第5章 第4話:防災の授業――避難訓練で走れない子
沿岸の町では、朝の空気に海の匂いが混じっている。
校舎の窓からは、遠くに防波堤が見えた。
その向こうに海がある。晴れていれば青く、曇っていれば鉛色に沈み、風が強い日は白い波を立てる海。
町の人たちは、その海を愛している。
魚をくれる海。
夕焼けを映す海。
夏に子どもたちが泳ぐ海。
そして、時々、恐ろしい顔をする海。
この地域では、防災訓練がとても重視されていた。
教室の壁には避難経路図が貼られ、廊下には非常用持ち出し袋が置かれている。校庭の奥には高台へ続く避難階段があり、月に一度は全校で避難訓練を行う。
速く。
静かに。
確実に。
それが合言葉だった。
ハルは、自分の机に座りながら、壁のスピーカーを見上げていた。
今日の三時間目は避難訓練。
朝の会で、美波先生がそう言った。
時間は知らされていない。
いつサイレンが鳴るかわからない。
それが、訓練では大切だと先生は言った。
でも、ハルにとっては、その「いつ鳴るかわからない」が一番怖かった。
授業中も、耳の奥がずっと緊張している。
鉛筆を持つ手に力が入る。
ノートの文字が少し歪む。
隣の席のユウトが、ちらりとこちらを見た。
「大丈夫?」
小さな声だった。
ハルは頷いた。
「うん」
嘘だった。
大丈夫ではない。
でも、大丈夫じゃないと言うと、訓練がもっと怖くなる気がした。
ハルは幼いころ、大きな地震を経験している。
家の中の棚が倒れ、食器が割れた。
母の声。
揺れる床。
玄関へ向かう途中で足がもつれたこと。
外へ出た後、避難場所へ向かう人の波の中で、母の手を一瞬離してしまったこと。
ほんの数分だった。
すぐに見つかった。
母は泣きながら抱きしめてくれた。
誰も大きな怪我はしなかった。
助かった。
それはわかっている。
でも、体はまだ覚えていた。
サイレンの音。
人の足音。
誰かの叫び声。
自分の名前を呼ぶ母の声が、遠くで聞こえたこと。
それ以来、避難訓練のたびに足が止まる。
怠けているわけではない。
ふざけているわけでもない。
動きたい。
でも、音が鳴った瞬間、息が止まる。
足の裏が床に貼りつく。
頭の中が白くなる。
走らなきゃ。
机の下へ。
校庭へ。
高台へ。
そう思えば思うほど、体は動かなくなる。
「今日は、前回より早く避難できるようにしましょう」
美波先生は朝、そう言った。
美波先生はこの学校の防災担当でもある。
きびきびした声で、いつも正確に指示を出す。避難経路も、点呼方法も、地域の災害履歴もよく知っている。生徒たちを守りたい気持ちが強い先生だった。
だからこそ、ハルは申し訳なかった。
自分が止まると、列が遅れる。
先生が心配する。
みんなの訓練時間も伸びる。
自分一人のせいで、全員の避難が遅くなる。
そう思うと、ますます怖くなった。
三時間目が始まった。
算数の授業。
黒板には分数の問題が書かれている。
けれど、ハルは数字を見ていなかった。
壁のスピーカー。
廊下。
机の下。
教室の扉。
耳の奥が、音を待っている。
ユウトがまた、ちらりとこちらを見た。
その時だった。
ジリリリリリリ。
サイレンが鳴った。
鋭い音が教室の空気を裂いた。
ハルの体が固まった。
息が止まる。
手から鉛筆が落ちる。
音が頭の中で大きくなる。
美波先生の声が響く。
「地震です。机の下に入って、頭を守りなさい」
生徒たちが一斉に動く。
椅子が床をこする音。
机の下へ潜る音。
誰かの上履きが滑る音。
ハルは動けない。
足が、動かない。
机の下へ入らなければ。
わかっている。
わかっているのに、膝が曲がらない。
「ハル」
ユウトの声がした。
でも、遠い。
水の中から聞こえるようだった。
「ハル、机」
ユウトがもう一度呼ぶ。
ハルはようやく椅子を引いた。
だが、体がうまく入らない。
肩が机の角に当たり、呼吸が乱れる。
周りはもう頭を守っている。
自分だけ遅い。
サイレンが続く。
心臓が速い。
「避難開始」
美波先生の声。
生徒たちは順番に廊下へ出る。
ハルは机の下から出たところで、また止まった。
校庭へ。
列に。
走る。
でも、廊下へ向かう足が出ない。
「ハル、行くよ」
ユウトが隣に来る。
彼は先に行けたはずなのに、ハルを見て待っていた。
そのせいで、後ろの列が少し詰まる。
美波先生が駆け寄った。
「ハル、動いて。急いで」
急いで。
その言葉で、ハルの胸がさらに詰まった。
急がなきゃ。
迷惑をかけている。
でも、足が出ない。
ユウトがハルの腕を引こうとした。
ハルは反射的に身を縮めた。
その瞬間、教室の入口にいた一人の先生が、静かに声をかけた。
「ハルくん、息を吐いて」
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
朝、校長先生に案内されて教室へ来ていた旅の先生だった。
白瀬灯理。
世界のさまざまな学校を訪ね、授業をしている人だと紹介されていた。
灯理はハルを急かさなかった。
ただ、少し離れた場所から、同じ高さの声で言った。
「まず、息を一つ」
ハルは音の中で、かすかにその声を聞いた。
息。
吸おうとした。
うまく吸えない。
「吐く方から」
灯理が言う。
ハルは震える口で、細く息を吐いた。
少しだけ、胸が動いた。
「ユウトくんの名前を呼べますか」
灯理の声。
ハルは隣を見る。
ユウトがいる。
ここにいる。
「……ユウト」
声は小さかった。
ユウトがすぐに返した。
「ハル」
その瞬間、ハルの足が少し動いた。
ユウトの名前。
自分の名前。
音の中で、そこだけがはっきりした。
「歩き出しましょう」
灯理が言った。
ハルはユウトと一緒に廊下へ出た。
走れなかった。
でも、歩いた。
美波先生は列の最後で二人を見守りながら、校庭へ誘導した。
訓練が終わった時、全校の避難時間は前回より遅かった。
校庭に並んだ生徒たちの間で、少しざわめきが起きる。
ハルは俯いた。
自分のせいだ。
また止まった。
また遅れた。
美波先生は全体へ講評をした。
「今日は、前回より時間がかかりました。原因を確認し、次の訓練に生かします」
声は落ち着いていた。
でも、ハルには自分を責められているように聞こえた。
訓練後、教室に戻ると、ハルは机に座ったまま動けなかった。
ユウトが隣に立つ。
「ごめん」
ハルが先に言った。
「何で?」
「ユウトまで遅れた」
「別に」
「僕のせいで」
「僕が待ったんだよ」
「でも」
言葉が続かない。
ユウトは困ったように頭をかいた。
「僕、何て言えばいいかわかんなかった。腕、引っぱってごめん」
ハルは首を振った。
「ううん」
そこへ美波先生と灯理が入ってきた。
美波先生の表情は、いつものようにきびきびしているが、どこか迷いがあった。
「ハル」
「はい」
「今日、サイレンの時に止まったね」
ハルの体が小さく縮む。
「すみません」
「謝る前に、何が起きたか確認しましょう」
その言葉は、美波先生のものではなく、灯理の言葉だった。
美波先生は少し息を吸い、言い直した。
「うん。何が起きたか、一緒に確認したいの」
ハルは顔を上げた。
叱られるのではないのか。
美波先生は椅子を引いて、ハルの机の近くに座った。
灯理も少し離れて座る。
「サイレンが鳴った時、最初に何が起きましたか」
灯理が尋ねた。
「音が、大きくなりました」
「実際の音より?」
「はい。頭の中で、もっと大きくなる感じ」
「その次は?」
「息が止まりました」
「足は?」
「その後です。息が止まって、足が動かなくなりました」
美波先生が小さく呟いた。
「足より先に、息だったのね」
ハルは頷いた。
「たぶん」
灯理は黒板に書いた。
『音』
『息』
『足』
『声』
『一歩』
「避難訓練では、走ることに注目しがちです。でも、ハルくんの体では、走る前にいくつかのことが起きていました」
美波先生は黒板を見つめた。
それから、灯理に向き直る。
「白瀬先生、午後の防災授業をお願いできますか」
「はい」
「ただ、避難訓練は命に関わるものです。速さも必要です」
「もちろんです」
灯理は頷いた。
「速く動くために、最初の一歩を思い出せる体を作りましょう」
午後の授業は、体育館で行われた。
全員が避難経路図を持ち、床には教室から校庭、高台までの簡単な経路がテープで描かれている。
生徒たちは不思議そうに座っていた。
「今日は、走る前の避難訓練をします」
灯理が言った。
何人かが首を傾げる。
「走る前?」
「避難訓練なのに走らないの?」
美波先生が補足する。
「実際の避難では速さが必要です。でも今日は、速く動く前に、手順を細かく確認します」
灯理は黒板に手順を書いた。
『音が鳴ったら、まず息を吐く』
『机の下へ入る』
『頭を守る』
『隣の人の名前を呼ぶ』
『靴を確認する』
『列に入る』
『歩き出す』
『必要な場所で走る』
「怖くなった時、人の体は止まることがあります」
灯理は言った。
「止まらないように頑張ることも大切ですが、止まりそうになった時に戻れる手順を持つことも大切です」
ハルは体育館の床を見ていた。
みんなに見られている気がする。
自分のせいでこんな授業になったのではないか。
そう思うと、胸が苦しい。
だが、灯理はハルだけを見なかった。
全員に向けて話していた。
「最初は、サイレンではなく、小さなベルから練習します」
灯理は小さな鈴を持った。
ちりん。
やさしい音が鳴る。
「息を吐きます」
全員で、ふう、と息を吐く。
何人かが笑った。
「変な訓練」
「でも、ちょっと落ち着く」
もう一度。
ちりん。
息を吐く。
机の代わりに床に置かれたマットの下へ入る動作をする。
頭を守る。
隣の人の名前を呼ぶ。
「ユウト」
「ハル」
ハルとユウトは、小さな声で呼び合った。
それだけで、胸の奥が少し緩む。
次は、もう少し大きなベル。
次は、校内放送に近い音。
ハルはそのたびに体を固くした。
小さな音でも、心臓が速くなる。
それでも、息を吐く。
ユウトの名前を呼ぶ。
ユウトが返す。
その手順が、音の中に細い道を作るようだった。
「先生」
ハルが手を挙げた。
「はい」
「怖くなったら足が動きません」
「うん」
「それでも、訓練では動かないといけません」
「はい」
「どうすればいいですか」
灯理は少し考えた。
「足より先に動かせるものを探そう」
「何を?」
「息と、声」
ハルは黒板を見た。
息。
声。
足より先に。
「息を吐く。誰かの名前を呼ぶ。返事を聞く。その後に、最初の一歩を出す」
「それで動けますか」
「必ずとは言えません」
灯理は正直に言った。
「でも、今日の午前中、ハルくんはユウトくんの名前を呼んだ後、歩き出せました」
ハルはユウトを見た。
ユウトは少し照れたように笑った。
「呼べばいいよ」
「でも、本当に地震だったら」
「本当に地震だったら、もっと呼ぶ」
ユウトはまっすぐ言った。
「僕も怖いし」
ハルは驚いた。
「ユウトも?」
「怖いよ。訓練でもちょっと怖い。でも、ハルが止まるから僕は怖くないみたいにしてただけ」
その言葉に、ハルの胸が熱くなった。
自分だけが怖いと思っていた。
みんなは平気で、自分だけが弱いのだと思っていた。
でも、ユウトも怖い。
美波先生も、その言葉を静かに聞いていた。
授業の最後に、美波先生は全員へ言った。
「次の訓練では、速さだけではなく、声の確認も入れます」
生徒たちが顔を上げる。
「ペアの名前を呼ぶこと。返事がない時は先生に知らせること。止まっている人を一人にしないこと」
美波先生の声は、朝より少し柔らかかった。
「避難は、一人で競争するものではありません。全員で安全な場所へ行くための訓練です」
翌日、再訓練が行われた。
今度は、事前に手順を確認してからだった。
ハルは机に座り、手元の避難カードを見た。
『音が鳴ったら、息を吐く』
『ユウトの名前を呼ぶ』
『机の下』
『頭』
『靴』
『歩き出す』
カードの文字は、自分で書いたものだ。
手が少し震えている。
怖くないわけではない。
むしろ、昨日より音を意識して怖い。
ユウトが隣で小さく言った。
「鳴ったら、最初に息」
ハルは頷いた。
「うん」
教室の前には、美波先生。
後ろには灯理。
ほかの生徒たちも、少し緊張した顔で待っている。
ジリリリリリリ。
サイレンが鳴った。
ハルの体が固まる。
やはり怖い。
音が大きい。
胸が詰まる。
でも、カードの最初の文字を見る。
息。
吸えない。
だから、吐く。
細く、長く。
「ユウト」
声が出た。
「ハル」
すぐ返ってきた。
ユウトの声が、教室の音の中で輪郭を持つ。
ハルは椅子を引いた。
机の下へ入る。
頭を守る。
美波先生の声。
「揺れがおさまりました。避難開始」
ハルは机の下から出る。
靴を見る。
上履きは履けている。
列へ。
足が止まりかける。
ユウトが言う。
「一歩」
ハルは右足を出した。
次に左足。
廊下へ。
走らない。
まず歩く。
列に入る。
階段。
校庭。
高台へ続く避難階段。
途中で息が乱れる。
だが、ユウトが隣にいる。
ハルは自分でもう一度、息を吐いた。
校庭に出た時、足は震えていた。
でも、止まらなかった。
全員が点呼を終える。
避難時間は、学校の目標より少し遅かった。
前回よりは速い。
でも、最速ではない。
美波先生はストップウォッチを見た後、生徒たちを見渡した。
「今日の訓練は、全員が途中で止まらず避難できました」
ハルは顔を上げた。
美波先生は続ける。
「時間はまだ改善できます。でも、今日は大切な確認ができました。怖くなった時にも、息を吐くこと。名前を呼ぶこと。隣の人を一人にしないこと」
生徒たちは静かに聞いていた。
「次は、この手順を保ったまま、もう少し速く動けるようにしましょう」
ハルは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
遅かった。
でも、失敗だけではなかった。
動けた。
ユウトと名前を呼び合い、手順を一つずつ進めて、校庭まで出られた。
放課後、ハルは教室に残って避難カードを書き直していた。
机の上には、灯理が置いてくれた小さなカードがある。
『怖い時に呼ぶ名前』
『最初にすること』
『次に見るもの』
『助けが必要な時の合図』
ハルは鉛筆を持った。
『怖い時に呼ぶ名前:ユウト』
少し考えて、もう一つ書き足す。
『先生』
次の欄。
『最初にすること:息を吐く』
『次に見るもの:靴、出口、ユウト』
『助けが必要な時の合図:手を上げる。名前を呼ぶ』
書き終えると、ユウトが覗き込んだ。
「僕も書く」
「ユウトも?」
「うん。怖い時に呼ぶ名前、ハルにする」
ハルは少し驚いて、それから笑った。
「僕でいいの?」
「いいよ。今日、ハルが呼んでくれたから、僕も落ち着いたし」
ハルはカードを見た。
自分は助けられるだけだと思っていた。
でも、名前を呼ぶことは、相手にも届いていた。
怖さの中で、声は一方通行ではなかった。
灯理が教室の後ろに立っていた。
「いいカードですね」
ハルは顔を上げた。
「先生」
「はい」
「今日も怖かったです」
「うん」
「サイレンが鳴った時、やっぱり息が止まりました」
「はい」
「でも、吐けました」
「うん」
「ユウトを呼べました」
「はい」
「歩けました」
言葉にするたび、その一つ一つが小さな階段のように思えた。
高台へ続く避難階段ではなく、怖さの中から外へ出るための階段。
「次は、もっと速くできると思います」
ハルは言った。
灯理は頷いた。
「速さは、手順の上に乗せていけますね」
教室の入口で、美波先生がその言葉を聞いていた。
彼女は少しだけ目を伏せ、それからハルの机へ近づいた。
「ハル」
「はい」
「今日、よく動けました」
ハルは小さく頷いた。
「はい」
「それから、昨日まで私は『もっと速く』とばかり言っていたかもしれない」
ハルは驚いて先生を見た。
「速さは必要です。これは変わりません」
美波先生は真剣に言った。
「でも、速く動ける子のためだけの訓練では意味がない。怖くて止まりそうな子も、どうすれば動き出せるかを含めて訓練しなければいけません」
美波先生は黒板の手順を見た。
「次からは、最初に言います。まず声を聞いて。隣の人の返事を聞いて。それから動きましょう、と」
ハルは胸が温かくなった。
「はい」
夜、灯理は沿岸の学校を出た。
校庭の向こうには、高台へ続く避難階段が夕暮れの中に伸びている。階段の手すりには、今日の訓練で何人もの手が触れた跡が残っているように見えた。
海から風が吹いていた。
昼間は穏やかだった海が、夕方には少し暗く見える。
美波先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生」
「はい」
「防災は、厳しく教えなければならないと思っていました」
「命に関わることですから」
「ええ。今でもそう思います。甘くしてはいけない」
美波先生は校舎を振り返った。
「でも、怖さを否定して速さだけ求めても、動けない子は動けないのですね」
灯理は頷いた。
「怖さの中で動く手順を持つことが、速さにつながることもあると思います」
「今日、それを見ました」
美波先生は小さく息を吐いた。
「次の職員会議で、避難訓練の評価項目を変えます。時間だけではなく、声の確認、止まった子への対応、ペアの動きも見るように」
「きっと、学校全体の力になります」
校舎の窓の一つに明かりがついていた。
ハルとユウトが、教室で避難カードを掲示板に貼っているのが見えた。
カードには大きな字で書かれている。
『怖い時に呼ぶ名前』
『最初にすること:息を吐く』
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、福祉専門学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
海の方から、波の音が聞こえる。
その音は静かだった。
けれど、この町の人たちは知っている。
静かな海も、時に大きく変わることを。
だから備える。
怖さを消すためではなく、怖い時にも誰かの名前を呼べるように。
息を吐き、声を出し、最初の一歩を思い出せるように。
灯理は夕暮れの坂道を下りながら、遠くの波音と、校舎に残る子どもたちの声を聞いていた。




