた。
発表会の準備をずっと見てくれていた教師だ。
莉子の資料を何度も褒め、原稿の良さも認めてくれた。
「発表順、三番目です。準備は大丈夫ですね」
「はい」
「大丈夫。あれだけ練習したんだから」
莉子は頷いた。
大丈夫。
その言葉を何度も聞いた。
真奈も、三枝先生も、家族も言ってくれた。
でも、莉子の体は大丈夫ではなかった。
手が冷たい。
喉が狭い。
心臓が速い。
足元が少し浮いているような感じがする。
大丈夫と言われるほど、大丈夫になれない自分が悪い気がした。
教室の扉が開いた。
「失礼します」
黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。
廊下のざわめきを背中に連れてきたように、その人は一度教室を見渡し、端末と原稿を握る生徒たちへ目を向けた。
「白瀬先生」
三枝先生が迎える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は発表会に少し参加させていただきます」
莉子は灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。
昨日、三枝先生から紹介されていた。
灯理は莉子の手元に目を留めた。
皺だらけになった原稿。
冷えた指先。
「原稿を、よく持っていますね」
莉子は慌てて手を緩めた。
「あ……すみません」
「謝らなくていいです」
灯理は静かに言った。
「今、手はどんな感じですか」
莉子は戸惑った。
「手、ですか」
「はい」
「冷たいです」
「喉は?」
莉子は思わず喉元に手を当てた。
「狭い感じがします」
「胸は?」
「速いです。心臓が」
灯理は頷いた。
「体が、発表の前にいろいろ教えてくれているんですね」
莉子は少し苦笑した。
「教えてくれてるというか、邪魔してます」
「そう感じますか」
「はい。不安があるなら、発表しない方がいいんじゃないですか」
言ってしまってから、莉子は目を伏せた。
本当は言いたくなかった。
班のみんなに迷惑をかけたくない。
でも、心のどこかでずっとそう思っていた。
不安がある自分は、発表に向いていない。
灯理はすぐに励まさなかった。
「うん。では、不安は止まれの合図だけでなく、準備しようの合図にもなるでしょうか」
莉子は顔を上げた。
不安が、準備の合図。
そんなふうに考えたことはなかった。
午前の授業は、発表会の直前に少しだけ時間を取って行われた。
三枝先生は予定を調整し、灯理に教室の前を譲った。
灯理は黒板に大きく書いた。
『不安の地図』
生徒たちがざわつく。
「地図?」
「不安って地図にできるの?」
「発表練習じゃないの?」
灯理は頷いた。
「発表の前、体や気持ちに何が起きるかを地図にしてみます」
黒板に項目が並ぶ。
『手』
『喉』
『胸』
『お腹』
『足』
『頭』
『目』
『逃げたい気持ち』
『原稿の持ち方』
『周りの声』
「自分の中で起きることを書いてください。良い悪いを決めるのではなく、観察します」
莉子はプリントを見た。
手。
冷たくなる。
原稿を強く握る。
喉。
狭くなる。
声が出ない気がする。
胸。
速くなる。
お腹。
固い。
足。
床から浮く感じ。
頭。
白くなる。
目。
みんなが自分だけを見ているように感じる。
逃げたい気持ち。
ある。
とてもある。
書いているうちに、莉子は少し驚いた。
不安は、ただ「怖い」という一つの塊ではなかった。
体のあちこちに、小さく分かれていた。
手。
喉。
胸。
足。
目。
それぞれが違う反応をしている。
書き終えると、灯理は希望する生徒に読み上げてもらった。
「手が汗で滑る」
「お腹が痛くなる」
「早口になる」
「笑われる気がする」
「頭が真っ白になる」
「視線が怖い」
「声が高くなる」
「逃げたくなる」
莉子は顔を上げた。
自分だけではなかった。
真奈も、別の生徒も、いつも平気そうな男子も、不安の反応を書いている。
真奈は言った。
「私、発表前になると、足の裏がふわふわします」
「真奈も?」
莉子が思わず聞いた。
「うん。毎回」
「知らなかった」
「莉子こそ、平気そうに見えるよ」
「全然」
二人は少しだけ笑った。
不安を見せ合っただけなのに、教室の空気が少し柔らかくなった。
灯理は黒板の「不安の地図」を指した。
「不安があることは、発表してはいけない合図なのでしょうか」
生徒たちはすぐには答えない。
「不安がある時、体は危険に備えようとすることがあります。心臓が速くなる。呼吸が浅くなる。周りをよく見ようとする。逃げたい気持ちが出る」
灯理は続けた。
「それは、皆さんが弱いからではなく、体が準備を始めているからかもしれません。ただ、その準備が強すぎると、声が出にくくなったり、頭が白くなったりします」
莉子は自分の喉を触った。
邪魔だと思っていた反応。
でも、それは体が何かに備えようとしている合図なのかもしれない。
三枝先生が静かに黒板を見ていた。
中盤の授業で、灯理は新しい欄を書いた。
『声を出す前の準備』
「不安をゼロにする練習ではありません。不安がある時に使える道具を用意します」
黒板に手順が並ぶ。
『立つ前に足裏を床に感じる』
『最初の一文だけカードに書く』
『見る場所を三か所決める』
『息を吐いてから始める』
『詰まった時に使う言葉を決める』
『頷いてくれる人の位置を決める』
『原稿を握る手を一度開く』
莉子は黒板をじっと見た。
完璧な原稿を覚えること。
何度も練習すること。
それしか準備だと思っていなかった。
でも、声が出なくなった時の準備はしていなかった。
足裏。
息。
見る場所。
詰まった時の言葉。
頷いてくれる人。
それらは、莉子の発表に足場を作るもののように見えた。
灯理は小さなカードを配った。
「このカードには、最初の一文だけを書きます」
「原稿全部じゃなくて?」
莉子が聞いた。
「はい。全部を書くと、迷子になった時に探すのが大変です。最初の一文は、発表の入口です」
莉子はカードに書いた。
『私たちの班は、駅前の歩道の混雑について調べました。』
何度も読んだ一文。
でも、カードに書くと、少しだけ持ちやすくなった。
次に、見る場所を決める。
会場全体を見るのではなく、三か所。
左の壁時計。
中央後ろの掲示板。
右端の窓。
そして、真奈が客席の前方に座り、莉子の時に頷くことになった。
「私、ちゃんと頷くね」
真奈が言った。
「笑わない?」
「笑わないよ」
莉子は少し黙った。
去年の小さな笑い声が、まだ耳に残っている。
真奈はそれを知らない。
でも、莉子は言った。
「去年、笑われた気がして、それから怖い」
真奈は驚いた顔をした。
「そうだったんだ」
「うん」
「私は笑わない。詰まっても頷く」
その言葉に、莉子の胸の奥が少し緩んだ。
最後に、詰まった時に使う言葉を決めた。
『少し待ってください』
声が消えた時、何も言えないと沈黙が怖くなる。
でも、待ってと言えれば、その沈黙は自分の時間になる。
灯理は言った。
「詰まらないことを目標にしなくてもいいです。詰まった時に戻る道を持つことも、準備です」
莉子はカードの裏に、小さく書いた。
『息を吐く』
『足を見る』
『少し待ってください』
発表会は午後からだった。
体育館には学年の生徒が集まっていた。
椅子が並び、前方にはスクリーンがある。
マイクの音が、少し反響する。
莉子の班は三番目。
一番目の班が発表を始めた時、莉子の手はまた冷たくなった。
不安は消えていない。
喉も狭い。
心臓も速い。
でも、莉子はカードを持っていた。
不安の地図を思い出す。
これは手。
これは喉。
これは胸。
これは逃げたい気持ち。
全部が一つの怪物ではなく、地図の上の場所になっている。
二番目の班が終わった。
三枝先生が言った。
「次は、三年二組、駅前の歩道についての発表です」
莉子の班が立ち上がる。
足が少し震えた。
舞台へ向かう途中、莉子は足裏を意識した。
床に触れている。
右足。
左足。
まだ歩ける。
マイクの前に立つ。
客席が広い。
たくさんの顔がある。
去年の笑い声が、一瞬、耳の奥で鳴った。
喉が閉まる。
最初の一文が、頭から消えそうになる。
莉子はカードを見た。
『私たちの班は、駅前の歩道の混雑について調べました。』
口を開く。
声が出ない。
一秒。
二秒。
体育館の空気が重くなる。
莉子の指がカードを握りしめる。
まただ。
また声が消える。
その時、前方にいる真奈が、ゆっくり頷いた。
莉子はカードの裏を見た。
『息を吐く』
小さく息を吐いた。
そして、マイクに向かって言った。
「少し待ってください」
自分の声が、体育館に響いた。
小さいけれど、確かに出た。
誰も笑わなかった。
三枝先生が前の席で、静かに頷いた。
「待っていいよ」
その声は、莉子にだけ届くくらいの大きさだった。
莉子は足裏を感じた。
床。
ここに立っている。
もう一度、カードを見る。
「私たちの班は、駅前の歩道の混雑について調べました」
今度は、声が出た。
少し震えていた。
でも、出た。
次の一文。
スライドを見る。
左の壁時計を見る。
中央後ろの掲示板を見る。
右端の窓を見る。
客席全体を見なくていい。
三つの場所を順番に見る。
途中、また一度言葉に詰まった。
莉子は慌てそうになった。
でも、カードの裏の言葉を思い出す。
『少し待ってください』
もう一度そう言う。
息を吐く。
原稿に戻る。
発表は、完璧ではなかった。
何度か間が空いた。
声も少し震えた。
予定より十秒長くかかった。
でも、最後まで言えた。
「以上です。ありがとうございました」
班で頭を下げた時、拍手が聞こえた。
莉子は客席を見られなかった。
でも、真奈の拍手の音だけはわかった。
舞台袖に戻ると、足の力が抜けそうになった。
三枝先生がそばに来た。
「莉子さん」
「はい」
「よく、待てましたね」
莉子は驚いた。
よく話せました、ではなかった。
よく頑張りました、でもなかった。
待てました。
詰まった時に、逃げずに、自分の時間を取ったこと。
そこを見てくれた。
「声、震えてました」
「震えていましたね」
「途中で止まりました」
「止まりましたね」
「でも、戻れました」
三枝先生は頷いた。
「戻れました」
その言葉で、莉子はようやく少し笑えた。
発表会が終わった後、教室に戻ると、生徒たちは感想を書いた。
莉子は原稿の端に、鉛筆で小さく書いた。
『声が消えそうな時、息はまだ残っている』
その一文を見て、胸の奥が温かくなった。
不安は消えなかった。
発表前も、発表中も、不安はずっとあった。
でも、不安があっても発表できた。
声が消えそうになっても、息は残っていた。
息が残っていれば、待てる。
待てれば、戻れる。
灯理が机のそばに来た。
「発表、終わりましたね」
「はい」
「不安はなくなりましたか」
莉子は少し考えて、首を横に振った。
「なくなってないです」
「はい」
「次も、たぶん不安です」
「うん」
「でも、今日みたいに準備すれば、できるかもしれません」
灯理は頷いた。
「不安の地図が、道具になりましたね」
「はい」
莉子はカードを見た。
最初の一文。
裏の小さな手順。
皺はついている。
でも、破れていない。
「先生」
「はい」
「私、不安があるのは発表に向いてない証拠だと思ってました」
「うん」
「でも、不安があるから、準備が必要なんですね」
「はい」
「準備があれば、不安が消えなくても、少し進める」
灯理は微笑んだ。
「今日、莉子さんが見つけたことですね」
夕方、学校の窓から見える街は、少し赤く染まっていた。
車の音は朝と同じように続いている。
でも、莉子の中の音は少し違っていた。
心臓はまだ速い。
発表の余韻で、手も少し冷たい。
けれど、その冷たさはもう、ただの失敗の予告ではなかった。
体が一生懸命、準備しようとしていた跡。
そう思うと、少しだけ自分を責めずにいられた。
放課後、三枝先生は教室で発表会の資料を整理していた。
灯理が帰る準備をしていると、三枝先生が声をかけた。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、皆さんの発表を聞かせていただきました」
三枝先生は莉子のカードを一枚、机の上に置いた。
本人の許可を得て、授業記録として写したものだった。
「私は、莉子にずっと『大丈夫』と言っていました」
「励ましたかったのですね」
「はい。でも、あの子の体は大丈夫ではなかった。手が冷たくて、喉が狭くて、胸が速くて。それを見ないまま、大丈夫と言っていたのだと思います」
先生は黒板の「不安の地図」を見た。
「次からは、発表練習の前にこれをやります。不安を消すためではなく、不安が出た時の戻り方を持たせるために」
「きっと、生徒たちの助けになります」
「それから」
三枝先生は少し笑った。
「詰まった生徒に、すぐ『頑張って』と言うのではなく、『待っていいよ』と言える先生になりたいです」
灯理は頷いた。
校舎の外へ出ると、都市の夕方の風が吹いていた。
ビルの窓に夕陽が反射し、道路の向こうでは信号が青に変わる。人々はそれぞれの速度で歩き、立ち止まり、また進んでいく。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、問題行動が増えている学級から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
教室の窓の向こうでは、莉子が真奈に発表カードを見せている。
真奈が何かを言い、莉子が少し照れたように笑った。
不安は消えなかった。
けれど、消えなくても持てる道具がある。
冷たい手。
狭い喉。
速い胸。
その一つ一つに名前をつけた時、逃げ道だけではなく、戻る道も見えてくる。
灯理は夕暮れの街へ、ゆっくりと歩き出した。




