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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第38章 第3話:部長がいない日の授業――声札を戻す人


 演劇部の部室には、莉央の声がなかった。


 放課後の廊下には、運動部の掛け声と、吹奏楽部の音階練習が重なっている。部室の窓からは、斜めに傾いた夕方の光が差し込み、鏡の端を白く光らせていた。


 鏡の横には、今日の声札が並んでいる。


『声出ます』


『声小さめ』


『台詞合わせたい』


『今日は見学』


『もう一回やりたい』


『少し休む』


『役から戻る時間がほしい』


『顧問にあとで一言』


 その下には、以前作った流れの紙も貼られていた。


### 稽古前


今日の状態を貼る。

貼らなくてもよい。


### 稽古中


変わったら貼り替えてよい。

休む札はいつでも出せる。


### 稽古後


三分だけ、札を戻す時間を取る。

変わったことを一言だけ確認する。

顧問にあとで一言札は、村瀬先生へ渡す。


 さらに、一番下には莉央の字で大きく書かれている。


『この札は、今日のための札です。昨日の札で今日の人を決めつけません』


 声札は、部室に少しずつなじんできていた。


 最初は、青い箱を置いた。


『声に出せないことを置く箱』


 けれど、部室ではそれが相談箱のように見えた。


 相談というほどではない。


 でも、今日の声や体の状態は置きたい。


 そのために、箱ではなく、鏡横の札へ持ち替えた。


 さらに、貼ったままになる問題が起きた。


 昨日の『声小さめ』が、翌日の柊を決めつけてしまった。


 だから、稽古後に三分だけ戻す時間を作った。


 莉央は、毎回その流れを声に出していた。


「今日の状態を貼る人は貼ってください。貼らなくても大丈夫です」


「変わったら貼り替えていいです」


「片づけの前に、三分だけ戻す時間を取ります」


 莉央の声があると、部室は自然にその流れへ入っていった。


 けれど今日は、莉央が委員会で遅れていた。


 文化祭実行委員の打ち合わせが長引いているらしい。


 副部長の柚月は、部室の鍵を開けたあと、少し鏡横を見た。


 札はある。


 流れの紙もある。


 でも、いつも最初に声をかける莉央がいない。


 部員たちは少しずつ集まり、鞄を置き、台本を出し、発声練習の準備を始めている。


「莉央、まだ?」


「委員会長引いてるって」


「じゃあ柚月、今日進める?」


 柚月は、台本を持ったまま頷いた。


「うん。じゃあ、先に発声から始めよう」


 副部長として、稽古の進行はできる。


 発声、ストレッチ、昨日の続きの場面確認。


 そこまでは頭に入っている。


 けれど、声札の流れをどう扱えばよいのかは、少し曖昧だった。


 貼る時間は、いつも莉央が言っていた。


 戻す時間も、莉央が言っていた。


 顧問にあとで一言札も、莉央が村瀬先生へ渡す流れを確認していた。


 柚月は鏡横の札をちらりと見た。


 言った方がいいのかな。


 でも、部員たちはもう発声の準備をしている。


 声札のことを言うと、流れを止める気がした。


 柚月は、結局そのまま言った。


「じゃあ、円になって。発声いきます」


 柊は、鏡横の札の前で少し迷っていた。


 昨日は声がよく出ていた。


 今日は、朝から喉が少し乾いている。


 休むほどではない。


 でも、最初から大きく出すと少しつらそうだった。


 柊は、『声小さめ』札を取って、自分の名前の横に貼った。


 しかし、誰もそれに気づかなかった。


 莉央なら、きっと見てくれた。


「柊、今日は声小さめね。発声は軽めで」


 そう言ってくれただろう。


 柚月は、もう円の中央で手を叩いていた。


「あめんぼあかいな、あいうえお」


 部員たちが声を合わせる。


「あめんぼあかいな、あいうえお」


 柊も声を出した。


 少し小さめに。


 でも、周りはいつもの音量で出している。


 柚月は発声のテンポを保つことに集中していて、鏡横を見る余裕がなかった。


 柊は、札を貼ったけれど、貼ったことが場に届いていないように感じた。


 稽古が進む。


 今日は二場の動き確認だった。


 柚月は台本を見ながら、指示を出す。


「そこ、立ち位置を半歩後ろにして」


「真帆、台詞の入りもう少し待って」


「柊、次の台詞、声もう少し前に出せる?」


 柊は、一瞬言葉に詰まった。


 声小さめ札を貼っている。


 でも、柚月は見ていない。


 自分で言うべきか。


 そう思った時、紬が部室の入口に立っているのが見えた。


 今日は、図書室のひと息棚の担当として、声札のその後を見に来ていた。紬は鏡横の札と柊の表情を見比べて、少し眉を寄せた。


 柊は、思い切って言った。


「今日は、声小さめで貼ってます」


 柚月が、はっとして鏡横を見た。


「あ、ごめん。見てなかった」


「大丈夫です」


 柊はそう言ったが、大丈夫という声は少し薄かった。


 柚月は慌てて言った。


「じゃあ、音量より間で見よう。声は無理しないで」


「はい」


 稽古は続いた。


 途中で、別の部員が『少し休む』札を貼った。


 けれど、その時も誰が気づくのか曖昧だった。


 部員は、札を貼ったあと、少し壁際へ下がった。


 柚月は動きの確認をしていて、すぐには気づかない。


 村瀬先生は、今日は職員室で少し遅れていた。


 部長の莉央もいない。


 札はある。


 でも、誰が見るのかが決まっていない。


 紬は、しおり型カードを取り出した。


 そこに静かに書く。


『貼れる場所はある。でも、見る人が決まっていない』


 そのカードを持ったまま、紬は部室の隅で見守った。


 稽古後、柚月は少し疲れた声で言った。


「じゃあ、片づけよう」


 部員たちは椅子を戻し、台本を集め、衣装箱を端へ寄せ始めた。


 鏡横には、柊の『声小さめ』札と、別の部員の『少し休む』札が残っている。


 柊は、それを見て立ち止まった。


「今日、札戻さなくていいんですか?」


 柚月が振り返る。


「戻す?」


「稽古後に三分、戻す時間」


「あ」


 柚月は、鏡横の紙を見た。


 そこにはちゃんと書かれている。


### 稽古後


三分だけ、札を戻す時間を取る。


 でも、誰も声に出さなかった。


 だから、流れから抜け落ちていた。


 柚月は、少し困った顔をした。


「戻す時間って、莉央が言ってたやつ?」


 部室が静かになった。


 莉央が言っていたやつ。


 つまり、戻す時間は、仕組みとして部室にあるようでいて、実際には莉央の声に支えられていたのだ。


 その時、部室の扉が開いた。


「ごめん、遅れた!」


 莉央が息を切らして入ってきた。


 委員会の資料を抱え、髪が少し乱れている。


 部室の様子を見て、すぐに何かが違うと気づいた。


「どうしたの?」


 柚月が、鏡横を指した。


「声札、戻す時間を忘れてた」


 柊が言った。


「貼る時間も、ちょっと曖昧でした。僕、声小さめを貼ったけど、最初は見られてなくて」


 休んでいた部員も、小さく言った。


「少し休む札も、誰に見せればいいか迷いました」


 莉央は、鏡横の札を見た。


 流れの紙は貼ってある。


 でも、今日それを動かす声がなかった。


 莉央は、少し言葉を失った。


「私、貼ってあるから大丈夫だと思ってた」


 紬は、しおり型カードを莉央へ渡した。


『貼れる場所はある。でも、見る人が決まっていない』


 莉央は、そのカードを読んで、ゆっくり頷いた。


 その時、白瀬灯理が部室の入口に立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 灯理は、莉央の息の上がった様子、柚月の戸惑い、柊の貼った札、鏡横の流れの紙を静かに見ていた。


 柚月が灯理を見た。


「先生、声札の仕組みは部室にあるのに、莉央がいないと、いつ確認していつ戻すのか誰も言えませんでした」


 言葉にしてみると、柚月の声には少し悔しさが混じっていた。


「稽古は進められたけど、声札のことは莉央がやっていたんだって、今日わかりました」


 莉央が小さく言う。


「私も、いつの間にか自分が言えばいいと思っていました」


 灯理は、二人の言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、声札が続くことは、部長が毎回思い出して声をかけることなのでしょうか」


 部長が毎回思い出して声をかけること。


 莉央は、鏡横の紙を見た。


 仕組みはある。


 でも、それを動かす声は自分の中にあった。


 自分がいる日ならできる。


 でも、自分が委員会で遅れる日もある。


 休む日もある。


 公演前に別の場所へ呼ばれる日もある。


 そのたびに声札が止まるなら、それは部室の仕組みではなく、莉央の習慣に近い。


 灯理は、ホワイトボードを出した。


『莉央さんが普段していたこと』


 村瀬先生も、ちょうど部室に入ってきた。


 状況を聞き、静かにホワイトボードの横に立つ。


 灯理が尋ねた。


「莉央さんは、声札について普段何をしていましたか」


 柚月が答えた。


「稽古前に、今日の状態を貼る人は貼ってくださいって言っていました」


 村瀬先生が書く。


『稽古前に声をかける』


 柊が言う。


「貼らなくても大丈夫です、も言っていました」


『貼らなくてもよいと伝える』


 別の部員が言った。


「稽古中に、休む札に気づいていました」


『休む札に気づく』


 紬がカードを書く。


『貼り替えてよいと伝える』


 莉央が続ける。


「稽古後に、三分戻す時間を取りますって言っていました」


『稽古後に戻す時間を取る』


 村瀬先生が言う。


「顧問にあとで一言札を、私へ渡す流れも確認していましたね」


『顧問にあとで一言札を渡す』


 ホワイトボードに並んだ言葉を見て、莉央は少し目を伏せた。


「けっこう、私が言っていましたね」


 柚月が言う。


「でも、莉央が悪いわけじゃないよ」


「うん。でも、私がいないと止まるのはよくない」


 莉央は、少し考えてから言った。


「分けたいです」


 灯理が頷く。


「どのように分けられそうですか」


 柚月が、最初に手を挙げた。


「稽古進行係は、その日の進行をする人。今日は私がやりました」


 ホワイトボードに書かれる。


『稽古進行係』


 柊が少し迷ってから言った。


「声札確認係。稽古前に貼る時間を言う人」


『声札確認係』


 紬がカードを書く。


『戻し声かけ係』


 莉央が読む。


「稽古後に三分、戻す時間を言う人」


 村瀬先生が言った。


「顧問確認係も必要ですね。顧問にあとで一言札を、私に渡す人です」


『顧問確認係』


 役割が少しずつ見えてきた。


 部長一人の声ではなく、小さな役割。


 稽古を進める人。


 声札を見る人。


 戻す時間を声に出す人。


 顧問へ渡す人。


 莉央は、部活ノートを開いた。


「声札の流れカードを作ろう」


 柚月が頷く。


「部長じゃなくても読めるやつ」


 白い厚紙を一枚出す。


 タイトルは、


『声札の流れカード』


 そこに、役割ごとの言葉を書いた。


### 稽古前


声札確認係が言う。

「今日の状態を貼る人は貼ってください。貼らなくても大丈夫です」


### 稽古中


稽古進行係が見る。

「変わったら貼り替えてよいです。休む札はいつでも出せます」


### 稽古後


戻し声かけ係が言う。

「三分、声札を戻す時間を取ります」


### 顧問確認


顧問確認係がする。

『顧問にあとで一言』札を村瀬先生へ渡す。


 莉央は、カードの端に小さく書き足した。


『部長がいない日も、このカードを読めば始められます』


 柚月がそれを見て、少し笑った。


「助かる」


 次に、役割表を作った。


### 声札の役割表


月曜:柚月

火曜:柊

水曜:莉央

木曜:真帆

金曜:村瀬先生確認


 ただし、毎日一人で全部やるのではない。


 その日の声札確認係、戻し声かけ係、顧問確認係を、稽古前に決める。


 初めての人が戸惑わないように、流れカードをホワイトボードの横に掛ける。


 柊は、少し驚いた顔をした。


「僕も火曜ですか」


 莉央が聞く。


「難しい?」


「いや、声札は使う側だったから」


 柚月が言った。


「使ってる人だから、必要な言い方がわかるかも」


 柊は、少し考えた。


「じゃあ、火曜の戻し声かけ係ならできます」


 莉央は頷いた。


「ありがとう」


 その日のうちに、もう一度流れを試すことになった。


 部員たちは、鏡横に集まる。


 柚月が『声札の流れカード』を手に持った。


「えっと、稽古後なので、戻し声かけ係のところを読みます」


 少し照れながらも、声に出す。


「三分、声札を戻す時間を取ります」


 柊が、自分の『声小さめ』札を外した。


「今日は途中から、声を抑えてできました」


 柚月が頷く。


「記録する?」


「今日は大丈夫です」


 休んでいた部員が、『少し休む』札を外した。


「休んだけど戻れました。次から、貼ったら誰に言えばいいか、わかると安心です」


 莉央が言う。


「次から声札確認係が最初に見るようにします」


 村瀬先生が、『顧問にあとで一言』札の場所を確認した。


「この札が出た時は、顧問確認係が私へ渡してください。部長が持たないように」


 莉央は、その言葉に少し肩の力を抜いた。


 顧問にあとで一言札まで、自分が見なければならないと思っていた。


 でも、そうではない。


 顧問へ渡す役割を決めればいい。


 部長が全部読む必要はない。


 紬は、しおり型カードに書いた。


『流れを分けると、使う人も支える人も一人にならない』


 莉央は、そのカードを声札の流れカードの裏に貼った。


 部室の鏡横は、少し変わった。


 今日の声札の下に、流れカード。


 その横に、役割表。


 さらに、顧問確認用の小さな封筒。


『村瀬先生へ』


 部長がいなくても、最初に見る場所がある。


 読む言葉がある。


 役割がある。


 戻る時間がある。


 柚月は、流れカードを見ながら言った。


「これなら、莉央が委員会の日でもできると思う」


 莉央は、少しだけ笑った。


「私も、委員会で遅れても少し安心できる」


 柊が言った。


「火曜、読みます」


 莉央が頷く。


「お願い」


 その短いやりとりに、部室の空気が少し軽くなった。


 夜、白瀬灯理は演劇部の部室を出た。


 廊下には、稽古後の熱がまだ残っていた。窓の外では校庭の照明が白く光り、遠くでボールを蹴る音が小さく響いている。部室の扉の向こうには、鏡横に並んだ声札と、新しい流れカードが見えた。


 莉央、柚月、柊、紬、村瀬先生が廊下まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


 莉央が言った。


「こちらこそ、声札の流れが部長一人の声から、部室のみんなの役割へ分かれていく時間を一緒に見せていただきました」


 灯理は静かに答えた。


 柚月は、少し照れたように流れカードを持っていた。


「先生、稽古は進められたんです。でも、声札の流れは莉央がいないとわからなくて」


「はい」


「紙は貼ってあったのに、いつ誰が読むのかが決まっていませんでした」


 柊が言った。


「貼れる場所があっても、見る人がいないと届かないんだと思いました」


 莉央は、小さく頷いた。


「私も、部長だから自分が声をかければいいと思っていました。でも、私がいない日にも部活はあります」


 村瀬先生が言った。


「貼る、見る、戻す、渡す。それぞれを分けたことで、部長だけに戻さずにすみますね」


 紬が、しおり型カードを差し出した。


 莉央が読む。


「流れを分けると、使う人も支える人も一人にならない」


 灯理は頷いた。


 声札が続くことは、部長が毎回思い出して声をかけることではない。


 部長の声は、始まりとして大切だった。


 貼ってもいい。


 貼らなくてもいい。


 変わったら貼り替えていい。


 三分、戻す時間を取る。


 その言葉があったから、声札は部室になじみ始めた。


 けれど、その言葉が一人の中だけにあると、その人がいない日に流れは止まる。


 道具があるだけでは足りない。


 紙が貼ってあるだけでも足りない。


 誰が読むのか。


 いつ読むのか。


 誰が見るのか。


 誰が戻す声をかけるのか。


 誰が顧問へ渡すのか。


 その小さな役割を分けることで、仕組みは一人の記憶から部室の流れへ変わっていく。


 部長がいない日にも、声札は動ける。


 副部長が全部背負うのでもない。


 使う人、見る人、戻す人、渡す人。


 それぞれが少しずつ持つ。


 その時、部室の学びは、一人の背中から、みんなの手元へ移っていく。


 灯理は、夜の廊下から部室を振り返った。


 莉央の部活ノートには、一文が残っている。


 声札を続けることは、部長が毎回思い出すことではなく、貼る・見る・戻す・渡す声を小さな役割に分けておくことだった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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