第7章 第2話:動物の授業――かわいいだけの飼育係
郊外の学校には、小さな牧場がある。
校舎の裏手に広がる草地には、低い柵が巡らされ、朝の光を受けた露が葉先で揺れていた。鶏小屋からは、まだ眠そうな鳴き声が聞こえる。干し草の匂いと、湿った土の匂いと、動物たちの体温が混じった空気が、ゆっくりと一日を始めていた。
ふれあい牧場。
そう呼ばれるその場所は、学校の自慢だった。
子どもたちは当番制で動物の世話をする。
餌を用意し、水を替え、寝床を掃除し、体調を記録する。低学年の児童が見学に来ることもあり、地域の人たちが休日に訪れることもある。
エラは、その牧場が大好きだった。
特に、子ヤギのミルクが好きだった。
白い毛に、薄い茶色の斑点。
細い脚。
黒く丸い目。
ぴょんと跳ねるように歩く姿。
何もかもがかわいい。
「ミルク、おはよう!」
エラは柵の扉を開けると、真っ先に子ヤギの方へ駆け寄った。
ミルクは干し草のそばにいた。
まだ朝の餌を食べている途中だったが、エラはかまわずしゃがみ込む。
「今日もかわいいね」
彼女は両腕を伸ばし、ミルクの首元を抱きしめた。
ミルクの耳が、ぴたりと後ろへ倒れる。
小さな体が少し固くなる。
けれどエラは気づかなかった。
「ほら、写真撮ろう」
エラは片手でスマートフォン型の学習端末を取り出し、ミルクの顔に近づける。
ミルクは一歩、後ろへ下がった。
「逃げないでよ」
エラは笑いながら近づく。
ミルクはさらに下がった。
その様子を、牧場担当のオスカー先生が少し離れた場所から見ていた。
オスカー先生は、動物の飼育を担当する教師だった。大柄だが声は低く穏やかで、動物の前ではいつもゆっくり動く。
「エラ」
「はい?」
「ミルクは今、餌の途中ですよ」
「少しだけです。ミルク、私のこと好きなので」
エラは屈託なく答えた。
「昨日も近くに来てくれました」
「昨日は、あなたがおやつを持っていましたね」
「はい。ミルク、あのおやつ大好きなんです」
エラはポケットから小さな袋を取り出した。
ヤギ用のおやつ。
規定では、先生の許可がある時だけ少量与えることになっている。
しかしエラは、ミルクが喜ぶ顔を見たくて、つい多めにあげてしまうことがあった。
「今日はまだ、あげないでください」
オスカー先生が言った。
「でも、ちょっとだけなら」
「朝の餌を食べ終えてからです」
エラは少し不満そうに袋をしまった。
かわいがっているだけなのに。
ミルクが喜ぶことをしているだけなのに。
なぜ止められるのだろう。
牧場の門の近くに、一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
草地を歩いてきた靴の先に、朝露が少し光っている。
「白瀬先生」
オスカー先生が気づいた。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は飼育実習を見学させていただきます」
エラはミルクの背を撫でながら、灯理を見た。
旅する先生。
世界のいろいろな学校を訪ねる先生。
昨日、オスカー先生から紹介されていた。
灯理はミルクを見た。
ミルクは耳を後ろに伏せ、エラの手から少し体を離している。
それから、餌箱に残った干し草を見た。
「ミルクさんは、朝ごはんの途中でしたか」
「はい。でも、私が来ると嬉しいと思います」
エラはすぐに答えた。
「動物が好きなんですね」
「大好きです」
「ミルクさんの、どんなところが好きですか」
「全部です。顔も、鳴き声も、跳ねるところも、私に近づいてくるところも」
「近づいてくるところ」
灯理は静かに繰り返した。
「今は、近づいていますか」
エラはミルクを見た。
ミルクは、少し離れた場所で干し草の方を向いている。
「今は……餌を食べたいのかも」
「そうかもしれませんね」
灯理は頷いた。
朝の実習が始まった。
生徒たちは、それぞれの担当に分かれる。
鶏小屋の掃除。
ウサギの水替え。
羊の寝床の確認。
ヤギの餌の準備。
エラはミルクの担当だった。
彼女は手際よく水桶を持ち上げ、古い水を捨てる。新しい水を入れる前に、ふとミルクを見る。
ミルクは餌箱の前に立っている。
しかし、干し草が思ったより残っていた。
「あれ?」
エラは首を傾げた。
「ミルク、今日はあまり食べてない?」
オスカー先生が近づいてきた。
「昨日も少し残していました」
「具合が悪いんですか?」
「可能性はあります。けれど、別の理由も考えられます」
「別の理由?」
エラは不安そうに聞いた。
オスカー先生は彼女のポケットを見た。
「昨日、何回おやつをあげましたか」
エラは目を逸らした。
「二回……」
「本当に?」
「三回、かもしれません」
「量は?」
「少しずつです」
「少しずつが何度も重なると、ミルクの食事に影響します」
エラの胸が冷たくなった。
「でも、ミルクは喜んで食べました」
「おやつを欲しがることと、体に必要な食事が足りていることは同じではありません」
エラは言葉に詰まった。
喜んでいた。
だから、いいことだと思っていた。
自分があげると、ミルクが近づいてくる。
それが嬉しかった。
でも、餌を残す原因になっていたのだろうか。
午前の授業で、灯理は牧場の前に生徒たちを集めた。
「今日は、『かわいい』と言う前に観察する授業をします」
生徒たちが顔を見合わせる。
「かわいいって言っちゃだめなんですか?」
「触っちゃだめ?」
「ふれあい牧場なのに?」
エラは一番不満だった。
「先生、動物が好きだから近づきたいんです」
灯理は頷いた。
「うん。好きだから近づきたい気持ちは、とても自然です」
「じゃあ、どうして観察だけなんですか」
「では、ミルクさんは今、近づいてほしいと言っているかな」
エラはミルクを見た。
ミルクは柵の近くではなく、日陰の草の上に立っている。
耳は横へ向き、尻尾が小さく揺れている。
自分の方へ来ているわけではない。
「……わかりません」
「その『わからない』から始めてみましょう」
灯理は黒板代わりの掲示板に、観察項目を書いた。
『耳の向き』
『尻尾の動き』
『食べる量』
『休む場所』
『近づく時』
『離れる時』
『嫌がる仕草』
『他の動物との距離』
「一時間、動物に触らず観察します」
「一時間も?」
エラが思わず声を上げる。
「はい」
「ミルク、つまらないと思います」
「それも、観察してみましょう」
灯理は微笑んだ。
「ミルクさんが本当につまらないのか、休みたいのか、食べたいのか、誰かと距離を取りたいのか」
エラはしぶしぶ観察ノートを開いた。
最初の十分間は、退屈だった。
ミルクは劇的なことを何もしない。
干し草を少し食べる。
顔を上げる。
他のヤギの方を見る。
日向へ二歩進む。
また戻る。
耳が動く。
尻尾が揺れる。
それだけ。
エラは、撫でたいと思った。
名前を呼びたいと思った。
写真を撮りたいと思った。
けれど、灯理は何も言わず、生徒たちと一緒に柵の外から見ていた。
エラはノートに書く。
『ミルク、草を食べる』
『耳が動く』
『日陰にいる』
何を書けばいいのかわからない。
二十分ほど経った頃、別の生徒が柵の近くを走った。
その瞬間、ミルクの耳が後ろへ伏せた。
体が少し低くなる。
尻尾が止まる。
エラは、はっとした。
朝、自分が抱きしめた時も、ミルクの耳はこうだった。
同じだ。
彼女は慌ててノートに書いた。
『大きな動きがあると耳が後ろになる』
『体が固くなる』
『嫌なのかも』
さらに観察していると、ミルクは自分から他のヤギに近づく時、耳が横向きで、歩き方が柔らかいことに気づいた。
水桶の近くで飲む時は、誰かが近づくと一度顔を上げる。
距離が近すぎると、一歩下がる。
眠そうな時は、柵の奥の日陰に行く。
エラは、今まで見ていなかったものが急に増えていくのを感じた。
かわいい。
その一言でまとめていたミルクの中に、たくさんの合図があった。
授業の中盤、オスカー先生が餌箱を見せた。
「これは昨日の記録です」
掲示板に、ミルクの餌の量が書かれる。
朝の餌。
残した量。
おやつを食べた回数。
エラは自分の名前の欄を見て、顔が熱くなった。
先生に許可をもらった一回のほかに、自分がこっそりあげた分は書いていない。
「エラ」
オスカー先生の声は厳しくはなかった。
だから、余計に胸が痛んだ。
「はい」
「記録にないおやつはありましたか」
エラはしばらく黙ってから、頷いた。
「ありました」
「何回?」
「二回です」
「量は?」
「小さく割ったものを、何個か」
オスカー先生は頷いた。
「正直に言ってくれてありがとう」
エラは唇を噛んだ。
「すみません」
「ミルクがかわいかったから?」
「はい」
「近づいてきてくれるのが嬉しかった?」
「はい」
灯理が静かに尋ねた。
「エラさんの好きは、ミルクさんにとっても同じ形でしたか」
エラは何も言えなかった。
自分はミルクが好きだった。
それは本当だ。
でも、その好きは、ミルクを抱きしめること、写真を撮ること、おやつをあげることに偏っていた。
ミルクが休みたい時間。
餌を食べる順番。
近づいてほしくない距離。
耳や尻尾の合図。
そういうものを、見ていなかった。
「先生」
エラの声は小さかった。
「私、ミルクを大切にしてるつもりでした」
「はい」
「でも、自分が嬉しいことばかりしていたかもしれません」
灯理は頷いた。
「気づきましたね」
午後の実習では、エラはミルクに近づかなかった。
柵の外から、まず観察した。
ミルクは日陰にいる。
耳は横向き。
餌箱の干し草を少しずつ食べている。
尻尾はゆっくり揺れている。
エラは深く息を吸った。
扉を開ける前に、オスカー先生に確認する。
「水を替えてもいいですか」
「はい。ゆっくり近づいてください」
エラは柵の中へ入った。
いつものように名前を呼んで駆け寄らない。
正面から急に手を出さない。
少し離れた場所でしゃがむ。
ミルクがこちらを見る。
エラは手を出したくなった。
でも、止めた。
ミルクが一歩近づく。
また止まる。
耳は後ろに倒れていない。
エラは小さく言った。
「来なくてもいいよ」
自分でも不思議な言葉だった。
好きな相手に、来なくてもいいと言う。
でも、その言葉を言った時、ミルクの時間を少し尊重できた気がした。
エラは水桶を持ち上げた。
古い水を捨て、桶を洗う。
新しい水を入れる。
ミルクはその様子を少し離れて見ていた。
エラが桶を置いて下がると、ゆっくり近づいて水を飲んだ。
それだけだった。
触っていない。
写真も撮っていない。
おやつもあげていない。
でも、エラは胸の中が静かに満たされるのを感じた。
ミルクが必要なことをした。
ミルクが自分で近づき、自分のタイミングで水を飲んだ。
それを見守った。
午後遅く、ミルクが自分からエラの方へ歩いてきた。
エラは動かずに待った。
ミルクは彼女の手の匂いを嗅ぎ、少しだけ鼻先を寄せた。
エラは撫でたい気持ちを抑えて、オスカー先生を見る。
先生が小さく頷いた。
「首の横を、少しだけ」
エラはゆっくり手を伸ばした。
ミルクの耳は横を向いたままだ。
体は逃げていない。
エラは指先で、そっと首の横を撫でた。
一度だけ。
それから手を引いた。
ミルクはその場に残り、また水を飲みに行った。
エラは小さく笑った。
今までより短いふれあいだった。
でも、今までよりちゃんと届いた気がした。
放課後、飼育ノートを書く時間になった。
エラはページを開いた。
いつもなら、かわいかったことを書く。
『ミルクが近づいてきた』
『ミルクと写真を撮った』
『ミルクがおやつを食べた』
今日は違った。
彼女はゆっくり書いた。
『朝、抱きしめた時、耳が後ろに伏せていた。嫌がっていたかもしれない』
『餌を残していた。おやつをあげすぎた可能性がある』
『観察したこと。耳が横の時は落ち着いている。急に近づくと後ろに伏せる。水を飲む前に周りを見る』
『今日は水を替えた。ミルクが自分で近づくまで待った』
そして最後に、一行書いた。
『かわいいと思った時、まず相手の耳を見る』
書き終えた時、オスカー先生が隣に立っていた。
「よく見ていましたね」
エラは顔を上げた。
以前なら、「動物が好きなのはいいこと」と言われる方が嬉しかった。
でも今は、「よく見ていた」という言葉が胸に残った。
「先生」
「はい」
「好きって、触ることだけじゃないんですね」
「そうですね」
「水を替えることも、寝床を整えることも、近づかないことも、好きの中に入りますか」
オスカー先生は柔らかく笑った。
「入ります。とても大事な好きです」
灯理もそばに来た。
「今日のエラさんの好きは、少し形が増えましたね」
「増えた?」
「はい。触る好き、見る好き、待つ好き、世話をする好き」
エラはノートを見た。
そこには、かわいい写真の代わりに、耳の向きや餌の量が書かれている。
地味だ。
でも、大切だった。
「明日から、ミルクの嫌なサインも記録します」
エラは言った。
「嫌なサインを?」
「はい。嫌って言ってくれたら、やめられるから」
灯理は頷いた。
「それは、ミルクさんの声を聞くことですね」
夕方、牧場には柔らかな光が差していた。
羊たちは柵の近くで草を食べ、鶏は小屋へ戻り始めている。ミルクは日陰の草の上で、ゆっくりと座っていた。
エラは柵の外からその姿を見ていた。
近づかない。
呼ばない。
写真も撮らない。
ただ、耳の向きと呼吸のゆっくりした動きを見ている。
「寝そう」
彼女は小さく呟いた。
隣にいた同級生が言った。
「かわいい」
エラは笑った。
「うん。でも、今は寝たいかわいいだから、そっとしておく」
同級生は少し驚いて、それから頷いた。
「そっか」
夜、灯理は学校を出た。
牧場の方から、干し草を片付ける音が聞こえる。校舎の窓には、飼育ノートを整理する生徒たちの姿があった。
オスカー先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、動物たちの時間を見せていただきました」
オスカー先生は牧場の柵を振り返った。
「私はよく、動物が好きなのはいいことだ、と生徒に言ってきました」
「大切な気持ちですね」
「ええ。でも、好きな気持ちだけでは足りません。好きだからこそ、見なければいけないものがある」
彼は手元の飼育記録を見た。
「明日から、飼育ノートの項目を変えます。作業内容だけでなく、動物のサインを書く欄を作る。耳、目、食欲、距離、休む場所」
「いい記録になりますね」
「かわいがるだけでは、動物の生活は守れません。今日、エラがそれを教えてくれました」
灯理は静かに頷いた。
鞄の中には、海辺の町の中学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
夕暮れの牧場では、ミルクが寝床に入る前に一度だけ顔を上げた。
遠くにいるエラを見る。
エラは手を振りかけて、途中で止めた。
それから、声を出さずに小さく頷いた。
ミルクはまた顔を下げ、干し草の上に体を丸めた。
かわいい。
その言葉は、まだエラの中にある。
けれど、その前に、見ること。
待つこと。
相手の一日を壊さないこと。
灯理は静かになっていく牧場の匂いを胸に吸い込み、ゆっくりと次の道へ歩いていった。




