第9章 第1話:喪失の授業――空いた席に座れない少年
地方の小さな中学校では、朝の音がよく響く。
昇降口で靴箱を閉める音。廊下を歩く上履きの音。教室の窓を開ける音。校庭の向こうでは、まだ霧の残る山が薄く見えていた。
二年一組の教室には、机が一つだけ、少し違う場所に置かれている。
窓際の後ろから二番目。
そこには、誰も座っていない。
けれど、完全に空いているわけでもなかった。
机の上には、小さな花瓶が置かれている。花は毎朝、小野先生が替えていた。引き出しの中には、まだ少しだけ持ち物が残っている。教科書はもう家族に返されたけれど、折れた定規や、使いかけの消しゴムや、誰かが入れたメモの束がある。
蒼真の席だった。
数か月前、同級生の蒼真は事故で亡くなった。
学校はしばらく静かだった。
泣く生徒もいた。
何も言えなくなる生徒もいた。
小野先生は、毎朝少しだけ蒼真の席に目を向けてから出席を取った。
時間は進んだ。
季節も変わった。
授業も、部活動も、給食も、テストも、少しずつ元に戻っていった。
でも、悠斗だけは、その席の横をまっすぐ通れなかった。
教室に入る時、わざと遠回りする。
掃除の時も、蒼真の席の周りだけ別の生徒に任せる。
視界に入ると、胸の奥が固くなった。
空いている。
でも、そこに蒼真がいないことを確かめてしまう。
それが、苦しかった。
「悠斗、おはよう」
クラスメイトの美玖が声をかけた。
「おはよう」
悠斗は短く返して、自分の席へ向かった。
蒼真の席の横を通らないように、机と机の間を大きく回る。
美玖はその動きを見て、何か言いかけたが、やめた。
誰も、蒼真の話をしなくなっていた。
話してはいけないわけではない。
でも、どの声も途中で止まる。
楽しかった思い出を話すと、急に悲しくなる。
悲しい話をすると、教室全体が重くなる。
だから、みんな少しずつ避けるようになった。
前を向こう。
日常に戻ろう。
蒼真も、みんなが元気でいることを望んでいる。
大人たちはそう言った。
たぶん、その通りなのだと思う。
でも、悠斗にはわからなかった。
前を向くとは、どこを見ることなのか。
蒼真の席を見ないようにすることなのか。
忘れたふりをすることなのか。
朝のホームルームで、小野先生は少し緊張した顔をしていた。
「みんなに、話があります」
教室が静かになる。
小野先生は、窓際の空いた席を見た。
「新学期に入って、席替えや教室の使い方を考える時期になりました。蒼真くんの席についても、これからどうするかを、みんなで考えたいと思っています」
空気が、すぐに固まった。
誰も動かない。
椅子の軋む音さえしない。
悠斗は机の下で拳を握った。
その席を片付ける。
その言葉は、先生の口からは出ていない。
でも、聞こえた気がした。
片付ける。
なくす。
普通の席に戻す。
誰かが座る。
それは、蒼真がここにいたことをなかったことにするみたいだった。
「嫌です」
気づけば、悠斗は立ち上がっていた。
クラス中の視線が集まる。
小野先生が静かに尋ねた。
「悠斗くん」
「その席、片付けるんですか」
「まだ決めていません」
「でも、そういう話ですよね」
声が少し震えた。
悔しかった。
悲しいのか怒っているのか、自分でもわからなかった。
「いなくなった人の席に座ったら、忘れたみたいじゃないですか」
教室の空気がさらに重くなった。
誰も何も言わない。
小野先生は、すぐには答えられなかった。
その時、教室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が立っていた。
廊下の冷たい空気を連れてきたように、その人は一度だけ教室全体を見渡し、窓際の空いた席に目を止めた。
「白瀬先生」
小野先生が小さく息をつく。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は、皆さんの授業に少し混ぜていただきます」
悠斗は立ったまま、灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。
昨日、小野先生から紹介されていた。
灯理は悠斗の方を向いた。
「今、その席の話をしていたんですね」
悠斗は唇を結んだ。
「はい」
「その席に誰かが座ったら、忘れたみたいに感じる」
「はい」
灯理は頷いた。
否定も、説得もしなかった。
「うん。では、忘れないためには、その席をずっと同じままにしておくしかないのでしょうか」
悠斗は答えられなかった。
同じままにしておきたい。
でも、本当にずっとそのままでいいのかもわからなかった。
席が残っているから、苦しい。
でも、なくなったらもっと苦しい気がする。
午前の授業は、予定を変えて行われた。
小野先生は黒板に大きく書いた。
『いない人への席をどうするか』
その言葉を見ただけで、教室の空気が少し震えた。
灯理は言った。
「今日は、すぐに答えを決める時間ではありません。まず、皆さんが今どんなことを言えるのか、どんなことは言えないのかを確かめる時間にしましょう」
生徒たちにカードが配られた。
名前は書いても書かなくてもいい。
黒板には三つの欄が作られた。
『言えること』
『言えないこと』
『まだ置いておきたいこと』
教室は静かだった。
誰もすぐには書かなかった。
鉛筆を持ったまま、みんな手元を見ている。
灯理は急がせなかった。
小野先生も、何も言わずに待っていた。
やがて、一人が書き始めた。
次に、別の生徒も書いた。
カードが少しずつ集まる。
灯理が、名前のないカードを読み上げた。
「言えること。蒼真くんがサッカーでよく転んでいたこと」
小さな笑いが漏れた。
泣き笑いのような、すぐ消える笑いだった。
「言えること。給食のプリンを最後まで残していたこと」
「言えること。宿題を忘れた時、なぜか堂々としていたこと」
教室のあちこちで、少しずつ顔が上がる。
蒼真の姿が、ほんの少し教室に戻ってくる。
次に、灯理は別のカードを読んだ。
「言えないこと。事故の日の話」
空気が変わった。
「言えないこと。まだ写真を見るのが怖い」
「言えないこと。泣いたら止まらなくなりそう」
「言えないこと。みんなが普通に笑っていると、少し腹が立つ」
悠斗は下を向いた。
そのカードを書いたのは自分ではない。
でも、胸に刺さった。
みんなが普通に笑っていると、腹が立つ。
自分もそうだった。
でも、自分も笑うことがある。
そのたびに、今度は自分に腹が立つ。
最後の欄。
「まだ置いておきたいこと。机の花」
「まだ置いておきたいこと。蒼真くんの落書き」
「まだ置いておきたいこと。声」
「まだ置いておきたいこと。謝れなかった言葉」
そのカードを読んだ時、悠斗の心臓が強く跳ねた。
自分が書いたカードだった。
名前は書かなかった。
でも、読まれた瞬間、自分の中から何かが外へ出てしまった気がした。
謝れなかった言葉。
事故の前日、悠斗と蒼真は喧嘩をした。
原因は些細なことだった。
放課後、二人で紙飛行機を作って飛ばす約束をしていた。
でも蒼真は、別の友人に誘われてサッカーへ行こうとした。
悠斗は腹を立てた。
「約束しただろ」
「あとでやればいいじゃん」
「どうせ忘れるくせに」
「そんな言い方すんなよ」
最後に、悠斗は言った。
「もういい。勝手にしろ」
蒼真も言い返した。
「じゃあな」
それが最後だった。
謝る機会は、もう来なかった。
喧嘩なんて、いつもなら翌日には忘れていた。
でも、その翌日は来なかった。
灯理はカードを机に置いた。
「今、言葉に出したくないものは、出さなくていいです」
悠斗は少しだけ息をした。
「でも、置く場所がないまま胸の中だけにあると、重くなることがあります」
小野先生が静かに頷いた。
授業の中盤、クラスは蒼真の席の扱いを考えるために、まず机の中を確認することになった。
家族に返すもの、学校で保管するもの、クラスで残すものを整理するためだった。
悠斗は最初、席に近づけなかった。
小野先生が机の前に立つ。
「無理に触らなくていいです」
誰かが引き出しを開けた。
中には、古いプリント、短くなった鉛筆、消しゴム、折れた定規が入っていた。
そして、奥から一つ、折りかけの紙飛行機が出てきた。
白い紙。
片方の翼だけ折られている。
もう片方は、まだ折られていない。
悠斗は息を止めた。
それは、あの日の紙だった。
二人で新しい折り方を試そうと言っていた。
蒼真が先に片方の翼を折り、悠斗がもう片方を折るはずだった。
喧嘩をして、そのままになった。
小野先生が紙飛行機を持ったまま、悠斗を見る。
「悠斗くん」
悠斗は首を横に振りかけた。
見たくない。
でも、目を逸らせなかった。
半分だけ折られた紙。
未完成のまま、机の奥に残っていた時間。
灯理がそばに来た。
「これは、悠斗くんと蒼真くんのものですか」
悠斗は小さく頷いた。
「一緒に作ってた」
「はい」
「でも、途中で喧嘩した」
「うん」
「俺、謝ってない」
声が急に細くなった。
「謝ってないまま、終わった」
教室の空気が静かになる。
悠斗は歯を食いしばった。
泣きたくなかった。
でも、喉の奥が熱かった。
「謝れなかった言葉は、もうどこにも置けないのでしょうか」
灯理が尋ねた。
悠斗は紙飛行機を見た。
謝れなかった。
蒼真はもういない。
声は届かない。
でも、謝りたい気持ちは今もここにある。
どこにも行けずに、胸の中でずっと引っかかっている。
「わからない」
悠斗は言った。
「置ける場所なんて、あるんですか」
灯理は答えを急がなかった。
「一緒に探してみませんか」
午後、クラスは話し合いをした。
蒼真の席をどうするか。
そのまま残すのか。
片付けるのか。
誰かが座るのか。
最初は誰も言い出せなかった。
やがて、美玖が手を挙げた。
「ずっとそのままだと、見るたびに苦しい人もいると思います」
別の生徒が言った。
「でも、なくなったら本当にいなくなったみたいで嫌です」
「花は残したい」
「でも、毎日先生が替えるのは大変じゃない?」
「蒼真の席だけ特別にしておくと、新しく入ってくる人も困るかも」
「でも、普通の席に戻すのは怖い」
意見はまとまらなかった。
でも、誰も「早く決めよう」とは言わなかった。
灯理は黒板に二つの言葉を書いた。
『同じまま残す』
『形を変えて残す』
「忘れない方法は、一つだけでしょうか」
小野先生がその言葉を見つめた。
やがて、生徒の一人が言った。
「教室の後ろに、小さい棚を作るのはどうですか」
みんながそちらを見る。
「席は席替えで使うことになるかもしれないけど、蒼真のことを置いておける場所を別に作る」
「何を置くの?」
「置きたいものだけ」
「写真とか?」
「写真がつらい人もいるかも」
「じゃあ、言葉とか、物とか。無理に置かなくてもいい場所」
少しずつ、形が見えてきた。
教室の後ろの空いた棚を一段使う。
花を置くかどうかは当番制にしない。
置きたい時だけ置く。
手紙も、絵も、小さな物も、何も置かない日もあっていい。
棚の名前は決めすぎない。
『蒼真の場所』
そう書くと、重すぎる気がした。
最終的に、棚には小さなカードが置かれた。
『置いておきたいもの』
小野先生は、黒板の前で静かに言った。
「私は、みんなに前を向いてほしいと思っていました」
教室の生徒たちが先生を見る。
「でも、前を向くためには、振り返る場所も必要なんだと、今日思いました」
悠斗はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
振り返る場所。
ずっとそこに立ち止まるためではなく。
忘れるためでもなく。
置きに行ける場所。
放課後、悠斗は蒼真の席の前に立った。
まだ、胸は痛い。
でも、朝のように逃げなかった。
机の上の花瓶を見た。
引き出しの中から見つかった未完成の紙飛行機を、両手で持つ。
灯理が少し離れた場所にいた。
「折りますか」
悠斗は首を横に振った。
「このままにします」
「未完成のまま?」
「はい」
悠斗は紙飛行機の白い面に、小さく文字を書いた。
『ごめん。まだ一緒に飛ばしたかった。』
それだけ。
長い手紙は書けなかった。
書こうとすると、言葉が崩れそうだった。
でも、その一文だけは書けた。
美玖と、数人のクラスメイトが校庭へ行くと言った。
「一緒に飛ばす?」
美玖が尋ねた。
悠斗は少し迷った。
一人で飛ばしたい気もした。
でも、一人では持てない重さもあった。
「うん」
校庭に出ると、夕方の風が吹いていた。
山の方から、少し冷たい風。
悠斗は未完成の紙飛行機を持った。
片方の翼だけが折られているから、きっとまっすぐには飛ばない。
それでいいと思った。
蒼真と一緒に完成させるはずだったものだ。
完全ではないまま、飛ばす。
悠斗は息を吸った。
「蒼真」
小さく呼んだ。
返事はない。
でも、名前を呼べた。
「ごめん」
その言葉も、ようやく外へ出た。
悠斗は紙飛行機を投げた。
紙飛行機は、すぐに傾いた。
片方の翼だけで風を受け、少し回りながら落ちかける。
けれど、校庭の真ん中でふわりと持ち直し、低く、短く、前へ進んだ。
まっすぐではない。
遠くもない。
でも、飛んだ。
美玖が小さく言った。
「飛んだね」
悠斗は頷いた。
喉の奥が熱かった。
涙が少し出た。
止めなかった。
紙飛行機は校庭の端の草の上に落ちた。
悠斗は拾いに行かなかった。
しばらく、そのまま見ていた。
放課後の教室に戻ると、蒼真の席はまだそこにあった。
でも、朝とは少し違って見えた。
机をなくしても、残しても、蒼真が戻ってくるわけではない。
それは変わらない。
でも、蒼真のことを置く場所は、席だけではなかった。
棚にも置ける。
紙飛行機にも置ける。
名前を呼ぶ声にも置ける。
謝れなかった言葉にも、今から少しだけ場所を作れる。
悠斗は空いた席を見た。
胸は痛い。
でも、目を逸らさなかった。
「またな」
小さく言った。
その声は誰にも聞こえないくらい小さかった。
でも、悠斗には聞こえた。
夜、灯理は中学校を出た。
校舎の窓には、まだ二年一組の明かりがついている。教室の後ろでは、小野先生と数人の生徒が小さな棚を整えていた。
棚には、まだ何も多くは置かれていない。
小さなカード。
折れた定規。
誰かが書いた一行のメモ。
そして、校庭から拾われたのか、未完成の紙飛行機がそっと置かれていた。
小野先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、大切な時間に立ち会わせていただきました」
小野先生は校舎を振り返った。
「私は、クラスを日常に戻さなければと思っていました」
「はい」
「もちろん、それも必要です。授業も、行事も、生活も続いていく。でも、日常に戻すことと、蒼真くんの存在を急いで片付けることを、混同していたのかもしれません」
灯理は黙って聞いた。
小野先生は続けた。
「前を向こう、と何度も言いました。でも、振り返る場所も作ろうとは言っていませんでした」
「今日、皆さんで作りましたね」
「はい」
小野先生は少し目を潤ませながら笑った。
「席は、いつか変わると思います。でも、あの子たちが置きたい時に置ける場所は、残そうと思います」
校庭の方から、夜風が吹いてきた。
草の匂いがした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、都市部の学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
空いた席。
未完成の紙飛行機。
言えなかった謝罪。
置いておきたいものを置ける棚。
失った人との関係は、そこで終わるわけではない。
同じ形のままでは持てなくなっても、別の形に変えて持ち直すことができるかもしれない。
灯理は静かな校舎を振り返り、山から降りる夜風の中をゆっくり歩いていった。




