第6章 第4話:食文化の授業――同じ鍋を囲めない昼食
公立学校の朝は、弁当箱の匂いから始まる。
廊下を歩いているだけで、いくつもの家庭の台所が少しずつ顔を出す。焼いたパンの匂い。香辛料の甘い匂い。炒めた玉ねぎの匂い。ご飯の湯気。果物の酸味。豆を煮た、柔らかい匂い。
この学校には、さまざまな家庭の子どもたちが通っている。
生まれた国も、家で話す言葉も、食卓に並ぶ料理も違う。給食を食べる子もいれば、弁当を持ってくる子もいる。昼休みになると、食堂のテーブルには、世界地図よりも複雑な昼食が広がった。
マヤは、その光景が好きだった。
だからこそ、来週の交流昼食会を成功させたかった。
教室の黒板には、彼女が描いた大きな鍋の絵がある。
湯気の上には、丸い文字でこう書かれていた。
『みんなで同じ鍋を囲もう!』
マヤは実行委員だった。
明るく、行動力があり、クラスの行事ではいつも中心にいる。今回も、自分から手を挙げた。
「同じ料理を作って、同じテーブルで食べたら、きっと仲良くなれると思うんです」
先生にそう提案した時、クラスの多くは賛成した。
大鍋料理。
みんなで野菜を切って、豆を入れて、肉を入れて、香辛料を少し入れて、温かいスープを作る。大きな鍋から同じものをよそい、笑いながら食べる。
想像するだけで、胸が弾んだ。
同じものを食べる。
それは、仲間になる一番わかりやすい方法のように思えた。
「マヤ、鍋の材料表、できた?」
ラファ先生が教室に入ってきた。
移民家庭の生徒が多いこの学校で、文化交流の授業を担当している教師だった。優しい目をしているが、生徒の発言の中にある小さな思い込みを見逃さない。
「はい!」
マヤは紙を差し出した。
「野菜、豆、鶏肉、ソーセージ、スパイス、バター、牛乳を少し。みんな食べやすい味にします」
ラファ先生は材料表を見た。
「よく考えたね」
「はい。辛すぎないようにします。苦手な人もいるので」
「食べられない人の確認は?」
「好き嫌いですか?」
「好き嫌いもあるけれど、それだけではなく」
マヤは少し首を傾げた。
「アレルギーとかですか」
「それも」
「一応、聞いてみます。でも、みんなで食べる会なので、少しなら大丈夫じゃないですか?」
ラファ先生の表情がわずかに曇った。
「少しでも大丈夫ではない場合があるの」
マヤは慌てて頷いた。
「あ、はい。アレルギーはちゃんと確認します」
「宗教上、食べられないものがある子もいる。家庭の決まりで食べないものがある子もいる。匂いや食感が苦手な子もいる」
「でも、全部合わせると、何も作れなくなりませんか」
マヤは思わず言った。
言ってから、少しまずかったかなと思った。
ラファ先生は怒らなかった。
ただ、黒板の大きな鍋の絵を見た。
「楽しい企画だね」
「はい」
「だからこそ、誰が入りにくくなっているかも見たいの」
マヤは黒板を振り返った。
大きな鍋。
湯気。
みんなで囲む絵。
入りにくい人がいるなんて、考えていなかった。
朝のホームルームが終わる頃、教室の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った先生だった。
校門からここまで歩いてくる途中で、食堂の匂いを吸い込んできたのか、その人は一度だけ、窓の外の調理室の方へ目を向けた。
「白瀬先生」
ラファ先生が迎える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」
生徒たちは興味深そうに灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校や教室を訪ねる先生。
昨日、ラファ先生から紹介されていた。
灯理は黒板の鍋の絵を見た。
「温かそうな企画ですね」
マヤは嬉しくなった。
「はい! みんなで同じ料理を作るんです」
「同じ料理を」
「そうです。同じものを食べたら、きっと一緒にいる感じがすると思って」
灯理は頷いた。
「うん。食事には、人を近づける力がありますね」
「ですよね!」
「では、同じものを食べられない人は、その近さに入れないのでしょうか」
マヤの笑顔が少し固まった。
「え?」
灯理は黒板の鍋を見たまま、静かに言った。
「今日、少し一緒に考えてみませんか。同じ鍋を囲まない昼食会を」
教室がざわついた。
「同じ鍋を囲まない?」
「昼食会なのに?」
「それ、普通の昼休みじゃない?」
マヤはすぐに反発した。
「先生、同じものを食べないと一緒にいる感じがしません」
灯理はマヤを見た。
「うん。では、違うものを大切にしながら、同じテーブルにいる方法を探してみよう」
マヤは納得できなかった。
同じ料理を作るから、交流になるのだ。
それぞれが別のものを食べるなら、いつもの昼食と変わらない。
でも、授業は始まった。
灯理は生徒たちに匿名カードを配った。
「名前は書かなくていいです。三つのことを書いてください」
黒板に項目が並ぶ。
『食べられないもの』
『食べたいけれど事情があるもの』
『大切な食事の記憶』
教室は少し静かになった。
最初は軽い雰囲気だった生徒たちも、カードを前にすると手が止まる。
マヤもカードを見つめた。
食べられないもの。
彼女には特にない。
食べたいけれど事情があるもの。
それも思いつかない。
大切な食事の記憶。
祖母の作る大鍋の豆スープ。
家族が集まる日、台所に大きな鍋が置かれ、みんなが同じスープを食べる。小さい頃、マヤはその時間が大好きだった。
同じ鍋を囲むと、家族が一つになった気がした。
だから、クラスでもそうしたかったのだ。
カードが集められ、灯理が一枚ずつ読み上げた。
「ナッツを食べると呼吸が苦しくなる」
教室が静まる。
「豚肉は食べない」
「牛肉は食べない」
「乳製品でお腹が痛くなる」
「肉を食べない家庭です」
「辛いものの匂いだけで気分が悪くなることがある」
「家の料理の匂いをからかわれたことがあるので、弁当を開けるのが怖い」
マヤは顔を上げた。
誰だろう。
教室の中で、一人の生徒が机の中に手を入れた。
サミという少年だった。
彼はいつも昼食の時、弁当の蓋を少しだけ開けて、すぐ閉じることがある。マヤは、食べるのが遅いだけだと思っていた。
灯理はさらに読む。
「家では、食事の前に短い言葉を言う。急いで食べ始めるのが少し苦手」
「家庭の事情で、みんなで食べる話を聞くと寂しくなる時がある」
「みんなが同じものを食べている時、自分だけ違うものだと目立つのが嫌」
カードの言葉が、一つずつ教室に置かれていく。
好き嫌いではなかった。
わがままでもなかった。
体のこと。
信仰のこと。
家庭のこと。
記憶のこと。
言い出しにくい怖さ。
マヤは黒板の鍋の絵を見た。
大きな鍋の中に、みんなを入れるつもりだった。
でも、その鍋に入れない人がいた。
入れないと言えない人もいた。
中盤、グループごとに昼食会の案を見直すことになった。
マヤのグループは、材料表を広げていた。
鶏肉。
ソーセージ。
バター。
牛乳。
スパイス。
どれも、誰かにとっては問題になる可能性があった。
「じゃあ、全部抜く?」
同級生の一人が言った。
「野菜だけにする?」
「でも、野菜だけでも食べられない人いるかも」
「もう無理じゃない?」
マヤは黙っていた。
自分の企画が、ほどけていく気がした。
みんなで同じ鍋を囲む。
それが一番いいと思っていた。
でも、カードを読んだ後では、その「みんな」が少し怖かった。
灯理がグループのそばに来た。
「行き詰まっていますか」
マヤは頷いた。
「はい」
「何が難しいですか」
「みんなに合わせようとすると、一つの料理が作れません」
「うん」
「でも、一つの料理じゃないと、交流昼食会って感じがしません」
「そう感じるんですね」
マヤは少し強い声で言った。
「私、みんなのために考えたんです」
「はい」
「仲良くなれると思って」
「うん」
「なのに、誰かが入れないって言われたら、何を作ればいいのかわかりません」
灯理は少し間を置いた。
「みんなのために作った場に、入れない人がいた時、その場は誰のみんなだったのでしょう」
マヤは言葉を失った。
誰のみんな。
自分が想像したみんな。
同じものを食べられるみんな。
同じ鍋を囲んで笑えるみんな。
でも、そこに入れない子は、最初からマヤの「みんな」に入っていなかったのかもしれない。
胸が苦しくなった。
「私、悪いことをしたかったわけじゃないです」
マヤは小さく言った。
「はい」
「でも、言い出しにくくしてましたか」
「そういうことがあったかもしれません」
灯理は優しく、でも曖昧にはしなかった。
「善意の場でも、入りにくい人がいることがあります」
マヤは黒板の鍋の絵を見た。
湯気の中の丸い文字が、少し違って見えた。
午後の授業では、企画が大きく変わった。
灯理は黒板に新しい案を書いた。
『同じテーブル、違うお皿、同じ時間』
マヤはその言葉を見つめた。
「一つの鍋ではなく、持ち寄り説明カード付き昼食会にしてみましょう」
ラファ先生が言った。
「料理を持ってくる人は、食材表示をつける。食べられないものがある人は、食べなくても話を聞ける。食べることを強制しない。匂いをからかわない。料理の背景や思い出を話す時間を作る」
生徒たちは少しずつ案を出し始めた。
「ナッツを使ったものは、別のテーブルに分けた方がいい」
「肉あり、肉なしを表示する」
「同じトングを使わない方がいいかも」
「辛いものは匂いが強いから、場所を分ける?」
「食べられなくても、その料理の話を聞けるようにしたい」
「自分の弁当を持ってきても参加できることにする」
マヤも、ノートに書いた。
『食材カード』
『食べなくても聞ける席』
『匂いを笑わない約束』
『代替メニュー』
『同じ鍋ではなく、同じ時間』
最初は、負けたような気がしていた。
自分の企画が壊れた気がしていた。
でも、書いているうちに、別の形が見えてきた。
大きな一つの鍋ではなく、いくつもの皿が並ぶテーブル。
皿の横には、その料理の名前と食材と、誰の家でどんな時に食べるのかが書かれている。
食べる人も、食べない人も、話を聞ける。
同じものを口に入れなくても、同じ話を聞き、同じ匂いを感じ、同じ時間に笑うことはできるかもしれない。
交流昼食会の日。
食堂には、いつもより多くのテーブルが並べられた。
中央に大鍋はなかった。
その代わり、いくつもの小さな皿と容器が並んでいた。
豆の煮込み。
香草入りのパン。
野菜だけのスープ。
米の菓子。
果物のサラダ。
辛いソースは蓋付きの小瓶に分けられている。
乳製品なしの菓子。
ナッツを使った焼き菓子は、別の台に置かれ、はっきり表示されている。
各料理には、カードが添えられていた。
『使っている食材』
『食べられない人への注意』
『この料理の思い出』
マヤは自分の料理を持ってきていた。
祖母の豆スープ。
ただし、今回は大鍋ではなく、小さな二つの鍋に分けた。
一つは家の味に近いもの。
もう一つは、肉と乳製品を使わないもの。
カードには、こう書いた。
『祖母が家族の集まる日に作るスープです。同じ鍋を囲む時間が好きでした。今日は、食べられる人も食べられない人も、話を聞いてくれたらうれしいです』
マヤは少し緊張していた。
これで、本当に交流になるのだろうか。
食堂の端で、サミが弁当箱を持って立っていた。
彼はいつものように、蓋を開けるのをためらっている。
マヤは近づいた。
「サミ」
サミは少し身構えた。
「何?」
「ここ、空いてるよ」
マヤは自分のテーブルの一角を指した。
「でも、僕の弁当、匂いが強いから」
マヤは言葉を選んだ。
「匂いのこと、カードに書く?」
「え?」
「料理の名前と、どんな時に食べるか。食べたい人だけ近くで見る。嫌な人は離れてもいい。でも、からかわない約束にしたから」
サミは弁当箱を見た。
「前の学校で、変な匂いって言われた」
マヤの胸が痛んだ。
「この学校では、言わせない」
少し強く言ってから、慌てて付け加える。
「でも、無理に開けなくてもいい。話だけでも」
サミはしばらく迷った。
それから、ゆっくり弁当の蓋を開けた。
香辛料と煮込んだ肉の濃い匂いが広がる。
マヤはその匂いを吸い込んだ。
知らない匂いだった。
でも、すぐに何かを言わず、サミを見た。
「これは?」
「父が休みの日に作る料理。時間がかかるから、普段はあまり食べない」
「カード、書く?」
サミは小さく頷いた。
マヤはペンを渡した。
その様子を、ラファ先生と灯理が少し離れて見ていた。
昼食会は、マヤが最初に想像したものとは違っていた。
同じ皿を持って全員で乾杯するような一体感はない。
でも、あちこちで会話が生まれていた。
「これは食べられる?」
「卵が入ってるから、こっちなら大丈夫」
「この料理、いつ食べるの?」
「祭りの日」
「匂い、嗅いでみてもいい?」
「うん。でも辛いよ」
「食べなくても、話聞いていい?」
「もちろん」
ある生徒は、自分の家庭では食事の前に祈りの言葉を言うことを話した。
別の生徒は、家では一人で食べることが多いから、こういう場は少し緊張すると話した。
食べることが、ただ楽しいだけではない人もいる。
それでも、話せる場所があると、少しだけ同じ時間に入れる。
マヤは祖母の豆スープをよそっていた。
「これは肉なしの方?」
「うん。こっち」
「こっちはバター入ってる?」
「入ってない。カードにも書いてある」
「ありがとう」
その言葉を聞くたびに、マヤは少し安心した。
自分の企画は、大鍋ではなくなった。
でも、前より多くの人がテーブルに近づいている。
昼食会の終わりに、ラファ先生が生徒たちを集めた。
「今日、気づいたことを一つずつ話しましょう」
生徒たちは順番に言った。
「食べられないものが、好き嫌いだけじゃないとわかりました」
「表示があると安心しました」
「匂いを説明してもらうと、知らない料理が少し近くなりました」
「食べなくても話を聞けたのがよかったです」
「自分の料理を笑われなかったのが嬉しかったです」
サミの声だった。
マヤは彼を見た。
サミは少し恥ずかしそうに弁当箱をしまっている。
マヤの番になった。
「私は、最初は同じ鍋を囲みたかったです」
彼女は黒板を見た。
そこにはまだ、自分が描いた大きな鍋の絵が残っている。
「同じものを食べれば、みんな仲良くなれると思っていました。でも、同じものを食べられない人がいることを、ちゃんと考えていませんでした」
声が少し震える。
「今日、違う皿が並んでいても、同じ時間を作れると思いました。むしろ、違う皿だから聞ける話もありました」
灯理が尋ねた。
「マヤさんにとって、今日のテーブルはどんな場所でしたか」
マヤは少し考えた。
「一つに混ぜる場所じゃなくて、並べる場所」
彼女は言った。
「違うものを、違うまま置いて、隣に座れる場所」
ラファ先生が静かに頷いた。
「参加しやすい企画になったね」
その言葉に、マヤの胸が温かくなった。
楽しい企画。
最初はそう言われた。
でも今日は、参加しやすい企画。
その違いが、今なら少しわかる。
放課後、マヤは黒板の鍋の絵を消そうとして、手を止めた。
全部消すのは、少し寂しい。
あの絵も、自分の大切な記憶から生まれたものだから。
祖母の家。
大きな鍋。
家族で囲む豆スープ。
それは間違いではない。
ただ、全員にとって同じではなかっただけだ。
マヤは鍋の絵の下に、新しい言葉を書き足した。
『同じテーブル、違うお皿、同じ時間』
そこへ灯理が来た。
「残したんですね」
「はい」
「鍋の絵」
「消さなくてもいいかなと思って」
「はい」
「私には、大事な食事の形だから。でも、それだけが正解じゃないって、今日わかりました」
灯理は頷いた。
「大切なものを持ったまま、他の人の大切なものと並べられましたね」
マヤは黒板を見た。
「先生」
「はい」
「みんなで同じものを食べたいって思うのは、悪いことじゃないですよね」
「悪いことではありません」
「でも、それをみんなにするなら、入れない人がいないか見ないといけない」
「はい」
「次は、最初に聞きます」
マヤは黒板の言葉を見た。
「何を食べたいかだけじゃなくて、何なら安心して一緒にいられるか」
灯理は微笑んだ。
「いい実行委員ですね」
夜、灯理は学校を出た。
食堂の窓には、まだ片付けをする生徒たちの影が見える。テーブルの上には、使い終わった食材カードが束ねられ、誰かが忘れた小さなスプーンが一本残っていた。
ラファ先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、おいしい時間に参加させていただきました」
ラファ先生は笑った。
「最初は心配でした。マヤの善意を傷つけてしまうのではないかと」
「大切な善意でしたね」
「ええ。でも、善意の企画ほど、入りにくい子が言い出せなくなることがある。今日、改めて見えました」
彼は校舎の方を振り返った。
「次から、交流行事の前には匿名カードを使います。食べられないもの、話しにくいこと、参加しやすい形を先に聞く」
「きっと、場が広がります」
「同じものを食べることだけが、共にいることではないのですね」
灯理は頷いた。
食堂の窓越しに、マヤとサミが食材カードを並べ直しているのが見えた。
サミのカードには、料理名と材料のほかに、小さな字でこう書かれていた。
『父が休みの日に作る。時間がかかる。家の匂いがする。』
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、大都市郊外の多文化共生モデル校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
夜の街には、家々の夕食の匂いが漂っていた。
窓の向こうで煮込まれるスープ。
焼かれるパン。
炊かれる米。
誰かが食べられるもの。
誰かが食べられないもの。
誰かの懐かしい味。
誰かにとっては少し怖い匂い。
そのすべてが、同じ夜の中に並んでいる。
灯理はその匂いを少しずつ受け取りながら、ゆっくりと次の道へ歩いていった。




