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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第4章 第2話:絵画の授業――青い空を塗れない少女


 海辺の美術学校では、朝の光が白い壁に反射して、教室全体を淡く照らしていた。


 窓の外には海がある。


 けれど、その日の海は明るい青ではなかった。


 薄い雲が空に広がり、海面は灰色と銀色の間で揺れている。遠くの水平線は白くぼやけ、空と海の境目が曖昧だった。漁船の影だけが、かろうじて水の上に黒く浮かんでいる。


 絵画教室には、絵の具の匂いが満ちていた。


 乾きかけた油絵の具。


 水を含んだ筆。


 削られた鉛筆。


 古い木製イーゼル。


 壁には生徒たちの作品が並んでいる。


 静物画。


 人物デッサン。


 海辺の風景。


 その多くには、明るい青い空が描かれていた。


 ミアの前にも、一枚のキャンバスがある。


 下描きは終わっていた。


 海辺の坂道。


 白い家。


 遠くに見える灯台。


 風に揺れる洗濯物。


 形は悪くない。


 ロレン先生にも、構図はいいと言われた。


 問題は、空だった。


 キャンバスの上半分は、まだ白いままだ。


 机の上には絵の具が並んでいる。


 白。


 灰色。


 薄紫。


 黄土色。


 少し濁った緑。


 そして、青。


 青い絵の具だけが、ほとんど減っていなかった。


 新品に近いチューブは、ほかの色より少しだけ浮いて見える。


「ミア、まだ空を塗っていないの?」


 隣の席の少年が声をかけた。


 彼のキャンバスには、見事な青空が広がっている。雲は白く、海は鮮やかで、絵葉書のように明るい。


「うん」


「青を薄く伸ばせばいいんじゃない?」


「……うん」


 ミアは曖昧に頷いた。


 青を薄く伸ばす。


 それができれば、どれだけ楽だろう。


 空は青。


 海も青。


 草は緑。


 太陽は黄色。


 小さいころから、何度もそう習ってきた。


 間違ってはいない。


 晴れた日の空は、確かに青い。


 この町にも、目が痛くなるほど青い空の日がある。


 でも、ミアが思い出す空は、いつも青ではなかった。


 病院の窓から見た空。


 父のベッドの横に座りながら見上げた空。


 白く曇った空。


 灰色に沈んだ空。


 夕方の薄紫の空。


 雨が降りそうで降らない、重たい空。


 父はよく窓の外を見ていた。


 ミアも一緒に見た。


 その空は悲しかった。


 でも、ただ悲しいだけではなかった。


 父と同じ窓を見ていた時間が、そこにあった。


 だから、キャンバスの空を青く塗ろうとすると、手が止まる。


 自分の見た空が、消えてしまう気がする。


「ミア」


 柔らかい声がした。


 ロレン先生だった。


 丸い眼鏡をかけた穏やかな教師で、生徒の作品を決して急かさない。けれど、基礎には厳しく、色の置き方や形の取り方については丁寧に指導する。


「空で止まっているね」


「はい」


「下描きはとてもいい。坂道の奥行きも出ているし、家の形も自然だ」


「ありがとうございます」


「空を塗れば、全体がまとまると思うよ」


 ミアは青い絵の具を見た。


「先生」


「うん?」


「空は、青く塗らないと変ですか」


 ロレン先生は少し驚いた顔をした。


「変、ということはないよ。ただ、自然な色を考えるなら、今日の課題では空の明るさを出したいね」


「自然な色……」


「見たままをよく観察するんだ」


 ロレン先生の言葉は優しかった。


 間違っていない。


 見たままをよく観察する。


 それは絵画の基本だ。


 でも、ミアは思った。


 私が見たままは、青くなかった。


 それを言う勇気はなかった。


 教室の扉が開いた。


「失礼します」


 入ってきたのは、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った先生だった。


 潮風のせいか、髪の先が少しだけ乱れている。けれど、その人は白い教室に入ると、壁の絵ではなく、窓の外の空をまず見た。


「白瀬先生」


 ロレン先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は、皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」


 生徒たちは興味深そうに灯理を見た。


 旅する先生。


 世界中の学校や教室を訪ね、さまざまな授業を行う先生。


 前日にロレン先生から紹介されていた。


 灯理は教室をゆっくり歩いた。


 生徒たちの絵を見ていく。


 明るい海。


 青い空。


 白い雲。


 港の市場。


 灯台。


 そして、ミアのキャンバスの前で止まった。


「空がまだ白いんですね」


 ミアは体を固くした。


「はい」


「塗りたくない?」


 ロレン先生が少し慌てたように口を開きかけたが、ミアは小さく答えた。


「塗り方が、わかりません」


「青では?」


 ミアは青い絵の具を見た。


「青にすると、違う気がして」


 灯理は窓の外を見た。


 その日の空は、確かに青とは言いにくかった。


 雲が薄く広がり、海からの光を受けて、白と灰色と薄い銀色が混ざっている。ところどころに青みはあるが、絵の具のチューブから出したままの青ではない。


 灯理は教室全体に向かって言った。


「今日の授業を、少し外でしてもいいですか」


 生徒たちは顔を上げた。


「外?」


「写生ですか?」


「はい。ただし、課題があります」


 灯理は黒板に文字を書いた。


『青い絵の具を使わずに、空を描く』


 教室がざわめいた。


「青なしで空?」


「曇りなら灰色でいいってこと?」


「でも、海も空も青じゃないと変じゃない?」


 ミアの胸が小さく鳴った。


 青い絵の具を使わずに、空を描く。


 それは、自分の弱点を皆の前に出されたようでもあり、同時に、隠していた扉を少し開けてもらったようでもあった。


 ロレン先生は灯理を見た。


「白瀬先生、青を使わないというのは、色彩の制限としては面白いですが」


「はい」


「空の基本色を学ぶ段階では、少し難しいかもしれません」


「そうですね」


 灯理は頷いた。


「でも今日は、空が何色かを決める前に、空を見たいんです」


 ロレン先生は窓の外を見た。


 しばらく考えてから、静かに頷いた。


「わかりました。全員、スケッチブックと絵の具を持って外へ」


 生徒たちは道具を抱え、校舎の裏手にある海沿いの広場へ出た。


 広場には白い石のベンチがあり、そこから海と空がよく見えた。防波堤の向こうで波が静かに崩れ、風がスケッチブックの端をめくる。


 灯理は生徒たちを座らせると、すぐには描かせなかった。


「まず、一分間、空だけを見てください」


 生徒たちは少し戸惑いながら空を見上げた。


 一分。


 ただ見るには、少し長い時間だった。


 最初は退屈に感じる。


 だが、見続けるうちに、空は単純な一色ではないことがわかってくる。


 雲の縁は白い。


 中央は灰色。


 海に近いところは少し青い。


 太陽の近くは黄色がかっている。


 建物の影を受けた空は、少し冷たい。


 風が雲を動かすと、同じ場所の色も変わる。


「では、何色が見えましたか」


 灯理が尋ねた。


「白」


「灰色」


「少し黄色」


「青っぽい灰色」


「銀色みたいなところ」


「紫も少し」


 生徒たちの声が増えていく。


 ロレン先生はその様子を見て、少し驚いたように空を見上げていた。


 灯理は言った。


「今日は、青という名前を一度置いておきましょう。色の名前より先に、見えたものを混ぜてみます」


 ミアはパレットに白を出した。


 少しだけ灰色。


 ほんのわずかな黄土色。


 水で薄める。


 それを紙の端に置く。


 空の色にはまだ遠い。


 次に、薄紫を少し混ぜる。


 父の病室の窓から見た夕方に近くなる。


 胸が少し締めつけられた。


 彼女は筆を止めた。


 灯理がそばに来る。


「その色は、どこで見た色ですか」


 ミアは驚いて灯理を見た。


 色を見ただけで、何かに気づかれた気がした。


「病院です」


「病院」


「父が入院していた時、窓から見た空が、こんな色でした」


 灯理は何も言わず、続きを待った。


「青じゃなかったんです。いつも、白くて、灰色で、夕方は少し紫で。父は、よくその空を見ていました」


「ミアさんも?」


「はい」


 筆先に、薄紫の色が溜まっている。


「だから、空を青く塗ろうとすると、あの空が消える気がします」


 声に出すと、目の奥が少し熱くなった。


 今まで言えなかった。


 青く塗れないのは、自分が下手だからだと思っていた。


 明るい空を描けない自分が、どこか間違っているのだと思っていた。


 灯理は静かに言った。


「その空は、ミアさんにとって大切な空なんですね」


 ミアは小さく頷いた。


「悲しい空です」


「うん」


「でも、父と見た空です」


「うん」


 風が吹き、海面が銀色に揺れた。


「では、その空を少し描いてみますか」


 ミアは不安そうにスケッチブックを見た。


「暗くなります」


「暗い色は、全部悲しい色かな」


 ミアは答えられなかった。


 灯理は続けた。


「悲しいだけなら、ミアさんはその空を描きたいと思うでしょうか」


 ミアは薄紫の色を見た。


 病室の窓。


 父の手。


 点滴の音。


 窓辺に置かれた小さな花瓶。


 曇った空。


 父が言った言葉。


『今日は少し明るいな』


 雲の切れ間から、ほんの少しだけ黄色い光が差していた日だった。


 父の声は弱かった。


 でも、嬉しそうだった。


 ミアはその日、空の中に小さな光を見た。


 灰色の中の、ほんの少しの黄色。


 悲しい空。


 でも、父と一緒に明るさを見つけた空。


「悲しいだけじゃないです」


 ミアは言った。


「少し、あたたかい日もありました」


 彼女はパレットに、薄い黄色を出した。


 ほんの少し。


 灰色と薄紫の中へ混ぜるのではなく、あとから重ねるように。


 紙の上に、淡い灰色の空を塗る。


 その上へ、白を置く。


 雲の端に薄い黄色を滲ませる。


 空は青くなかった。


 でも、そこには確かに光があった。


 午後、教室に戻ると、生徒たちはそれぞれの空をキャンバスへ写し始めた。


 青を使わない空は、想像以上に違っていた。


 白に近い空。


 灰色の空。


 黄色い空。


 緑がかった空。


 紫の空。


 海の反射を受けた銀色の空。


 同じ場所で見たはずなのに、生徒ごとに空が違う。


 ロレン先生は机の間を歩きながら、一つずつ作品を見ていた。


「雲の影をよく見たね」


「ここに黄色を入れたのは、太陽の位置を感じたからかな」


「灰色に少し赤を混ぜた? 面白いね。朝の冷たさが出ている」


 以前なら「自然な色」という言葉で一つにまとめていたかもしれない。


 けれど今、ロレン先生はそれぞれの見え方を聞いていた。


 ミアは自分のキャンバスに向かった。


 坂道。


 白い家。


 灯台。


 風に揺れる洗濯物。


 その上の空。


 彼女は青い絵の具には触れなかった。


 まず、白。


 少し灰色。


 薄紫。


 海から反射した銀色を出すために、ごく少量の黄土色。


 空を塗る。


 筆がキャンバスの白を覆っていく。


 怖かった。


 青くない空を描くこと。


 同級生に変だと言われること。


 暗いと言われること。


 父の病室の記憶を、絵の中に入れること。


 でも、手は止まらなかった。


 キャンバスの空は、少しずつ自分の見た空になっていく。


 途中で、隣の少年が覗き込んだ。


「ミアの空、暗いね」


 その言葉に、ミアの手が止まった。


 やっぱり。


 胸の奥が縮む。


 暗い。


 変。


 空らしくない。


 そう言われる気がした。


 少年は続けた。


「でも、なんか本当に曇ってる日みたい。海の近くの空って、こういう時あるよな」


 ミアは顔を上げた。


「変じゃない?」


「変じゃないよ。俺の空、青すぎたかも」


 彼は自分の絵を見て、少し笑った。


「絵葉書みたいで、ちょっと嘘っぽい」


「嘘ではないと思う」


 ミアは言った。


「晴れた日は、そう見えるから」


「そっか。じゃあ、どっちも空か」


 その言葉に、ミアは少しだけ笑った。


 どちらも空。


 青い空も。


 灰色の空も。


 病院の窓から見た空も。


 海辺の広場で見た空も。


 父と見た空も。


 絵の中にあっていい。


 ミアは筆を持ち直した。


 灰色の空の中に、かすかな黄色を加える。


 強すぎないように。


 見逃してしまいそうなくらい、薄く。


 でも、確かにそこにあるように。


 夕方、作品の講評が行われた。


 教室の壁に、生徒たちの空の絵が並ぶ。


 青い絵の具を使わなかったとは思えないほど、それぞれの空は豊かだった。


 明るい空ではないものもある。


 重い空もある。


 静かな空もある。


 風の音が聞こえそうな空もある。


 ミアの絵は、中央に飾られた。


 坂道の上に、灰色と薄紫の空が広がっている。雲の端には、ごく薄い黄色の光。白い家々はその光を少しだけ受け、灯台は遠くで静かに立っている。


 ロレン先生は絵の前に立った。


「ミア、この空について話してくれるかな」


 ミアは心臓が跳ねるのを感じた。


 人前で話すのは得意ではない。


 まして、自分の記憶が入った絵だ。


 でも、逃げたくはなかった。


「この空は、病院の窓から見た空です」


 教室が静かになる。


「父が入院していた時、私はよく隣に座って空を見ていました。晴れている日もあったと思います。でも、私がよく覚えているのは、白くて、灰色で、夕方になると少し紫になる空です」


 ミアは絵の雲の端を見た。


「この黄色は、父が『今日は少し明るいな』と言った日の色です。空全体は暗かったけど、雲の端だけ少し光っていました」


 声が少し震えた。


「だから、私にとってこの空は、悲しいだけじゃありません」


 ロレン先生は長い間、絵を見ていた。


 それから静かに言った。


「この空は、とても自然だね」


 ミアは顔を上げた。


 ロレン先生は続けた。


「誰にとっても同じ自然な色ではないかもしれない。でも、ミアにとって自然な空の色だと思う」


 ミアの胸が熱くなった。


 自然な色。


 その言葉が、初めて自分を責めるものではなくなった。


 灯理は教室の後ろで、そのやり取りを静かに見ていた。


 講評が終わった後、生徒たちは片付けを始めた。


 筆を洗う水が薄い灰色に濁る。


 パレットの上で、今日の空の色がいくつも混ざっている。


 ミアは机の上の青い絵の具を手に取った。


 ずっと減らなかったチューブ。


 空を青く塗るための色。


 義務のように見えていた色。


 灯理が近づく。


「今日は使いませんでしたね」


「はい」


「嫌いになりましたか」


 ミアは首を振った。


「いいえ」


 青い絵の具のキャップを軽く指で回す。


「今度、晴れた日の空を描く時は使うかもしれません」


「うん」


「でも、使わなきゃいけない色じゃなくて、選ぶ色に見えます」


 灯理は頷いた。


「それは、いい変化ですね」


 ミアは自分の絵を見た。


 灰色の空。


 薄紫。


 かすかな黄色。


「先生」


「はい」


「私、空を青く塗れないのは、間違っているからだと思っていました」


「今は?」


「私が見た空を、まだちゃんと見ていなかっただけかもしれません」


 灯理は窓の外を見た。


 夕方の空は、昼よりさらに紫がかっていた。


 海は暗くなり、水平線には細い金色の光が残っている。


「今日、少し見えましたね」


「はい」


 ミアは青い絵の具を机に置いた。


 捨てるのではなく、ほかの色と同じ場所に。


 夜、灯理は美術学校を出た。


 海辺の道には、夕食の匂いと潮の匂いが混ざっている。白い家の窓には明かりがともり、坂道の下では波が静かに崩れていた。


 ロレン先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生」


「はい」


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、素敵な空をたくさん見せていただきました」


 ロレン先生は少し照れたように笑った。


「私は、基礎を教えるつもりで『自然な色』と言ってきました」


「大切なことだと思います」


「ええ。色の基礎も、観察も、混色も必要です。でも、生徒にとっての自然さを聞く前に、こちらの自然を渡してしまうことがあったのかもしれません」


 彼は校舎の窓を振り返った。


 教室にはまだ明かりが残っている。


 ミアの絵が、壁にかかっているのが見えた。


 青くない空。


 けれど、確かに空だった。


「明日からは、色を指導する時に一つ質問を増やします」


「どんな質問ですか」


「君には、どう見えた?」


 灯理は微笑んだ。


「いい質問ですね」


「答えが増えて、採点は難しくなりそうです」


「授業も豊かになりそうです」


 ロレン先生は小さく笑った。


「そう願います」


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、次の依頼状が入っている。


 都市の小劇場付き演劇学校から届いたものだった。


 けれど、まだ開かなかった。


 灯理は海の方を見た。


 夜の空は、もう青ではない。


 黒でもない。


 わずかに紫を含み、街灯の黄色を受け、海の上で灰色に揺れている。


 空は、一つの名前だけでは足りない色をしていた。


 その下を、灯理はゆっくり歩いていった。

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