第7章 第4話:エネルギーの授業――消えない教室の明かり
寒冷地の朝は、窓ガラスの白さから始まる。
校舎の外では、まだ雪が残っていた。屋根の端から垂れた氷柱が朝日に光り、遠くの山は薄い雲に覆われている。吐く息は白く、登校してくる生徒たちは肩をすくめながら校門をくぐった。
理工系学校の校舎は、金属とガラスでできた大きな箱のようだった。
中に入ると、暖房の空気が頬を包む。廊下の照明は明るく、実験室では機械の低い音がもう鳴っていた。コンピュータ室では、充電中の端末が小さなランプを点滅させている。
寒い地域では、電気と熱は贅沢ではない。
教室を温めること。
廊下を明るくすること。
実験機器を動かすこと。
それらは、学ぶためにも、生きるためにも必要だった。
イヴァンは工作室の扉を開けた。
まだ誰もいない。
けれど彼は、迷わず照明のスイッチを押した。
白い光が天井いっぱいに広がる。
次に、暖房のスイッチを上げる。
機械のファンが低く鳴り始めた。
イヴァンは作業台に鞄を置き、昨日作りかけた小型ロボットを取り出した。配線、センサー、モーター。細かな部品を見ると、自然と胸が弾む。
彼は機械が好きだった。
便利なものが好きだった。
ボタン一つで動くもの。
温度を自動で調整するもの。
暗くなれば点灯するもの。
人の手間を減らし、暮らしを楽にする技術。
それこそが、理工の力だと思っていた。
「イヴァン」
扉のところから声がした。
カレン先生だった。
エネルギー工学を担当する教師で、白い息を吐きながら工作室に入ってくる。手には点検用のタブレットを持っていた。
「また、誰もいない部屋の明かりをつけたままにしていましたね」
「今、僕がいます」
「あなたが来る前から、隣の準備室もついていました」
「ああ、あとで使うかもしれないので」
イヴァンはロボットの配線を見ながら答えた。
「使う時につければいいでしょう」
「寒いし、暗いし、先につけておいた方が楽です」
「楽だからといって、必要のない電気を使い続けるのは考えものです」
カレン先生は静かに言った。
「電気を消しましょう、と何度も話していますね」
イヴァンは少し顔をしかめた。
また、その話だ。
電気を消しましょう。
暖房を下げましょう。
待機電力を減らしましょう。
エネルギーを大切にしましょう。
大事なのはわかる。
だが、イヴァンにはそれが、便利さを我慢しろと言われているように聞こえた。
「先生、電気を使わないなら不便になるだけです」
イヴァンは言った。
「この地域で暖房を切ったら寒いし、暗い部屋では作業できません。実験機器だって電気がなければ動かない」
「必要な電気まで否定しているわけではありません」
「でも、結局は消せ、減らせ、我慢しろ、でしょう」
カレン先生は何か言おうとして、言葉を止めた。
その時、工作室の入口に一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
外の寒さを連れてきたのか、肩に小さな雪の粒が残っている。
「白瀬先生」
カレン先生が気づいた。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は授業に少し混ぜてもらいます」
イヴァンは手元の部品を置き、灯理を見た。
旅する先生。
世界のさまざまな学校を訪ねて授業をしている先生。
昨日、カレン先生から紹介されていた。
灯理は工作室の明るい照明を見上げ、それから隣の誰もいない準備室の明かりを見た。
「よく明るい学校ですね」
「暗いと危ないですから」
イヴァンは答えた。
「はい。明かりは必要ですね」
灯理は頷いた。
「では、あちらの準備室の明かりは、今、誰のためについているのでしょう」
イヴァンは少し詰まった。
「あとで使うかもしれないから」
「今は?」
「今は……誰もいません」
「うん」
灯理は責めるようには言わなかった。
ただ、そこにある明かりを一緒に見ているようだった。
午前の授業で、灯理は黒板に大きく書いた。
『一日の電気の足跡』
生徒たちは、エネルギー棟の教室に集まっていた。
窓の外は雪混じりの風が吹いている。教室の中は暖かい。照明は明るく、各机には実験用端末が置かれていた。
「今日は、学校で使っている電気を追いかけます」
灯理が言った。
「電気は、スイッチを押すとつきます。でも、その手前と、その先には何があるのでしょう」
黒板には調査項目が並んだ。
『照明』
『暖房』
『パソコン』
『実験機器』
『給湯』
『食堂』
『充電器』
『使っていない部屋』
『待機電力』
イヴァンは少し興味を持った。
ただ消しましょうと言われるよりは、調査の方が面白い。
生徒たちは班に分かれ、学校内の電気使用を調べることになった。
イヴァンの班は、工作室と実験室を担当した。
照明の数。
暖房の設定温度。
使っている機械。
使っていないのにコンセントに挿さったままの機器。
充電し終わってもつながれた端末。
誰もいない準備室の明かり。
イヴァンは記録用紙に数字を書き込んだ。
「思ったより多いな」
同じ班のマリが言った。
「この学校、機械多いし」
イヴァンは答える。
「必要だから仕方ない」
「でも、これ」
マリは準備室を指した。
「誰もいないのに、照明も暖房もついてる」
「あとで使うかもしれない」
「あとでって、いつ?」
イヴァンは時計を見た。
次に使うのは午後三時。
今は午前十時。
五時間後だった。
さすがに、少し長い。
けれど、彼はすぐに認めたくなかった。
「寒い部屋を温めるのに時間がかかるから」
「でも、五時間ずっと?」
マリは記録用紙に書いた。
『誰もいない準備室:照明・暖房使用中』
その文字が、イヴァンには少し責めているように見えた。
昼前、生徒たちは学校の管理室を訪ねた。
壁には大きなモニターがあり、校内の電力使用量がグラフで表示されている。
設備担当の男性が説明した。
「朝の登校時間に一気に上がります。照明、暖房、給湯、コンピュータ。昼は食堂も大きく使います。夕方は実験室の使用状況で変わります」
イヴァンはグラフを見た。
電気が、線になって見えている。
いつ増え、いつ減るのか。
学校の一日の動きが、そのまま波のように表れていた。
「使っていない部屋も、ここでわかるんですか」
マリが聞く。
「ある程度はね。部屋ごとのデータがあります」
設備担当者が画面を切り替えると、イヴァンが朝つけた準備室の数値が表示された。
小さな部屋なのに、照明と暖房の使用量がずっと続いている。
イヴァンは少し気まずくなった。
自分が押したスイッチが、線になって残っている。
次に、生徒たちは地域の発電施設をオンラインで見学した。
雪で道路状況が悪いため、送電管理センターの担当者が画面越しに話してくれた。
「皆さんの学校で使う電気は、発電所から送電線を通って届きます。寒い日は暖房需要が増えます。吹雪の日は送電設備の保守も難しくなります」
画面には、雪の中で作業する人たちの映像が映った。
厚い防寒着を着て、鉄塔の点検をする作業員。
凍った設備を確認する人。
発電量と需要を見ながら調整する管理室。
「電気は、スイッチの向こう側でたくさんの人が支えているものです」
担当者は言った。
「必要な電気は使ってください。特に寒冷地では、暖房は命に関わります。ただ、必要のない電気が増えると、その分だけ発電や送電にも負担がかかります」
必要な電気。
必要のない電気。
イヴァンはその言葉をノートに書いた。
今まで、電気はあるものだと思っていた。
スイッチを押せばつく。
コンセントに挿せば動く。
足りなければ作ればいい。
でも、その「作ればいい」の向こうには、燃料、設備、天候、作業する人、地域の環境がある。
画面越しの作業員が、雪の中で手袋を外さずに工具を扱っていた。
イヴァンは、自分が朝つけっぱなしにした準備室の暖房を思い出した。
便利さの向こうには、誰かの働きがあった。
午後の授業で、カレン先生は黒板に書いた。
『必要な明かり』
『つけっぱなしの明かり』
「今日は、単に消すか消さないかではなく、分けて考えます」
カレン先生の声は、いつもより少し柔らかかった。
「この地域では、暖房も照明も必要です。特に冬場、無理に我慢することは安全ではありません。ですが、誰もいない部屋、使っていない機器、充電が終わった端末については、別の考え方ができます」
イヴァンは手を挙げた。
「先生」
「はい」
「結局、消す話ですよね」
教室が少し静かになる。
「僕は、電気を使うことが悪いとは思いません。便利な技術を使って、寒くても安全に学べるようにしているんです」
カレン先生は頷いた。
「その通りです」
「なら、節約って不便を我慢することじゃないですか」
灯理がイヴァンを見る。
「うん。では、不便にする以外の使い方を設計できないかな」
イヴァンは口を閉じた。
設計。
その言葉だけで、少し見え方が変わった。
我慢ではなく、設計。
便利さを捨てるのではなく、必要な時に必要なだけ動くようにする。
それなら、技術の出番かもしれない。
灯理は続けた。
「イヴァンくんは、機械が得意でしたね」
「はい」
「明かりや暖房を、人が毎回我慢して消すのではなく、使い方に合わせて動かす方法はありますか」
イヴァンの頭の中で、部品がつながり始めた。
人感センサー。
時間制御。
温度センサー。
部屋の予約システム。
使用予定と連動した暖房の立ち上げ。
待機電力の見える化。
可能だ。
完璧ではなくても、試作はできる。
「あります」
イヴァンは言った。
「たぶん、できます」
その瞬間、彼の声に熱が戻った。
放課後、イヴァンは工作室に残った。
机の上には、センサー、マイコン、リレー、配線、温度計、小さな表示パネルが並んでいる。
マリも一緒にいた。
「何作るの?」
「使っていない部屋の照明を自動で調整する試作」
「消すだけ?」
「消すだけじゃない」
イヴァンはノートに図を描いた。
「人が入ったらつく。一定時間動きがなければ消える。でも、実験中に人がじっとしている場合もあるから、机の使用センサーも入れる。暖房は、部屋の予約時間の三十分前から上げる。予約がない時は低温維持」
「本気だ」
「本気」
イヴァンは配線をつなげながら続けた。
「寒い部屋で作業したくない。でも、五時間前から暖める必要はない。必要な時間に間に合えばいい」
マリは頷いた。
「便利なまま、無駄を減らす?」
「そう」
イヴァンは少し笑った。
「我慢じゃなくて、制御」
その言葉は、彼にとってしっくりきた。
翌日、試作機は準備室でテストされた。
小さなセンサーが人の動きを感知する。
誰かが入ると、照明がつく。
一定時間誰も動かないと、確認ランプが点滅する。
机に置かれた使用スイッチを押していれば、作業中と判断して照明を保つ。
暖房は、温度センサーと予約時間を見て動く。
完璧ではない。
センサーがマリの動きを拾わず、途中で照明が消えかけた。
暖房の立ち上げ時間も、思ったより長く必要だった。
でも、動いた。
カレン先生は試作機を見ながら、感心したように言った。
「これは、授業で扱えますね」
「まだ改良が必要です」
イヴァンはすぐに答えた。
「この学校の部屋は、使用目的が違います。工作室、実験室、普通教室で設定を変えないとだめです。安全上、絶対に切ってはいけない機器もあります」
「その区別が大切ですね」
灯理が言った。
「必要な電気を見分けること」
カレン先生はその言葉を受け取り、黒板に書いた。
『必要な電気を見分ける』
かつて彼女が何度も言っていた「電気を消しましょう」とは、少し違う言葉だった。
生徒たちは、学校内の電気の使い方を見直すプロジェクトを始めた。
照明を全部暗くするのではない。
暖房をただ下げるのでもない。
まず、使う理由を調べる。
誰が、いつ、何のために使うのか。
安全のために必要か。
学習のために必要か。
つけっぱなしになっているだけか。
機械を切ると危険か。
予約システムと連動できるか。
見える化した方がよいか。
イヴァンは、学校の電気使用マップを作った。
赤は常時必要な電気。
青は時間制御できる電気。
黄色は人感センサーで調整できる電気。
緑は手動で確認すべき電気。
地図は、ただの節約リストではなく、学校の使い方を表す設計図になっていった。
ある日の夕方、イヴァンは一人で工作室にいた。
外はもう暗い。
窓の向こうでは雪が降り始めている。
彼は作業を終え、工具を片付けた。
いつもなら、そのまま隣の準備室の明かりをつけっぱなしにして帰っていた。
今日は、スイッチの前で手を止めた。
照明を見上げる。
この明かりは、今、誰のためについているのか。
明日は、いつ必要になるのか。
消すべきか。
予約システムで何時からつければいいのか。
イヴァンはノートを開いた。
『この明かりは、いつ必要になる?』
そう書いた。
それから、準備室の明かりを消した。
工作室の暖房は、凍結防止の低温設定へ切り替える。
完全に切るのではない。
必要な熱は残す。
不要な明かりは消す。
イヴァンはその違いを、初めて自分の手で選んだ気がした。
灯理が入口に立っていた。
「まだ残っていたんですね」
「はい。試作のログを取っていました」
「どうでしたか」
「センサーの位置が悪いです。あと、部屋によって必要な設定が違います」
「難しそうですね」
「難しいです。でも、面白いです」
イヴァンは照明の消えた準備室を見た。
「先生」
「はい」
「電気を消すって、前は負けた気がしていました」
「負けた?」
「便利さをあきらめる感じです」
「うん」
「でも、必要な時に必要なだけ使えるなら、それは便利さを減らすんじゃなくて、上手くすることかもしれません」
灯理は頷いた。
「使い方を設計する、ということですね」
「はい」
イヴァンは少し笑った。
「まだ、僕は便利なものが好きです」
「はい」
「だから、便利なものが続くように考えたいです」
夜、灯理は理工系学校を出た。
外気は鋭く冷たかった。
校舎の窓の明かりは、以前より少し少ない。けれど、暗く危険な感じはなかった。必要な場所には明かりがあり、使っていない場所は静かに休んでいる。
カレン先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、エネルギーの足跡を見せていただきました」
カレン先生は校舎を振り返った。
「私は、電気を消しましょう、と言うことに少し疲れていました」
「大切な呼びかけですね」
「ええ。でも、生徒たちには我慢の話として届いていた。特にイヴァンのような子には、技術を否定されているように聞こえていたのだと思います」
彼女は小さく息を吐いた。
白い息が夜に溶ける。
「明日から、省エネの授業を変えます。消す授業ではなく、見分ける授業に。必要な電気、待てる電気、設計できる電気」
「きっと、理工系の学校らしい学びになります」
「ええ。便利さを敵にしないで、便利さの責任を設計する。今日、イヴァンがその入口を作ってくれました」
校舎の一室で、試作機の小さなランプが点滅していた。
人がいないことを確認し、しばらくして明かりが消える。
その暗さは、我慢の暗さではなかった。
次に必要な時まで、静かに待つ暗さだった。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、再開発を控えた町の総合学習校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
雪は細かく、街灯の光の中をゆっくり落ちていた。
遠くの送電線が、白い夜空を横切っている。
そこを通って届く電気の向こうには、発電する人、守る人、使う人、選ぶ人がいる。
灯理は白く息を吐き、静かに光る校舎を振り返ってから、雪の道を歩き出した。




