第39章 第3話:違う戻し方の授業――部長が見守る三分間
演劇部の部室には、稽古後の熱がまだ残っていた。
床には、立ち位置を示す白いテープが何本も貼られている。鏡の前には、台本のコピーが数枚重なり、衣装箱のふたは少し斜めになっていた。窓の外では、夕方の光が校庭を薄く染めている。
鏡横のボードには、今日の声札が並んでいた。
『声出ます』
『声小さめ』
『台詞合わせたい』
『今日は見学』
『もう一回やりたい』
『少し休む』
『役から戻る時間がほしい』
『顧問にあとで一言』
その横には、前に作った『声札の流れカード』が掛かっている。
### 稽古前
声札確認係が言う。
「今日の状態を貼る人は貼ってください。貼らなくても大丈夫です」
### 稽古中
稽古進行係が見る。
「変わったら貼り替えてよいです。休む札はいつでも出せます」
### 稽古後
戻し声かけ係が言う。
「三分、声札を戻す時間を取ります」
### 顧問確認
顧問確認係がする。
『顧問にあとで一言』札を村瀬先生へ渡す。
部室には、もう莉央一人の声だけで流れが動くのではなくなっていた。
月曜は柚月。
火曜は柊。
水曜は莉央。
木曜は真帆。
金曜は村瀬先生確認。
声札確認係、戻し声かけ係、顧問確認係を分けることで、莉央が委員会で遅れる日にも、声札は動けるようになった。
莉央は、それをよかったと思っていた。
部長である自分が毎回声をかける必要はない。
部室の仕組みとして、みんなで持てる。
そうわかっている。
けれど、その日の稽古後、莉央は何度も口を開きかけていた。
今日の戻し声かけ係は、柊だった。
柊は、少し前まで声札を使う側だった。
『声小さめ』札を貼った翌日、その札が残ったままになり、昨日の状態で今日の自分を見られたことがある。
だから、声札に戻す時間が必要だと、誰より実感している一人だった。
けれど、声をかける側になると、少し不器用だった。
稽古前、声札確認係の柚月が淡々と言った。
「今日の状態を貼る人は貼ってください。貼らなくても大丈夫です」
莉央は、その言い方を聞いて、少しだけ落ち着かない気持ちになった。
自分なら、もう少し柔らかく言う。
「無理に貼らなくてもいいです」と足すかもしれない。
「途中で変わったら貼り替えてください」と、稽古前にももう一度言うかもしれない。
でも、柚月の声かけは短かった。
その代わり、部室は静かに整った。
必要な人は札を貼り、貼らない人はそのまま準備をした。
柚月の進行には、莉央とは違う落ち着きがあった。
稽古中、柊は『声出ます』札を貼っていた。
真帆は『台詞合わせたい』札を貼った。
別の部員が『少し休む』札を途中で出した。
柚月はそれに気づき、
「五分休んで。戻る時に札を貼り替えて」
と短く言った。
莉央はまた、少しだけ口を出したくなった。
もう少し丁寧に言った方がいいのではないか。
でも、その部員は頷いて水を飲みに行き、五分後に『声小さめ』札へ貼り替えて戻ってきた。
動いている。
莉央の言い方とは違う。
でも、動いている。
そして稽古後。
片づけに入る前に、柊が流れカードを手に取った。
今日の戻し声かけ係。
部室の空気が少し緩み、台本を閉じる音がいくつか重なる。
柊は、カードを見ながら言った。
「三分、声札を戻す時間です」
声は少し小さかった。
それだけで、柊は一度黙った。
部員たちは鏡横へ集まる。
けれど、何を言えばいいのか、少し迷っているようだった。
『声出ます』を戻す人。
『台詞合わせたい』を戻す人。
『声小さめ』に貼り替えた人。
『少し休む』から戻った人。
莉央は、思わず一歩前に出そうになった。
変わったことを一言だけ確認して。
言わずに戻しても大丈夫って言って。
顧問にあとで一言札の確認も忘れないで。
そう言いたかった。
口が少し開いた。
その時、村瀬先生が莉央を見た。
止めるような強い視線ではなかった。
ただ、待ってみましょう、という穏やかな目だった。
莉央は、唇を閉じた。
柊は、鏡横の札を見ていた。
流れカードには、
「三分、声札を戻す時間を取ります」
と書かれている。
でも、それ以上の言葉はない。
柊は少し困ったようにカードを見たあと、自分の名前の横に貼られた『声出ます』札を見た。
そして、以前、自分の『声小さめ』札が翌日まで残っていた日のことを思い出したように、顔を上げた。
「昨日の札を残したくない人は、戻してください」
部室が少し静かになった。
莉央は、その言葉に目を上げた。
柊は続けた。
「今日も残したい札は、村瀬先生に言ってください。あと、言わずに戻しても大丈夫です」
声はまだ少し小さかった。
でも、言葉は柊のものだった。
莉央がいつも言う言葉とは違う。
莉央は、
「変わったことを一言だけ確認します」
と言っていた。
柊は、
「昨日の札を残したくない人」
と言った。
その言葉は、柊自身の経験から出ていた。
昨日の自分で今日の人を見られたくない。
その気持ちを知っているから出た言葉だった。
真帆が『台詞合わせたい』札を外した。
「今日は合わせられたので戻します」
途中で休んだ部員が、『声小さめ』札を外すか迷っていた。
柊が言った。
「今日も残したいなら、村瀬先生へ」
その部員は少し考えて、札を外した。
「今日はもう戻します。明日また貼るかもしれない」
柊は頷いた。
「明日また貼っていいです」
莉央は、そのやりとりを見ていた。
言い方は不器用だった。
でも、部員は動けている。
言わずに戻しても大丈夫。
残したい札は村瀬先生へ。
明日また貼っていい。
その言葉で、今日の札が今日の中に戻っていく。
柚月が、稽古進行係として片づけの時間を見ながら言った。
「あと一分です」
莉央は、また少し驚いた。
自分なら、戻し時間の終わりも自分で言っていた。
でも今日は、柚月が時間を見ている。
柊が声をかけている。
村瀬先生が顧問札を見る。
莉央は、何もしていないわけではない。
見ている。
けれど、取り返してはいない。
それは思っていたより難しかった。
三分が終わると、鏡横の札はほとんど戻っていた。
『顧問にあとで一言』札は、一枚だけ出ていた。
柊がそれを見つけて、村瀬先生へ渡した。
「これ、お願いします」
「受け取ります」
村瀬先生は静かに頷いた。
莉央は、そこでようやく息を吐いた。
流れは少しぎこちなかった。
でも、止まらなかった。
柊の言葉で戻った札があった。
その時、部室の入口近くに立っていた白瀬灯理が、ゆっくり鏡横へ歩いてきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
灯理は、柊の手元、莉央の表情、柚月の時計、村瀬先生の持つ顧問札を順に見ていた。
莉央は、灯理に向き直った。
「先生、役割を渡したのに、柊くんの声かけを聞いていると、私ならもっとこう言うのにって口を出したくなりました」
言葉にすると、少し恥ずかしかった。
「声が小さいとか、説明を足した方がいいとか、戻す時に一言確認した方がいいとか。でも、柊くんの言葉で戻せた人もいました」
柊は少し照れたように目を伏せた。
灯理は、莉央の言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、声札を任せた後に信じることは、次の人が部長と同じ言葉で戻すことなのでしょうか」
部長と同じ言葉で戻すこと。
莉央は、鏡横の流れカードを見た。
自分は、声札の仕組みを作る時にたくさん考えた。
貼れること。
貼り替えられること。
戻せること。
顧問に渡せること。
昨日の札で今日の人を決めつけないこと。
その意味を守りたくて、言葉も選んできた。
だから、違う言い方を聞くと心配になる。
それで伝わるのか。
その言葉で大丈夫なのか。
自分の言葉に戻したくなる。
でも、柊の言葉には、柊が感じたことが入っていた。
昨日の札を残したくない人。
それは、莉央には出せなかった言葉かもしれない。
灯理は、ホワイトボードを出した。
『莉央が口を出したくなった場面』
紬がペンを持った。
莉央は少し苦笑しながら言った。
「声が小さかった」
紬が書く。
『声が小さい』
「最初の言葉が短かった」
『言葉が短い』
「変わったことを一言確認してほしかった」
『一言確認を入れたかった』
「顧問札を忘れないか心配だった」
『顧問札が心配』
書き出すと、莉央が気にしていたことは、どれも大事だった。
声が届くこと。
流れがわかること。
変化を確認すること。
顧問へ渡すこと。
間違ってはいない。
けれど、それらをすぐ自分が言えば、柊の声かけは育たない。
灯理が柊に尋ねた。
「柊さんは、なぜ『昨日の札を残したくない人』という言葉を選んだのですか」
柊は、少し考えてから答えた。
「前に、自分の『声小さめ』札が次の日も残っていたことがあったからです」
莉央は頷いた。
「うん」
「その時、今日は声が出るのに、昨日の自分で見られてる感じがしました。だから、戻す時間って、昨日の自分を残さないためでもあると思って」
柊は、鏡横の空いた場所を見た。
「でも、残したい人もいるかもしれないから、村瀬先生に言ってくださいって言いました」
村瀬先生が頷く。
「顧問へ渡す道も残っていましたね」
紬が、新しい欄を書いた。
『柊の言葉で守られていた意味』
部員たちから声が出た。
「昨日の札で見られたくないってわかりやすかった」
「言わずに戻しても大丈夫って言われたのがよかった」
「今日も残したい札は先生へ、っていうのもわかりやすかった」
「明日また貼っていいって言われたから、戻しやすかった」
莉央は、それを聞きながら静かに頷いた。
自分が言おうとしていた言葉とは違う。
でも、守りたい意味は残っている。
今日の状態を置けること。
昨日の札で決めつけないこと。
変わったら戻せること。
必要なものは顧問へ渡せること。
柊の言葉は、不器用だけれど、そこへ届いていた。
灯理が言った。
「では、戻し声かけの言葉を一つに決める必要はあるでしょうか」
莉央は首を横に振った。
「いくつかあっていいと思います」
柚月が頷く。
「係によって言いやすい言葉が違うから」
紬が、白い紙に書いた。
『戻し声かけの例』
そこへ、みんなで言葉を足していく。
### 戻し声かけの例
* 三分、声札を戻す時間です
* 今日の札を戻す人は戻してください
* 昨日の自分を残したくない人は戻してください
* 今日も残したい札は、村瀬先生に渡してください
* 変わったことを一言だけ置ける人は置いてください
* 言わずに戻しても大丈夫です
* 明日また貼っても大丈夫です
莉央は、その紙を見ていた。
自分の言葉だけではない。
柊の言葉。
柚月の言葉。
部員たちが助かった言葉。
それらが並んでいる。
声札の仕組みは、莉央のものではなくなっていく。
それは少し寂しくもあり、少し安心でもあった。
次に、村瀬先生が言った。
「莉央さん用の見守りメモも作りましょうか」
莉央は、少し目を丸くした。
「私用ですか」
柚月が笑う。
「必要そう」
莉央も、苦笑しながら頷いた。
「必要です」
紬が紙を出す。
『部長の見守りメモ』
莉央は、今日の自分を思い出しながら書いた。
### 部長の見守りメモ
* 違う言葉でも守りたい意味が残っているかを見る
* すぐ言い直さない
* 係が困った時だけ助ける
* 稽古後に一緒に振り返る
* 係の言葉を一つ記録する
最後の行を見て、柊が少し驚いた。
「係の言葉を記録するんですか」
莉央は頷いた。
「今日の『昨日の札を残したくない人』は残したい」
柊は、少し照れた。
「そんな大した言葉じゃないです」
紬が言った。
「使った人の言葉だから、残す意味があると思う」
莉央も頷いた。
「私には出なかった言葉だから」
柊は、何か言いかけてやめた。
その代わり、小さく頷いた。
部活ノートを開き、莉央は今日の記録を書いた。
『戻し声かけ係:柊』
『最初は声が小さく、言葉も短かった』
『莉央は口を出したくなった』
『柊の言葉:昨日の札を残したくない人は戻してください』
『その言葉で、昨日の状態で見られたくない人が戻しやすくなった』
『言わずに戻しても大丈夫、明日また貼っても大丈夫、も追加された』
そして、一文を書く。
『声札を渡した後を信じることは、部長と同じ言葉で戻させることではなく、昨日の自分で決めつけないという意味が残るなら、違う声かけを待つことだった』
書き終えると、莉央はしばらくその文字を見ていた。
違う声かけを待つ。
待つことは、何もしないことではなかった。
見ている。
意味が残っているかを確かめる。
必要な時には戻れる場所を示す。
でも、すぐ奪わない。
今日の三分間は、莉央にとって長かった。
口を出したくなる三分間だった。
けれど、その三分間の中で、柊の言葉が生まれた。
夜、白瀬灯理は演劇部の部室を出た。
廊下には、稽古後の静けさが戻っていた。校庭の照明は白く光り、窓ガラスに部室の明かりが薄く映っている。扉の向こうには、鏡横の声札ボードと、新しく貼られた『戻し声かけの例』が見えた。
莉央、柊、柚月、紬、村瀬先生が廊下まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
莉央が言った。
「こちらこそ、声札の戻し方が部長の言葉から、使ってきた人の言葉へ広がっていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
柊は、少し照れたように言った。
「僕の言葉、そんなに残すほどですか」
莉央がすぐに言った。
「残すほど」
柊は、少し目を逸らした。
「昨日の札で見られたくなかっただけです」
紬が言った。
「だから届いたんだと思う」
柚月が頷く。
「莉央の言葉は丁寧で助かる。柊の言葉は、自分の経験から出ている感じがした」
莉央は、部活ノートを抱え直した。
「先生、私は自分の言葉で戻してほしかったのかもしれません」
「はい」
「でも、柊くんの言葉で戻れた人がいました。私には出なかった言葉でした」
村瀬先生が静かに言った。
「任せると、違う言葉が生まれますね」
灯理は頷いた。
声札を任せた後に信じることは、次の人が部長と同じ言葉で戻すことではない。
部長の言葉には、部長が見てきた時間がある。
貼ってもよい。
貼らなくてもよい。
変わったら貼り替えてよい。
三分、戻す時間を取る。
それは、部室の空気を整えてきた大切な言葉だった。
けれど、声札を使ってきた人にも、その人だけの言葉がある。
昨日の札を残したくない人。
今日も残したい札は、先生へ。
言わずに戻しても大丈夫。
明日また貼っても大丈夫。
その言葉は、同じ形ではない。
少し不器用で、声も小さくて、間もぎこちない。
でも、守りたい意味へ届いていることがある。
昨日の自分で今日の人を決めつけない。
今日の状態を今日の中で戻せる。
必要なものは顧問へ渡せる。
その意味が残っているなら、違う声かけを待つことができる。
信じるとは、何も見ないことではない。
手を出しそうになる自分に気づきながら、守りたい意味を見ること。
係が本当に困った時には助けること。
けれど、次の人の言葉が生まれる前に、部長の言葉で塗り替えないこと。
灯理は、夜の廊下から部室を振り返った。
莉央の部活ノートには、一文が残っている。
声札を渡した後を信じることは、部長と同じ言葉で戻させることではなく、昨日の自分で決めつけないという意味が残るなら、違う声かけを待つことだった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




