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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第8章 第5話:語り継ぎの授業――物語を終わらせたい少女


 山里の朝は、霧の中から声が生まれる。


 川の流れる音が、まだ白い空気の底で小さく響いていた。山の斜面には段々畑が続き、軒先には干した草が束ねられている。木造の家々の屋根には夜露が残り、細い道を歩くと、湿った土と薪の匂いがした。


 小中一貫校の校舎は、村の中心より少し高い場所にある。


 窓からは、山と畑と集落が見渡せた。晴れた日には遠くの峠まで見えるが、この朝は霧が深く、山の輪郭はやわらかく滲んでいた。


 ユイナは、体育館の舞台袖で原稿を握っていた。


 紙には、地域に伝わる民話が書かれている。


『狐火の山道』


 山に迷い込んだ子どもが、狐の灯す火に導かれ、最後には母の声を聞いて家へ帰る話。


 この地域では昔から語られてきた民話だ。


 祖父の清吉は、民話保存会の語り部だった。村の祭りや学校行事で、何度もこの話を語ってきた。低く、ゆっくりした声で、聞いている人が自然と息を潜めるような語り方をする。


 今年の地域発表会では、ユイナがその民話を語ることになっている。


 保存会の人たちは喜んだ。


「清吉さんの孫なら安心だ」


「やっと次の語り手が育つね」


「同じ節回しを覚えれば大丈夫」


 そう言われるたびに、ユイナの胸は重くなった。


 同じように語る。


 同じ間で止まる。


 同じ声の低さで、同じ言葉を使う。


 そんなこと、自分にはできない。


 そもそも、今の子どもたちは民話なんて聞かない。


 暗記して語るより、祖父の語りを録音して残せばいいではないか。


 録音なら間違えない。


 何度でも再生できる。


 自分が舞台に立って、震える声で昔話を語る必要なんてない。


「ユイナ、そろそろ練習するよ」


 咲良先生が舞台袖に入ってきた。


 地域学習を担当している教師で、民話保存会との発表会を準備している。地域の伝承を大切にしたいと思っているが、生徒たちがどこか押しつけられているような顔をするたび、不安そうに眉を寄せていた。


「はい」


 ユイナは返事をしたが、足は重かった。


 舞台には、同じクラスの生徒たちが集まっている。


 民話の朗読をする子。


 背景画を描く子。


 山里の昔の暮らしを紹介する子。


 ユイナは中央に立ち、原稿を開いた。


「むかし、むかし、この山に――」


 声が平たくなった。


 自分でもわかる。


 ただ読んでいるだけだ。


 祖父なら、最初の「むかし」で、もう山の暗さを連れてくる。


 ユイナにはできない。


「もう少し、清吉さんみたいに間を取ってみようか」


 保存会の一人が言った。


「狐が出るところは、もっと低く」


「母の声のところは、清吉さんは長く待つんだよ」


「そこがこの話の肝だからね」


 ユイナは原稿を握りしめた。


 わかっている。


 何度も聞いた。


 でも、同じようにはできない。


「録音を流せばいいじゃないですか」


 気づけば、そう言っていた。


 体育館が静かになった。


 咲良先生がユイナを見る。


「ユイナ」


「だって、おじいちゃんの語りを残したいなら、録音の方が正確です。私が間違えて話すより、ずっといいです」


 保存会の人たちは困ったような顔をした。


 ユイナは止まれなかった。


「今の子、昔話なんて退屈だと思ってます。私が語らなくても、動画にしておけばいいと思います」


 舞台の後ろで、低い咳払いが聞こえた。


 祖父の清吉が立っていた。


 灰色の作業着に、古い帽子。


 いつの間に来ていたのか、体育館の入口から静かにこちらを見ている。


 ユイナは思わず目を逸らした。


「そうか」


 清吉は短く言った。


 怒ってはいなかった。


 それが、余計に苦しかった。


 その時、体育館の入口でもう一つの声がした。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が立っていた。


 霧の中を歩いてきたのか、肩に小さな水滴がついている。彼女は体育館の舞台と、集まった生徒たち、保存会の人々、そしてユイナの手元の原稿を順に見た。


「白瀬先生」


 咲良先生が少しほっとしたように迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は語り継ぎの授業に混ぜていただきます」


 ユイナは灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、咲良先生から紹介されていた。


 灯理はユイナのそばまで来た。


「同じように語るのが、難しいですか」


 ユイナは唇を結んだ。


「難しいというか」


「はい」


「無理です」


 原稿の端が、指の中で少し折れた。


「先生、同じように語れないなら、私がやる意味はありません」


 灯理はすぐには答えなかった。


 舞台の向こう、体育館の窓の外にある霧の山を見た。


 それから、静かに言った。


「うん。では、同じようにではなく、聞いたあなたの声で渡すことはできないでしょうか」


 ユイナは顔を上げた。


「私の声で?」


「はい」


「でも、それだと違う話になります」


「どこが同じなら、物語は渡ったと言えるのでしょう」


 ユイナは答えられなかった。


 午前の授業は、体育館ではなく、集会室で行われた。


 畳敷きの小さな部屋。


 壁には古い村の写真と、民話保存会の活動記録が貼られている。中央には座布団が並べられ、奥には録音機と小さなマイクが置かれていた。


 清吉が前に座る。


 生徒たちは少し緊張した様子で向かい合った。


 灯理は黒板に書いた。


『物語を一度、自分の耳で聞き直す』


 咲良先生が生徒たちへ言った。


「今日は、筋を覚えるのではなく、語りを聞きます」


 灯理が続ける。


「聞くところは、言葉だけではありません」


 黒板に項目が並ぶ。


『どこで声が低くなるか』

『どこで早くなるか』

『どこで間があるか』

『どの言葉を大事にしているか』

『語り手の目がどこを見るか』

『なぜその場面を大事に語るのか』

『自分の中に残った音』


 ユイナは腕を組んで座っていた。


 物語の筋なら知っている。


 何度も聞いた。


 今さら聞き直して何になるのかと思った。


 清吉が静かに息を吸った。


 集会室の空気が変わった。


「むかし、むかし」


 低い声が、畳の上を滑るように広がった。


「この山の奥には、夜になると狐火が灯る道があったそうな」


 窓の外で、風が竹を揺らした。


 生徒たちの背筋が少し伸びる。


 清吉の声は、大きいわけではない。


 でも、不思議と聞き逃したくない声だった。


 山道に迷った子ども。


 日暮れ。


 木々の影。


 遠くで鳴く鳥。


 足元に灯る青白い狐火。


 その火を追って歩くうちに、子どもはさらに深い山へ入ってしまう。


 ユイナは何度も聞いたはずの話を、ノートを持ちながら聞いた。


 どこで祖父の声が変わるか。


 どこで間があるか。


 清吉は、狐火が現れる場面で声を少し低くした。


 子どもが泣き出すところで、少し早くなった。


 そして、山の奥から母の声が聞こえる場面で、長く黙った。


「……その時」


 清吉の声が止まる。


 畳の部屋が静まり返る。


 生徒たちは息を止めた。


 ユイナも、鉛筆を止めた。


 沈黙が長い。


 長すぎるくらい長い。


 でも、誰も動かない。


 清吉は、窓の外の山の方を見ていた。


「山の向こうから」


 また少し間。


「母の声が、聞こえた」


 その一言が落ちた時、ユイナの胸に何かが残った。


 怖いのに、少し温かい。


 暗い山の中で、誰かが名前を呼ぶ声。


 そこだけ、祖父の語りは他の場面と違っていた。


 話が終わると、集会室の空気はしばらく戻らなかった。


 生徒たちはノートを見たり、清吉を見たりしている。


 灯理が尋ねた。


「どこが残りましたか」


 生徒たちは少しずつ答えた。


「狐火のところ、声が低くなった」


「山道の描写が怖かった」


「子どもが泣くところ、早くなった」


「母の声の前、すごく長く黙った」


 ユイナは顔を上げた。


 それは自分も思った。


 灯理が清吉を見る。


「清吉さん、母の声の前で、長い間がありました」


 清吉は膝に置いた手を見た。


「そうか」


「何か理由がありますか」


 清吉はすぐには答えなかった。


 また、あの間があった。


 語りの中と同じ、長い沈黙。


 ユイナは、祖父が何かを探しているように見えた。


「わしもな」


 清吉はようやく話し始めた。


「子どもの頃、山で迷ったことがある」


 集会室が静かになる。


 ユイナは驚いて祖父を見た。


 そんな話、聞いたことがなかった。


「薪拾いに行って、友だちとはぐれてな。夕方になって、道がわからなくなった。山は、知っているようで、日が落ちると急に顔を変える」


 清吉の声は、民話を語る時よりも少し細かった。


「怖くて、泣きながら歩いた。どこへ行っても同じ木に見える。足元は暗い。狐火は見なかったが、何かに見られている気はした」


 ユイナは原稿を握る手を緩めた。


「その時、母の声がした」


 清吉は窓の外を見る。


「名前を呼ぶ声だ。遠くから、何度も。あれを聞いた時、怖いのに、体が少し温かくなった」


 祖父の横顔は、語り部ではなく、一人の子どもを思い出している人の顔だった。


「だから、あの場面は急げない」


 清吉は言った。


「声が届くまでの暗さがある。待つ時間がある。そこを飛ばすと、母の声がただの言葉になってしまう」


 ユイナはノートに書いた。


『声が届くまでの暗さ』

『待つ時間』

『ただの言葉にしない』


 胸の奥が少し揺れた。


 民話は、古い話だと思っていた。


 村に昔からある、誰かが作った話。


 でも、祖父が語る時、その中には祖父自身の山の記憶が重なっていた。


 だから、あの間があった。


 録音には残るかもしれない。


 でも、その間の理由を聞かなければ、ただ真似するだけになる。


 中盤の授業で、生徒たちはそれぞれ、自分に残った場面を選ぶことになった。


 筋全体を覚えるのではない。


 どの場面が、自分の耳に残ったか。


 ユイナは迷わず、母の声の場面を選んだ。


 でも、祖父と同じように語る自信はない。


 声の低さも、間の長さも、あの重さも、自分には出せない。


 灯理がユイナのノートを見た。


「ここを選んだんですね」


「はい」


「どうしてですか」


「おじいちゃんの話を聞いたら、そこだけ違って聞こえました」


「はい」


「でも、私が語っても、同じにはなりません」


 灯理は頷いた。


「同じ物語を語ることと、同じ声で語ることは、同じでしょうか」


 ユイナは清吉を見た。


 祖父は保存会の人と何かを話している。


 あの声には、祖父の山がある。


 自分には、自分の山があるのだろうか。


 山で迷ったことはない。


 狐火も見たことがない。


 でも、霧の濃い朝に通学路で一人になって、不安になったことはある。


 母の声ではないが、家の方から祖母が名前を呼んだ時、急に安心したことがある。


 それは小さな記憶だ。


 民話に比べれば、何でもないようなことだ。


 でも、自分の中にある「呼ばれる声」だった。


 午後、ユイナは舞台で再び練習した。


 今度は原稿を少し下げた。


 全部を祖父の節回しでなぞろうとしない。


 まず、自分が残したい場面を考える。


 山の暗さ。


 名前を呼ぶ声が届くまでの時間。


 怖さと温かさが同時にある感じ。


 ユイナは息を吸った。


「子どもは、もう道がわからなくなっていました」


 朝より少し、声が落ち着いている。


「右を見ても、左を見ても、木ばかりでした。さっきまで知っていた山が、知らない山になっていました」


 咲良先生が顔を上げる。


 保存会の人も静かに聞いている。


 ユイナは続けた。


「足元に、青い火がひとつ灯りました。ゆらり、ゆらりと、逃げるように先へ行きます」


 狐火の場面。


 祖父ほど低くはできない。


 でも、自分の声で少しだけ暗さを作る。


 そして、母の声の前。


 ユイナは黙った。


 舞台の上で、沈黙が広がる。


 朝のように、祖父の間を真似しようとして数えるのではない。


 自分の中で、名前を呼ばれるまでの時間を待つ。


 霧の朝。


 一人の通学路。


 遠くから聞こえた声。


 まだ不安で、でも少し安心した、あの感じ。


 ユイナは、その記憶を胸の中で待った。


 それから、言った。


「その時、山の向こうから、母の声がしました」


 体育館の空気が、少し変わった。


 大きな変化ではない。


 でも、ざわついていた生徒たちが静かになった。


 ユイナは最後まで語り終えた。


 読み終えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


 咲良先生がゆっくり拍手した。


 保存会の人たちも続いた。


 清吉は黙っていた。


 ユイナはそれが怖かった。


 祖父にとっては、違いすぎたかもしれない。


 間違えたところもあった。


 言い回しも少し変わった。


 自分の言葉を入れてしまった。


 清吉は、しばらくして口を開いた。


「お前の声で渡せたな」


 ユイナは目を見開いた。


「いいの?」


「わしとは違う」


「うん」


「でも、あの間を捨てなかった」


 清吉は小さく頷いた。


「それでいい」


 ユイナは原稿を見た。


 紙に書かれた文字は同じだ。


 でも、朝とは違って見えた。


 同じ言葉を繰り返すことが、語り継ぎだと思っていた。


 同じ声を真似ることが、継ぐことだと思っていた。


 でも、祖父の間の理由を聞き、自分の中にある声を探して語った時、物語は少しだけ自分のものになった。


 そして、自分のものになったからこそ、次へ渡せるのかもしれない。


 発表会の日。


 体育館には、地域の人たちと保護者、低学年の子どもたちが集まっていた。


 舞台の横には、民話保存会が持ってきた古い録音機や写真が展示されている。


 ユイナは舞台袖で深呼吸した。


 録音機も用意されていた。


 今日の語りを記録するためだ。


 でも、それは代わりに語ってもらうためではない。


 今日の声を残すためだった。


 咲良先生が小さく言った。


「大丈夫?」


「たぶん」


「同じようにしなくていいよ」


 その言葉に、ユイナは少し笑った。


「はい」


 舞台に立つ。


 客席の一番前に、清吉が座っている。


 背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。


 ユイナは原稿を開いた。


 でも、最初の一文を読む前に、少しだけ顔を上げた。


 山の方を見るように。


「むかし、むかし」


 自分の声が体育館に広がる。


「この山の奥には、夜になると狐火が灯る道があったそうです」


 子どもたちは静かに聞いていた。


 狐火が現れる場面で、小さな子が隣の友だちの袖をつかむ。


 山道で迷う場面で、誰かが息を止める。


 ユイナは焦らなかった。


 祖父の声ではない。


 自分の声。


 それでも、聞いている人たちの耳が少しずつ集まってくるのがわかった。


 母の声の場面に来た。


 ユイナは黙った。


 体育館の中が静かになる。


 外では風が木々を揺らしている。


 ユイナは、自分の中であの霧の朝を思い出した。


 一人の道。


 不安。


 遠くから名前を呼ぶ声。


 怖くて、少し温かい間。


 そして、ゆっくり言った。


「その時、山の向こうから、母の声がしました」


 低学年の子どもたちが、じっとこちらを見ている。


 ユイナは最後まで語り終えた。


 拍手は、少し遅れて起きた。


 最初に清吉が手を叩いた。


 それから、地域の人たち、生徒たち、先生たち。


 ユイナは深く頭を下げた。


 舞台袖に戻ると、清吉が待っていた。


「よかった」


 短い言葉だった。


 それだけで十分だった。


 ユイナは録音機を見た。


 まだ赤いランプが点いている。


 咲良先生が止めようとした時、ユイナは言った。


「待ってください」


 録音機の前にしゃがむ。


 マイクに向かって、小さく話す。


「私は、この間が怖くて、少し温かかったです」


 それだけ言って、録音を止めた。


 清吉が少し笑った。


「それも残すのか」


「うん」


「いい」


 清吉は頷いた。


「語りの後に、聞いた者の声が残るのもいい」


 夕方、発表会が終わった後、ユイナは集会室で録音データの整理を手伝っていた。


 祖父の過去の語り。


 今日の自分の語り。


 生徒たちの感想。


 保存会の人たちの話。


 それぞれに名前と日付をつける。


 ただ保存するためではない。


 誰かがまた聞き、自分の声で渡すために。


 灯理が隣に来た。


「録音で残すこと、少し違って見えますか」


 ユイナは頷いた。


「前は、録音があれば私が語らなくていいと思ってました」


「はい」


「でも、録音は終わらせるためじゃなくて、次に聞くためにも使えるんですね」


「うん」


「おじいちゃんの声を聞いて、私が語って、今日の私の声を誰かが聞くかもしれない」


 ユイナは録音機に手を置いた。


「同じじゃなくても、終わりじゃないんですね」


 灯理は微笑んだ。


「物語は、聞いた人の中で少しずつ声を変えながら、続いていくのかもしれません」


 ユイナは窓の外の山を見た。


 夕方の霧が少し晴れ、山道が細く見えている。


「先生」


「はい」


「昔話、まだ全部好きになったわけじゃないです」


「はい」


「長いし、難しい言葉もあるし、退屈なところもあります」


「うん」


「でも、終わらせたいとは、今は思いません」


 灯理は静かに頷いた。


「それは大きな変化ですね」


「次に語るなら」


 ユイナは少し考えた。


「どこが退屈だったかも、ちゃんと聞いてみたいです。聞く人がどこで遠くなるのか。そこから近づけるかもしれないから」


 灯理は嬉しそうに目を細めた。


「いい語り手ですね」


 夜、灯理は山里の学校を出た。


 校舎の窓には、発表会の片付けをする生徒たちの影がある。集会室では、清吉とユイナが録音機を挟んで座り、次に残す民話の相談をしていた。


 咲良先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、物語の渡る時間に立ち会わせていただきました」


 咲良先生は山の方を見た。


「私は、昔話を守りましょう、と生徒たちに言ってきました」


「大切な言葉ですね」


「ええ。でも、守るという言葉が、子どもたちには重かったのかもしれません。同じように覚えなければならない、間違えてはいけない、と」


 彼女は少し笑った。


「今日、ユイナの語りを聞いて、言い方を変えようと思いました」


「どんなふうに?」


「聞いた声を次へ渡しましょう、と」


 灯理は頷いた。


「きっと、受け取りやすくなります」


「民話は保存するものでもあります。でも、それだけではなく、聞くたびに、その人の中で少しずつ生き直すものなのですね」


 山の端に、月が出ていた。


 霧は薄くなり、谷の家々に灯る明かりがぽつぽつと見える。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、まだ開いていない新しい依頼状が入っている。


 けれど、今は開かなかった。


 校舎の中から、ユイナの声が少しだけ漏れてきた。


 次の民話の一節を、祖父に教わりながら読んでいる声だった。


 祖父の声とは違う。


 録音された昔の声とも違う。


 けれど、その声の中には、山の暗さと、母の声を待つ間が少しだけ残っている。


 物語は、同じ場所に留まるものではない。


 誰かの耳に入り、胸の中で時間を置き、次の声になって渡っていく。


 灯理は山里の夜気を吸い込み、静かに坂道を下っていった。

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