第3章 第4話:水泳の授業――深いプールの約束
海辺の町では、朝の光が水の上で細かく砕ける。
白い家々の屋根を越えて、潮の匂いを含んだ風が通り抜ける。坂道の下には小さな港があり、漁船のロープが岸壁に当たって低い音を立てていた。
町の子どもたちは、海と一緒に育つ。
夏になる前から裸足で浜辺を走り、泳ぎを覚える前に波の音を覚える。浅瀬で遊び、岩場を渡り、砂に足を埋めながら、水が引いていく感覚を知る。
だから、この町では泳げないことは少し目立つ。
いいえ、とソフィアは何度も心の中で言い直していた。
泳げないわけではない。
浅い場所なら泳げる。
息継ぎもできる。
クロールのフォームだって、エミリオコーチに「悪くない」と言われた。
問題は、深さだった。
足が底につかない場所。
水の青が急に濃くなる場所。
プールの底が遠ざかり、自分の足先が空中に投げ出されたように感じる場所。
そこへ行くと、体が動かなくなる。
水泳学校のプールは、海岸から歩いてすぐの場所にあった。
半分は浅く、子どもたちの練習用になっている。もう半分は深く、飛び込み練習もできるようになっていた。
朝のプールは静かだった。
水面には天井の窓から入る光が揺れ、青いラインが底にまっすぐ伸びている。塩素の匂いと、少しだけ混じる潮の匂い。壁の向こうで波の音が聞こえるせいか、屋内プールなのに海の中にいるような気がする。
ソフィアはプールサイドに立っていた。
右足のつま先で、水に入る階段の一段目を探る。
冷たい。
次に二段目。
まだ大丈夫。
三段目。
水が膝まで来る。
彼女はそこで一度、足の裏を床につけた。
床がある。
大丈夫。
床があるなら、大丈夫。
「ソフィア、今日は深い方まで行ってみよう」
エミリオコーチの声がした。
彼は水泳学校の若いコーチで、日焼けした肌に明るい笑顔を持っている。泳ぐことが好きでたまらない人だった。だからこそ、水を怖がる子どもの気持ちが少しだけ苦手だった。
「浅いところではもう十分泳げている。あとは自信だよ」
ソフィアは頷いた。
「はい」
「大丈夫。怖くない」
その言葉に、ソフィアの指先が少し強張る。
怖くない。
何度も言われた。
大丈夫。
怖くない。
でも、怖い。
怖いと感じている体に、怖くないと言われると、自分の体が間違っているような気がする。
ほかの生徒たちは、すでにプールの中でウォーミングアップを始めていた。
水しぶきが上がる。
笑い声が響く。
誰かが深い方へ潜り、すぐに水面へ顔を出した。
簡単そうに見える。
まるで、水と友だちのように。
ソフィアはもう一歩進んだ。
水が腰まで来る。
まだ床がある。
浅い場所の青いラインの上を、ゆっくり歩く。
深い場所との境界には、床の色が少し変わる線があった。
青いラインが、そのまま先へ続いている。
でも、そこから先は底が遠い。
ソフィアはいつも、その境界で止まる。
今日も止まった。
「ソフィア」
エミリオが優しく声をかける。
「大丈夫。僕が見ている」
わかっている。
コーチが見ている。
監視員もいる。
浮き具もある。
ここは海ではない。
波もない。
流されることもない。
頭では全部わかっている。
でも、体は知らない。
体が覚えているのは、幼い日の海だった。
波の音。
急に足元が消えた感覚。
水が鼻と口へ入り、世界がぐるりと回ったこと。
上がどこかわからなくなったこと。
誰かの腕に抱き上げられた時、空が白すぎて泣けなかったこと。
助かった。
それは知っている。
でも、水の重さは、まだ体の奥に残っている。
ソフィアは境界線の前で足を止めた。
「今日は、ここまでにします」
声が小さくなる。
「あと一歩だけ」
エミリオが言う。
「大丈夫。怖くない」
ソフィアは首を振った。
「無理です」
「無理じゃない。君は泳げる」
「無理です」
体が後ろへ下がる。
足が床を探す。
浅い方へ戻る。
その時、プールサイドの入口から静かな声がした。
「おはようございます」
振り返ると、一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
プールの明るい空間には少し不思議な姿だったが、その人は水面を急がず眺め、ソフィアの足元を見ていた。
「白瀬先生」
エミリオコーチが顔を上げた。
「来てくださったんですね」
「はい。授業の途中にすみません」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」
生徒たちは興味深そうにプールの中から顔を出した。
旅する先生。
世界の学校を巡って、さまざまな授業をする先生。
昨日、エミリオから聞いていた。
灯理はソフィアに視線を向けた。
「今、足で床を確認していましたね」
ソフィアは驚いた。
「見てたんですか」
「はい」
「変ですか」
「変ではありません」
灯理はすぐに言った。
「体が安心できる場所を探しているんだと思いました」
ソフィアは黙った。
体が安心できる場所。
そんなふうに言われたことはなかった。
いつも、怖がらないように、と言われていた。
勇気を出して、と。
大丈夫だ、と。
でも、自分の足が床を探すことを、悪いことではないと言われたのは初めてだった。
灯理はエミリオを見た。
「少し、プールに入る前の授業をしてもいいですか」
「プールに入る前、ですか」
「はい」
「今日は水泳の授業ですが」
「だからこそです」
エミリオは戸惑ったが、頷いた。
「わかりました」
灯理はプールサイドに大きな紙を広げた。
そこには簡単なプールの形が描かれている。
浅い場所。
深い場所。
階段。
飛び込み台。
監視台。
排水口。
青いライン。
生徒たちは濡れた体をタオルで拭きながら、その紙の周りに集まった。
「今日は、怖さの地図を作ります」
灯理が言った。
「怖さの地図?」
生徒の一人が首を傾げる。
「はい。プールの中で、怖いと感じる場所、少し緊張する場所、安心する場所を色で塗ってみます」
「それ、水泳の練習になりますか」
エミリオが思わず聞いた。
灯理は頷いた。
「怖さは、形が見えると少し扱いやすくなることがあります」
ソフィアは紙を見つめた。
怖い場所。
そんなものを描いていいのだろうか。
描いたら、余計に怖くなるのではないか。
けれど、灯理は色鉛筆を差し出した。
「ソフィアさん。まず、安心できる場所からでもいいです」
ソフィアは薄い黄色の鉛筆を取った。
浅い場所を塗る。
階段の近く。
壁に手が届く場所。
エミリオコーチが立っている場所に近いレーン。
そこは安心する。
次に、青い鉛筆を取る。
深い場所との境界線を塗る。
少し濃く。
さらに、深いプールの中央を濃い青で塗った。
飛び込み台の影が落ちる場所。
水面が暗く見える場所。
排水口の近く。
監視台から遠い角。
塗っているうちに、胸が少し苦しくなった。
でも、不思議なことに、ただ漠然と怖いと思っていた深いプールが、いくつかの場所に分かれていった。
足が届かない場所。
暗く見える場所。
人から遠い場所。
水の音が大きく聞こえる場所。
怖さには、形があった。
灯理はソフィアの地図を見た。
「全部が同じ怖さではないんですね」
ソフィアは小さく頷いた。
「ここは少し怖いです。でも、ここはすごく怖い」
「その違いが見えました」
「はい」
「では、今日の目標は、すごく怖い場所へ行くことではなく、少し怖い場所で何が起きるかを見ることにしましょう」
エミリオが眉を上げた。
「深い場所を泳ぎ切るのではなく?」
「はい」
灯理はソフィアを見る。
「今日の目標を、自分で決めてみますか」
ソフィアは紙を見た。
境界線。
青いライン。
浅い場所から深い場所へ変わるところ。
「青い線のところまで行きます」
声は小さかった。
「そこから、深い方へ手を伸ばす」
灯理は頷いた。
「いい目標です」
エミリオは少し物足りなさそうだった。
だが、ソフィアの顔を見て、何も言わなかった。
プールに戻る。
水はさっきと同じ温度のはずなのに、少し違って感じた。
ソフィアは階段から入り、足裏で床を確認した。
一段目。
二段目。
三段目。
床がある。
呼吸。
大丈夫、と自分に言いかけて、やめた。
怖くない、ではなく。
怖いけれど、今は床がある。
そう思った。
灯理はプールサイドにしゃがみ、ソフィアと同じ高さに視線を合わせた。
エミリオは水中に入り、少し離れて見守っている。
「急がなくていいよ」
灯理が言った。
ソフィアは浅い場所を歩いた。
青いラインへ近づく。
境界線が見える。
そこから先は、底が低くなっている。
体の中で、何かが固まり始めた。
肩。
首。
手の指。
息が浅くなる。
ソフィアは足を止めた。
「無理かもしれません」
エミリオが言いかける。
「大丈――」
その言葉を、彼は途中で飲み込んだ。
灯理が静かに聞いた。
「今、どこが一番怖いですか」
ソフィアは目を閉じかけた。
でも、地図を思い出す。
怖さには場所がある。
体にも場所がある。
「足です」
まずそう答えた。
でも、すぐに首を振る。
「違う。肩です」
「肩?」
「肩が固いです。息が入りません」
灯理は頷いた。
「では、肩に気づいたまま、呼吸を三つ数えましょう」
「泳がなくていいんですか」
「今は」
ソフィアは水に浮かぶ自分の肩を感じた。
上がっている。
耳に近い。
力が入りすぎている。
息を吸う。
一。
吐く。
二。
吸う。
三。
まだ怖い。
でも、少しだけ肩が下がった。
「今、どうですか」
灯理が聞く。
「怖いです」
「うん」
「でも、さっきより息が入ります」
「では、今日はそこまででもいいし、手を伸ばしてもいい」
ソフィアは青い線を見た。
深い方の水。
暗く見える場所。
彼女は右手を伸ばした。
指先が、境界線の向こうの水に触れる。
同じ水だった。
冷たさは変わらない。
でも、指先だけなのに心臓が速くなる。
「触れました」
声が震えた。
エミリオが水の中で笑った。
「触れた」
それだけで、少し大きなことのように聞こえた。
午前の練習は、そこで一度休憩になった。
ほかの生徒たちはそれぞれ泳ぎの練習を再開した。ソフィアはプールサイドに座り、タオルを肩にかけていた。
灯理が隣に腰を下ろす。
「疲れましたか」
「はい」
「泳いでいないのに?」
ソフィアは少しだけ笑った。
「泳ぐより疲れました」
「怖さを見るのは、疲れますね」
ソフィアは水面を見た。
深い場所は、光を反射して揺れている。
ほかの子たちは簡単にそこを泳いでいく。
自分だけが、何か大げさにしているようで恥ずかしくなる。
「先生」
「はい」
「怖がるのは、弱いですか」
灯理はすぐには答えなかった。
水しぶきの音。
遠くの波の音。
生徒たちの笑い声。
それらが少しの間、二人の間を通り過ぎた。
「怖さは、体が何かを覚えているということかもしれません」
「覚えている?」
「危ないことがあった。苦しかった。もう同じ思いをしたくない。だから体が先に止めようとしている」
ソフィアは膝の上で手を握った。
「でも、もう海じゃないです。ここはプールです。頭ではわかってます」
「頭が知っていることを、体がまだ信じていないんですね」
ソフィアの胸が少し詰まった。
体が信じていない。
それは、自分が弱いからではなく、まだ体が違う情報を持っているからなのかもしれない。
「どうしたら、信じますか」
「少しずつ、体に新しい経験を渡すのかなと思います」
「新しい経験」
「深い場所に行っても、呼吸できた。戻ってこられた。誰かが見ていた。自分で止まることもできた。そういう小さな経験を」
ソフィアは青い線を見た。
午前中、指先だけ触れた深い水。
それは小さすぎる一歩に思えた。
でも、体にとっては新しい経験だったのかもしれない。
午後、ソフィアはもう一度水に入った。
今度の目標は、青い線を越えて、深い側に体を半分だけ入れること。
エミリオは水中で少し離れたところに立ち、灯理はプールサイドで見守る。
ソフィアは浅い場所を泳いだ。
フォームは悪くない。
腕も水をつかんでいる。
足も動いている。
問題は、青い線が近づく瞬間だった。
床が変わる。
水の色が濃くなる。
足先が床を探す。
体が止まる。
今度も、肩が固くなった。
だが、気づいた。
肩。
息。
指先。
ソフィアは水中で立ち止まり、呼吸を数えた。
一。
二。
三。
青い線を越える。
足元の床が少し遠くなる。
その瞬間、記憶が戻った。
海。
波。
足が消える。
水が口へ入る。
音が遠くなる。
世界が回る。
「いや!」
ソフィアは叫んだ。
水を叩く。
息が乱れる。
体が硬直する。
エミリオがすぐに近づいた。
だが、抱え上げる前に声をかけた。
「ソフィア、ここにいる。僕がいる」
灯理もプールサイドから低い声で言った。
「足は動いています。手も動いています。息を一つ」
ソフィアは水を飲みそうになった。
怖い。
怖い。
怖い。
エミリオが浮き具を差し出す。
ソフィアはそれをつかんだ。
「上がる」
震える声で言う。
「うん。上がろう」
エミリオはすぐに彼女を浅い方へ誘導した。
無理に続けさせなかった。
プールサイドに上がると、ソフィアはタオルにくるまり、涙をこらえきれずに泣いた。
「やっぱり無理」
息が震える。
「やっぱり無理です。全然だめ」
エミリオは隣にしゃがんだ。
いつものように「大丈夫」と言いかけて、止まった。
代わりに、灯理が静かに尋ねた。
「怖くなった体は、最初にどこで知らせてくれた?」
ソフィアは泣きながら首を振った。
「わかりません」
「すぐ答えなくていいよ」
灯理はタオルの端を整えた。
「思い出せるところから」
ソフィアは目を閉じた。
青い線。
床が遠くなる。
体が固まる。
その前。
肩。
いや、肩より先に。
「喉」
小さく言った。
「喉が詰まった」
「うん」
「その後、肩」
「うん」
「それから、足が床を探して、見つからなくて」
ソフィアはタオルを握った。
「全部一度に来たと思ってました。でも、順番がありました」
灯理は頷いた。
「それは大切な発見です」
「発見?」
「次は、喉が詰まった時に止まれるかもしれない」
ソフィアは涙で濡れた目を上げた。
エミリオも静かに聞いていた。
「今までは、怖さが急に全部来ると思っていた。だから止められなかった。でも、最初の知らせがわかれば、少し早く対応できるかもしれません」
ソフィアは深いプールを見た。
まだ怖い。
午前より怖くなったかもしれない。
でも、怖さの中に順番があると知った。
それは、ほんの少しだけ道のようだった。
しばらく休んだ後、灯理が尋ねた。
「今日はもうやめてもいいです」
ソフィアは顔を上げた。
「やめても?」
「はい」
「逃げたことになりませんか」
「自分で決めて止まることは、逃げとは違うと思います」
ソフィアは黙った。
体は疲れている。
心も疲れている。
でも、このまま終わると、深い場所で泣いた記憶だけが残る気がした。
それも本当の経験だ。
でも、もう一つだけ、新しい経験が欲しかった。
「泳ぎ切るのは無理です」
「はい」
「深い場所に長くいるのも無理です」
「はい」
「でも」
ソフィアはタオルを少し下ろした。
「深い場所で、三回呼吸するだけなら」
エミリオが驚いた顔をした。
「本当に?」
「はい。でも、浮き具を持ちます。コーチは近くにいてください。青い線から少しだけ」
「もちろん」
灯理は頷いた。
「それは、ソフィアさんが決めた目標ですね」
「はい」
三度目の入水。
ソフィアは階段を下りた。
水は同じ冷たさだった。
でも、今度は自分で条件を決めている。
浮き具を持つ。
エミリオが近くにいる。
青い線から少しだけ。
三回呼吸したら戻る。
それ以上はしない。
浅い場所を進む。
青い線が近づく。
喉が詰まりそうになる。
気づく。
ここだ。
最初の知らせ。
ソフィアは止まった。
息を吐く。
肩を下げる。
浮き具を握る。
エミリオが言う。
「今、どこが怖い?」
大丈夫、ではなく。
怖くない、でもなく。
ソフィアは答えた。
「喉。あと、足」
「わかった。僕はここにいる」
ソフィアは青い線を越えた。
足元の床が遠くなる。
浮き具が胸の前にある。
水が体を支えている。
怖い。
とても怖い。
でも、息を吸う。
一。
吐く。
二。
吸う。
三。
すぐに浅い方へ戻った。
戻った瞬間、足裏が床を捉えた。
床がある。
戻ってこられた。
ソフィアは壁につかまり、荒く息を吐いた。
エミリオが笑顔をこらえるように言った。
「三回」
ソフィアは頷いた。
「三回」
「泳ぎ切ってないけど」
「はい」
「でも、三回」
ソフィアの口元が少しだけ上がった。
「次は」
彼女は深い水を見た。
まだ怖い。
青は濃い。
底は遠い。
でも、さっきとは違う。
「次は五回」
エミリオが大きく頷いた。
「よし。五回だ」
灯理はプールサイドで静かに微笑んでいた。
夕方、プールの水面は橙色に染まっていた。
天井の窓から差し込む光が揺れ、深い場所の水も朝より少し柔らかく見える。
練習を終えた生徒たちは帰り支度をしていた。
ソフィアは一人、プールサイドに座っている。
足だけを水に入れ、深い方を見つめていた。
灯理が隣に座る。
「まだ怖いですか」
ソフィアはすぐに頷いた。
「はい」
「うん」
「でも、さっきより少し、どこが怖いかわかります」
彼女は自分の喉に触れた。
「最初はここ」
次に肩。
「それからここ」
足先を水の中で動かす。
「その後、足」
「よく見つけましたね」
「怖さって、全部一緒に来ると思ってました」
「うん」
「でも、順番があるなら、途中で話せるかもしれない」
「誰と?」
ソフィアは少し考えた。
「自分の体と」
灯理は頷いた。
「いいですね」
エミリオが近づいてきた。
手には、ソフィアが描いた怖さの地図がある。紙は少し湿って、端が波打っていた。
「ソフィア」
「はい」
「これ、明日も使っていいか?」
「私の地図ですか」
「うん。君の地図だ。勝手には使わない」
ソフィアは少し照れたように頷いた。
「いいです」
エミリオは地図を見た。
「僕は、ずっと大丈夫って言ってた」
ソフィアは何も言わなかった。
「大丈夫って言えば、安心すると思ってた。怖くないって言えば、怖さが小さくなると思ってた」
彼は少し困ったように笑った。
「でも、怖いものは怖いんだよな」
ソフィアは小さく頷いた。
「はい」
「明日からは、聞く。今、どこが怖いか」
ソフィアはエミリオを見た。
「それなら、答えられるかもしれません」
「じゃあ、明日は五回呼吸から」
「はい」
「泳ぎ切るのは?」
「まだです」
「わかった。まだにしよう」
エミリオはそう言って、深いプールを見た。
彼にとって水は、ずっと楽しい場所だった。
潜れば軽くなり、泳げば前へ進める場所。
けれど、同じ水が、誰かにとっては体を止めるほど重い場所にもなる。
それを知った顔をしていた。
夜、灯理は水泳学校を出た。
外へ出ると、海の匂いが濃くなっていた。
夕方の港には灯りがともり、波止場では漁船の影が揺れている。遠くで波が岩に当たり、白く砕ける音がした。
ソフィアは母親と一緒に校門を出ていった。
母親が何かを尋ねると、ソフィアは少し考えてから答えていた。
きっと、今日できたことを説明しているのだろう。
深い場所で泳いだのではない。
三回呼吸したのだと。
それは、知らない人には小さすぎる進歩に聞こえるかもしれない。
けれど、灯理にはわかっていた。
その三回は、ソフィアの体が新しく覚えた約束だった。
怖くなっても、戻ってこられる。
怖さに気づけば、呼吸できる。
深い水の中でも、自分で決めたところまでなら進める。
エミリオが校門のそばまで見送りに来た。
「白瀬先生」
「はい」
「今日は、僕の方が授業を受けた気分です」
「私も、たくさん学びました」
エミリオは苦笑した。
「怖くない、と言うのは簡単でした。でも、怖いまま何ができるかを一緒に探すのは、難しいですね」
「はい」
「明日、ソフィアが五回呼吸できるかはわかりません」
「そうですね」
「三回に戻るかもしれない」
「はい」
「それでも、戻ったことを失敗にしないようにします」
灯理は頷いた。
「きっと、それも大事な経験です」
海風が吹き、エミリオの手にある地図の端が揺れた。
怖さの地図。
浅い場所の黄色。
境界線の青。
深い場所の濃い色。
それは、ただのプールの図ではなかった。
ソフィアが自分の怖さに名前をつけた地図だった。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、山間の武道場から届いた依頼状が入っている。
けれど、今はまだ開かなかった。
海の向こうに、夜がゆっくり降りてくる。
水面は暗く、深く、静かだった。
それでも、灯台の光が一定の間隔で海を照らしている。
怖さを消すほど強い光ではない。
けれど、どこにいるのかを知るには十分な光だった。
灯理は波の音を聞きながら、次の道へ歩き出した。




