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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第7章 第3話:海洋の授業――拾っても減らない浜辺のプラスチック


 海辺の町の朝は、波の音よりも先に、風の音で始まる。


 防波堤を越えて吹いてくる風は、潮の匂いを含んでいた。干した網の匂い、濡れた砂の匂い、漁港の氷の匂い。校舎の窓を開けると、遠くで鳴く海鳥の声が教室まで届く。


 町の中学校は、浜辺から歩いて五分の場所にあった。


 校庭のフェンス越しに、海が見える。


 晴れた日は青く、曇りの日は灰色に沈み、風の強い日は波が白く砕ける。


 ハルトは、その海が好きだった。


 小さい頃から、夏になると泳ぎ、冬には波打ち際を歩いた。父と釣りに行ったこともある。夕方の海が金色に光る時間は、どんな景色よりもきれいだと思っていた。


 けれど最近、海を見るたびに胸の奥が少し重くなる。


 理由は、浜辺のゴミだった。


「今日も清掃活動をします」


 朝のホームルームで、涼子先生が言った。


 涼子先生は、地域の海を守る活動に熱心な教師だった。自分でも休日に浜辺を歩き、漂着物の記録をしている。


「軍手とトングを忘れずに。危険なものは先生に知らせること。無理に拾わないこと」


 生徒たちは慣れた様子で返事をした。


 浜辺清掃は、この学校では珍しい行事ではない。


 月に何度か、授業の一部として行われる。地域の人と一緒に行うこともある。


 最初の頃、ハルトは張り切っていた。


 ゴミ袋いっぱいにプラスチックを集めると、海を守っている気がした。


 でも、何度も続けるうちに、その気持ちは少しずつ削れていった。


 拾っても、拾っても、また来る。


 昨日きれいにしたはずの浜辺に、次の日にはペットボトルが転がっている。


 食品包装の袋。


 発泡スチロールの破片。


 漁具の切れ端。


 細かく砕けたプラスチック。


 波は、何度でも新しいゴミを連れてくる。


 ハルトはトングを持ち、海へ向かう列に並んだ。


 その列の後ろに、一人の先生がいた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 潮風に髪を揺らしながら、浜辺へ続く道を静かに歩いている。


「白瀬先生」


 涼子先生が声をかけた。


「今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ、参加させていただきます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


 旅する先生。


 世界のさまざまな学校を訪ねて授業をしている先生。


 昨日、涼子先生から紹介されていた。


 ハルトは少しだけ灯理を見て、すぐに海へ視線を戻した。


 先生が一人増えたところで、浜辺のゴミが減るわけではない。


 砂浜に着くと、生徒たちはそれぞれの範囲に散った。


 波打ち際には、海藻と小枝が絡まり、その間に色とりどりのゴミが混じっていた。


 透明なペットボトル。


 青いキャップ。


 赤い食品包装。


 白い発泡スチロール。


 細いロープの切れ端。


 ハルトは黙って拾い始めた。


 トングでつかみ、袋へ入れる。


 つかみ、入れる。


 つかみ、入れる。


 単純な作業。


 けれど、少し離れた場所に同じ包装がまた落ちている。


 昨日も見た気がする。


 いや、先週も見た。


 同じ店の袋かもしれない。


 同じ種類の菓子の包装。


 ハルトは舌打ちした。


「どうせまた来るのに」


 隣で拾っていた同級生のミナが顔を上げる。


「何?」


「拾っても、次の日にはまた来る」


「まあね」


「意味あるのかな、これ」


 ミナは袋の中を見た。


「拾わないよりはいいんじゃない?」


「でも減らない」


 ハルトは波打ち際に転がるペットボトルを拾った。


 ラベルには、見慣れない文字が書かれている。


 この町のものではない。


 遠くから流れてきたのだろう。


「先生」


 ハルトは、近くにいた灯理へ声をかけた。


「はい」


「拾っても次の日にはまた来ます」


 灯理は、ハルトの袋の中を見た。


 そこには、すでにたくさんのプラスチックが入っている。


「うん」


「今日きれいにしても、明日はまた汚れてる」


「はい」


「これ、意味ありますか」


 灯理はすぐに励まさなかった。


 努力は大事だとか、続けることに意味があるとか、そういう言葉を言わなかった。


 ただ、波打ち際を見つめた。


「では、その『また』は、どこから来ているんだろう」


 ハルトは眉を寄せた。


「海からです」


「海のどこから?」


「それは……わかりません」


「わからないまま拾うと、終わらない作業に見えるかもしれませんね」


 ハルトは黙った。


 その通りだった。


 終わらない。


 それが、一番腹立たしかった。


 清掃活動が終わる頃、生徒たちのゴミ袋はいっぱいになっていた。


 涼子先生は全員を集め、いつものように言った。


「今日もたくさん拾えました。皆さん、お疲れさまでした。拾うことは大切です」


 その言葉に、ハルトは俯いた。


 大切。


 わかっている。


 でも、それだけでは足りない気がしていた。


 灯理が涼子先生にそっと声をかけた。


 涼子先生は少し考え、それから生徒たちへ向き直る。


「午後の授業は、白瀬先生と一緒に、拾ったゴミを調べます」


 教室へ戻ると、机の上にブルーシートが敷かれた。


 拾ったゴミは危険物を除き、種類ごとに洗浄・乾燥するものと、写真で記録するものに分けられた。


 灯理は黒板に書いた。


『拾ったごみの履歴書』


 生徒たちがざわつく。


「履歴書?」


「ゴミに?」


「名前とかあるの?」


 灯理は頷いた。


「名前の代わりに、手がかりを書きます」


 黒板には項目が並んだ。


『素材』

『形』

『文字やマーク』

『どこで使われた可能性があるか』

『どうやって海へ来たか』

『どれくらい小さくなっているか』

『拾えるもの/拾いにくいもの』


 ハルトは、朝拾った見慣れない文字のペットボトルを机に置いた。


 ラベルは破れ、キャップはなくなっている。


 表面には細かな傷がついていた。


「これ、遠くの国の文字じゃない?」


 ミナが言った。


「たぶん」


「じゃあ、遠くから流れてきたんだ」


 ハルトはノートに書く。


『遠くの国で使われた可能性』

『海流で流れてきた?』

『キャップなし』

『傷が多い』


 別の班では、同じ種類の食品包装がいくつも見つかっていた。


「これ、駅前の店で売ってるやつじゃない?」


「うん。ロゴが同じ」


「この町から出たのかも」


 また別の班では、漁具の切れ端を調べていた。


「これは漁港から?」


「でも、古そう」


「網の一部かな」


 細かく砕けたプラスチックの班は苦戦していた。


 元が何だったのかわからない。


 色だけが残っている。


「これ、拾いにくい」


「トングでつかめない」


「もっと小さくなったら、どうなるの?」


 涼子先生が答えた。


「魚や鳥が飲み込むことがあります。さらに小さくなると、回収がとても難しくなります」


 教室の空気が少し重くなった。


 ただのゴミ。


 そう思っていたものが、海の中で別の問題になっていく。


 ハルトはペットボトルを見つめた。


 このボトルは、どこかで誰かが飲み終えたものだ。


 ゴミ箱に入れなかったのかもしれない。


 川へ落ちたのかもしれない。


 嵐で流されたのかもしれない。


 船から落ちたのかもしれない。


 遠くの町の小さな行動が、この浜辺へ届いている。


 中盤、灯理は生徒たちを学校の近くを流れる川へ連れて行った。


 その川は、町の中心を抜けて海へ注いでいる。


 橋の下には、ペットボトルのキャップや菓子の袋、たばこの吸い殻が引っかかっていた。


 ハルトは驚いた。


「浜辺じゃなくて、ここにもある」


 涼子先生が頷く。


「雨が降ると、ここから海へ流れます」


「じゃあ、海のゴミって、町のゴミでもあるんですか」


「そうです」


 次に、排水路を見た。


 商店街の裏を通る小さな溝には、風で飛ばされた包装紙がたまっていた。


 朝の清掃で見たのと同じ種類の包装もあった。


 ハルトはしゃがみ込んだ。


「これ、浜辺にあったやつと同じだ」


 ミナが隣で言う。


「ここから流れたのかな」


「たぶん」


 ハルトの中で、何かがつながった。


 浜辺に突然現れるわけではない。


 町から川へ。


 排水路から海へ。


 漁港から波へ。


 遠くの国から海流に乗って。


 いくつもの道を通って、あの砂浜に来ている。


 学校へ戻る途中、ハルトは灯理の隣を歩いた。


「先生」


「はい」


「拾っても減らないんじゃなくて」


 ハルトは言葉を探した。


「拾うだけだと、流れてくるのが止まらないんですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「じゃあ、拾う意味はありますか」


「あります」


「でも、それだけじゃ足りない」


「そう思います」


 ハルトは川の方を見た。


「浜辺で拾う手と、町で流さない手は、別の人の手でしょうか」


 灯理が静かに問いかけた。


 ハルトはすぐには答えられなかった。


 浜辺で拾うのは自分たち。


 町で流さないのも、もしかしたら自分たち。


 商店街の人。


 漁港の人。


 観光客。


 学校。


 家庭。


 全部が別々のようで、同じ海へつながっている。


「別じゃないと思います」


 ハルトは言った。


「でも、一人じゃ無理です」


「はい」


「だから、つなげるんですね」


 灯理は微笑んだ。


「今日、ハルトくんが見つけたことですね」


 午後の後半、生徒たちは「流れる前に止める」案を考えた。


 ただのポスター作りでは終わらせない。


 灯理はそう言った。


「見る人にお願いするだけでなく、自分たちが関われる仕組みを考えてみましょう」


 班ごとに案が出た。


「排水路のゴミ受けを点検する日を作る」


「商店街の人に、風で飛びやすい包装の置き方を相談する」


「漁港に、壊れた漁具を入れる回収箱を置けないか聞く」


「観光客向けに、ゴミ箱の場所をわかりやすくする」


「浜辺で拾ったごみの履歴書を展示する」


「同じ包装が多かった店に、結果を持って行く」


 ハルトの班は、商店街の包装に注目した。


 朝拾った同じ種類の袋。


 排水路にたまっていた同じ袋。


 それを写真に撮り、数を記録する。


「店を責めるみたいにならないかな」


 ミナが心配そうに言った。


「責めるんじゃなくて、相談する」


 ハルトは言った。


「風で飛びやすい場所に置いてあるのかもしれないし、店の人も知らないかもしれない」


 涼子先生が近づいてきた。


「いいですね。まず事実を持って、相談に行きましょう」


 ハルトはノートに書いた。


『拾う』

『記録する』

『流れる場所を見る』

『相談する』

『流れる前に止める』


 その日の放課後、ハルトたちは涼子先生と一緒に商店街へ向かった。


 駅前の小さな店には、朝拾った包装と同じ菓子が並んでいた。


 店主は最初、少し警戒した顔をした。


「うちのゴミだって言うのかい?」


 ハルトは慌てて首を振った。


「決めつけたいわけじゃありません」


 ミナが写真を見せる。


「浜辺と排水路で、この包装がいくつか見つかりました」


 涼子先生が続ける。


「風で飛ばされやすい場所や、店の外のゴミ箱の使い方を一緒に見直せないかと思いまして」


 店主は写真を見た。


 少し眉をひそめる。


「確かに、観光客が店先で食べて、袋をベンチに置いたまま行くことがあるな」


「ゴミ箱はありますか」


「店の中にはある。でも外からは見えにくいかもしれない」


 ハルトは店の前を見た。


 風が通り抜ける場所だ。


 軽い袋なら、すぐに排水路へ飛ぶかもしれない。


「外に案内を出すのはどうですか」


 ハルトが言った。


「ゴミ箱はこちら、って。あと、袋が飛ばないように、食べ終わったらすぐ捨ててもらえるように」


 店主は腕を組んだ。


「子どもに言われるとはな」


 少し気まずい沈黙。


 しかし店主は、やがて笑った。


「でも、海が汚れるのは困る。うちも観光の店だからね。ゴミ箱の案内、作ってくれるかい」


 ハルトは目を見開いた。


「いいんですか」


「ただし、説教くさいのはだめだよ」


 ミナが笑った。


「わかりました」


 翌週、学校では「拾ったごみの履歴書」展示が始まった。


 廊下には、写真と記録が並んでいる。


 遠くの文字が書かれたペットボトル。


 商店街の包装。


 漁具の切れ端。


 細かなプラスチック。


 それぞれに、使われた場所の可能性、流れてきた道、止められるかもしれない場所が書かれていた。


 漁港には、壊れたロープや網を入れる回収箱を試験的に置かせてもらうことになった。


 商店街の店先には、生徒たちが作った案内が貼られた。


『この袋、風に乗ると海まで行きます』

『食べ終わったら、こちらのゴミ箱へ』

『町の手で、浜辺の前に止めよう』


 ポスターだけではない。


 ゴミ箱の場所も変えた。


 排水路の近くには、飛ばされやすい軽い包装がたまらないよう、商店街の人たちと一緒に点検する日が作られた。


 次の浜辺清掃の日。


 ハルトはまた砂浜に立っていた。


 ゴミはあった。


 なくなってはいない。


 ペットボトルも、発泡スチロールも、細かなプラスチックもある。


 けれど、ハルトの手は前より少し違っていた。


 拾って、ただ袋に入れない。


 写真を撮る。


 種類を確認する。


 どこから来た可能性があるか考える。


 同じものが多ければ記録する。


 ミナが言った。


「また同じ包装、今日は少ないかも」


 ハルトは袋の中を見た。


「うん。ゼロじゃないけど」


「少しは変わったのかな」


「まだわからない」


 ハルトは砂浜の向こうにある町を見た。


「でも、調べればわかるかもしれない」


 灯理がそばに来た。


「今日の浜辺は、どう見えますか」


 ハルトは波打ち際を見る。


「前は、終わらない場所に見えました」


「はい」


「今も、終わってはいません」


「うん」


「でも、ここだけで終わっていないこともわかりました」


 彼は拾ったペットボトルを手に取った。


 ゴミ袋へ入れる前に、記録用紙へ書く。


『透明ペットボトル』

『キャップなし』

『ラベルなし』

『波打ち際』

『傷多い』

『どこから来たか不明』


 書いてから、ゴミ袋へ入れた。


「先生」


「はい」


「これ、どこから来たんだろう」


 灯理は頷いた。


「その問いが、次の手を探してくれますね」


 放課後、ハルトは浜辺の階段に座っていた。


 清掃活動は終わったが、海にはまだ小さな波が寄せている。


 涼子先生が隣に腰を下ろした。


「ハルト」


「はい」


「最近、少し表情が変わったね」


「そうですか」


「前は、清掃の後にいつも悔しそうだった」


 ハルトは足元の砂を見た。


「今も悔しいです」


「うん」


「拾っても、まだ来るから」


「そうね」


「でも、来る理由を調べられるなら、何かできる気がします」


 涼子先生は海を見た。


「私は、拾うことが大切だとずっと言ってきました」


「大切だと思います」


「ええ。でも、拾うことだけを続けさせて、生徒たちを疲れさせていたのかもしれない」


 涼子先生は静かに息を吐いた。


「流れる前を見ることも大切ね」


 ハルトは頷いた。


「浜辺で拾うのと、町で止めるのを、同じ授業にしたいです」


「しましょう」


 涼子先生は微笑んだ。


「次の地域会議に、あなたたちの記録を持って行きます」


 夜、灯理は海辺の中学校を出た。


 校舎の窓には、まだ展示作業を続ける生徒たちの姿がある。廊下には、拾ったごみの履歴書が一枚ずつ並び、まるで海から届いた手紙のように壁を埋めていた。


 涼子先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、海の続きを見せていただきました」


 涼子先生は、暗くなり始めた浜辺の方を見た。


「海を守る、という言葉は大きすぎて、生徒たちの手には余るのだと思っていました」


「大きな言葉ですね」


「でも、拾った一つの袋から、町の排水路へ、商店街へ、漁港へ、話がつながっていく。そうすれば、手の届く問題になるのですね」


 灯理は頷いた。


「大きな海も、小さな流れから来ているのだと思います」


 風が吹き、遠くで波が白く崩れた。


 鞄の中には、寒冷地の理工系学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 灯理は最後に、浜辺の方を振り返った。


 そこではハルトが、拾ったペットボトルをゴミ袋へ入れる前に、もう一度ラベルを確かめていた。


 ただ拾うだけではなく、問いを拾っている。


 どこから来たのか。


 どうすれば流れる前に止められるのか。


 誰の手とつなげればいいのか。


 海は、まだすべてをきれいにしてくれたわけではない。


 けれど、浜辺に立つ子どもたちの目は、前より少し遠くまで見ていた。


 灯理は潮風を受けながら、ゆっくりと夜の道へ歩き出した。

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