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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第3章 第5話:武道の授業――勝てない礼のかたち


 山間の道場では、朝の空気まで姿勢を正しているようだった。


 杉林の間を抜ける細い道の先に、その道場は建っていた。


 古い木造の建物で、屋根には苔が薄く乗り、軒先には夜露がまだ残っている。門の脇には小さな石灯籠があり、その下に落ちた葉は、誰かが毎朝掃き清めているのだろう。境内の土には箒の跡が整然と残っていた。


 扉を開けると、木の匂いがした。


 磨かれた床。


 畳の青い匂い。


 壁にかけられた古い額。


 そして、朝の静けさを破らないように響く、素足の音。


 蓮は道場の隅で、防具の紐を締めていた。


 指先に力が入る。


 結び目が少し歪んだ。


 もう一度結び直す時間はあったが、蓮はそのまま立ち上がった。


「蓮」


 低い声がした。


 師範の高岡だった。


 白髪交じりの短い髪に、皺の深い顔。背はそれほど高くないが、道場に立つと誰よりも大きく見える。声を荒らげることは少ない。けれど、たった一言で道場全体の空気を変える人だった。


「紐」


 蓮は自分の防具を見る。


 少しだけ曲がった結び目。


「後で直します」


「今、直せ」


 蓮は唇を噛んだ。


「はい」


 指で紐をほどき、結び直す。


 きつく。


 早く。


 これから大会前の稽古が始まる。


 礼や紐に時間をかけている場合ではない。


 今必要なのは、技だ。


 速く打つこと。


 相手の間合いに入ること。


 勝つこと。


 礼の形が少し崩れたところで、試合に勝てるわけではない。


 蓮はそう思っていた。


 もちろん、口には出さない。


 高岡師範にそんなことを言えば、稽古より先に道場の外へ出される。


 だが、胸の中ではずっと苛立っていた。


 勝てないのだ。


 最近の蓮は、格上の相手にまったく勝てなくなっていた。


 技は増えた。


 体も強くなった。


 試合経験もある。


 それなのに、強い相手と向き合うと、先に呼吸が乱れる。打とうとする瞬間、相手の気配に押される。焦って出た技は読まれ、返される。


 負ける。


 また負ける。


 そのたびに、高岡師範は言う。


「礼を正せ」


 蓮には、それがわからなかった。


 負けた理由は礼ではない。


 技が遅いからだ。


 踏み込みが浅いからだ。


 反応が鈍いからだ。


 礼を深くしたところで、相手の面は取れない。


「整列」


 高岡師範の声で、門下生たちは道場の正面に並んだ。


 蓮も列に入る。


 正座。


 背筋を伸ばす。


 目を伏せる。


「礼」


 全員が頭を下げた。


 蓮の礼は、ほんの少しだけ浅かった。


 本人にもわかるくらいに。


 早く稽古を始めたい。


 頭を下げているこの数秒が、無駄に思える。


 顔を上げた時、高岡師範の視線が蓮に向いていた。


 蓮は目をそらした。


 午前の稽古は、試合形式から始まった。


 大会が近いからだ。


 蓮の相手は、同じ道場の上級生・真壁だった。


 真壁は無口で、背も蓮より少し低い。だが間合いの取り方がうまく、相手を焦らせるのが得意だった。蓮はこの一か月、真壁に一度も勝てていない。


 向かい合う。


 礼。


 蓮は早く顔を上げた。


 竹刀を構える。


 高岡師範が眉をわずかに動かした。


「始め」


 声と同時に、蓮は前へ出た。


 速く。


 先に。


 相手が整う前に。


 しかし、真壁は半歩下がっただけだった。


 蓮の竹刀は空を切る。


 次の瞬間、真壁の竹刀が蓮の小手を打った。


「小手」


 高岡師範の声。


 一本。


 蓮は歯を食いしばる。


 まだだ。


 すぐに構え直す。


 また前へ出る。


 今度は面。


 だが、踏み込む前に真壁の気配が変わった。


 蓮の肩が上がる。


 呼吸が浅くなる。


 体が固まる。


 遅れた。


 真壁の面が先に入る。


「面」


 二本目。


 試合は終わった。


 蓮は竹刀を下ろした。


 胸が荒く上下している。


 真壁は静かに礼をした。


 蓮も礼をする。


 だが、悔しさで頭が熱く、礼の角度も、相手を見る目も、雑になっていた。


「蓮」


 高岡師範が呼んだ。


「はい」


「今の礼は、何だ」


 蓮の中で、何かが切れそうになった。


 負けた直後だ。


 悔しい。


 何が悪かったのか考えたい。


 それなのに、また礼。


「すみません」


「謝れとは言っていない」


 高岡師範は静かに言った。


「今の礼は、誰に向けていた」


 蓮は答えられなかった。


 誰に。


 相手に決まっている。


 そう言えばいい。


 でも、言えなかった。


 今の礼は、相手になど向いていなかった。


 悔しさを押し込めるための動きだった。


 早く次へ行きたいという合図だった。


 負けを終わらせるための形だった。


 道場の入口で、板戸が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が立っていた。


 道場の空気に少しだけ異質な旅装だったが、その人は敷居の前で足を止め、丁寧に一礼してから中へ入った。


「白瀬先生」


 高岡師範が振り向いた。


「お待ちしておりました」


「遅くなり、申し訳ありません」


 その人――白瀬灯理は、もう一度頭を下げた。


「今日は授業に混ぜていただきます」


 門下生たちが小さくざわついた。


 旅する先生。


 学校だけでなく、世界中のさまざまな学びの場を訪れている先生。


 昨日、高岡師範から話があった。


 蓮は灯理を見た。


 武道の先生には見えない。


 少なくとも、この道場の誰よりも強そうには見えなかった。


 だが、灯理は蓮の竹刀ではなく、肩を見ていた。


 息を見ていた。


 足の位置を見ていた。


「少し見学させていただきました」


 灯理は言った。


「蓮さんは、試合が始まる前から呼吸が速くなっていましたね」


 蓮は眉を寄せた。


「試合前だからです」


「はい」


「緊張するのは普通です」


「そうですね」


「それが何か」


 高岡師範が灯理を見る。


 灯理は少し考えた後、言った。


「今日の特別授業ですが、試合稽古ではなく、礼だけの稽古をしてもいいでしょうか」


 道場が静まり返った。


 蓮は思わず声を上げた。


「礼だけ?」


 灯理は頷く。


「はい」


「大会前ですよ」


「はい」


「礼だけ練習しても、勝てません」


 その言葉は、ほとんど挑むように出た。


 高岡師範の視線が鋭くなる。


 だが、灯理は怒らなかった。


「うん。礼だけでは勝てないかもしれない」


「だったら、何のために」


 灯理は蓮をまっすぐ見た。


「勝つ前に、自分がどこに立っているかを知るためかもしれない」


 蓮は言葉に詰まった。


 自分がどこに立っているか。


 そんなこと、立っている場所を見ればわかる。


 道場の床の上だ。


 相手の前だ。


 試合場の中だ。


 それ以上に、何がある。


 高岡師範はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷いた。


「よろしい」


「師範」


 蓮は思わず振り返った。


 高岡は蓮を見た。


「礼を軽く見る者に、礼だけの稽古はちょうどよい」


 蓮は口を閉じた。


 午前後半の稽古は、本当に礼だけになった。


 門下生たちは二人一組で向かい合う。


 竹刀は持たない。


 防具も一部外す。


 ただ立ち、相手を見る。


 足の位置を整える。


 呼吸をする。


 礼をする。


 顔を上げる。


 それだけ。


 最初、蓮は苛立ちを隠せなかった。


 足を揃える。


 背筋を伸ばす。


 相手を見る。


 頭を下げる。


 顔を上げる。


 何度も。


 何度も。


 技の稽古ではない。


 汗もほとんどかかない。


 こんなことをしている間に、真壁はもっと強くなるのではないか。


 大会の相手は、もっと速い技を練習しているのではないか。


「蓮さん」


 灯理が近づいてきた。


「はい」


「今、礼の前に肩が上がりました」


「そうですか」


「気づいていましたか」


「いえ」


「では、次は肩に気づいてから礼をしてみましょう」


 蓮は内心でため息をついた。


 肩。


 礼。


 そんな細かいことばかりだ。


 だが、師範の前で拒むわけにはいかない。


 もう一度、真壁と向かい合う。


 足を置く。


 相手を見る。


 礼をしようとする。


 その瞬間、灯理の言葉を思い出した。


 肩。


 確かに、上がっている。


 首の近くに力が集まっている。


 呼吸も浅い。


 蓮は無理に肩を下げようとした。


 すると、今度は背中が固くなった。


「止めましょう」


 灯理が言った。


 蓮は顔を上げる。


「礼もできていません」


「礼に入る前の体を見ていました」


「体?」


「はい。相手と向き合った時、蓮さんの体はもう戦い始めている」


 蓮は真壁を見た。


 真壁は静かに立っている。


 呼吸も乱れていない。


 足も安定している。


 一方の自分は、礼をする前から肩が上がり、息が浅くなり、足の裏の重心が前へ偏っている。


 まだ始まっていないのに、もう突っ込もうとしている。


「礼は、試合の外にあるものかな」


 灯理が尋ねた。


 蓮は何も言えなかった。


 今までは、そう思っていた。


 試合の前と後にするもの。


 形式。


 作法。


 だが、自分の体は礼の前から乱れていた。


 そして、その乱れを持ったまま試合に入っていた。


 午後の稽古では、礼の前後の体を記録することになった。


 高岡師範の指示で、門下生たちは小さな紙に項目を書き込む。


『足の位置』

『背中の力』

『視線』

『呼吸』

『相手との距離』

『礼の後に変わったこと』


 蓮は紙を見て、少しうんざりした。


 だが、真壁と向かい合うと、午前中よりも自分の体が気になった。


 足。


 右足に体重が寄っている。


 背中。


 固い。


 視線。


 相手の目を見ていない。


 肩のあたりを見ている。


 いや、本当は相手を見ていない。


 勝てるかどうかだけを見ている。


 呼吸。


 浅い。


 礼をする。


 頭を下げる。


 床の木目が見える。


 磨かれた床に、窓からの光が細く落ちている。


 顔を上げる。


 真壁がそこにいる。


 相手は敵ではない。


 稽古の相手だ。


 自分が勝てない相手。


 だからこそ、自分の未熟さを教えてくれる相手。


 そう思った瞬間、呼吸がほんの少し深くなった。


「今、何が変わりましたか」


 灯理が聞いた。


 蓮は戸惑いながら答える。


「相手が……少し見えました」


「それまでは?」


「勝てるかどうかしか見てなかった」


 灯理は頷いた。


 高岡師範も、少し離れたところで黙って聞いていた。


「では、次は竹刀を持って同じことをしましょう」


 蓮は竹刀を手にした。


 重さが戻る。


 握った瞬間、また体が戦いに向かおうとする。


 勝ちたい。


 今度こそ一本を取りたい。


 真壁に勝ちたい。


 その気持ちが、肩を上げる。


 呼吸を浅くする。


 蓮は気づいた。


 気づいたが、止められない。


 試合形式が始まった。


 相手は真壁。


 礼。


 今度は、さっきより丁寧にした。


 だが、始まった瞬間、蓮はまた前へ出た。


 焦り。


 速く打たなければ。


 相手より先に。


 面へ入る。


 真壁は受けずに半歩ずれた。


 蓮の竹刀が外れる。


 次の瞬間、真壁の胴が入った。


「胴」


 高岡師範の声。


 一本。


 蓮は歯を食いしばった。


 まただ。


 礼を意識しても、勝てない。


 やっぱり意味がない。


 再開。


 蓮は今度こそ、と強く踏み込んだ。


 しかし、力みすぎて足が浮いた。


 真壁の小手。


「小手」


 二本目。


 終わった。


 蓮は竹刀を下ろした。


 胸の奥に熱いものがこみ上げる。


 悔しい。


 情けない。


 礼を練習しても負けた。


 何も変わらない。


 真壁が礼をしようとする。


 蓮は乱暴に頭を下げかけた。


 その時、灯理の声がした。


「蓮さん」


 蓮は動きを止めた。


「今の礼は、誰に向けていましたか」


 朝、高岡師範に問われた言葉と同じだった。


 蓮は真壁を見た。


 真壁は黙って待っている。


 勝ったことを誇るでもなく、蓮を責めるでもなく、ただ稽古相手としてそこに立っている。


 自分は、誰に礼をしようとしていたのか。


 真壁ではなかった。


 負けた自分を早く片付けるためだった。


 悔しさを隠すためだった。


 相手を見ていなかった。


 蓮は竹刀を一度下ろした。


 息を吸う。


 吐く。


 肩を下げる。


 足の裏を床につける。


 真壁を見る。


「お願いします」


 そう言ってから、ゆっくり礼をした。


 頭を下げる。


 床を見る。


 顔を上げる。


 真壁が、ほんの少しだけ頷いた。


 その瞬間、蓮の胸に残っていた熱が、少し形を変えた。


 負けたことは悔しい。


 悔しさは消えない。


 でも、その悔しさの中に、相手がいる。


 自分一人で暴れていた感情が、稽古の形に戻っていくようだった。


 高岡師範が言った。


「もう一本」


 蓮は驚いて振り返った。


「よろしいのですか」


「今度は、始める前に呼吸を聞け」


 蓮は頷いた。


 真壁と向かい合う。


 構える前に、足を見る。


 右足に寄りすぎていないか。


 背中。


 固まりすぎていないか。


 視線。


 真壁の目を見る。


 呼吸。


 浅い。


 一度、吐く。


 礼。


 深すぎる必要はない。


 形だけを立派にするのではない。


 相手と自分の間に、きちんと立つ。


 顔を上げる。


 構える。


「始め」


 高岡師範の声。


 真壁がじり、と間合いを詰める。


 いつもなら、その圧に押されて先に出ていた。


 今日は、一歩だけ待った。


 怖い。


 打たれるかもしれない。


 でも、見える。


 真壁の竹刀の先。


 左足の踏み込み。


 肩の微かな動き。


 蓮は面へ行きかけた。


 真壁が小手を狙う気配。


 蓮はわずかに竹刀を下げた。


 打たれる。


 いや、返す。


 真壁の小手が来る。


 蓮は受け、半歩だけ前へ出て、面を打った。


 完全ではなかった。


 浅い。


 一本にはならない。


 高岡師範の声は上がらなかった。


 だが、真壁の動きが止まった。


 初めて、蓮の竹刀が真壁の流れを止めた。


 次の瞬間、真壁が鋭く踏み込み、面を取った。


「面」


 一本。


 蓮の負けだった。


 また勝てなかった。


 それなのに、蓮はすぐに悔しさで頭が真っ白にはならなかった。


 今の小手。


 見えた。


 面は浅かった。


 でも、返せた。


 相手の動きを一つ見た。


 礼。


 今度は、自然に頭が下がった。


 真壁も礼を返す。


「今の」


 真壁が小さく言った。


「見えてたな」


 蓮は驚いた。


 真壁が稽古中に声をかけることは珍しい。


「少しだけです」


「少しでいい」


 真壁はそれだけ言って、道場の端へ下がった。


 蓮は竹刀を握ったまま、しばらく立っていた。


 負けた。


 でも、何かが残っている。


 ただ悔しさだけではない。


 次に持っていける感覚。


 相手を見た瞬間。


 呼吸が少し整った瞬間。


 小手の気配に気づいた瞬間。


 それらが、体の中に残っていた。


 稽古の終わり、門下生たちは正面に並んだ。


 朝と同じように正座をする。


 道場には夕方の光が差し込んでいた。


 木の床が橙色に染まり、畳の縁に細い影が落ちている。


「礼」


 高岡師範の声。


 全員が頭を下げる。


 蓮は、今度は急がなかった。


 床の木目を見る。


 今日、何度も踏み込んだ床。


 負けた床。


 呼吸を整えた床。


 顔を上げる。


 高岡師範が蓮を見ていた。


 何も言わない。


 だが、朝とは違って、蓮はその視線から逃げなかった。


 稽古後、蓮は一人で道場の床を拭いていた。


 雑巾を両手で押し、端から端まで進む。


 木の床は滑らかだが、ところどころに古い傷がある。何十年も前の稽古の跡かもしれない。


 床を拭くことも、以前の蓮にはただの後片付けだった。


 だが今日は、少し違った。


 この床の上で、自分は何度も崩れた。


 何度も焦った。


 何度も負けた。


 そして、ほんの少しだけ整った。


「蓮さん」


 灯理の声がした。


 顔を上げると、道場の入口に彼女が立っていた。


「まだ残っていたんですね」


「床、拭いてます」


「見ればわかります」


 蓮は少し照れたように視線を戻した。


「勝てませんでした」


「はい」


「最後も、負けました」


「はい」


 灯理は道場に入り、少し離れたところに座った。


「でも、今日は何か残っている気がします」


 蓮は雑巾を見た。


「勝てなかったのに」


「それが、次の稽古に持っていくものかもしれないね」


 蓮はその言葉を聞いて、手を止めた。


 次の稽古に持っていくもの。


 勝利ではない。


 賞状でもない。


 一本でもない。


 でも、確かに残っているもの。


 呼吸。


 足の裏。


 相手の目。


 礼の後に、少しだけ変わった視界。


「先生」


「はい」


「礼って、相手のためだけにするものだと思ってました」


「今は?」


「相手のためでもあると思います。でも、自分がどこにいるかを戻すためでもある気がします」


 灯理は頷いた。


「いい発見ですね」


「師範がいつも礼を正せって言う意味、少しだけわかりました」


「少し?」


「全部わかったって言ったら、また怒られます」


 灯理は小さく笑った。


「賢明ですね」


 蓮も少し笑った。


 その時、高岡師範が道場の奥から出てきた。


 蓮はすぐに姿勢を正す。


「師範」


「床を拭く手が止まっている」


「すみません」


 蓮は慌てて雑巾に手を戻した。


 高岡師範は灯理の方を見た。


「白瀬先生」


「はい」


「本日は、こちらが学ぶことも多かった」


「私も学ばせていただきました」


 高岡師範は道場を見渡した。


「私は礼を正せと何度も言ってきました」


 蓮は床を拭きながら聞いていた。


「だが、その意味を生徒自身が体で知る前に、形を正すことばかり求めていたのかもしれません」


 灯理は何も言わず、静かに聞いていた。


「形は大事です。形が崩れれば心も崩れる」


「はい」


「しかし、形だけを押しつけても、心までは届かぬことがある」


 高岡師範は蓮を見る。


「蓮」


「はい」


「明日から、試合稽古の前に、呼吸を聞け」


「はい」


「相手を見ろ」


「はい」


「勝ちたい気持ちを捨てろとは言わぬ」


 蓮は顔を上げた。


 高岡師範は続ける。


「だが、勝ちたい気持ちに、お前自身が引きずられるな」


 蓮は深く頷いた。


「はい」


 夜、灯理は道場を出た。


 山の空気は冷たく、杉林の間から星が見えていた。道場の中では、まだ蓮が床を拭く音が聞こえる。


 門のそばで、高岡師範が見送りに立っていた。


「白瀬先生」


「はい」


「旅の先生というものは、不思議ですな」


「そうでしょうか」


「どこへ行っても、その場所の技を教えるわけではない。だが、生徒が何かを掴む」


 灯理は少し考えた。


「私は、答えを持っているわけではありません」


「でしょうな」


 高岡師範は小さく笑った。


「持っている顔ではない」


 灯理も微笑んだ。


「ただ、生徒が自分で見つけるための問いを置いているだけです」


「問い、ですか」


「はい」


 高岡師範は道場を振り返った。


「武道も同じかもしれません。技は教えられる。形も教えられる。だが、その意味は、本人が稽古の中で問い続けるしかない」


 夜風が吹き、杉の葉が静かに鳴った。


「蓮は、まだ勝てないでしょう」


 高岡師範は言った。


「はい」


「だが、明日の負け方は、今日とは違うかもしれません」


「それは、大きな変化ですね」


「ええ」


 道場の扉が少し開いた。


 蓮が顔を出す。


「師範、雑巾を洗って干しました」


「よし」


 蓮は灯理を見る。


「先生」


「はい」


「次に会う時は、一本取れるようになってます」


 少し間を置いて、言い直した。


「いえ、一本を取りに行く前に、ちゃんと礼できるようになってます」


 高岡師範がわずかに眉を上げた。


 それは、褒めているのか、まだ早いと思っているのかわからない表情だった。


 灯理は頷いた。


「楽しみにしています」


 蓮は深く頭を下げた。


 今度の礼は、朝よりずっと静かだった。


 灯理も礼を返した。


 山道を下りながら、灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、次の土地から届いた新しい依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 夜の道は暗く、足元には杉の葉が積もっている。


 一歩ごとに、乾いた音がした。


 道場の灯りは背後で小さくなっていく。


 その中に、磨かれた床と、浅かった礼と、整い始めた呼吸がある。


 勝てなかった少年が、負けた稽古から何かを持ち帰った夜。


 灯理はその静けさを胸にしまい、山の下へ続く道を歩いていった。

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