第4章 第4話:写真の授業――笑顔しか撮れないカメラ
山あいの町では、朝霧がシャッターを切るより早く景色を隠してしまう。
谷の底から白い霧がゆっくり上がり、石造りの家々の屋根を包み、細い坂道を柔らかくぼかしていく。遠くの森は輪郭を失い、教会の尖塔だけが霧の上に少し顔を出していた。
町の写真学校は、その坂道の途中にあった。
古い郵便局を改装した建物で、赤い扉と大きな窓がある。廊下には生徒たちの写真が並び、階段の踊り場には暗室から漂う薬品の匂いがかすかに残っていた。
ノエは展示ボードの前に立っていた。
自分の写真が、いちばん目立つ場所に貼られている。
市場で笑うパン屋の主人。
花束を抱えて笑う少女。
祭りの日に肩を組む少年たち。
誕生日のケーキを前に目を細める老人。
どの写真にも、笑顔があった。
明るい。
やさしい。
町の広報誌に載せるのにちょうどいい写真。
ノエは、そういう写真を撮るのが得意だった。
「またノエの写真、掲示されたんだ」
同級生のイヴが隣に来た。
「すごいね。みんな、本当にいい顔してる」
「ありがとう」
「人を笑わせるの、上手いよね」
ノエは首から下げたカメラに触れた。
「笑ってもらうだけだよ」
「それが難しいんだって」
イヴは展示ボードを見ながら言った。
「私が撮ると、みんな緊張するもん」
ノエは曖昧に笑った。
笑顔を撮るのは得意だ。
でも、それ以外を撮るのは苦手だった。
疲れた顔。
困った顔。
黙っている顔。
泣きそうな顔。
そういう表情にレンズを向けると、指が止まる。
撮ってはいけない気がする。
残してはいけない気がする。
写真は、明るくきれいなものを残すためにある。
そう思っていた。
いや、そう思うようにしていた。
「ノエ」
教室の奥から、セシル先生の声がした。
写真学校の教師で、白髪を短く切った女性だった。声は穏やかだが、写真を見る目は鋭い。ほんの少しの構図のずれや、被写体との距離感を見逃さない。
「今日の町の記録写真、担当をお願いできる?」
「はい」
「広報用ではなく、授業用だから、いつもと違う視点も試してみて」
「違う視点、ですか」
「笑顔だけではなく、町の時間を撮ってみるといい」
ノエはカメラを握った。
「はい」
返事はした。
でも、心の中ではもう困っていた。
町の時間。
それが笑顔以外のものを含むなら、自分は何を撮ればいいのだろう。
朝の授業が始まる頃、教室に一人の先生が入ってきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
写真学校の生徒たちはカメラバッグを持っていることが多いが、その人の鞄は旅の道具を入れるためのものに見えた。
「白瀬先生」
セシル先生が迎える。
「遠いところをありがとうございます」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」
生徒たちは興味深そうに灯理を見た。
旅する先生。
学校や工房、劇場や畑まで、さまざまな場所を訪れて授業をする人。
昨日、セシル先生から紹介されていた。
灯理は壁の写真を一枚ずつ見ていった。
ノエの写真の前で足を止める。
「いい笑顔ですね」
ノエは少し照れた。
「ありがとうございます」
「この人たちは、撮る前から笑っていましたか」
「いいえ。声をかけたり、冗談を言ったりして」
「笑ってもらったんですね」
「はい」
「では、笑う前はどんな顔でしたか」
ノエは答えに詰まった。
笑う前。
考えたことがなかった。
笑顔になる前の一瞬は、いつも撮らなかったから。
「覚えていません」
「そうですか」
灯理は責めるようには言わなかった。
ただ、写真を見つめていた。
授業が始まると、灯理は黒板に大きく書いた。
『笑顔を撮らない一日』
教室がざわついた。
「え?」
「笑顔を撮らない?」
「人物写真なのに?」
「それ、暗い写真ばっかりになるんじゃない?」
ノエの胸がぎゅっと縮んだ。
笑顔を撮らない。
それは、まるで自分のカメラから一番得意な機能を取り上げられるようだった。
灯理は言った。
「今日は、笑っている瞬間を撮らないでください」
イヴが手を挙げる。
「笑っていたら、撮っちゃいけないんですか」
「はい。今日は」
「じゃあ、どんな顔を撮ればいいんですか」
「その人が何かをしている顔。考えている顔。待っている顔。迷っている顔。疲れている顔。何かを見ている顔」
「悲しそうな顔も?」
別の生徒が聞いた。
灯理は頷いた。
「はい。ただし、相手を傷つけない距離で。許可が必要な場合は、必ず聞いてください」
ノエは思わず言った。
「先生、笑っていない写真は、悲しくなります」
灯理はノエを見た。
「悲しいだけかな」
「違うんですか」
「その人が、大切なものを見ている顔かもしれない」
教室は静かになった。
ノエはカメラを見下ろした。
大切なものを見ている顔。
その言葉は、どこか遠い記憶に触れた。
ベッドの上の姉。
白いシーツ。
窓から入る午後の光。
痩せた頬。
それでもこちらを見ようとした目。
ノエはその記憶を、すぐに心の奥へしまった。
午前の撮影実習で、生徒たちは町へ出た。
霧は少しずつ晴れ始めていたが、山の斜面にはまだ白い帯が残っている。石畳の坂道を下ると、市場の広場に出る。
パン屋は朝の仕込みで忙しそうだった。
粉をまとった大きな手。
焼き窯から出る熱。
棚に並ぶ丸いパン。
ノエはいつもなら、主人に声をかける。
「笑ってください」
そう言えば、彼は陽気に笑ってくれる。
町の人に愛されるパン屋の笑顔。
広報誌向きの一枚。
けれど今日は撮れない。
笑顔を撮らない一日。
ノエはカメラを構えられずに立っていた。
その時、パン屋の主人が、粉まみれの手を止めた。
窯の火を見つめている。
笑っていない。
真剣で、少し疲れている。
額には汗があり、眉間には深い皺が寄っている。
ノエはシャッターに指を置いた。
だが、押せなかった。
疲れた顔を撮るなんて、失礼ではないか。
主人がこちらに気づいて笑った。
「おや、ノエ。今日は撮らないのかい?」
「えっと」
ノエはカメラを下ろした。
「授業で、笑顔を撮らないことになっていて」
「そりゃ難しいな」
主人は大きく笑った。
今なら撮れる。
いつもの笑顔だ。
でも、今日の課題ではない。
ノエは少し迷ってから尋ねた。
「さっき、窯を見ていた時の顔を撮ってもいいですか」
主人は驚いた。
「笑ってなかっただろう」
「はい」
「怖い顔じゃなかったか?」
「真剣でした」
主人は少し照れたように鼻の頭をこすった。
「パンを焼く時は、笑ってばかりもいられないからな」
「撮ってもいいですか」
「いいよ。粉だらけだけど」
主人はまた窯の前に立った。
今度は少し意識してしまっている。
ノエはなかなかシャッターを切れなかった。
けれど、主人が窯の中のパンの焼き色を確かめる瞬間、表情が戻った。
笑顔ではない。
でも、パンを見ている目だった。
大切なものを見ている顔。
ノエはシャッターを切った。
小さな音がした。
撮れた。
でも、胸の中はまだ落ち着かなかった。
次に市場へ向かった。
果物売りの女性が、売れ残った果物を並べ直している。隣では子どもが靴紐を結び直している。老人が広場の端のベンチに座り、誰も座っていない隣の椅子を見ていた。
町には笑顔以外の表情がたくさんあった。
今まで、見えていなかったのではない。
見ないようにしていた。
ノエはカメラを構えては下ろし、また構えた。
押せない。
どうしても、指が止まる。
撮ってしまったら、その人の寂しさや疲れを盗むような気がした。
「ノエさん」
声がして振り返ると、灯理がいた。
彼女は少し離れたところから、ノエの様子を見ていたらしい。
「撮れていますか」
「少しだけ」
「難しいですか」
「はい」
ノエは正直に答えた。
「笑顔なら、相手も喜んでくれる気がします。でも、笑っていない顔は、残されたくないかもしれない」
「そういう時もありますね」
灯理は簡単に否定しなかった。
「だから、距離や許可が大切です」
「はい」
「でも、残したくない表情の中に、本当に何も残したいものはなかった?」
ノエは息を止めた。
その問いは、まっすぐ姉の記憶へ届いた。
姉の名前はエリアだった。
五歳年上で、ノエが写真を始めたきっかけの人でもある。
最初にカメラを貸してくれたのは姉だった。
『人を撮る時はね、相手が一番見てほしい顔を探すんだよ』
そう言っていた。
エリアはよく笑う人だった。
病気になる前は。
入院してから、姉は少しずつ痩せていった。
髪も短くなり、笑う時間も減った。
ある日、ノエは病室で姉の写真を撮った。
光がきれいだったから。
姉が窓の方を見ていて、その横顔が静かだったから。
笑ってはいなかった。
でも、ノエはきれいだと思った。
あとでその写真を見た家族は、黙った。
母が言った。
『これは、しまっておこう』
誰も怒らなかった。
でも、その沈黙でノエは理解した。
弱った姿を残してはいけなかったのだ。
それ以来、その写真は封筒に入れたまま、引き出しの奥にしまってある。
ノエ自身も見ていない。
「あります」
ノエは小さく言った。
「たぶん、ありました」
灯理は続きを急がなかった。
「でも、残してはいけないと思いました」
「うん」
「だから、笑顔だけ撮るようになりました。笑っている顔なら、誰も傷つかないから」
灯理は市場の広場を見た。
笑っている人。
働いている人。
考え込んでいる人。
誰かを待っている人。
「笑顔は大切ですね」
「はい」
「でも、人は笑っていない時間にも生きています」
その言葉に、ノエはカメラを握りしめた。
笑っていない時間にも、生きている。
姉も、そうだった。
弱っていた。
でも、生きていた。
窓を見ていた。
こちらを見ようとしていた。
その時間まで、なかったことにしてしまったのは、自分だったのかもしれない。
午後、ノエは広場の端に戻った。
そこには、午前中に見かけた老人がまだ座っていた。
隣には、空の椅子。
老人は時々、その椅子を見ていた。
ノエは近づき、声をかけた。
「こんにちは」
老人は顔を上げた。
「写真学校の子かい」
「はい。ノエです」
「ああ、町の広報でよく見る写真の子だね。みんなを笑わせるのが上手い」
ノエは少しだけ笑った。
「今日は、笑顔以外を撮る授業なんです」
「難しい授業だ」
「はい」
老人は隣の空の椅子を見た。
ノエは勇気を出して尋ねた。
「その椅子を見ているところを、撮ってもいいですか」
老人は目を細めた。
「この椅子を?」
「はい。嫌なら、撮りません」
老人はしばらく黙っていた。
広場の噴水の音が聞こえる。
市場の片付けの音。
遠くで子どもが笑う声。
「妻が座っていた椅子だ」
老人は静かに言った。
「毎週、ここで一緒に市場を見ていた。あの人は果物を見るのが好きでね。買いもしないのに、色がきれいだと言ってずっと眺めていた」
ノエは空の椅子を見た。
ただの椅子ではなかった。
誰かが座っていた時間の残る椅子だった。
「撮ってもいいですか」
もう一度聞いた。
老人は小さく頷いた。
「笑えないがね」
「笑わなくていいです」
ノエはカメラを構えた。
老人は椅子を見ている。
横顔には、寂しさがある。
深い皺。
少し下がった目元。
でも、それだけではなかった。
長い時間を誰かと過ごした人の顔だった。
思い出を急いで隠さず、そっと隣に置いている顔だった。
ノエは息を止めないようにした。
シャッターを切る。
一枚。
もう一枚。
老人が少しだけ、椅子の背に手を置いた。
その瞬間、ノエはもう一度シャッターを切った。
撮れた。
明るい写真ではない。
笑顔でもない。
でも、画面の中には、確かに温かさがあった。
夕方、写真学校の暗室では、赤い安全灯の下で生徒たちが現像作業をしていた。
薬品の匂い。
水の音。
トレイの中で揺れる印画紙。
白い紙の上に、少しずつ像が浮かび上がってくる。
ノエは自分の写真を見つめた。
パン屋の主人が窯を見ている写真。
粉まみれの手。
真剣な目。
子どもが靴紐を結び直している写真。
失敗して少しむくれた顔。
市場の女性が売れ残った果物を見つめる写真。
諦めと、明日また並べるだろうという強さ。
そして、老人と空の椅子の写真。
像がゆっくり浮かび上がる。
老人の横顔。
椅子に置かれた手。
空いている座面。
そこに誰も写っていないのに、誰かの存在が感じられた。
ノエはその写真から目を離せなかった。
セシル先生が隣に立った。
「いい沈黙だね」
ノエは顔を上げた。
「沈黙、ですか」
「ええ。この写真は静かだけれど、何もないわけではない」
セシル先生は写真を見た。
「空の椅子が、とてもよく写っている」
「人がいないのに?」
「人がいないからこそ、いた時間が見えることがある」
ノエの胸が熱くなった。
今までなら、人物が笑っていない写真は失敗だと思った。
でも、この写真には、笑顔とは違うものが写っている。
寂しさ。
記憶。
時間。
そして、まだ消えていない愛しさのようなもの。
講評の時間、生徒たちはそれぞれの写真を壁に貼った。
教室は、いつもより静かな写真で満ちていた。
笑っていない顔。
働く手。
待っている背中。
考え込む横顔。
空っぽの椅子。
破れた靴。
雨上がりの窓。
セシル先生は一枚ずつ見て回り、技術的な指摘もした。
「少し近すぎる」
「背景が強いね」
「この光はよく見つけた」
「許可を取った距離感が写真にも出ている」
ノエの番になると、教室は自然と静かになった。
彼女は老人の写真の前に立つ。
「この方は、広場で空の椅子を見ていました」
声が少し震えた。
「奥様が座っていた椅子だそうです。毎週、一緒に市場を見ていたと話してくれました」
写真の中の老人は笑っていない。
でも、椅子に置いた手は優しかった。
「私は今まで、笑顔だけ撮ってきました。笑顔なら明るいし、残しても誰も嫌な気持ちにならないと思っていました」
ノエは言葉を選ぶ。
「でも、この写真を撮った時、笑っていない時間にも、その人の大切なものがあるんだと思いました」
教室の誰も、茶化さなかった。
灯理は後ろで静かに聞いていた。
セシル先生が言った。
「ノエ、この写真をどう思う?」
ノエは写真を見た。
「まだ、少し怖いです」
「怖い?」
「この方の寂しさを、勝手に残してしまったんじゃないかって」
「許可は取ったね」
「はい」
「話も聞いた」
「はい」
「それでも怖いのは、大切に撮ろうとしているからかもしれない」
ノエは息を吸った。
大切に撮る。
笑わせることだけが、大切にする方法ではない。
相手が抱えている沈黙の前で、急いで明るくしないこと。
そこにある時間を、丁寧に見ること。
それもまた、大切に撮ることなのかもしれない。
授業が終わった後、ノエは暗室の隣にある小さな作業部屋に残った。
机の上には、今日の写真が乾かされている。
灯理がそっと入ってきた。
「少し、いいですか」
「はい」
ノエは鞄から一通の古い封筒を取り出した。
角が少し折れ、何度も開けかけてやめた跡がある。
「今日、持ってきていたんです」
「写真ですか」
「姉の」
ノエは封筒を見つめた。
「ずっと見ていませんでした」
灯理は何も言わなかった。
ノエはゆっくり封筒を開けた。
中から一枚の写真を取り出す。
病室の光。
白いシーツ。
窓際の姉。
エリアは笑っていない。
頬は痩せ、手は細い。
けれど、顔は窓の外ではなく、カメラの方へ少しだけ向いていた。
目が、こちらを見ている。
弱っている。
確かに弱っている。
でも、それだけではなかった。
ノエに向かって、何かを言おうとしている目だった。
怖くないよ、と言おうとしていたのかもしれない。
撮っていいよ、と言っていたのかもしれない。
あるいは、ただそこにいるよ、と。
ノエの目から涙が落ちた。
「弱い写真だと思ってました」
声が震える。
「残してはいけない写真だと思ってました」
灯理は静かに隣に座った。
「今は?」
「姉が、私を見てます」
ノエは写真を両手で持った。
「ちゃんと、ここにいます」
それ以上、言葉は続かなかった。
泣きながら、ノエは写真を見つめ続けた。
灯理は急いで慰めなかった。
写真の中の沈黙を、二人でしばらく見ていた。
夜、写真学校を出る頃には、山あいの町に霧が戻り始めていた。
街灯の光が霧の粒に滲み、坂道は昼間よりも静かに見える。広場のベンチにはもう誰もいなかったが、老人の座っていた椅子はそのまま残っていた。
セシル先生が校門のところで灯理を見送った。
「白瀬先生」
「はい」
「今日は、ノエだけではなく、私も考えさせられました」
「写真についてですか」
「写真と、褒め方についてです」
セシル先生は少し苦笑した。
「私はノエに、いつも『いい笑顔だ』と言っていました。それは本心です。彼女の撮る笑顔は、本当にいい」
「はい」
「でも、彼女が何を撮れずにいるのかまでは、十分に見ていませんでした」
彼女は教室の窓を見上げた。
そこにはまだ明かりが残っている。
ノエが写真を片付けているのだろう。
「明日、今日の写真をもう一度見ます。笑顔の写真も、笑っていない写真も。どちらも、彼女の写真として」
灯理は頷いた。
「きっと、いい時間になります」
セシル先生は少し考えてから言った。
「写真は、光を写すものだと思っていました」
「はい」
「でも、影を見ないと、光の場所もわからないのかもしれませんね」
霧の中で、街灯が柔らかく光っている。
灯理はその光を見た。
「そうかもしれません」
校舎の扉が開き、ノエが出てきた。
手には封筒を持っている。
だが、もう強く握りしめてはいなかった。
「先生」
ノエが灯理に声をかけた。
「はい」
「姉の写真、明日、セシル先生に見てもらおうと思います」
セシル先生は静かに頷いた。
「見せてもらえるなら、丁寧に見るわ」
ノエは少し安心したように笑った。
その笑顔は、いつも彼女が撮ってきた明るい笑顔とは違っていた。
泣いた後の、少し赤い目。
まだ痛みの残る顔。
でも、そこには確かに前を向こうとする光があった。
「先生」
ノエは灯理を見た。
「笑顔も、また撮ります」
「はい」
「でも、笑っていない顔も、ちゃんと聞いてから撮れるようになりたいです」
「聞いてから」
「はい。撮ってもいいですかって。何を見ているんですかって」
灯理は微笑んだ。
「いい写真家になりそうですね」
ノエは少し照れたように首を振った。
「まだ、怖いです」
「怖いまま、大切に撮れることもあると思います」
ノエは封筒を胸に抱いた。
「はい」
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、陶芸の里にある工房学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、今はまだ開かなかった。
山あいの町には、霧が深く降りていた。
昼間見えていた森も、屋根も、尖塔も、少しずつ白く隠れていく。
でも、すべてが消えたわけではない。
霧の向こうに、確かに町はある。
笑顔の向こうに、笑っていない時間があるように。
灯理は静かに息を吸い、霧の坂道をゆっくりと歩き出した。




