第6章 第5話:多文化共生の授業――名前を呼ばれない教室
大都市郊外の朝は、電車の音と校門前のざわめきで始まる。
駅から学校へ続く道には、制服姿の生徒たちがいくつもの流れを作っていた。髪の色も、肌の色も、鞄につけた飾りも、話している言葉も違う。
けれど、同じ校門をくぐる。
大都市郊外にあるその学校は、多文化共生モデル校と呼ばれていた。
校舎の玄関には、いくつもの言語で「ようこそ」と書かれた掲示がある。廊下には世界地図が貼られ、食堂のメニューには食材表示が細かく書かれている。図書室には、多言語の本が並んでいた。
リナは、下駄箱の前で名札を指でなぞった。
名札には、こう書かれている。
リナ・サフィヤ・アルメイダ。
けれど、学校でその名前が全部呼ばれることはほとんどなかった。
「リナ、おはよう」
「おはよう」
そう呼ばれるのは嫌ではない。
リナは、短くて呼びやすい名前だ。
友だちが自然に呼んでくれるなら、それは嬉しい。
でも、時々思う。
サフィヤはどこへ行ったのだろう。
アルメイダは、いつ消えたのだろう。
リナの祖母は、サフィヤという名をとても大切にしていた。
父は、アルメイダという姓を誇らしそうに書いた。
母は、三つの名前をゆっくり呼ぶ時、いつも少し笑っていた。
家では、その名前にいくつもの声がある。
けれど学校では、たいてい途中で止まる。
呼びやすいところだけが残る。
リナはそれに慣れているふりをしていた。
教室に入ると、黒板には大きな文字が書かれていた。
『多文化発表会準備』
来週、学校全体で多文化発表会が行われる。
各クラスが、国や文化について発表する行事だ。
国旗。
民族衣装。
挨拶。
料理。
音楽。
生徒たちはそれぞれ、自分や家族に関係のある文化を紹介することになっていた。
リナは、その行事が少し苦手だった。
「リナはどこの国をやるの?」
何度も聞かれた。
どこの国。
その質問に、いつも少し困る。
母の故郷。
父の言語。
祖母の名前。
今暮らしているこの国。
家の食卓に並ぶ料理。
休日に聞く音楽。
どれか一つを選ぶと、ほかが置いていかれる気がした。
でも、そう説明すると長くなる。
だからリナは、いつも笑って答える。
「まだ考え中」
朝の出席確認が始まった。
担任のエミール先生が名簿を開く。
多文化教育に熱心な教師で、生徒一人ひとりの背景を大切にしようとしている。だが、朝の出席確認では時間もなく、どうしても名前を短く呼ぶことがあった。
「アダム」
「はい」
「ミナ」
「はい」
「ジョシュア」
「はい」
「リナ・サ……リナ」
「はい」
リナは返事をした。
いつものことだ。
エミール先生に悪気はない。
クラスメイトも気にしていない。
だから、リナも気にしないふりをした。
机の上の名札に手を置く。
指先で、小さな文字の「サフィヤ」を隠した。
多文化発表会の準備が始まると、教室は賑やかになった。
「うちは国旗を大きく描く」
「挨拶を三つ紹介しようよ」
「料理の写真、持ってくる」
「民族衣装、家にあるか聞いてみる」
楽しそうな声が飛び交う。
リナの班では、同級生のハルトが模造紙に大きく書いた。
『世界の文化紹介』
「リナはさ、いろいろ混ざってるから、担当いっぱいできるよね」
ハルトは明るく言った。
悪気はない。
本当に便利だと思っているだけだ。
「混ざってるって、何?」
リナは聞き返した。
「いや、いろんな国の文化があるってこと。すごいじゃん」
「うん」
「でも発表では一つにした方がわかりやすいかな。リナはどれ担当する?」
どれ。
リナは返事に詰まった。
そこへ教室の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った先生だった。
廊下の掲示物を見ながら来たのか、その人は教室に入る前に、扉横の多言語の挨拶表を一度振り返った。
「白瀬先生」
エミール先生が迎える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」
生徒たちは興味深そうに灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、さまざまな授業をしている先生。
昨日、エミール先生から紹介されていた。
灯理は黒板の「多文化発表会準備」を見た。
それから、机の上の名札を一つずつ見た。
リナは反射的に、自分の名札の「サフィヤ」を指で隠した。
灯理の目が、その動きを静かに受け止めた。
授業が始まると、エミール先生は言った。
「今日は、多文化発表会の内容を深める時間にしましょう。白瀬先生にも一緒に見ていただきます」
灯理は黒板の前に立った。
「皆さんは、文化について発表する準備をしているんですね」
「はい」
「国や料理や衣装や言葉を紹介する予定です」
ハルトが元気よく答えた。
灯理は頷いた。
「どれも大切ですね」
そして、黒板に新しい言葉を書いた。
『文化の前に、名前があります』
教室が少し静かになった。
「名前?」
「多文化発表会なのに?」
「国の話じゃないんですか?」
灯理は振り返った。
「国や文化を知る前に、まず隣にいる人をどう呼んでいるかを確かめてみませんか」
ハルトが首を傾げる。
「でも、名前って毎日呼んでますよ」
「本当に、その人が呼ばれたい名前で呼んでいますか」
教室に、小さな間が落ちた。
エミール先生も名簿を見下ろした。
灯理は言った。
「今日は、全員の名前について話す授業にしましょう」
生徒たちに紙が配られた。
黒板には項目が並ぶ。
『誰がつけた名前か』
『どんな意味があるか』
『家での呼ばれ方』
『学校での呼ばれ方』
『どう呼ばれたいか』
『短くしてよい時、嫌な時』
『間違われた時、どう感じるか』
生徒たちは最初、照れくさそうに笑っていた。
「名前の意味なんて知らない」
「家での呼ばれ方、変だから言いたくない」
「短く呼ばれるの、別に平気」
でも、書き始めると、教室の空気が少しずつ変わった。
名前は、思ったより個人的だった。
祖父がつけた名前。
母の好きな花から取った名前。
移住前の国でも今の国でも発音しやすいように考えられた名前。
宗教的な意味が込められた名前。
出生届の時に綴りを間違えられ、それがそのまま正式名になった名前。
家では長い愛称で呼ばれるが、学校では短くしている名前。
間違われるたびに訂正するのが面倒で諦めた名前。
リナは紙を見つめていた。
鉛筆がなかなか動かない。
誰がつけた名前か。
母と父と祖母。
どんな意味があるか。
リナは光。
サフィヤは祖母の名から。
アルメイダは父方の家の名。
家での呼ばれ方。
母は三つ全部を歌うように呼ぶ。
父はサフィヤを大切に発音する。
祖母は、リナではなくサフィヤと呼ぶことが多い。
学校での呼ばれ方。
リナ。
どう呼ばれたいか。
そこで手が止まった。
リナと呼ばれるのは嫌ではない。
でも、それだけが自分ではない。
では、毎回全部呼んでほしいのか。
それも違う気がした。
友だちにはリナでいい。
でも、自己紹介や出席確認では、一度くらい全部呼んでほしい。
サフィヤを、なかったことにしないでほしい。
アルメイダを、難しいからと笑わないでほしい。
そう書くのは、わがままだろうか。
中盤、班ごとに名前の話を共有する時間になった。
ハルトは自分の紙を見ながら言った。
「俺の名前、祖父がつけたらしい。晴れた日に生まれたからハルト」
「いいね」
ミナは、家ではまったく違う愛称で呼ばれていると話した。
「でも学校ではミナがいい。家の呼び方はちょっと恥ずかしいから」
笑いが起きる。
暖かい笑いだった。
リナの番になった。
彼女は紙を持ったまま黙った。
「リナは?」
ハルトが言う。
「名前、長いやつだよね」
リナの手が少し固くなる。
ハルトは悪気なく続けた。
「でも、難しいからリナでいいよね」
その場の空気は軽かった。
だから、リナも笑って頷いた。
「うん。リナでいいよ」
言ってから、胸の奥が少し沈んだ。
また、自分で省いた。
サフィヤも、アルメイダも、見せないまましまった。
灯理が近くに立っていた。
「ハルトくん」
「はい」
「難しいから短くすることは、時々必要ですね」
「はい」
「では、その短さは、誰のための短さでしょう」
ハルトはきょとんとした。
「誰のため?」
「呼ぶ人のためでしょうか。呼ばれる人のためでしょうか。それとも、二人で決めるものでしょうか」
ハルトはリナを見た。
リナは紙を握っていた。
「リナ、嫌だった?」
ハルトが聞いた。
リナは反射的に首を振りかけた。
でも、灯理は急がなかった。
エミール先生も、黙って待っていた。
リナは深く息を吸った。
「嫌っていうか」
声が小さくなる。
「リナって呼ばれるのは、嫌じゃない」
「うん」
「友だちには、それでいい」
ハルトは頷いた。
「でも」
リナは紙を見た。
「私の名前は、リナだけじゃない」
教室の声が少し遠くなる。
自分の名前を話すだけなのに、こんなに緊張するとは思わなかった。
「サフィヤは、祖母の名前からもらった名前です。祖母は遠くに住んでいて、私に会うといつもサフィヤって呼びます」
リナはゆっくり話した。
「アルメイダは、父の家族の名前です。父は、その名前を書く時、少し背筋が伸びます」
ハルトは真剣な顔で聞いていた。
「母は、三つ全部を呼ぶ時があります。怒ってる時もあるけど」
少し笑いが起きた。
リナも小さく笑った。
「でも、そう呼ばれると、家にいる感じがします」
彼女は名札を指でなぞった。
「学校で毎回全部呼んでほしいわけじゃないです。でも、最初から『難しいからリナでいい』って言われると、サフィヤとアルメイダはいらないって言われたみたいに感じる時があります」
言い終えると、教室は静かだった。
ハルトは顔を赤くした。
「ごめん」
リナは首を振った。
「悪気がないのはわかってる」
「でも、聞かなかった」
ハルトは紙に何かを書き足した。
「どう呼べばいい?」
リナは少し考えた。
「普段はリナでいい」
「うん」
「でも、発表会の自己紹介では、全部呼びたい」
「じゃあ、練習する」
「難しいよ」
「難しいから、練習する」
その言葉に、リナは少し驚いた。
灯理が微笑んだ。
「では、発音の練習をしましょうか」
教室の前に、リナが立った。
黒板には、彼女の名前が大きく書かれている。
リナ・サフィヤ・アルメイダ。
「まず、私が言います」
リナはゆっくり発音した。
リナ。
サフィヤ。
アルメイダ。
教室中が繰り返す。
「リナ・サフィヤ・アルメイダ」
少しずれる。
サフィヤの音が硬い。
アルメイダの途中で伸びる。
リナは、思わず笑った。
「違う。サフィヤは、そこを強くしすぎない」
もう一度。
「リナ・サフィヤ・アルメイダ」
「近い」
もう一度。
「リナ・サフィヤ・アルメイダ」
少しずつ近づく。
完璧ではない。
でも、誰も笑い飛ばさなかった。
面倒くさがらなかった。
何度も呼んだ。
名前全体が、教室の中で音になっていく。
リナの胸の奥が熱くなった。
自分の名前が、教室にある。
短く切られずに。
途中で止められずに。
午後の授業では、多文化発表会の内容が見直された。
エミール先生が黒板に、新しい題を書いた。
『私の名前と、私の持っている背景』
国紹介だけではなく、一人ひとりの名前から始める発表に変えることになった。
生徒たちは、自分の名前について短い発表を作る。
その中で、必要なら家族の文化、言語、食事、行事、移動の経験を紹介する。
一つの国へ無理に分類しなくていい。
複数あってもいい。
今はよく知らないと言ってもいい。
話したくない部分は話さなくてもいい。
どう呼ばれたいかを、自分で決めていい。
「多文化って、国旗を並べることだと思ってた」
ハルトが言った。
「でも、名前だけでこんなに違うんだな」
ミナが頷く。
「私、家の呼び方は発表しない。でも、どうして学校ではミナがいいかは話す」
別の生徒が言う。
「僕の名前、いつも発音間違えられるから、発表で教えたい」
「私は短い名前だけど、母の故郷の言葉だと意味が違う」
教室は、朝とは違う賑やかさに包まれていた。
分類するためではなく、聞くための賑やかさだった。
エミール先生は、教室の後ろで静かにそれを見ていた。
「白瀬先生」
小さく声をかける。
「はい」
「私は、多文化を紹介しようとしていました」
「はい」
「でも、紹介する文化を、生徒の外側に置いていたのかもしれません。国旗や料理や衣装として」
エミール先生はリナの名前が書かれた黒板を見た。
「文化の前に、その人の名前がある。今日、痛いほどわかりました」
灯理は頷いた。
「名前は、その人が教室に入ってくる入口なのかもしれませんね」
放課後、リナは名札を書き直していた。
発表会用の大きな名札だ。
最初は「リナ」とだけ書くつもりだった。
でも今は、ゆっくり全体を書く。
リナ・サフィヤ・アルメイダ。
その下に、小さく書き足す。
『普段はリナ。発表では全部呼んでください。』
ハルトが隣に来た。
「もう一回、発音していい?」
「いいよ」
「リナ・サフィヤ・アルメイダ」
「サフィヤがちょっと硬い」
「リナ・サフィヤ・アルメイダ」
「近い」
「本番までにできるようにする」
ハルトは真剣だった。
リナは少し笑った。
「完璧じゃなくてもいいよ」
「でも、雑には呼びたくない」
その言葉に、リナは目を伏せた。
「ありがとう」
短い言葉だった。
でも、その中には、今日教室で呼ばれた名前全体の温かさが入っていた。
灯理が近づく。
「いい名札ですね」
リナは名札を持ち上げた。
「少し長いです」
「はい」
「でも、これが私の名前です」
「うん」
「全部を毎回背負うのは疲れる時もあります。でも、勝手に置いていかれるのも寂しいです」
リナは指でサフィヤの文字をなぞった。
「今日は、自分でどう呼んでほしいか言っていいんだと思いました」
灯理は静かに頷いた。
「大切なことですね」
「先生」
「はい」
「名前を呼んでもらうだけで、教室って少し違って見えるんですね」
灯理は教室を見渡した。
机の上には、書きかけの名札が並んでいる。
短い名前。
長い名前。
発音記号を書き足した名前。
家での呼び名と学校での呼び名を分けた名前。
まだ迷っている名前。
「名前を呼ぶことは、その人がここにいることを確かめることなのかもしれません」
リナは小さく頷いた。
夕方、灯理は学校を出た。
校舎の窓には、発表会準備のために残った生徒たちの姿が見える。教室の中では、誰かが誰かの名前を練習していた。
何度も間違える。
そのたびに、言い直す。
笑いはあるが、からかいではない。
近づこうとする笑いだった。
エミール先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、皆さんの名前を聞かせていただきました」
エミール先生は少し申し訳なさそうに名簿を持っていた。
「朝、私はリナの名前を途中で省きました」
「はい」
「時間がない、難しい、慣れている。そういう理由で、何度もしていたのだと思います」
彼は名簿を開いた。
「明日から、出席確認の前に、全員に聞き直します。どう呼ばれたいか。どこまで呼んでほしいか。短くしていいか」
「きっと、教室の音が変わります」
「ええ」
エミール先生は校舎を見上げた。
「多文化共生は、違いを認めることだと教えてきました。でも、違いを認める前に、その人の名前を雑に扱っていたら、何も始まりませんね」
灯理は静かに頷いた。
校門の近くの掲示板には、発表会の新しいポスターが貼られていた。
『私の名前と、私の持っている背景』
その下に、生徒たちの名札が少しずつ並び始めている。
短縮された名前ではない。
それぞれが選んだ、呼ばれたい名前。
リナ・サフィヤ・アルメイダの名札も、その中にあった。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、まだ開いていない新しい依頼状が入っている。
けれど、今は開かなかった。
駅へ続く道では、生徒たちがそれぞれの名前で呼び合っていた。
慣れた呼び名。
初めて練習する長い名前。
少し発音の難しい名前。
呼ばれるたびに振り返る顔。
その一つ一つが、夕方の街の中で小さく灯る明かりのようだった。
灯理はその声を聞きながら、ゆっくりと歩いていった。




