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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第4章 第3話:演劇の授業――台詞を忘れた主役


 都市の朝は、幕が上がる前の劇場に似ていた。


 まだ誰も座っていない客席。


 開店準備中のカフェ。


 シャッターを半分だけ上げた花屋。


 通りを走る路面電車の音。


 それらはすべて、これから一日が始まる合図のように、少しずつ街を起こしていく。


 小劇場付きの演劇学校は、古い煉瓦造りの建物の三階にあった。


 一階には小さな劇場がある。客席は百にも満たないが、舞台と観客の距離が近く、役者の息遣いまで届く。二階には衣装室と稽古場、三階には教室と台本倉庫。


 朝の稽古場には、木の床の匂いと、古い幕の埃っぽい匂いが残っていた。


 アランは稽古場の隅で、台本を何度もめくっていた。


 ページの角は柔らかくなり、赤鉛筆の書き込みが余白を埋めている。


 息継ぎの位置。


 強調する言葉。


 立ち位置。


 相手役を見るタイミング。


 沈黙の長さ。


 すべて書いてある。


 すべて覚えた。


 覚えたはずだ。


 それでも、不安だった。


「アラン、また最初から?」


 隣で柔軟をしていたリーナが声をかけた。


 彼女は今回の発表会で、アランの相手役を務める少女だった。表情の変化が細やかで、台詞のない場面でも目がよく動く。


「確認してるだけ」


「昨日も確認してた」


「発表会前なんだから、普通だろ」


「普通だけど、台本に穴が開きそう」


 リーナは冗談めかして言ったが、アランは笑えなかった。


 台本は命綱だった。


 そこに書かれた言葉を一字一句間違えずに言えれば、舞台は崩れない。


 立ち位置を守り、台詞を守り、順番を守る。


 そうすれば、あの日のようにはならない。


 アランは一年前の舞台を思い出した。


 小さな発表会だった。


 役は脇役。


 台詞は多くなかった。


 それなのに、舞台の真ん中で突然、言葉が消えた。


 次の台詞が出てこない。


 相手役がこちらを見ている。


 客席が静まり返る。


 照明が熱い。


 喉が乾く。


 頭の中が真っ白になる。


 誰かが舞台袖で小さく息を呑んだ音がした。


 結局、相手役が助けてくれて場面は続いた。


 観客の多くは気づかなかったかもしれない。


 けれど、アランの中では舞台が壊れた。


 あの沈黙が、今も体に残っている。


 だから彼は覚えた。


 もう二度と忘れないように。


 台詞を守る。


 絶対に。


「集合」


 稽古場の前方で、ヴィクトル先生が手を叩いた。


 元舞台俳優の教師で、声が低く、言葉に鋭さがある。彼が稽古場に立つと、空気が一段引き締まった。


「今日は第二幕の通し稽古をする。発表会まで時間はない。台詞、段取り、間、すべて確認するぞ」


 生徒たちは返事をした。


 アランは台本を胸に抱えた。


 第二幕。


 主役である青年が、町を出ていこうとする恋人を引き止める場面。


 アランの見せ場だった。


 台詞も長い。


 感情も大きい。


 間違えられない。


「アラン、リーナ、中央へ」


 ヴィクトル先生の声。


 二人は舞台に見立てた稽古場中央へ出た。


 床には白いテープで立ち位置が示されている。


 窓辺。


 扉。


 机。


 舞台上の物の位置を想定した印。


 アランは決められた位置に立った。


 台本を閉じる。


 閉じた瞬間、不安が胸を叩く。


 本当に覚えているか。


 次の台詞は。


 その次は。


 リーナが向かいに立つ。


 彼女は役に入る前、いつも少しだけ目を伏せる。


 そして顔を上げると、別の人になる。


「始め」


 ヴィクトル先生が言った。


 リーナが一歩、扉の方へ向かう。


「もう行かなくちゃ」


 静かな台詞。


 だが、彼女の声には本当にどこかへ行ってしまいそうな軽さがあった。


 アランは台詞を返す。


「待ってくれ。まだ、話は終わっていない」


 声はよく通った。


 稽古場の壁に反響する。


 リーナが振り返る。


「終わっていないのは、あなたの中だけよ」


 アランは次の台詞を言う。


 間違えない。


 息継ぎも、昨日決めた通り。


 彼の声は大きく、はっきりしていた。


 けれど、リーナの目は見ていなかった。


 見れば、台詞が飛ぶかもしれない。


 彼女の表情に引っ張られたら、覚えた順番が崩れるかもしれない。


 だから、アランはリーナの肩の少し向こうを見る。


 台本の文字を頭の中でなぞりながら、言葉を出す。


「僕は君を止めたいんじゃない。ただ、君が本当に望んでいるのかを知りたいんだ」


 言えた。


 次はリーナ。


 リーナは一瞬、沈黙した。


 台本上では、すぐに次の台詞が来るはずだった。


 アランの胸がざわつく。


 間が長い。


 予定より長い。


 リーナの表情が変わっている。


 彼女は何かを言いたそうに唇を動かしたが、アランはそれを見なかった。


 次の台詞。


 次の台詞。


 リーナが言う。


「私が望んでいることを、あなたは一度でも聞いた?」


 アランは反射的に自分の台詞を返した。


「君の望みなら、僕はずっと考えてきた」


 ヴィクトル先生の声が飛んだ。


「止めろ」


 稽古場が静かになる。


 アランは体を固くした。


「アラン」


「はい」


「台詞は正しい」


「はい」


「だが、リーナを聞いていない」


 アランは台本を見た。


「台詞は合っていました」


「合っていた。だから余計に聞こえない」


 その言葉に、アランは顔を上げた。


 聞こえない。


 声は出ている。


 台詞も届いているはずだ。


 それなのに。


 ヴィクトル先生はリーナを見た。


「今、何を変えた?」


 リーナは少し迷ってから答えた。


「本当に迷っている感じを強くしました。行きたいけど、止めてほしい気持ちもあるので」


「アラン、気づいたか」


 アランは黙った。


 気づかなかった。


 気づく余裕がなかった。


「台本通りに言うことは大切だ」


 ヴィクトル先生は言った。


「だが、相手がそこにいる。相手の呼吸を無視して言葉だけ置いても、会話にはならない」


「はい」


 アランは返事をした。


 だが、胸の中では反発もあった。


 相手を聞け。


 呼吸を見ろ。


 それはわかる。


 でも、台詞を忘れたら終わりだ。


 相手の表情を見すぎて、自分の言葉が消えたら、またあの日に戻る。


 その時、稽古場の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が立っていた。


 劇場の薄暗い廊下から入ってきたせいか、その人の輪郭は朝の光を背負っているように見えた。


「白瀬先生」


 ヴィクトル先生が声をかけた。


「お待ちしていました」


「遅くなってすみません」


 その人――白瀬灯理は、稽古場の入口で軽く頭を下げた。


「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」


 生徒たちが小さくざわついた。


 旅する先生。


 世界のさまざまな学校を訪ねる先生。


 昨日、ヴィクトル先生が紹介していた。


 灯理は稽古場の中央を見た。


 白いテープ。


 閉じられた台本。


 少し強張ったアラン。


 そして、何かを言い残したような顔をしているリーナ。


「今の場面、少し見せてもらいました」


 灯理が言った。


 アランは身構えた。


 また、聞いていないと言われるのだろうか。


 だが、灯理は違うことを言った。


「アランくんは、台詞をとても大切にしているんですね」


 アランは少し驚いた。


「はい」


「大切にしすぎて、台詞の外に出るのが怖い?」


 胸の奥を直接触られたようだった。


 アランはすぐに答えられなかった。


 ヴィクトル先生が腕を組む。


「白瀬先生、今日の特別授業ですが、発表会前なので実践的なものにしたい」


「はい」


「彼らには台詞を定着させる必要があります」


「わかりました」


 灯理は頷いた。


「では今日は、台詞を忘れる練習をしましょう」


 稽古場が凍った。


 アランは思わず声を上げた。


「台詞を忘れる練習?」


「はい」


「意味がわかりません」


「そうですね。変な言い方をしました」


「発表会前です。忘れないために練習してるんです」


「うん」


「台詞を忘れたら終わりです」


 アランの声は、自分でも驚くほど強かった。


 稽古場が静かになる。


 灯理はまっすぐ彼を見た。


「終わることもあるかもしれない」


 慰めではなかった。


 だからこそ、アランは息を止めた。


「でも、相手が目の前にいるなら、まだ受け取れるものがあるよ」


 アランはリーナを見た。


 リーナは静かにこちらを見返していた。


 相手が目の前にいる。


 そんな当たり前のことを、舞台の上で自分はどれだけ忘れていたのだろう。


 ヴィクトル先生はしばらく灯理を見ていた。


 やがて、短く言った。


「やってみよう」


「先生」


 アランが思わず言う。


 ヴィクトル先生は彼を見た。


「台詞を忘れるためではない。台詞の奥に何があるかを見るためだ」


 灯理は生徒たちに台本を閉じさせた。


 完全にしまうのではなく、足元に置く。


 開きたいと思えば、すぐ手が届く距離。


 それだけで、アランの胸は落ち着かなかった。


「場面ごとに、目的だけを確認します」


 灯理は黒板に書いた。


『相手を止めたい』

『秘密を隠したい』

『本当は謝りたい』

『行かないでほしい』


「台詞そのものではなく、この場面で役が何をしたいのかを一つ選んでください」


 リーナが手を挙げた。


「言葉は自由ですか」


「はい。ただし、役として言ってください」


「台本と違っても?」


「違っても構いません。今日は稽古です」


 アランは足元の台本を見た。


 閉じている。


 今すぐ開きたい。


 目的だけで演じる。


 そんなのは危険だ。


 自分が何を言うかわからない。


 相手が何を言うかわからない。


 舞台が壊れる。


「アランくん」


 灯理が声をかけた。


「今、一番怖いことは何ですか」


「止まることです」


 すぐに答えが出た。


「何も言えなくなること」


「うん」


「みんなが見ている中で、頭が真っ白になること」


「では今日は、止まったら、止まったことも相手に渡してみましょう」


「渡す?」


「はい。沈黙も、役の中に置けるかもしれません」


 アランには、まだわからなかった。


 だが、もう稽古は始まっていた。


 最初は別の組が行った。


 台詞は不完全だった。


 時々、変な言葉になる。


 笑いも起きた。


 それでも、不思議な瞬間があった。


 決まった台詞ではないのに、相手の反応に合わせて言葉が生まれる。


 予定より長い沈黙の中で、役の気持ちが見える。


 台本通りではないのに、場面が生きて見えることがある。


 アランはそれを見ながら、足元の台本を指で押さえていた。


 自分の番が来た。


 リーナと向かい合う。


 場面の目的は、灯理が決めた。


『行かないでほしい』


 台本の中の長い台詞は使わない。


 ただ、その目的だけを持つ。


 リーナの目的は、灯理が別に伝えた。


 アランには知らされていない。


「始め」


 ヴィクトル先生の声。


 リーナが扉の方へ歩く。


 アランは彼女を止める。


 本来なら、ここで台本の台詞がある。


 待ってくれ。


 まだ話は終わっていない。


 その言葉が喉まで来た。


 でも、今日は別の言葉を探さなければならない。


 喉が詰まる。


 止まる。


 沈黙。


 あの日の舞台がよみがえる。


 照明。


 客席。


 白くなった頭。


 アランの手が震えた。


 リーナは振り返った。


 台本にはない表情だった。


 怒っているのではない。


 寂しそうだった。


 不安そうだった。


 彼女もまた、行きたいだけではなく、引き止めてほしい顔をしていた。


 アランは初めて、リーナの目を見た。


 台詞ではなく、目を。


「行くなよ」


 出た言葉は短かった。


 稽古場が静かになる。


 リーナは少し目を揺らした。


「どうして」


 台本にはない返しだった。


 アランの頭の中には、正しい台詞がいくつも並んでいる。


 でも、今目の前にいるリーナに、それをそのまま置いても届かない気がした。


「わからない」


 アランは言った。


「でも、行かれたら困る」


「困るだけ?」


 リーナの声が少し震える。


 その震えは演技なのか、本当に役として生まれたのかわからなかった。


 でも、アランには届いた。


 何かを返さなければならない。


 正しい台詞ではなく、相手から受け取ったものに。


「怖いんだ」


 アランは言った。


「君がいなくなった後、ここに何も残らない気がして」


 リーナの表情が変わった。


 彼女は一歩、戻りかけた。


 その瞬間、アランは台詞を忘れていることに気づいた。


 でも、舞台は止まっていなかった。


 リーナがそこにいる。


 自分もそこにいる。


 言葉はまだ生まれている。


「止め」


 ヴィクトル先生の声がした。


 アランは息を吐いた。


 体中が熱い。


 何を言ったのか、全部は覚えていない。


 だが、止まらなかった。


 灯理が尋ねた。


「今、台詞ではなく、相手は何を渡してくれましたか」


 アランはリーナを見た。


「不安」


 彼は答えた。


「本当に行きたいわけじゃない感じ。止めてほしいけど、それを言えない感じ」


 リーナは少し驚いたように目を見開いた。


「そう。それをやってた」


 アランは小さく頷いた。


「初めて見た」


 リーナが笑う。


「今まで見てなかったからね」


 その言葉は少し痛かった。


 でも、責められているだけではなかった。


 ようやく届いた、という感じもあった。


 午後の稽古では、台本に戻った。


 灯理は言った。


「台本を捨てるわけではありません。今度は、台本の言葉を持ったまま、相手から受け取ってください」


 アランは台本を開いた。


 見慣れた文字。


 暗記した台詞。


 今までは、それが壁のように見えていた。


 この通りに言わなければならない。


 外れてはいけない。


 でも、今は少し違った。


 文字の向こうに、相手がいる。


 リーナがいる。


 彼女の呼吸がある。


 場面の目的がある。


 通し稽古が再開された。


 第二幕。


 リーナが扉へ向かう。


「もう行かなくちゃ」


 アランは彼女を見る。


 今度は肩の向こうではない。


 目を見る。


 リーナの目は揺れている。


 行くと決めている。


 でも、完全には決めきれていない。


 アランは台詞を言う。


「待ってくれ。まだ、話は終わっていない」


 同じ台詞。


 けれど、朝とは違った。


 声が少し低い。


 引き止めたい気持ちが入る。


 リーナが返す。


「終わっていないのは、あなたの中だけよ」


 少し強く言った。


 アランは受け取る。


 傷つく。


 でも、言葉を急がない。


「そうかもしれない」


 本来の台詞は、「違う、君の中にもあるはずだ」だった。


 アランは一瞬、自分が間違えたことに気づいた。


 血の気が引く。


 やってしまった。


 台詞が違う。


 だが、リーナは止まらなかった。


 彼女はその言葉を受け取り、一歩近づいた。


「認めるのね」


 台本とは違う。


 でも、役として自然だった。


 アランはリーナを見た。


 彼女がこちらを見ている。


 舞台は続いている。


 なら、返せる。


「認めるよ」


 アランは言った。


「でも、終わらせたくない」


 ヴィクトル先生は止めなかった。


 生徒たちも息を呑んで見ている。


 場面は台本から少し外れた。


 けれど、壊れなかった。


 むしろ、二人の間に本当に何かが流れ始めていた。


 やがて、リーナが本来の台詞へ戻した。


「あなたはいつも、自分の言葉だけで私を閉じ込めようとする」


 アランは、その台詞を聞いた瞬間、朝より深く理解した。


 これは役の言葉であり、少しだけ自分への言葉でもある。


 自分は台詞で舞台を閉じ込めていた。


 相手を見るのが怖くて、正しい言葉だけを置いていた。


 アランは静かに返した。


「今度は、君の言葉を聞く」


 それは台本通りの台詞だった。


 でも、初めて本当にそう言った気がした。


 場面が終わった。


 稽古場に長い沈黙が落ちる。


 それから、ヴィクトル先生がゆっくり拍手をした。


 一度。


 二度。


 ほかの生徒たちも続いた。


 アランは呆然としていた。


 台詞を間違えた。


 途中で台本から外れた。


 なのに、拍手が起きている。


 ヴィクトル先生は二人の前に立った。


「今の場面は、発表会でそのまま使うわけにはいかない」


 現実的な言葉だった。


 アランの背筋が伸びる。


「台本は戻す。段取りも確認する」


「はい」


「だが、今の二人は舞台上で会話していた」


 ヴィクトル先生はアランを見た。


「アラン。台詞を守るなとは言わない。台詞は守れ」


「はい」


「だが、台詞を盾にするな」


 その言葉は、胸に深く刺さった。


 盾。


 自分は台本を守っていたのではなく、台本で隠れていたのかもしれない。


 灯理がそばで静かに聞いていた。


 夕方、稽古場には窓から橙色の光が入っていた。


 生徒たちは帰り支度をしている。


 衣装の仮縫いを確認する者。


 照明のメモを見る者。


 台詞を小声で繰り返す者。


 アランは稽古場の中央に立っていた。


 足元には、閉じた台本がある。


 リーナが近づいてきた。


「もう帰らないの?」


「少しだけ」


「また台詞?」


 アランは台本を見た。


「うん。でも、その前に」


 彼はリーナの方を向いた。


「もう一度、目を見てやらせて」


 リーナは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。


「いいよ」


 二人は向かい合った。


 台本は開かない。


 でも、今度は台本を無視するためではなかった。


 台詞の下にあるものを確認するため。


 アランはリーナの目を見る。


 彼女も見る。


 沈黙がある。


 以前なら怖かった沈黙。


 今も怖い。


 でも、その中には相手がいた。


「行かないでほしい」


 アランは言った。


 台詞ではない。


 役の目的。


 リーナが答える。


「止める理由を、聞かせてほしい」


 それも台詞ではない。


 でも、場面の中心にある言葉だった。


 アランは頷いた。


「明日、台本でやろう」


「うん」


「たぶん、少し違って聞こえる」


「やっとね」


 リーナの冗談に、アランは苦笑した。


 そこへ灯理が歩いてきた。


「いい稽古ですね」


 アランは少し恥ずかしそうに台本を拾った。


「先生」


「はい」


「台詞を忘れる練習、最初は最悪だと思いました」


「今は?」


「まだ怖いです」


「うん」


「でも、忘れたら全部終わるわけじゃないのかもしれません」


 アランは稽古場を見回した。


 白いテープ。


 窓。


 仮の扉。


 何度も立った場所。


「相手を見ていれば、何か受け取れる。受け取れたら、返せる。返せたら、舞台は少し続く」


 灯理は頷いた。


「いい言葉ですね」


「でも、本番で忘れたくはありません」


「それも大事です」


「台詞は覚えます」


「はい」


「でも、台詞だけは見ないようにします」


 灯理は静かに微笑んだ。


 夜、小劇場には客席の明かりだけがついていた。


 ヴィクトル先生は舞台上に立ち、空の客席を見ていた。


 灯理が劇場の入口に立つと、彼は振り返った。


「白瀬先生」


「はい」


「今日は、危ない稽古でした」


「すみません」


「いいえ」


 ヴィクトルは舞台の床を軽く足で鳴らした。


「舞台は、壊れることがあります。台詞一つで、段取り一つで、沈黙一つで」


「はい」


「だから私は、生徒たちに完成度を求めてきた。台本通りに。段取り通りに。観客の前で崩れないように」


「大切なことだと思います」


「ええ。これからも大切です」


 ヴィクトルは客席を見た。


「ですが、崩れないように固めすぎると、舞台が生きなくなることもある」


 灯理は黙って聞いていた。


「アランは、台詞を覚えています。よく努力している。だが今日は初めて、リーナと同じ場に立っているように見えました」


「はい」


「明日から、指示を少し変えます」


「どのように?」


 ヴィクトルは少し考えた。


「台本通りに、では足りない。役としてその場にいろ、と言います」


 彼は小さく苦笑した。


「言うのは簡単で、やるのは難しい」


「きっと、いい稽古になります」


 劇場の扉が少し開き、アランとリーナが顔を出した。


「あの、先生」


 アランが言う。


「舞台、少しだけ使ってもいいですか」


 ヴィクトルは時計を見た。


「十分だけだ」


「ありがとうございます」


 二人は舞台に上がった。


 客席は空。


 照明も稽古用の明かりだけ。


 それでも、舞台に立つと空気が変わる。


 アランは中央に立ち、リーナを見る。


 台本は手に持っている。


 けれど、最初に見たのは文字ではなく、相手の目だった。


 灯理は劇場の後ろで、その姿を見ていた。


 アランの声が静かに響く。


「待ってくれ。まだ、話は終わっていない」


 同じ台詞。


 けれど、その言葉はもう、ただ覚えた文字ではなかった。


 リーナが答える。


「終わっていないのは、あなたの中だけよ」


 アランは一拍、受け取った。


 沈黙が生まれる。


 でも、その沈黙は空白ではなかった。


 次の言葉が、そこからゆっくり立ち上がる。


 灯理は劇場を出た。


 外の街には夜の明かりがともり、路面電車が通りを滑っていく。劇場の扉の向こうから、まだ微かに声が聞こえていた。


 鞄の中には、次の依頼状が入っている。


 山あいの写真学校から届いたものだった。


 けれど、灯理はまだ開かなかった。


 夜の街には、たくさんの台詞があった。


 店先の挨拶。


 駅へ急ぐ人の電話。


 路地裏で笑う若者たちの声。


 そして、その言葉と言葉の間にある沈黙。


 誰かが何かを受け取り、返すまでの短い間。


 灯理はその間を急がず聞きながら、ゆっくりと次の道へ歩いていった。

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