第39章 第4話:違う巡回の授業――宮田さんが追いかけたくなる背中
朝市の広場には、まだ薄い朝の匂いが残っていた。
石畳の上に、白いテントが一列に並んでいる。野菜の箱からは土の匂いがして、パン屋の籠からは焼きたての甘い香りが漂っていた。布小物の店では、風に揺れた小さな巾着が、隣同士で触れ合ってかすかな音を立てている。
本部テントの机の上には、巡回リレー表が置かれていた。
| 時間 | 巡回する人 | 見る場所 | 声かけ | 次の人 |
|---|---|---|---|---|
| 9:50 | 蓮 | 案内係 | あと十分で交代です | 奈々 |
| 10:20 | 奈々 | 水札・休憩所 | 戻す時間です | 直人 |
| 10:50 | 直人 | 案内・本部横 | 交代待ちはありますか | 静子 |
| 11:20 | 静子 | 店前・本部 | 本部へ戻すものはありますか | 宮田さん |
その横には、首から下げる巡回カードもあった。
表面には、
『巡回中です』
裏面には、
1. 時計を見る
2. 表の場所へ行く
3. 声かけを読む
4. 交代・休憩・戻すものを確認する
5. 表に印をつける
6. 次の人へ渡す
と書かれている。
前回、本部が混んだ日、宮田さんが動けないだけで巡回は止まった。
巡回係を作ったはずなのに、誰がいつ動くかは、宮田さんの頭の中に残っていた。
だから、巡回リレー表を作った。
時間。
見る場所。
声かけ。
次の人。
それらを表にして、巡回する役割そのものを手渡せるようにした。
今日、最初の巡回を担当するのは蓮だった。
蓮は、まだ高校生ボランティアとして参加し始めたばかりだ。
前回、表を見ながら初めて巡回し、直人の水札や奈々の休憩を確認した。
その時、蓮は言った。
「表があると行けます」
宮田さんは、その言葉を嬉しく思った。
けれど、今日、蓮が巡回カードを首から下げるのを見た瞬間、宮田さんの胸に小さな不安が浮かんだ。
大丈夫だろうか。
相手に伝わるように声をかけられるだろうか。
交代相手まで確認できるだろうか。
休憩場所を案内できるだろうか。
札を出してくれた人に、ありがとうと言えるだろうか。
それは、宮田さんがいつも自然にしてきたことだった。
だが、蓮にとっては、まだ一つ一つが新しい。
宮田さんは、本部の机を整えながら、蓮の背中を見ていた。
蓮は巡回カードの裏を何度も読んでいる。
「時計を見る。表の場所へ行く。声かけを読む」
小さく声に出していた。
奈々が近づいてきた。
「蓮くん、最初の巡回?」
「はい」
「緊張してる?」
「しています」
蓮は正直に答えた。
奈々は笑った。
「大丈夫。私も最初は交代札出すだけで緊張したから」
蓮は少しだけ表情を緩めた。
静子も本部へ来た。
「宮田さん、今日は蓮さんが最初ですね」
「はい」
宮田さんは頷いた。
「前回、表を見て動けたので、今日もお願いしました」
静子は、宮田さんの手元を見た。
宮田さんは、巡回表の端を無意識に指で押さえていた。
「心配ですか」
「少し」
宮田さんは正直に言った。
「私なら、もう少し声を足すと思うので」
静子は、ゆっくり頷いた。
「声を足したくなる日ですね」
宮田さんは苦笑した。
「はい。たぶん」
朝市が始まった。
来場者が少しずつ広場へ入ってくる。親子連れ、買い物袋を持った年配の人、犬を連れた人。出店者たちの声も、だんだん大きくなる。
蓮は、九時五十分の少し前に時計を見た。
巡回カードを首から下げる。
表を見る。
『9:50 案内係 あと十分で交代です 次の人:奈々』
案内係の場所には、初参加のボランティアである高校一年生の真斗が立っていた。
真斗は本部横で地図を持ち、来場者に店の場所を案内している。
蓮はそこへ歩いていった。
宮田さんの目が自然に追いかける。
蓮は真斗の前で立ち止まった。
カードの裏を見て、それから表を見る。
そして言った。
「あと十分です」
短い。
それだけだった。
真斗は少し戸惑った顔をした。
「えっと、何が?」
宮田さんは、本部から一歩出そうになった。
あと十分で交代です。
交代相手は奈々さんです。
案内板はそのままで大丈夫です。
休憩場所は本部裏です。
札を出してくれてありがとう。
言い足したい言葉が、一気に胸の中へ浮かんだ。
足が動きかけた。
その時、静子がそっと言った。
「宮田さん、少し待ちましょう」
声は穏やかだった。
止めるというより、一緒に見ようという声だった。
宮田さんは、一度息を吸った。
蓮は真斗の戸惑いに気づき、表を見直した。
「すみません。あと十分で交代です」
「あ、交代」
「交代相手は、表で確認します」
蓮は本部の方へ戻らず、自分の持っている表の写しを見た。
「次は奈々さんです」
真斗は少し安心したように頷いた。
「じゃあ、あと十分ここにいればいいですか」
「はい。あと十分です」
蓮は少し迷ってから付け足した。
「休憩場所は、本部の後ろです」
宮田さんは、思わず胸の中で言った。
そう、それ。
でも、自分は言わなかった。
蓮が自分で表を見て、言い足した。
真斗は頷いた。
「わかりました」
蓮は表に印をつけた。
『案内係:交代確認』
そして本部へ戻ってきた。
少し顔が赤い。
「最初、短すぎました」
宮田さんはすぐに言いそうになった。
そうですね。次は最初から「あと十分で交代です」と言いましょう。
でも、隣にいた白瀬灯理が静かにこちらを見ていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
灯理は、いつからか本部の近くで朝市の様子を見ていた。
宮田さんは、言葉を飲み込んだ。
代わりに言った。
「表に戻れましたね」
蓮は少し驚いた顔をした。
「はい。真斗くんがわからなそうだったので」
奈々が笑って言った。
「『あと十分です』だけだと、何があと十分かわからないよね」
「はい」
蓮は苦笑した。
「次はちゃんと言います」
宮田さんは、胸の中でまた言いたくなった。
ちゃんと、というより、交代相手と休憩場所まで言うといい。
でも、それは今すぐ言わなくても、後で振り返ればいいのかもしれない。
十時二十分。
今度は奈々の巡回だった。
蓮は巡回カードを奈々に渡した。
「お願いします」
「受け取ります」
奈々はカードを首から下げ、水札と休憩所を見に行った。
その姿を見ながら、蓮は少しほっとしていた。
巡回カードが手を離れたことで、肩の力が抜けたようだった。
しかし、十時五十分の巡回では、再び蓮に出番が来た。
直人が店の列対応で動けなかったため、宮田さんが表を確認し、蓮に頼んだ。
「蓮さん、代わりに案内・本部横を見てもらえますか」
蓮は少し驚いた。
「僕でいいですか」
「表があります。行けそうですか」
蓮は巡回カードを受け取った。
「行きます」
見る場所は、案内・本部横。
声かけは、
『交代待ちはありますか』
だった。
本部横では、真斗がまだ少し緊張した顔で案内を続けていた。奈々は別の場所でスタンプカードの手伝いをしている。
蓮は真斗の前に立った。
今度は、最初から声かけを読んだ。
「交代待ちはありますか」
真斗は首を振った。
「交代は大丈夫です。でも、この地図、どこを指せばいいかちょっと迷います」
蓮は一瞬止まった。
表には、地図の説明までは書いていない。
宮田さんは本部からその様子を見ていた。
地図の左下に店番号があります、と言いたかった。
案内板は番号順に説明するといい、と言いたかった。
足がまた動きかける。
静子が、もう一度そっと言った。
「宮田さん」
「はい」
「蓮さん、表に戻ろうとしています」
蓮は、巡回カードの裏を見た。
そこには、
『わからなければ本部へ戻します』
とは、まだ書かれていない。
基本手順だけだ。
蓮は少し迷ったあと、真斗に言った。
「一緒に本部で確認します」
真斗は頷いた。
二人で本部へ戻ってきた。
蓮は宮田さんに言った。
「地図の説明で迷っているそうです。どこを見ればいいですか」
宮田さんは、ようやく答えた。
「地図の左下に店番号があります。番号順に案内するとわかりやすいです」
蓮は頷いた。
そして真斗に向き直った。
「左下の番号を見て、番号順に案内するといいそうです」
真斗は地図を見て、少し安心した顔をした。
「あ、本当だ。番号ある」
蓮は小さく付け足した。
「僕も前回、表があると助かったので、迷ったら一緒に確認します」
真斗は、少し笑った。
「ありがとう」
宮田さんは、その言葉を聞いて、胸の中が少し静かになった。
僕も前回、表があると助かった。
それは、宮田さんなら言わない言葉だった。
蓮自身の経験から出た言葉だった。
初めてで迷う人に、蓮だから言える言葉。
ぎこちなさの中から出てきた、蓮の巡回の言葉だった。
直人の惣菜店でも、蓮の巡回は少しずつ変わっていった。
十一時前、蓮は水札の確認に行った。
直人の店には人が並んでいる。
蓮は最初、表を見て言った。
「戻す時間です」
直人はすぐに頷いた。
「ありがとう。じゃあ本部へ戻します」
蓮は少し驚いた。
「これだけで大丈夫ですか」
直人は笑った。
「大丈夫です。時間を言ってくれるだけでも助かります」
蓮は、少し安心した顔になった。
そして、巡回カードの裏を見ながら付け足した。
「戻すもの、手伝いますか」
「では、この札だけ本部へお願いします」
「はい」
蓮は水札を受け取り、本部へ戻した。
宮田さんは、その背中を見ていた。
危なっかしいところはある。
声もまだ短い。
表を見る時間も長い。
でも、蓮は戻れる。
表へ戻る。
本部へ戻る。
聞きに戻る。
そして、自分の言葉を少しずつ足している。
昼前、本部が少し落ち着いた頃、宮田さんは灯理と広場の端へ立った。
風が、テントの白い布をふわりと揺らしている。
宮田さんは、小さく息を吐いた。
「先生、巡回を蓮さんに渡したのに、後ろから全部言い足したくなりました」
言葉にすると、少し恥ずかしかった。
「あと十分です、だけでは足りないと思いました。交代相手を確認して、休憩場所も伝えて、札を出してくれてありがとうと言って、と。全部、後ろから言いたくなりました」
灯理は、宮田さんの言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、巡回を任せた後に信じることは、次の人が最初から運営者と同じ声かけをすることなのでしょうか」
最初から同じ声かけをすること。
宮田さんは、蓮の巡回カードを見た。
自分なら言える。
長く朝市を見てきたから。
誰が疲れていそうか。
どの店が混みやすいか。
どの言葉を添えると安心するか。
それは経験から出てくる。
でも、蓮にはまだその経験がない。
最初から宮田さんと同じ声かけを求めれば、蓮は巡回が怖くなるかもしれない。
また宮田さんが言えばいい、となるかもしれない。
それでは、巡回はまた宮田さんへ戻ってしまう。
灯理は、本部テントの机に白い紙を置いた。
『宮田さんが言い足したくなった場面』
静子がペンを持った。
宮田さんは、少しずつ言った。
「『あと十分です』だけだった時」
静子が書く。
『あと十分です、だけだった』
「交代相手を言ってほしかった時」
『交代相手を伝えてほしかった』
「休憩場所を言ってほしかった時」
『休憩場所を伝えてほしかった』
「札を出してくれてありがとうと言ってほしかった時」
『ありがとうを添えてほしかった』
「地図の説明で迷った時、すぐ助けに行きたくなりました」
『迷った時にすぐ助けたくなった』
書き出された言葉を見て、宮田さんは苦笑した。
「たくさんありますね」
静子が言った。
「それだけ見えているということですね」
灯理が蓮に尋ねた。
「蓮さんは、どこで困りましたか」
蓮は少し考えた。
「最初、声かけを短くしすぎました。『あと十分です』だけだと、相手はわからないって気づきました」
静子が書く。
『相手が何の時間かわからなかった』
「地図の説明は、表に書いていなかったので困りました。でも、本部へ戻ればいいと思いました」
『表にないことは本部へ戻る』
「直人さんのところでは、『戻す時間です』だけで助かったと言われて、短くても役に立つ時があると思いました」
『短い声かけでも助かる時がある』
直人が頷いた。
「忙しい時は、時間を知らせてもらえるだけで十分助かります」
奈々も言った。
「でも、交代の時は相手が誰か聞けると安心します」
宮田さんは、それを聞いて頷いた。
すべての場面で同じ丁寧さが必要なわけではない。
時間だけで助かる場面もある。
交代相手まで必要な場面もある。
迷ったら本部へ戻る場面もある。
蓮は、表を読みながら、それを少しずつ覚えている。
灯理が尋ねた。
「この巡回で守りたい意味は何でしょう」
宮田さんが答えた。
「交代時間が見えること」
『交代時間が見える』
奈々が言う。
「休憩に入りやすいこと」
『休憩に入りやすい』
直人が続ける。
「戻すものが戻ること」
『戻すものが戻る』
静子が言った。
「巡回する人も一人にならないこと」
『巡回する人も一人にならない』
蓮が少し考えて言った。
「初めての人でも、表に戻れること」
『初めての人でも表に戻れる』
宮田さんは、その最後の言葉を見て、少し胸が熱くなった。
蓮が見ている意味は、宮田さんとは少し違う。
でも、大切だった。
初めての人でも表に戻れる。
それは蓮自身が前回感じたことだった。
だから、真斗に「僕も前回、表があると助かった」と言えた。
灯理が巡回カードを手に取った。
「基本の声かけに加えて、足してよい言葉を残してみましょうか」
宮田さんは頷いた。
巡回カードの裏に、新しい欄を追加する。
### 基本の声かけ
* あと十分で交代です
* 戻す時間です
* 交代待ちはありますか
* 本部へ戻すものはありますか
### 足してよい言葉
* 一緒に表を見ます
* 交代相手を確認します
* 休憩場所はこちらです
* 札を出してくれてありがとうございます
* わからなければ本部へ戻します
* 僕も表があると助かりました
最後の一文を見て、蓮が少し驚いた。
「それも入れるんですか」
奈々が笑った。
「いいと思う。蓮くんの言葉だから」
静子も頷いた。
「初めての人には、届きやすい言葉だと思います」
宮田さんは、蓮を見た。
「私には出ない言葉でした」
蓮は少し照れたように視線を落とした。
「ただ、前回そう思っただけです」
「だから、必要なのだと思います」
宮田さんは、静かに言った。
次に、宮田さん自身の見守りメモを作った。
### 宮田さんの見守りメモ
* すぐ後ろから言い足さない
* 危ない時だけ止める
* 表に戻れているなら待つ
* 巡回後に一緒に振り返る
* 蓮さんの言葉を一つ記録する
宮田さんは、最初の一行を見て、小さく笑った。
「すぐ後ろから言い足さない」
静子が言う。
「今日、何度か必要でしたね」
「はい。何度も必要でした」
宮田さんは素直に認めた。
午後の片づけ前、蓮はもう一度巡回に出た。
今度は、初参加の真斗に交代の確認をする。
蓮は巡回カードを見てから言った。
「あと十分で交代です。交代相手は奈々さんです。一緒に表を見ます」
真斗は表をのぞいた。
「ここですね」
「はい。休憩場所は本部の後ろです」
「ありがとうございます」
蓮は少し間を置いて、付け足した。
「わからない時は、本部へ戻せば大丈夫です。僕も前回、表があると助かりました」
真斗は、ほっとした顔で頷いた。
「じゃあ、次は僕も見ればいいんですね」
「はい」
宮田さんは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
追いかけたくなる背中。
言い足したくなる声。
でも、その背中は、少しずつ自分の足で巡回している。
その声は、少しずつ蓮自身の言葉を持ち始めている。
宮田さんは、本部へ戻り、朝市記録を開いた。
『蓮さんの最初の声かけは短かった』
『宮田は後ろから言い足したくなった』
『蓮さんは表へ戻り、交代相手を確認した』
『真斗さんへ「僕も前回、表があると助かった」と伝えた』
『直人さんには短い声かけでも助かった』
『手入れ:巡回カードに足してよい言葉を追加/宮田の見守りメモを作成』
そして、一文を書く。
『巡回を渡した後を信じることは、運営者と同じ声かけをすぐ求めることではなく、表に戻れる範囲で、次の人の言葉が育つのを待つことだった』
書き終えると、宮田さんはその文字を指でなぞった。
次の人の言葉が育つのを待つ。
待つことは、何もしないことではない。
見ている。
危ない時には止める。
表に戻れているかを見る。
巡回後に振り返る。
でも、言葉が生まれる前に、運営者の言葉で覆わない。
蓮の巡回は、まだ宮田さんのようにはならない。
でも、宮田さんと同じにならなくてよい。
蓮の言葉で、安心する人がいる。
夕方、朝市の片づけが終わった。
白いテントはたたまれ、広場には野菜の葉と、パンの紙袋の端が少し残っている。石畳は昼間の熱をゆっくり手放していた。
白瀬灯理は、広場の端で立ち止まった。
宮田さん、蓮、奈々、静子、直人が見送りに来ていた。
「白瀬先生、ありがとうございました」
宮田さんが言った。
「こちらこそ、巡回の声が運営者の言葉から、次の人自身の言葉へ育っていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
蓮は、巡回カードを手に持っていた。
「先生、最初、本当に短かったです」
「はい」
「あと十分です、だけだと、相手はわからないって気づきました。でも、表に戻れば次に何を言えばいいか少しわかりました」
奈々が言った。
「蓮くんの『一緒に表を見ます』は、初めての人には安心すると思う」
直人も頷く。
「忙しい店には、短い声かけでも助かります」
宮田さんは、朝市記録を抱えていた。
「私は、蓮さんの後ろから全部言い足したくなりました」
「はい」
「でも、言い足しすぎると、巡回がまた私に戻ってしまうのですね」
静子が静かに言った。
「蓮さんの言葉が出る前に、宮田さんの言葉で埋めてしまうことになるのかもしれません」
宮田さんは頷いた。
「それを今日、何度も感じました」
灯理は、巡回カードを見た。
巡回を任せた後に信じることは、次の人が最初から運営者と同じ声かけをすることではない。
運営者には、経験がある。
見えることがある。
足した方がよい言葉がある。
相手が安心する一言を知っている。
それは大切な知恵だ。
けれど、その知恵をすぐに後ろからかぶせれば、次の人が自分の言葉を探す時間はなくなる。
最初の声は短いかもしれない。
ぎこちないかもしれない。
表を読むのに時間がかかるかもしれない。
でも、表へ戻れるなら、待てることがある。
危ない時には止める。
困った時には戻る場所を示す。
巡回後に一緒に振り返る。
そして、次の人の言葉を一つ残す。
僕も前回、表があると助かりました。
その言葉は、蓮の中から出たものだった。
宮田さんには出せない、蓮の巡回の言葉だった。
信じるとは、放っておくことではない。
守りたい意味を見ながら、次の人の言葉が育つ余白を残すこと。
交代時間が見える。
休憩に入りやすい。
戻すものが戻る。
巡回する人も一人にならない。
初めての人でも表に戻れる。
その意味が残っているなら、違う声かけをすぐ直さなくてよい。
夕暮れの広場に、風が吹いた。
巡回カードの紐が、蓮の手の中で小さく揺れた。
灯理は、片づいた朝市の広場を振り返った。
宮田さんの朝市記録には、一文が残っている。
巡回を渡した後を信じることは、運営者と同じ声かけをすぐ求めることではなく、表に戻れる範囲で、次の人の言葉が育つのを待つことだった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




