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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第4章 第1話:音楽の授業――音を外せない少年


 石畳の町では、朝の鐘が音楽院の窓を震わせる。


 古い教会の尖塔から鳴る鐘の音は、狭い路地を抜け、パン屋の煙突を越え、広場の噴水に落ちる。石壁に反響した音は少し丸くなり、やがて音楽院の高い窓へ届く。


 音楽院は、町で一番古い建物の一つだった。


 薄い灰色の石でできた校舎には、蔦が絡まり、廊下の床は何百人もの生徒が歩いたせいで、中央だけわずかに磨り減っている。壁には古い作曲家たちの肖像画が並び、どの部屋からも、誰かの音が聞こえていた。


 ピアノの和音。


 フルートの長い息。


 チェロの低い響き。


 声楽の発声練習。


 そして、ヴァイオリンの細い音。


 ユリオは練習室の椅子に座り、自分のヴァイオリンを膝の上に置いていた。


 弦を一本ずつ鳴らす。


 ラ。


 少し高い。


 ペグをわずかに戻す。


 もう一度。


 ラ。


 今度は合っている。


 けれど、ユリオはすぐに次へ進まなかった。


 もう一度、同じ音を鳴らす。


 ラ。


 耳を澄ます。


 ほんの少しでもずれていないか。


 弦が震え、音が室内の白い壁に当たって戻ってくる。


 合っている。


 合っているはずだ。


 でも、まだ不安だった。


 ユリオは調弦をもう一度最初からやり直した。


 扉が軽く叩かれた。


「ユリオ」


 エルザ先生の声だった。


 ユリオは慌てて立ち上がる。


「はい」


 扉が開き、細身の女性教師が入ってきた。


 銀色の髪をきっちりとまとめ、黒いドレスの上に淡い灰色のショールをかけている。彼女の歩き方には無駄がなく、楽譜をめくる指先まで音程を持っているようだった。


「また調弦?」


「少し、不安だったので」


「本番前ではありません。今日は授業です」


「はい」


「音を合わせることは大切です。でも、合わせる前に弾き始められなくなっては困ります」


 ユリオは視線を落とした。


「すみません」


 エルザ先生は小さく息を吐いた。


 怒っているというより、心配している顔だった。


「あなたの音程は正確です。譜面もよく読めている。だからこそ、もう少し音を前へ出しなさい」


「はい」


「返事ではなく、音で」


「はい」


 ユリオはまた同じ返事をした。


 自分でもわかっている。


 エルザ先生の言葉は正しい。


 音程は合っている。


 リズムも間違えない。


 譜面通りに弾ける。


 けれど、演奏が硬い。


 同級生からも、そう言われたことがある。


「ユリオは失敗しないよね」


 その言葉は褒め言葉のはずだった。


 けれど、彼には少し重かった。


 失敗しない。


 音を外さない。


 間違えない。


 そうでなければならない。


 彼の中では、音楽はいつの間にか、落としてはいけない薄いガラスのようなものになっていた。


 割れたら終わり。


 外れたら終わり。


 笑われたら、もう戻れない。


 ユリオは八歳の時の発表会を覚えている。


 小さなホール。


 赤い椅子。


 母の白い手袋。


 舞台の上のまぶしい照明。


 そして、最初の高い音。


 弓が震えた。


 音が外れた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、客席のどこかで小さな笑い声がした。


 誰かが咳払いをしただけだったのかもしれない。


 椅子が軋んだ音だったのかもしれない。


 けれど、幼いユリオには笑い声に聞こえた。


 それ以来、彼は音を外すことが怖くなった。


 笑われたくない。


 間違えたくない。


 だから、正確に弾いた。


 音程を守った。


 譜面から離れなかった。


 外れそうな音は、出さなかった。


 午前の合奏室には、生徒たちが集まっていた。


 天井の高い部屋で、壁には音を吸う厚い布が掛けられている。窓からは広場の噴水が見え、朝の光が譜面台の金属部分を細く光らせていた。


 今日はヴァイオリン専攻の合同授業だった。


 生徒たちはそれぞれ楽器を構え、エルザ先生の指示を待っている。


 その隅に、一人の旅装の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 音楽院の整った空間には少し不思議な姿だったが、その人は部屋に満ちる音を一つずつ聞くように、静かに立っていた。


「紹介します」


 エルザ先生が言った。


「今日の特別授業に来てくださった白瀬灯理先生です」


 灯理は軽く頭を下げた。


「白瀬灯理です。今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」


 生徒たちが小さくざわつく。


 世界の学校を旅している先生。


 昨日、掲示板に案内が出ていた。


 音楽家ではない。


 少なくとも、音楽院の講師ではない。


 ユリオは譜面の端を見つめた。


 音楽を知らない先生に、何ができるのだろう。


 そう思った時、灯理と目が合った。


 灯理はユリオの譜面ではなく、左手の指を見ていた。


 弦の上で固くなっている指。


 弓を持つ右手の力。


 肩の上がり方。


「まず、いつもの練習を見せていただけますか」


 灯理が言った。


 エルザ先生が頷き、生徒たちは順番に短い課題曲を弾いた。


 明るい旋律。


 細かな音階。


 滑らかな移弦。


 ユリオの番が来た。


 彼は立ち上がり、ヴァイオリンを肩に乗せた。


 弓を置く。


 息を吸う。


 最初の音。


 正確に。


 絶対に外さない。


 弓が弦をこする。


 音はまっすぐ出た。


 音程は合っている。


 次の音も、その次も。


 楽譜の通りに、間違えずに。


 旋律は進む。


 だが、音は少し狭かった。


 窓を閉じた部屋の中で鳴っているような音だった。


 曲が終わると、エルザ先生は静かに言った。


「音程は正確です」


「ありがとうございます」


「しかし、呼吸がありません」


 ユリオは唇を結んだ。


 灯理が尋ねた。


「今の演奏で、ユリオくんは何を守っていましたか」


 ユリオは少し戸惑った。


「何を?」


「はい」


「音程です」


「うん」


「あと、リズムと、譜面の指示」


「では、その音程で、何を届けたかった?」


 ユリオは答えられなかった。


 届ける。


 考えたことがなかった。


 守ることばかり考えていた。


 外さないこと。


 間違えないこと。


 崩れないこと。


 でも、その先に何を届けたいのか。


 わからない。


 合奏室が静かになる。


 エルザ先生も、すぐには助け舟を出さなかった。


 灯理は黒板の前へ行き、白いチョークで一行書いた。


『一番嫌いな音を出してください』


 生徒たちは一斉に顔を上げた。


「嫌いな音?」


「美しい音じゃなくて?」


「音楽院で?」


 エルザ先生も少し驚いた顔をした。


「白瀬先生、それは」


「はい。変なお願いだと思います」


 灯理は生徒たちを見た。


「でも、今日は美しい音を出す前に、自分が避けている音を聞いてみたいんです」


 ユリオは強く眉を寄せた。


「嫌いな音を出す意味がありますか」


「あるかどうか、一緒に確かめたいです」


「私たちは、美しい音を出すために練習しています」


「はい」


「嫌いな音を出すのは、逆です」


 灯理は頷いた。


「嫌いな音にも、理由があるかもしれません」


 ユリオは黙った。


 嫌いな音。


 考えなくてもわかる。


 外れた音。


 震える音。


 音程の中心からずれて、どこにも落ち着かない音。


 聞いているだけで胸がざらつく音。


 生徒たちは順番に、自分の嫌いな音を出した。


 高すぎてかすれる音。


 低く濁った音。


 弓圧が強すぎて潰れた音。


 弱すぎて消えそうな音。


 意図せず隣の弦に触れてしまう音。


 最初は笑いが起きた。


 わざと変な音を出すことに、少しだけ解放感があったからだ。


 だが、灯理は一つずつ尋ねた。


「どうしてその音が嫌いですか」


「人前で出すと恥ずかしいから」


「先生に注意されたことがあるから」


「自分が下手だとわかるから」


「練習しても直らないから」


 笑いは少しずつ静かになっていった。


 嫌いな音の奥には、それぞれの記憶があった。


 注意された記憶。


 失敗した記憶。


 自分の弱さを突きつけられた記憶。


 ユリオの番になった。


 彼は楽器を構えたまま、しばらく動かなかった。


「ユリオくん」


 灯理が静かに呼ぶ。


「無理に大きく出さなくてもいいです」


 ユリオは弓を弦に置いた。


 高い音。


 発表会で外した音に近い音。


 正確に出そうとすれば出せる。


 だが、今日求められているのは、嫌いな音だ。


 外れそうな音。


 震える音。


 彼は弓を動かした。


 細い音が出た。


 音程の中心から少しだけ揺れている。


 高く、頼りなく、今にも割れそうな音。


 ユリオの指先が冷たくなった。


 合奏室の空気が、一瞬止まった気がした。


 誰も笑わなかった。


 灯理が言った。


「その音は、どうして嫌いですか」


 ユリオは弓を下ろした。


「外れそうだからです」


「外れそう」


「はい」


「外れた音ではなく?」


 ユリオは少し驚いた。


「……外れる前の音も嫌いです」


「どうして?」


「怖いから」


 その言葉は、思ったより小さく出た。


「何が怖いですか」


 ユリオは答えないつもりだった。


 でも、音を出した後の部屋は、なぜかいつもより嘘がつきにくかった。


「笑われるのが」


 合奏室は静かだった。


 エルザ先生の表情がわずかに変わる。


 灯理は続けて尋ねた。


「その音は、何を覚えているんでしょう」


 ユリオは顔を上げた。


「音が、覚えている?」


「君の体が覚えていることを、音が少し連れてくることがあるよ」


 ユリオは、自分の左手を見た。


 弦を押さえる指。


 少し震えている。


 八歳の発表会。


 高い音。


 客席の音。


 笑われたと思った瞬間の、顔の熱さ。


 そのすべてを、体は覚えていたのかもしれない。


 午後の授業では、一人ずつ短い旋律を弾くことになった。


 ただし、灯理は新しい条件を加えた。


「一か所だけ、自分の音を入れてください」


 生徒たちは戸惑った。


「自分の音?」


「楽譜に書いていない音を弾くんですか」


「即興ですか?」


「音を増やす必要はありません」


 灯理は言った。


「同じ音でもいいです。少し長くする。少し弱くする。少し揺らす。自分がその曲の中で、何を感じたかを一か所だけ入れてみてください」


 エルザ先生は少し黙っていたが、やがて頷いた。


「譜面を無視するのではありません。譜面をよく読んだ上で、自分の呼吸を探してください」


 ユリオは楽譜を見た。


 午後に弾く曲は、彼が八歳の発表会で弾いた曲だった。


 偶然ではない。


 エルザ先生が、彼にもう一度向き合ってほしくて選んだのだろう。


 ユリオは胸が締めつけられるようだった。


 逃げたい。


 別の曲にしたい。


 でも、逃げてもあの音は消えない。


 彼は楽譜を開いた。


 最初の旋律は、明るい。


 子どもの頃は、それをただ明るい曲だと思っていた。


 今見ると、ところどころに小さなためらいのような音がある。


 高い音へ向かう前の、短い休符。


 上がりきった後に少し下がる旋律。


 跳ねるようなリズムの中に、一瞬だけ息をつく場所。


 ユリオはその休符を見つめた。


 今まで、正確な長さでしか見ていなかった。


 でも、その短い沈黙には、何かがある気がした。


 自分の番が来た。


 ユリオは立ち上がる。


 楽器を構える。


 調弦は午前ほど繰り返さなかった。


 不安はある。


 あるが、今は弾くしかない。


 弓を置く。


 最初の音。


 正確に出た。


 次の音も、その次も。


 曲は進む。


 八歳の記憶が近づいてくる。


 高い音。


 発表会で外した音。


 体が固まる。


 肩が上がる。


 弓が重くなる。


 ここで外したら。


 また笑われる。


 また。


 ユリオは音程を守ろうとした。


 強く。


 固く。


 絶対にずれないように。


 その結果、音は細くなった。


 曲の呼吸が止まる。


 エルザ先生がわずかに眉を寄せる。


 灯理は何も言わない。


 高い音の直前。


 短い休符。


 ユリオは、その休符で初めて息を吐いた。


 怖い。


 怖いまま、音を出す。


 弓が動いた。


 高い音は、少し震えた。


 完全には安定していない。


 ほんの少し、中心の周りで揺れた。


 ユリオの胸が冷たくなる。


 失敗だ。


 そう思った瞬間、その音が部屋に残った。


 すぐに消えなかった。


 震えたまま、次の音へつながった。


 怖さだけではない。


 幼い自分が、舞台の上で立っている。


 震えながら、それでも音を出そうとしている。


 その姿が、音の中にいた。


 ユリオは弾き続けた。


 今度は、音程だけを守るのではなく、その震えをなかったことにしないように。


 曲の最後は、静かだった。


 弓が弦から離れる。


 合奏室に、余韻が残る。


 誰もすぐには拍手しなかった。


 ユリオは顔を上げるのが怖かった。


 また笑われるかもしれない。


 でも、聞こえたのは笑い声ではなかった。


 エルザ先生の小さな息だった。


「ユリオ」


 先生が静かに言った。


「はい」


「今の高い音は、少し震えていました」


 ユリオは唇を噛んだ。


「すみません」


「謝らなくていい」


 ユリオは驚いて顔を上げた。


 エルザ先生は、厳しい顔ではなかった。


「今の音には、あなたがいました」


 その言葉の意味を、ユリオはすぐには理解できなかった。


「私が?」


「ええ」


 エルザ先生は譜面を閉じた。


「音程は、いつもより少し不安定でした。でも、曲の中に呼吸がありました。怖さも、ためらいも、それでも進もうとする気持ちもありました」


 ユリオの目が熱くなる。


 音を外しかけたのに。


 震えたのに。


 それを、失敗として切り捨てられなかった。


 灯理が尋ねた。


「今の音で、何を届けたかったかわかりましたか」


 ユリオはしばらく考えた。


 八歳の自分。


 舞台。


 震えた音。


 今の自分。


「たぶん」


 声が少し震えた。


「あの時の自分に、もう大丈夫だって言いたかったんだと思います」


 灯理は頷いた。


「その音は、届いたと思います」


 授業の後半、生徒たちはもう一度「嫌いな音」を出した。


 最初とは違っていた。


 高すぎる音を出した生徒は、その震えを少し長く保とうとした。


 低く濁る音を嫌っていた生徒は、その濁りの中に重さを見つけようとした。


 かすれる音を嫌っていた生徒は、消えそうな音を最後まで聞こうとした。


 嫌いな音は、すぐに好きな音になるわけではない。


 けれど、ただの失敗ではなくなっていた。


 なぜ嫌いなのか。


 何を覚えているのか。


 どう扱えば音楽の中に置けるのか。


 生徒たちはそれを探り始めていた。


 ユリオも、もう一度あの高い音を鳴らした。


 やはり少し怖い。


 指先は緊張する。


 弓もわずかに震える。


 でも、今度はすぐに弾き直さなかった。


 音が部屋に広がるのを待った。


 震えた音は、まっすぐな音より弱く聞こえる。


 でも、その弱さの中に、自分の体温のようなものがあった。


 夕方、音楽院の廊下には、練習を終えた生徒たちの足音が響いていた。


 窓の外では、広場の噴水が夕日を受けて金色に光っている。教会の鐘がまた鳴り、町の上に柔らかな音を広げた。


 ユリオは一人、練習室に残っていた。


 楽譜を開く。


 八歳の時の曲。


 譜面には、今日の授業で書き込んだ小さな印がある。


 高い音の前の休符。


 そこに、鉛筆で一言だけ書いた。


『息をする』


 彼はヴァイオリンを構えた。


 調弦を確認する。


 一度だけ。


 少し不安になる。


 もう一度確認したくなる。


 だが、今日はそこで止めた。


 弓を置く。


 一音だけ鳴らす。


 高い音。


 少し震えていた。


 ユリオは、その音を聞いた。


 弾き直さない。


 消えるまで待つ。


 音は細く伸び、練習室の壁に触れ、ゆっくり消えた。


 扉の外に灯理が立っていた。


 ユリオは気づいて、少し恥ずかしそうに楽器を下ろした。


「聞いていたんですか」


「少しだけ」


「外れてましたか」


「少し震えていました」


「同じことですか」


「似ているけれど、同じではないかもしれません」


 ユリオは楽器を見た。


「まだ怖いです」


「はい」


「音を外したら、やっぱり怖い」


「うん」


「でも、今日の震えた音は、すぐに嫌いとは思いませんでした」


「それは大きな変化ですね」


 ユリオは練習室の窓を見た。


 外の空は夕方の薄い紫色に変わっている。


「先生」


「はい」


「音楽って、正しい音を並べるものだと思っていました」


「今は?」


「正しい音は大事です」


「はい」


「でも、正しいだけだと、僕がどこにいるのかわからなくなることがある」


 ユリオは弓を指でなぞった。


「少し怖い音の方が、僕に近い時もあるんですね」


 灯理は静かに頷いた。


「そういう音もあると思います」


 そこへ、エルザ先生が廊下を歩いてきた。


 彼女は練習室の前で足を止めた。


「ユリオ」


「はい」


「明日から、基礎練習は今まで通り続けます」


「はい」


「音程も、リズムも、指の形も、弓の使い方も」


「はい」


 ユリオは背筋を伸ばした。


 やはり、技術は必要だ。


 それは今日も変わらない。


 エルザ先生は続けた。


「その上で、一日の最後に一つだけ、今日の自分の音を探しなさい」


 ユリオは顔を上げた。


「今日の自分の音?」


「ええ。きれいでなくてもいい。完成していなくてもいい。譜面に忠実であることと、譜面の向こうにいる自分に忠実であることを、どちらも忘れないように」


 ユリオは静かに頷いた。


「はい」


 エルザ先生は灯理を見る。


「白瀬先生」


「はい」


「私は、生徒に正確さを求めてきました。それは間違いではないと思っています」


「私もそう思います」


「でも、正確さを守ることで、音が閉じてしまうこともあるのですね」


 彼女は練習室の中を見た。


 譜面台。


 椅子。


 窓の外の夕暮れ。


 そこに残る、少し震えた音の余韻。


「明日から、少しだけ聞き方を変えてみます」


「聞き方?」


「音程だけではなく、その音が何を連れてきたのかを」


 灯理は微笑んだ。


「きっと、生徒たちの音が少し広がります」


 夜、灯理は音楽院を出た。


 石畳の路地には街灯がともり、窓辺からは夕食の匂いが漂っている。広場では、小さな噴水が静かに水音を立てていた。


 音楽院の窓からは、まだいくつかの音が漏れている。


 ピアノの和音。


 チェロの低音。


 フルートの息。


 そして、ヴァイオリンの高い音。


 少し震えた音。


 でも、すぐに途切れず、ゆっくりと伸びていく音。


 灯理は足を止め、その音を聞いた。


 正確さから少しだけはみ出した震え。


 それは失敗の跡であり、記憶の入口であり、誰かが自分の音を探し始めた証でもあった。


 鞄の中には、次の依頼状が入っている。


 海辺の美術学校から届いたものだった。


 けれど、灯理はまだ開かなかった。


 石畳の町に、夜の鐘が鳴る。


 その音も、完全に同じ響きではなかった。


 一つ目の鐘と、二つ目の鐘。


 強い音と、少し揺れる音。


 遠くで反響して丸くなる音。


 その揺らぎの中に、町の夜が静かに息をしている。


 灯理はその音を聞きながら、ゆっくりと路地を歩いていった。

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