第38章 第2話:電話に出られない日の授業――聞く人が母だけではない
祖母の家の電話台には、今日も小さな花の印が並んでいた。
赤い花の横には、
『今週一つだけ頼むこと』
青い花の横には、
『後で言えたら頼むこと』
黄色い花の横には、
『見せるだけでもよいこと』
そして、つぼみの絵の横には、
『次回へ移すこと』
と書かれている。
黒い固定電話の横には、言い出しカードが三枚、輪ゴムで留められて置いてあった。
『今日は一つだけお願いがあるの』
『急ぎではないけれど、今週見てほしいの』
『電話では言いにくいから、メモを見てほしいの』
窓の外では、庭の草木が夏に向かって少しずつ色を濃くしていた。台所からは、煮出した麦茶の香ばしい匂いが流れてくる。壁の時計は、午後三時を少し過ぎたところだった。
翔太は、祖母の家の居間で宿題を広げていた。
妹は、電話台の横で新しい花のシールを並べている。
「赤い花は頼むこと。青い花は後で。黄色い花は見せるだけ。つぼみは次」
妹は、誰に聞かせるでもなく、小さく歌うように言った。
翔太は鉛筆を止めて、電話台を見た。
電話台メモは、少しずつ祖母の暮らしになじんできていた。
最初は、頼みたいことを書くことも、電話で声に出すことも難しかった祖母が、最近は母に一つだけ頼めるようになってきた。
「今日は一つだけお願いがあるの」
その言い出しカードを見ながら、電球の交換を頼んだ日。
病院の予約を確認してほしいと書いた日。
高い棚の箱を下ろすことを、見せるだけの欄へ移した日。
一つずつだった。
でも、その一つずつが、祖母の声を少し育てているように見えた。
母も、聞き方を変えていた。
「何かある?」
ではなく、
「メモに一つある?」
と聞く。
「全部言って」
ではなく、
「今日はどれにする?」
と聞く。
「もっと早く言ってよ」
ではなく、
「書いてくれてありがとう」
と言う。
それだけで、祖母の声は少し出やすくなった。
翔太は、もう大丈夫になってきたと思っていた。
少なくとも、母が電話できる日は。
けれど、その週、母は仕事で遅くなる日が続いた。
夕方に電話をする時間が取れない。
朝も慌ただしい。
そこで、母の妹である叔母が、祖母へ電話をかけることになった。
叔母は、翔太たちの家から少し離れた町に住んでいる。
明るく、よく笑う人だ。
祖母を心配していて、時々果物やお菓子を送ってくれる。
でも、電話台メモの細かい使い方までは知らなかった。
その日の午後、固定電話が鳴った。
祖母が受話器を取る。
「はい、もしもし」
受話器の向こうから、叔母の声が聞こえた。
「お母さん? 私。元気?」
「ええ、元気よ」
「よかった。お姉ちゃん、今週忙しいみたいだから、代わりに電話したの」
「そう。ありがとう」
祖母の声は、いつもより少し改まっていた。
翔太は、宿題をしながらも耳を澄ませていた。
電話台のメモには、今日の欄がある。
『今週一つだけ頼むこと:病院の日の確認』
母に聞く予定だった。
来週の病院が火曜なのか水曜なのか、カレンダーには丸が二つついてしまっていて、祖母は少し迷っていた。
叔母は、明るい声で聞いた。
「お母さん、大丈夫?」
祖母は、すぐに答えた。
「大丈夫よ」
翔太は、鉛筆を止めた。
大丈夫。
その言葉は、前にも聞いたことがある。
叔母は続けた。
「何か困ってない?」
「特にないわ」
祖母は、電話台のメモを見ていた。
病院の日の確認。
書いてある。
赤い花の横に、今日頼むこととして置いてある。
けれど、祖母は言わなかった。
受話器を持つ手が、少しだけ電話台の角に触れている。
叔母は、さらに明るく言った。
「無理しないでね。何かあったら言ってね」
「ええ。ありがとう」
電話は短く終わった。
祖母は受話器を置き、しばらく電話台のメモを見ていた。
翔太は、思わず言った。
「病院の日、聞かなかったの?」
祖母は、少し困ったように笑った。
「そうねえ」
「書いてあるのに」
「うん。書いてあるわね」
「母さんには言えるようになってきたじゃん」
言ってから、翔太は少しだけ後悔した。
責めたいわけではなかった。
ただ、不思議だった。
母に聞く時は、少しずつ言えるようになっていた。
でも、叔母にはまた言えなくなった。
祖母は、電話台の赤い花を指でなぞった。
「お母さんには、聞き方があるでしょう」
「聞き方?」
「『メモに一つある?』って聞いてくれるでしょう。叔母さんは知らないから、『大丈夫?』って聞いてくれたの」
「大丈夫って聞かれたら?」
「大丈夫って答えてしまうのよ」
祖母は、少し恥ずかしそうに笑った。
「困ってない? と聞かれたら、困ってないわ、って言ってしまうの」
翔太は、黙った。
叔母が悪いわけではない。
祖母を心配して電話してくれた。
大丈夫かと聞くのは、普通のことだ。
でも、祖母には、その聞き方だと頼みごとへの入口にならなかった。
母の聞き方が、祖母の声を支えていたのだ。
それが、聞く人が変わった途端に途切れた。
翔太は、家族ノートを開いた。
祖母の電話台メモのページを見返す。
頼む声を育てることは、頼みごとを全部言えるようにすることではなく、一つだけ言える道を何度も作ることだった。
そう書いた。
でも、その道は、母との間にできた道だったのかもしれない。
叔母との間には、まだ道がない。
その時、玄関の引き戸が開く音がした。
「こんにちは」
白瀬灯理の声だった。
今日は、電話台メモのその後を見に来る予定になっていた。
灯理は、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持ち、玄関で丁寧に靴をそろえた。
祖母が迎えに出る。
「先生、ちょうどお茶を淹れようと思っていたところです」
「ありがとうございます」
灯理は居間へ入り、電話台を見た。
赤い花の横の文字。
『病院の日の確認』
まだ消えていない。
翔太の少し困った顔。
祖母の受話器を置いた後の手。
それらを、灯理は静かに見た。
翔太は、すぐに言った。
「先生、頼む声は育ってきたと思ったのに、聞く人が変わると、また言えなくなりました」
祖母が、小さく頷いた。
「娘には少しずつ言えるようになってきたんです。でも、今日は妹が電話をくれて。聞き方が違うと、また大丈夫と言ってしまいました」
翔太は続けた。
「叔母さんが悪いわけじゃないです。でも、『大丈夫?』って聞かれると、おばあちゃんは大丈夫って言うんです」
灯理は、二人の言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、頼む合図が続くことは、一人の聞き方に頼り続けることなのでしょうか」
一人の聞き方に頼り続けること。
翔太は、電話台メモを見た。
母の聞き方があったから、祖母は言えるようになってきた。
それは大事なことだった。
けれど、母だけが聞ける形だと、母が忙しい日は止まってしまう。
頼む声を支える人が、一人だけになってしまう。
母もまた、受け取り役を一人で抱えていることになる。
灯理は、白い紙を電話台の横に置いた。
『母に言えた時と、叔母に言えなかった時』
翔太がペンを持った。
灯理が尋ねる。
「お母さまに言えた時、どんな聞き方でしたか」
翔太は書いた。
『メモに一つある?』
祖母が続ける。
「今日はどれにする? って聞いてくれたわ」
『今日はどれにする?』
「書いてくれてありがとう、とも言ってくれた」
『書いてくれてありがとう』
灯理は頷いた。
「では、今日、叔母さまはどう聞きましたか」
翔太が書く。
『大丈夫?』
『何か困ってない?』
『何かあったら言ってね』
どれも、優しい言葉だった。
でも、祖母の頼む声にはつながらなかった。
祖母が言った。
「大丈夫? と聞かれると、大丈夫、と言いたくなるの」
翔太は、その横に書いた。
『大丈夫? → 大丈夫と答えやすい』
祖母は続けた。
「困ってない? も、困ってないわ、と言ってしまうわね」
『困ってない? → 困ってないと答えやすい』
翔太は、少し驚いた。
聞き方によって、出てくる答えが変わる。
大丈夫? は、大丈夫を呼ぶ。
困ってない? は、困ってないを呼ぶ。
メモに一つある? は、メモを見る。
今日はどれにする? は、一つ選ぶ。
同じ心配でも、入口が違う。
そこへ、母が仕事の合間を縫って少しだけ祖母の家に寄った。
息を切らしている。
「ごめん。電話できなくて」
祖母が慌てて言う。
「いいのよ。忙しいんだから」
母は、電話台のメモを見た。
「病院の日、確認できてない?」
翔太が説明した。
「叔母さんが電話してくれたけど、聞き方が違って、おばあちゃん言えなかった」
母は、すぐに祖母を責めなかった。
代わりに、自分の顔を少し曇らせた。
「そっか。私だけが聞き方を知っていたんだ」
灯理が尋ねた。
「お母さまは、どう感じましたか」
母は、少し考えた。
「私が聞けば大丈夫、と思っていました。でも、それだと私が電話できない日は止まるんですね」
祖母が言った。
「あなたにばかり頼むのも悪いわ」
母は首を横に振った。
「頼ってくれていい。でも、私だけじゃなくて、妹にも頼める方がいいね」
翔太は、家族ノートのページを開いた。
「聞く人カードを作るのはどうかな」
妹が顔を上げた。
「聞く人カード?」
「誰に何を頼みやすいか、分けるカード」
妹は、すぐに花のシールを手に取った。
「母さんは赤。叔母さんは青。翔太は緑」
「なんで僕は緑」
「庭っぽいから」
祖母が笑った。
「庭は翔太に頼みやすいわね」
紙の上に、新しい欄を作った。
### 聞く人カード
『母へ:買い物・家のこと』
祖母が頷く。
「お米とか、電球とか、棚の箱は、お母さんに言いやすいわ」
『叔母へ:病院・書類・薬』
母が言った。
「妹は、病院の予定や書類の確認が得意だから」
祖母も頷いた。
「薬の袋も、見てもらえると助かるわ」
『翔太へ:庭・軽い手伝い』
翔太が言う。
「重いのは危ないけど、草取り半分とかならできる」
「抜いていい草とだめな草は、教えるわよ」
祖母が言うと、妹がすぐに言った。
「私は花の印」
『妹へ:花の印・見せるだけ欄のシール』
翔太が書くと、妹は満足そうに頷いた。
最後に、誰でも聞けることを書く。
『誰でも:一つだけ見る?』
灯理が言った。
「聞く人が変わっても戻れる言葉があるとよいですね」
翔太は、母の聞き方メモを新しく書き直した。
### 聞き方メモ
『大丈夫?』ではなく、『メモに一つある?』
『困ってない?』ではなく、『今週見るものはある?』
『全部言って』ではなく、『今日は誰に頼む?』
『早く言って』ではなく、『書いてくれてありがとう』
母は、そのメモを携帯で写真に撮った。
「妹にも送るね」
しばらくして、叔母から母の携帯へ返信が来た。
『知らなくてごめん。もう一回かけてもいい?』
母が祖母に聞く。
「お母さん、どうする?」
祖母は、少し迷った。
でも、電話台のメモを見た。
青い花の横に書かれた欄。
『叔母へ:病院・書類・薬』
そして、聞き方メモ。
祖母は、小さく頷いた。
「かけてもらおうかしら」
数分後、固定電話が鳴った。
祖母は受話器を取る。
「はい、もしもし」
叔母の声は、さっきより少し落ち着いていた。
「お母さん、さっきは聞き方を知らなくてごめんね」
「いいのよ」
「メモに一つある?」
その言葉を聞いて、祖母の目が電話台へ向いた。
赤い花。
病院の日の確認。
言い出しカード。
『今日は一つだけお願いがあるの』
祖母は、受話器を持つ手に少し力を入れた。
「今日は一つだけお願いがあるの」
叔母が答える。
「うん。今日は誰に頼む?」
祖母は、青い花の欄を見た。
「病院の日を確認したいの。火曜なのか水曜なのか、カレンダーに二つ丸をつけてしまって」
「うん、私が見るね。診察券の紙、近くにある?」
「薬箱の横にあると思うわ」
「じゃあ、後で一緒に確認しよう。書いてくれてありがとう」
祖母は、少し目を細めた。
「ありがとう」
電話を切った後、祖母は受話器を置き、ゆっくり息を吐いた。
「言えたわ」
翔太は頷いた。
「叔母さんにも」
妹が青い花の横に、小さな丸を貼った。
「青、咲いた」
祖母は、丸いシールを見て笑った。
「そうね。青も咲いたわね」
母は、少し安心したように肩の力を抜いた。
「私だけじゃなくても、聞けるようになったね」
祖母が言う。
「あなたにばかり頼らなくてすむわ」
母は首を横に振った。
「頼らなくていいって意味じゃなくて、みんなで聞けるってこと」
翔太は、その言葉を家族ノートに書いた。
『みんなで聞ける』
そして、今日の出来事を記録した。
『母が電話できない日、叔母が電話した』
『叔母は「大丈夫?」「困ってない?」と聞いた』
『祖母は「大丈夫」「特にない」と答えた』
『理由:聞き方がメモを見る入口になっていなかった』
『手入れ:聞く人カード、聞き方メモ、叔母にも共有』
最後に、一文を書く。
『頼む合図を続けることは、一人の聞き方に頼ることではなく、聞く人が変わっても戻れる言葉を家族で持つことだった』
書き終えると、祖母が横からのぞき込んだ。
「字がきれいになったわね」
「またそれ?」
翔太が言うと、祖母は楽しそうに笑った。
妹が、ノートの端に花を描き足す。
赤い花。
青い花。
緑の葉。
黄色い小さな丸。
それぞれが、別々の人へつながっているように見えた。
電話台の横には、新しい聞く人カードが置かれた。
『母へ:買い物・家のこと』
『叔母へ:病院・書類・薬』
『翔太へ:庭・軽い手伝い』
『妹へ:花の印・見せるだけ欄のシール』
『誰でも:一つだけ見る?』
頼む声は、母だけに向かって伸びているのではなくなった。
少しずつ、家族の中へ枝を伸ばし始めていた。
夜、白瀬灯理は祖母の家を出た。
外には、静かな住宅街の明かりがぽつぽつと灯っている。庭の葉は夜風に揺れ、遠くで自転車のベルが一度だけ鳴った。電話台のある部屋の窓には、やわらかな光が残っていた。
祖母と翔太、母、妹が玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
祖母が言った。
「こちらこそ、頼む合図が一人の聞き方から、家族で戻れる言葉へ広がっていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
翔太は、家族ノートを抱えていた。
「先生、母さんに言えるようになってきたから、もう大丈夫だと思っていました」
「はい」
「でも、母さんが電話できない日には止まりました。叔母さんは心配してくれたのに、聞き方が違うと、おばあちゃんはまた大丈夫って言いました」
祖母が頷く。
「大丈夫? と聞かれると、大丈夫と答えてしまうのね」
母が言った。
「私も、自分が聞けばいいと思っていました。でも、それだと私が受け取り役を抱えすぎていました」
妹が青い花のシールを見せた。
「叔母さんの花も咲いた」
灯理は、やわらかく頷いた。
頼む合図が続くことは、一人の聞き方に頼り続けることではない。
一人の聞き方が育つことは、大切な始まりだ。
メモに一つある?
今日はどれにする?
書いてくれてありがとう。
その言葉が、祖母の声を支えた。
けれど、その言葉が一人の中にだけあると、その人がいない日に合図は止まる。
聞く人もまた、入れ替わる。
母が聞けない日もある。
叔母が電話する日もある。
翔太がそばにいる日もある。
見せるだけでよい日もある。
だから、聞き方を共有する。
大丈夫? ではなく、メモに一つある?
困ってない? ではなく、今週見るものはある?
全部言って、ではなく、今日は誰に頼む?
早く言って、ではなく、書いてくれてありがとう。
頼む声は、頼む人だけで育つものではない。
受け取る人の言葉によって、出たり、閉じたりする。
その言葉を家族で持てるようになった時、合図は一人の電話から、家族の中へ少し広がっていく。
灯理は、夜の道から祖母の家を振り返った。
翔太の家族ノートには、一文が残っている。
頼む合図を続けることは、一人の聞き方に頼ることではなく、聞く人が変わっても戻れる言葉を家族で持つことだった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




