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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第38章 第4話:本部が混んだ日の授業――巡回係を交代する


 三回目の朝市は、開場前から人の流れが早かった。


 公園前の広場には、白いテントがいつもより多く並んでいる。野菜の箱、パンの籠、手作り菓子の袋、布小物、地域学習センターの案内板。テントの布は朝の風に揺れ、支柱の金具が小さく鳴っていた。


 発電機の低い音に、出店者の声が重なる。


「そっちの机、もう少し右へ」


「整理券は本部で配ります」


「落とし物の箱、どこに置きますか」


「水の場所、前回と同じですか」


 本部テントの前には、宮田さんが立っていた。


 手には、前回作った朝市記録板がある。


『案内係』


『休憩確認』


『交代待ち』


『巡回係』


 前回、奈々は交代札を持っていたのに、忙しさの中で自分から出せなかった。


 交代相手が見えない。


 本部が混んでいる。


 自分が抜けたら案内が空いてしまう。


 その迷いを、奈々一人に背負わせていた。


 だから、朝市では巡回係を作った。


 交代時間の少し前に声をかける。


 交代待ち札を出した人を迎えに行く。


 休憩に入る人を確認する。


 札を出した人へ「ありがとう」と言う。


 それがあると、交代札は本人の勇気だけに頼らなくてよくなった。


 宮田さんは、その仕組みが少しずつ動き始めたことに安心していた。


 けれど、今日の朝市は予想以上に忙しかった。


 開場前から、本部には人が並び始めていた。


「パンの整理券は何時からですか」


「スタンプカードは子どもだけですか」


「出店者の駐車場所はどこですか」


「落とし物のハンカチ、届いていませんか」


「迷子の受付はここでいいですか」


 宮田さんは、一つずつ答えていた。


 笑顔を保ちながら、記録板に印をつけ、整理券の箱を動かし、出店者に場所を伝える。


 その横で、新しい高校生ボランティアの蓮が少し緊張した顔で立っていた。


 蓮は、今回初めて朝市に参加した。


 前回作った予備案内係として名前が入っている。


 けれど、巡回の仕組みまではまだよくわかっていなかった。


「宮田さん、僕はどこにいればいいですか」


「少し待ってください。まず整理券の列を」


 宮田さんは、そう答えながら、来場者へ向き直った。


 蓮は、記録板の端を見た。


 そこに『巡回係』という欄がある。


 しかし、誰がいつ行くのか、細かくは書かれていない。


 前回は宮田さんが時間を見て、静子に声をかけ、奈々に声をかけ、直人の水札も確認していた。


 つまり、巡回係はできた。


 でも、巡回を始める合図は、宮田さんの中にあった。


 そのことに、まだ誰も気づいていなかった。


 九時半、朝市が開場した。


 来場者が広場へ入ってくる。


 奈々は案内係として本部横に立った。


 前回の経験から、今日は少し落ち着いている。


 首から下げている札には、


『案内は十時半までできます』


 と書かれている。


 その下に、


『交代待ちです』


 の札も準備してあった。


 奈々は、自分の札を見て小さく頷いた。


 もう、前ほど怖くない。


 交代待ち札もある。


 巡回係もある。


 十時二十分ごろには、誰かが声をかけに来てくれるはずだった。


 一方、直人の惣菜店にも札が出ていた。


『水は十時半から出せます』


『十一時には本部へ戻します』


 前回、巡回によって水札を戻す時間を見てもらえた直人は、今日も安心して札を出していた。


 しかし、本部はどんどん混み始めた。


 パンの整理券を求める人。


 スタンプカードを受け取る親子。


 落とし物を届ける人。


 出店者からの質問。


 さらに、町内会の人が本部へ来て言った。


「公園入口の自転車が少し詰まっています」


 宮田さんは時計を見た。


 十時十五分。


 そろそろ巡回しなければならない。


 奈々の交代まであと十五分。


 直人の水札の確認も必要。


 蓮にも予備案内係の場所を説明したい。


 けれど、目の前には整理券の列がある。


「宮田さん、整理券まだありますか」


「スタンプカード、二枚ください」


「迷子ではないんですけど、子どもが靴をなくして」


 宮田さんは、本部から離れられなかった。


 巡回係を作ったはずだった。


 でも、巡回する人を決める判断が自分に集まっていた。


 静子は商店街の札の様子を見るため、少し離れたテントへ行っていた。


 奈々は本部横で案内を続けている。


 蓮は本部横にいるが、何をしてよいかわからない。


 記録板は、本部テントの裏側に置かれたままだった。


 十時半が近づく。


 奈々は時計を見た。


 交代の時間だ。


 けれど、巡回の声かけはまだ来ていない。


 蓮が近くにいるのはわかる。


 でも、蓮は初参加だ。


 自分が蓮に頼んでいいのか迷う。


 宮田さんは本部で対応中。


 奈々は、『交代待ちです』札に手を伸ばした。


 前回なら出せるようになった札。


 でも、今日も少し重い。


 巡回係が来てくれると思っていた。


 来ない時、自分からまた出すのか。


 奈々は、札を胸元に持ち上げたまま、少し止まった。


 そこへ来場者が尋ねる。


「トイレはどこですか?」


「公園入口の右側です」


 答えながら、奈々の喉が少し乾いた。


 直人のテントでも、時間が過ぎていた。


 十時半から水を出し、十一時には本部へ戻す予定だった。


 でも、十一時近くになっても誰も確認に来ない。


 惣菜の列は伸びている。


 水を出し続けると、手が足りない。


 けれど、札を戻すタイミングを見てもらえると思っていた。


 直人は、本部の方を見た。


 宮田さんは、ずっと人に囲まれている。


 蓮は、記録板の近くで立ったまま少し困った顔をしている。


 直人は、前回の奈々を思い出した。


 交代札があっても、迎えに行く人がいないと出しにくい。


 今日は、巡回係があっても、巡回する人が動けていない。


 その時、白瀬灯理が朝市の入口から歩いてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 灯理は、混み合う本部、案内を続ける奈々、所在なさそうに立つ蓮、惣菜店の水札、そして宮田さんの手元の記録板を静かに見ていた。


 静子も、ちょうど本部へ戻ってきた。


「宮田さん、巡回は」


 言いかけて、静子は状況を見た。


 宮田さんは本部から動けない。


 蓮は動き方を知らない。


 奈々は交代時間を過ぎている。


 直人の水札も戻っていない。


 静子は、小さく息を吸った。


「巡回係も、止まっていますね」


 宮田さんは、対応の合間にようやく時計を見た。


「しまった」


 声が少し焦っていた。


「奈々さんの交代時間も、直人さんの水札も」


 蓮が言った。


「あの、僕、何か行けばよかったですか」


 宮田さんは蓮を見た。


 すぐに謝った。


「すみません。蓮さんにどう動けばよいか、伝えていませんでした」


 奈々が本部へ近づいてきた。


 手には『交代待ちです』札がある。


「出そうと思ったんですけど、巡回の人が来ると思っていたので」


 直人もテントから顔を出した。


「僕も、水を十一時に戻す予定でしたが、誰に言えばいいかわかりませんでした」


 宮田さんは、記録板を見た。


 巡回係を作った。


 でも、その巡回係を誰がいつ動かすかは、自分が覚えていた。


 自分が本部から動けないと、巡回も止まる。


 宮田さんは、灯理の方を見た。


「先生、巡回係を作ったのに、結局、誰がいつ動くかを私が覚えていないと止まってしまいました」


 言葉にした瞬間、宮田さんの肩が少し落ちた。


「本部が混むと、私が指示できません。そうすると、蓮さんも動けないし、奈々さんの交代も、直人さんの水札も止まりました」


 灯理は、宮田さんの言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、巡回の仕組みが続くことは、宮田さんが毎回全体を見て指示することなのでしょうか」


 宮田さんは、すぐには答えられなかった。


 自分が全体を見る。


 それが運営者の仕事だと思っていた。


 けれど、全体を見ることが自分一人に集まりすぎると、自分が本部から動けない時に止まる。


 巡回係を作ったはずなのに、その巡回係を動かす判断が、まだ自分の中にあった。


 灯理は、本部テントの机に白い紙を置いた。


『宮田さんが覚えていたこと』


 静子がペンを持った。


 灯理が尋ねる。


「宮田さんは、何を覚えていましたか」


 宮田さんは、少し考えてから答えた。


「誰が交代時間か」


 静子が書く。


『誰が交代時間か』


「誰が休憩に入っていないか」


『誰が休憩に入っていないか』


「どの店の札を戻す時間か」


『どの店の札を戻すか』


「予備案内係を誰に頼むか」


『予備案内係を誰に頼むか』


「本部が混んだ時、誰に代わってもらうか」


『本部が混んだ時の代理』


 書かれた言葉を見て、蓮が言った。


「それ、全部宮田さんの頭の中にあったんですね」


 宮田さんは、苦笑した。


「そうですね。表にしたつもりでしたが、まだ頭の中でした」


 灯理が言った。


「では、初めて来た蓮さんでも見て動ける形にするとしたら、何が必要でしょう」


 蓮は、少し驚いた顔をした。


「僕でも、ですか」


「はい」


 蓮は、記録板を見た。


「時間が書いてあると助かります」


 静子が書く。


『巡回時刻』


「誰が行くか」


『巡回する人』


「どこを見るか」


『見る場所』


 奈々が言った。


「声かけ文があると、初めての人でも言いやすいと思います」


『声かけ文』


 直人が続ける。


「戻ったら印をつける欄もあると、終わったかどうかわかります」


『戻ったら印』


 宮田さんが言った。


「次の人へ渡す欄も必要ですね。巡回が一回で終わらないように」


『次の人へ渡す』


 静子が、大きな紙に表を作り始めた。


### 巡回リレー表


| 時間 | 巡回する人 | 見る場所 | 声かけ | 次の人 |

|---|---|---|---|---|


 宮田さんは、今日の予定を見ながら、空欄を埋めていった。


| 時間 | 巡回する人 | 見る場所 | 声かけ | 次の人 |

|---|---|---|---|---|

| 9:50 | 静子 | 案内係 | あと十分で交代です | 蓮 |

| 10:20 | 蓮 | 水札・休憩所 | 戻す時間です | 奈々 |

| 10:50 | 奈々 | 案内・本部横 | 交代待ちはありますか | 直人 |

| 11:20 | 直人 | 店前・本部 | 本部へ戻すものはありますか | 宮田さん |


 蓮は、その表をじっと見た。


「これなら、僕でもわかりそうです」


 静子が言った。


「巡回する人が、次の人へ渡すものもあるとよさそうですね」


 奈々が、首から下げるカードを一枚作った。


 表面には、


『巡回中です』


 裏面には、手順を書く。


1. 時計を見る

2. 表の場所へ行く

3. 声かけを読む

4. 交代・休憩・戻すものを確認する

5. 表に印をつける

6. 次の人へ渡す


 蓮は、その巡回カードを受け取った。


 少し緊張した顔で、裏面を読んだ。


「時計を見る。表の場所へ行く。声かけを読む」


 声に出して読むと、動き方が少し見えた。


 宮田さんが言った。


「蓮さん、十時二十分の巡回をお願いできますか。少し遅れましたが、今から水札と休憩所を見てください」


「はい」


 蓮は、『巡回中です』カードを首から下げた。


 そして、表を見ながら直人のテントへ向かった。


 初めての巡回だった。


 少しぎこちない。


 でも、歩き出した。


 直人のテントの前で、蓮はカードの裏を見た。


 声かけを読む。


「戻す時間です」


 少し照れたような声だった。


「水札、十一時で本部へ戻す予定ですよね」


 直人は、ほっとした顔で頷いた。


「はい。もう戻したいです。店が混んできたので」


 蓮は表に印をつけた。


『水札:本部へ戻す』


 そして、給水ポットの案内札を掛け替える。


『本部の水へお願いします』


 直人は言った。


「ありがとう。声をかけてもらえると助かります」


 蓮は、少し照れながら頷いた。


「次は休憩所ですね」


 休憩所には、案内係を終えた奈々が少し座っていた。


 蓮は表を見る。


 十時二十分。


 見る場所、休憩所。


 声かけ。


「戻る時間、決めますか?」


 奈々は、少し驚いてから笑った。


「いいですね、それ」


 奈々は札を見た。


『休憩中です』


 そして、蓮に言った。


「十時四十五分に戻ります。それまで休憩します」


 蓮は表に書いた。


『奈々:10:45戻り』


 奈々は、蓮の巡回カードを見た。


「次の人、私ですね」


 蓮は頷いた。


「十時五十分に、案内と本部横を見ることになっています」


「わかりました」


 蓮は、巡回カードを奈々へ渡した。


『巡回中です』


 カードは、手から手へ移った。


 その瞬間、宮田さんが本部から少しだけ顔を上げた。


 巡回が、自分の声を待たずに動いている。


 表を見た蓮が動き、奈々へ渡した。


 奈々は十時五十分に、巡回カードを首から下げて本部横へ行った。


 声かけを読む。


「交代待ちはありますか?」


 本部横では、蓮の代わりに入っていた予備案内係が少し疲れた顔をしていた。


「少し休みたいです」


 奈々は頷いた。


「では、交代待ち札を出してください。直人さんへ次の巡回を渡します」


 予備案内係は『交代待ちです』札を出した。


 奈々は本部の表に印をつけた。


 宮田さんは、隣で整理券対応をしながら、その様子を見ていた。


 自分が全部指示しなくても、巡回が進んでいる。


 もちろん、まだぎこちない。


 声かけを読むのに時間もかかる。


 表の場所を探す人もいる。


 でも、止まってはいない。


 巡回する役割そのものが、少しずつリレーされていた。


 十一時二十分。


 巡回カードは直人へ渡った。


 直人は店が落ち着いた時間を選んで、本部の方へ来た。


「本部へ戻すものはありますか」


 声かけを読み上げると、宮田さんが少し笑った。


「あります。落とし物の箱と、整理券の残りを一度まとめたいです」


 直人は、表に印をつけた。


「これ、本部が混んでいても誰かが来ると助かりますね」


 宮田さんは頷いた。


「はい。私だけが覚えていると、今日のように止まります」


 昼前、朝市の流れがようやく落ち着いた。


 本部の前の列も短くなり、テントの間の人の流れも少しゆっくりになる。


 宮田さんは朝市記録を開いた。


 今日起きたことを書く。


『本部が混雑し、巡回指示が出せなかった』


『巡回係はあったが、誰がいつ動くかを宮田が覚えていた』


『蓮が動き方を知らず、奈々の交代・直人の水札が止まりかけた』


『手入れ:巡回リレー表、巡回カード、声かけ文、次の人へ渡す流れ』


 そして、少し考えて一文を書く。


『巡回を続けることは、運営者一人が全体を覚えることではなく、見る時間と声かけを表にして、巡回する役割そのものを交代できるようにすることだった』


 書き終えると、宮田さんはその一文を静子に見せた。


 静子は頷いた。


「商店街でも同じですね。誰かが覚えているだけでは、忙しい日に止まります」


 奈々が、巡回カードを指で揺らした。


「これ、あると初めての人も動きやすいです」


 蓮が少し照れながら言う。


「最初は何をしていいかわからなかったけど、表があったら行けました」


 直人も言った。


「巡回される側も、誰が来るかわかると安心します」


 宮田さんは、記録板を見た。


 これまで、朝市を回すために、自分がもっと気をつけなければと思っていた。


 でも、気をつける量を増やすだけでは続かない。


 気づく役割を、表に出す。


 声かけを、言葉にする。


 次の人へ渡す。


 そうしなければ、巡回係もまた一人の中へ戻ってしまう。


 夜、白瀬灯理は朝市の片づいた広場を歩いた。


 白いテントはすでにたたまれ、石畳には小さな紙片と、野菜の葉が数枚残っていた。夕方の風が公園の木々を揺らし、昼間のにぎわいを少しずつ遠くへ運んでいく。


 宮田さん、奈々、蓮、静子、直人が広場の端まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


 宮田さんが言った。


「こちらこそ、巡回する役割が運営者一人の記憶から、リレーできる表とカードへ移っていく時間を一緒に見せていただきました」


 灯理は静かに答えた。


 蓮は、巡回カードを手に持っていた。


「先生、僕、最初は何をしたらいいかわかりませんでした」


「はい」


「でも、時間と場所と声かけが書いてあると、行けました。読むだけなら、初めてでもできます」


 奈々が言った。


「迎えに来てもらうだけじゃなくて、自分も次の巡回を渡せるんだと思いました」


 直人も頷く。


「水札を戻す時間も、誰かの頭の中じゃなくて表にあると助かります」


 宮田さんは、記録板を胸に抱えた。


「巡回係を作ったつもりでした。でも、誰がいつ動くかを私が覚えていたので、結局また私に戻っていました」


 静子が言った。


「巡回する人も、交代できるようにしないといけなかったのですね」


 灯理は頷いた。


 巡回の仕組みが続くことは、運営者一人が毎回全体を見て指示することではない。


 運営者の目は大切だ。


 けれど、すべての交代時間、休憩、戻す札、予備の人、混雑の場所を一人が覚え続けることは難しい。


 本部が混む日もある。


 質問が重なる日もある。


 迷子対応が入る日もある。


 その時、巡回の判断が一人の中にあると、仕組みは止まる。


 だから、時間を書く。


 見る場所を書く。


 声かけを書く。


 次の人を書く。


 戻った印を書く。


 巡回カードを手渡す。


 そうすると、初めての人も動ける。


 迎えられる人が、次は迎えに行く人にもなれる。


 運営者は、すべてを抱え続けなくてよくなる。


 巡回係を作るだけでは足りない。


 巡回する役割そのものが、場の中で渡っていくようにする。


 その時、休む合図を支える仕組みもまた、一人の背中から、みんなの手元へ少しずつ移っていく。


 灯理は、夕闇の広場を振り返った。


 宮田さんの朝市記録には、一文が残っている。


 巡回を続けることは、運営者一人が全体を覚えることではなく、見る時間と声かけを表にして、巡回する役割そのものを交代できるようにすることだった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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