第5章 第5話:福祉の授業――手伝いすぎる介助者
地域交流施設の朝は、ゆっくり始まる。
自動ドアが開く音。
廊下を進む車椅子の車輪の音。
湯沸かし室から聞こえる水の音。
職員室で交わされる短い挨拶。
窓の外には、小さな庭がある。季節の花が植えられ、ベンチのそばには低い手すりが続いている。庭の奥には、地域の子どもたちが描いた絵が飾られていた。
ここは福祉専門学校の実習施設でもあり、地域の高齢者や障害のある人たちが集まる交流の場でもある。
学生たちは、ここで介助や相談、レクリエーションの補助を学ぶ。
直人は、朝一番に施設へ来ていた。
実習用のエプロンを身につけ、名札を確認する。
机の配置。
椅子の間隔。
車椅子が通りやすい通路。
お茶の準備。
書類の置き場所。
全部、確認した。
困っている人がいたら、すぐ動けるように。
直人は昔から、よく「気が利く」と言われた。
落ちた物を拾う。
重い荷物を持つ。
道に迷っている人に声をかける。
誰かが困っていると、放っておけない。
福祉の道を選んだのも、誰かの役に立ちたいと思ったからだった。
「直人くん、今日も早いですね」
橘先生が職員室から出てきた。
福祉専門学校の実習担当で、落ち着いた声の女性だった。穏やかだが、生徒の動きの細部をよく見ている。
「はい。準備、終わりました」
「ありがとう。今日も園田さんの担当をお願いします」
「はい」
「ただし」
橘先生は少し言葉を切った。
「今日は、園田さんの返事をよく聞いてください」
直人は頷いた。
「もちろんです」
「本当に?」
「はい。必要なことがあれば、すぐ対応します」
橘先生は、少し困ったように微笑んだ。
「その『すぐ』が、今日は大事なところかもしれません」
直人には意味がわからなかった。
すぐ対応する。
それは良いことではないのか。
困っている人を待たせるより、先に動いた方がいい。
それが優しさだと思っていた。
午前九時を過ぎると、利用者たちが施設へやって来た。
その中に、園田さんがいた。
七十代の男性で、車椅子を使っている。背筋は少し曲がっているが、目ははっきりしており、身なりも整っている。いつも紺色の帽子をかぶって来る。
「おはようございます、園田さん」
直人はすぐに近づいた。
「おはよう」
園田さんは短く答える。
「荷物、お持ちしますね」
直人は返事を待たず、園田さんの膝に置かれていた小さな鞄を取った。
「あ、それは――」
園田さんが何か言いかける。
「ロッカーに入れておきます」
直人は笑顔で言った。
園田さんは口を閉じた。
直人は気づかなかった。
車椅子を押し、交流室へ向かう。
「今日は窓際の席が空いています。そちらにしましょう」
「いや、今日は――」
「庭がよく見えますよ」
直人は車椅子を押した。
園田さんは小さく息を吐いた。
交流室に入ると、直人は膝掛けを整え、テーブルの上に資料を置き、お茶の準備をした。
「書類、こちらで記入しますね」
「名前くらいは、自分で――」
「大丈夫です。僕が書きます」
直人はボールペンを取った。
園田さんの名前、生年月日、参加欄。
すらすら書く。
手際はよかった。
周りの学生も、直人の動きを見て感心している。
「直人って本当に気が利くよな」
誰かが言った。
直人は少し照れた。
役に立てている。
そう思った。
けれど、園田さんの顔はどこか曇っていた。
その様子を、部屋の入口で一人の先生が見ていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
福祉施設の柔らかな空気の中で、その旅装は少し目立った。
「白瀬先生」
橘先生が声をかけた。
「来てくださったんですね」
「はい。お邪魔します」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は実習を見学させていただきます」
直人もすぐに立ち上がった。
「おはようございます」
「おはようございます」
灯理は直人の手元を見た。
園田さんの書類。
園田さんの鞄。
園田さんの湯飲み。
それらを、直人がすべて整えている。
「直人さんは、よく動くんですね」
「はい。利用者さんが困らないように」
「園田さんは、今、困っていましたか」
直人は少し驚いた。
「え?」
灯理は園田さんを見る。
園田さんは窓の外へ視線を向けていた。
直人は答えに迷った。
「困る前に、できるだけ対応した方がいいと思って」
「困る前に」
「はい」
灯理は頷いた。
「その助け方で楽になることもありますね」
「はい」
「では、何かを奪ってしまうことはあるでしょうか」
直人は言葉を失った。
奪う。
自分がしているのは、助けることだ。
奪っているつもりなどない。
午前の実習が進む。
園田さんは、交流会用の簡単な名札作りに参加した。
直人は隣で、すぐに材料を取る。
「園田さん、色紙はこちらです」
「ありがとう」
「はさみ、使いますか?」
「いや、今日は――」
「僕が切りますね」
直人は色紙を切った。
「のりも塗っておきます」
「それは自分で」
「手につくといけないので」
直人はのりを塗った。
園田さんの手は、机の上で少し止まったままだった。
灯理は、その手を見ていた。
何かをしようとして、引っ込めた手。
待っていたのに、出番を失った手。
橘先生も気づいていた。
しかし、すぐには止めなかった。
実習は一度、振り返りの時間になった。
学生たちは別室に集まる。
灯理は黒板に文字を書いた。
『三秒待つ介助』
直人は首を傾げた。
三秒。
待つ。
介助。
「今日は、手を出す前に三秒待つ練習をします」
灯理が言った。
「困っている人を前にして、待つんですか」
直人は思わず聞いた。
「はい」
「それは、冷たくありませんか」
「そう感じることもありますね」
「僕は、困っているならすぐ助けた方がいいと思います」
灯理は頷いた。
「うん。では、その人が本当に困っていた場所は、どこだったんだろう」
直人は黙った。
「介助の前に、三つ確認してみましょう」
灯理は黒板に書いた。
『今、手伝ってもいいですか』
『どこを手伝えばいいですか』
『どこは自分でやりたいですか』
学生たちはメモを取る。
直人も書いた。
だが、胸の中ではまだ納得していなかった。
困っている人に、いちいち聞く。
その間に、相手はもっと困るのではないか。
自分でやろうとして失敗したら、恥ずかしい思いをするのではないか。
だったら、先に手伝った方がいい。
そう思った。
午後の実習で、直人は三秒待つことを意識した。
だが、難しかった。
園田さんが車椅子から少し身を乗り出し、机の端に置かれた資料へ手を伸ばす。
一秒。
直人の体が動きそうになる。
二秒。
園田さんの手が少し震える。
三秒。
「取りますね」
直人は結局、資料を取った。
園田さんの指先は、資料に届く直前だった。
「あ……」
園田さんが小さく声を出した。
直人はその声を聞き逃しかけた。
灯理がそばで尋ねる。
「今の手助けは、園田さんの何を楽にしましたか」
「資料を取る動作です」
「何を奪いましたか」
直人は資料を持ったまま止まった。
「奪った……?」
灯理は園田さんの手を見た。
直人も見る。
園田さんの手は、まだ机の上に伸びたままだった。
あと少しで届いていた手。
自分で取ろうとしていた手。
「もしかして」
直人は声を落とした。
「自分で取る機会を、奪いましたか」
園田さんは少し困ったように笑った。
「まあ、そうだな」
直人の胸が冷たくなった。
「すみません」
「謝らなくていい。悪気がないのはわかっている」
園田さんは手を膝に戻した。
「でも、できることまで先にやられると、少し寂しい」
寂しい。
その言葉は、直人の中に深く落ちた。
迷惑ではなく。
怒りではなく。
寂しい。
自分は優しさのつもりで、園田さんの小さな達成を消していたのかもしれない。
その後、園田さんは直人に話してくれた。
「車椅子になってから、できないことは増えた」
「はい」
「だから、できることまで減らしたくないんだ」
直人は頷いた。
「時間はかかる。人を待たせることもある。失敗することもある」
園田さんは自分の手を見た。
「でも、自分でできることは、自分でやりたい」
直人は、何度も聞き逃していた言葉を思い出した。
『それは自分で』
園田さんは、何度も言っていた。
小さな声で。
直人は、その声を自分の「役に立ちたい」という気持ちで覆っていた。
「園田さん」
「うん」
「これから、聞きます」
「うん」
「でも、聞いても、すぐ手が出るかもしれません」
「その時は、止めるよ」
園田さんは少し笑った。
「それも練習だ」
夕方、地域交流施設では小さなお茶会が行われた。
利用者、学生、地域の子どもたちが同じテーブルを囲む。
お菓子を配り、お茶を入れ、庭の花を眺めながら話すだけの時間。
しかし直人にとっては、今日一番緊張する時間だった。
園田さんは、自分でお茶を注ぐと言った。
湯沸かしポットは重い。
湯飲みの位置も少し遠い。
直人は、手を出したくてたまらなかった。
「園田さん、お茶は僕が――」
言いかけて、止まる。
灯理の言葉。
三秒。
確認。
直人は息を吸った。
「お手伝いしてもいいですか」
園田さんはポットを見た。
「全部じゃなくていい」
「はい」
「湯飲みが動かないように、ここだけ支えてくれるか」
園田さんは湯飲みの横を指した。
「はい」
直人は湯飲みの位置だけを支えた。
ポットを持つのは園田さん。
手は少し震えている。
湯気が上がる。
お茶が注がれる。
途中で少しこぼれた。
直人の体が反射的に動きかける。
でも、止まった。
園田さんは自分でポットを戻した。
ふう、と息を吐く。
「できた」
その声は小さかった。
でも、確かな満足があった。
直人は布巾を手に取る。
「拭いてもいいですか」
「そこは頼む」
「はい」
直人はこぼれたお茶を拭いた。
今度は、奪った気がしなかった。
園田さんが自分でやりたいところをやった後、必要なところだけを支えた。
それだけなのに、胸の中の感触がまったく違った。
橘先生が少し離れたところで見ていた。
「直人くん」
「はい」
「よく待てたね」
直人は顔を上げた。
気が利く。
手際がいい。
そう褒められることは多かった。
でも、「よく待てた」と言われたのは初めてだった。
その言葉は、手を動かした時よりも深く胸に残った。
お茶会が終わった後、直人は実習記録を書いた。
最初は、いつものように「介助内容」を書こうとした。
車椅子移動補助。
名札作成補助。
お茶会補助。
だが、そこで手が止まった。
今日、本当に学んだのは、何を手伝ったかだけではない。
直人はページの下に、新しい欄を作った。
『待ったこと』
『聞いたこと』
『手を出さなかったこと』
そして書いた。
『園田さんが資料を取ろうとしていた。先に取ってしまった。自分で取る機会を奪った』
『お茶を注ぐ時、湯飲みだけ支えた。園田さんが自分で注いだ』
『手を出す前に、声を聞く。支える前に、待つ』
書き終えても、直人はしばらくペンを置けなかった。
灯理が隣に座る。
「今日の実習、どうでしたか」
「難しかったです」
「はい」
「何もしない時間が、こんなに難しいと思いませんでした」
「何もしない時間に見えましたか」
直人は少し考えた。
「いえ」
園田さんがお茶を注いでいた時間を思い出す。
自分は何もしていなかったわけではない。
見ていた。
待っていた。
声を聞いていた。
必要な時に支えられるように、そこにいた。
「待つのも、介助なんですね」
直人は言った。
灯理は静かに頷いた。
「相手の力を信じる支え方かもしれません」
直人は実習記録を見た。
「僕は、役に立ちたかったんです」
「うん」
「でも、自分が役に立っていると感じたくて、先に動いていたところもありました」
言葉にすると、少し苦かった。
善意の中に、自分の安心が混じっていた。
助けている自分でいたかった。
だから、相手の声を待てなかった。
「気づきましたね」
灯理は言った。
「はい」
「それは、これからの支え方を変えてくれると思います」
施設の出口で、園田さんが帰り支度をしていた。
直人は近づき、すぐ鞄を持ちそうになって、止まった。
「園田さん」
「うん」
「鞄、お持ちしてもいいですか」
園田さんは少し笑った。
「今日は自分で膝に乗せる」
「はい」
園田さんは時間をかけて、鞄を膝に乗せた。
少し位置がずれる。
直人は待った。
園田さんは自分で直した。
「押してくれるか」
「はい」
「今日は、庭の方を通って帰りたい」
「わかりました」
直人は車椅子の後ろに立った。
押す前に、もう一度聞く。
「速さは、このくらいでいいですか」
「もう少しゆっくり」
「はい」
庭へ出ると、夕方の風が花を揺らしていた。
園田さんはベンチのそばで車椅子を止めるよう頼んだ。
「ここで少しだけ」
直人はブレーキを確認し、隣に立った。
園田さんは庭を見ていた。
「直人くん」
「はい」
「君は優しい」
直人は顔を上げた。
「でも、優しい手は、時々早すぎる」
その言葉に、直人は目を伏せた。
「はい」
「今日くらいの速さが、私は好きだ」
園田さんは庭の花を見ながら言った。
「待ってくれる手は、こちらも頼みやすい」
直人は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「明日も頼むよ」
「はい」
夜、灯理は地域交流施設を出た。
施設の窓からは、まだ柔らかな明かりが漏れている。中では学生たちが実習記録を書き、職員が明日の準備をしていた。
橘先生が見送りに来た。
「白瀬先生」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、学ばせていただきました」
橘先生は少し静かに笑った。
「私は直人くんに、よく『気が利く』と言っていました」
「よく動く方でした」
「ええ。本当に。でも、その言葉で、彼の早すぎる手を強めていたかもしれません」
橘先生は施設の窓を見た。
直人が園田さんの車椅子を押しながら、ゆっくり玄関へ向かっているのが見えた。
歩く人より少し遅い速度。
園田さんの声が届く距離。
それに合わせた足取り。
「明日からは、評価の言葉を増やします」
「どんな言葉ですか」
「よく聞けたね。よく待てたね。必要な分だけ支えられたね」
灯理は頷いた。
「大切な言葉ですね」
「福祉は、役に立つ仕事です。でも、役に立つことを急ぎすぎると、相手の時間を追い越してしまう」
橘先生はゆっくり息を吐いた。
「今日、そのことを改めて見ました」
玄関の自動ドアが開き、園田さんと直人が出てきた。
「白瀬先生」
直人が声をかける。
「はい」
「今日の記録、もう一つ書き足しました」
「何を書きましたか」
直人は少し照れたように言った。
「『手伝わなかったことも、記録する』って」
灯理は微笑んだ。
「いい記録ですね」
園田さんが横から言った。
「明日は、私が花瓶を運ぶ。直人くんは落としそうになったら助ける係だ」
「はい」
「先に持たないように」
「はい」
直人は真剣に頷いた。
その顔を見て、園田さんは満足そうに笑った。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、まだ開いていない新しい依頼状が入っている。
けれど、今は開かなかった。
夜の交流施設には、昼間とは違う静けさがあった。
誰かのために整えられた机。
少しこぼれたお茶を拭いた布巾。
使い終わった湯飲み。
庭へ続く低い手すり。
そこには、誰かが誰かを支えた時間と、誰かが誰かを待った時間が残っている。
灯理は施設の明かりを振り返り、それからゆっくりと夜道を歩き出した。
背後では、直人が園田さんの歩幅ではなく、車輪の速度に合わせて、静かに進んでいた。




