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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第3章 第3話:陸上の授業――ゴールを見ないランナー


 高地の朝は、息を吸うたびに胸の奥が少しだけ痛む。


 空は近かった。


 手を伸ばせば届きそうなほど青く、雲は山の稜線に引っかかるように流れている。町の屋根は斜面に沿って段々に並び、細い道はどこへ行くにも上りか下りだった。


 この町では、歩くだけでも呼吸が深くなる。


 走ればなおさらだ。


 朝の陸上クラブの練習路には、乾いた風が吹いていた。土のトラックの向こうには、坂道へ続く長い舗装路がある。その先には、風の強い丘と、石壁に囲まれた細い道と、最後に競技場へ戻ってくる急な下り坂があった。


 ナイラはスタートラインに立ち、手首の腕時計を見た。


 まだ練習開始前だ。


 それでも、彼女は時計を確認する。


 心拍。


 前回のラップ。


 昨日のメニュー。


 自己ベスト。


 数字は、彼女にとって道しるべだった。


 何秒で走ったか。


 何秒縮めたか。


 誰より速かったか。


 それがわかれば、自分が前へ進んでいると感じられた。


「ナイラ」


 背後から声がした。


 コーチのダリオだった。


 背が高く、無駄のない体つきをした男性で、元中距離選手らしい鋭い歩き方をする。首からはストップウォッチを下げ、練習用の記録ボードを片手に持っている。


「昨日のラスト、また落ちたな」


「はい」


「入りが速すぎる」


「わかっています」


「本当にわかっているなら、三周目で力を使い切らない」


 ナイラは腕時計を見た。


 昨日のラップは頭に入っている。


 一周目、予定より二秒早い。


 二周目、予定通り。


 三周目、少し乱れる。


 四周目、失速。


 最後の二百メートルで足が止まった。


 それでも、彼女は思った。


 もっと押せたはずだ。


 もっと我慢できたはずだ。


 苦しくても、ゴールを見て走ればよかった。


「今日は設定ペースを守れ」


 ダリオが言った。


「はい」


「ゴールを見ろ。途中で気持ちを切るな」


「はい」


 ナイラは短く返事をした。


 ゴール。


 いつも、そこだけを見てきた。


 白いライン。


 時計の数字。


 自己ベスト。


 そこに届けば、苦しさには意味が生まれる。


 届かなければ、途中の感覚など全部失敗の一部になる。


 クラブの仲間たちが集まり始めた。


 細身の少年、背の低い少女、長距離専門の双子。みんなこの高地の空気に慣れている。けれど、練習のたびに息は上がる。心臓は速く打つ。


 ナイラは彼らの中でも有望選手だった。


 大会で何度も表彰台に上がり、クラブの記録を塗り替えてきた。町の新聞にも小さく写真が載ったことがある。


 だが、最近は走るたびに怖かった。


 また最後に落ちるのではないか。


 また時計の数字が、自分に失敗を突きつけるのではないか。


 その怖さを振り払うために、彼女はさらに時計を見た。


 走る前から。


 走っている途中も。


 走った後も。


「今日は見学の先生が来ている」


 ダリオが全員へ言った。


 競技場の入口に、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 高地の朝の風に、髪が少し揺れている。


 その人はトラックの土に視線を落とし、靴底で軽く感触を確かめるように一歩踏み出した。


「白瀬灯理です」


 彼女は軽く頭を下げた。


「今日は、皆さんの練習に少し混ぜてもらいます」


 選手たちは小さくざわついた。


 旅する先生。


 世界の学校や教室を回っている人。


 昨日、ダリオから簡単に紹介されていた。


 ナイラは灯理を見た。


 陸上のコーチには見えなかった。


 走り方を教える人には見えない。


 でも、灯理の視線は不思議だった。


 タイム表ではなく、選手たちの靴紐や肩の高さ、呼吸の深さを見ている。


 そして、ナイラの手首にも。


 腕時計。


 ナイラは反射的に袖で時計を隠しかけた。


「まずは通常メニューを見せてもらいます」


 灯理が言った。


 ダリオは頷き、ストップウォッチを構えた。


「八百メートルを三本。設定ペースを守れ。最後にフォーム確認」


 選手たちはスタートラインに並ぶ。


 ナイラは深く息を吸った。


 高地の空気は冷たい。


 肺に入るたび、内側が少しだけきしむ。


「位置について」


 ダリオの声。


 ナイラは前を見る。


 ゴールの方向。


 時計の数字。


 自己ベスト。


「スタート!」


 笛が鳴った。


 足が地面を蹴る。


 最初の二百メートルは軽かった。


 体が前へ出る。


 腕もよく振れている。


 ナイラはすぐに腕時計を見た。


 速い。


 予定より一秒早い。


 落とさなければ。


 そう思った瞬間、逆に体に力が入った。


 肩が上がる。


 呼吸が浅くなる。


 それでも、彼女は前を見た。


 ゴール。


 白いライン。


 そこだけ。


 四百メートル。


 まだいける。


 六百メートル。


 足が重くなってきた。


 喉が乾く。


 風の音が強くなる。


 誰かの足音が後ろから近づく。


 抜かれたくない。


 時計を見る。


 数字が少しぶれる。


 集中しろ。


 ゴールを見ろ。


 ラスト百メートル。


 体が思うように動かない。


 腕を振っているつもりなのに、肩だけが硬い。


 足の裏が地面から離れるのが遅い。


 呼吸が乱れる。


 最後は、ほとんど倒れ込むようにラインを越えた。


「二分二十四秒」


 ダリオが言った。


「入りが速い。ラストが落ちている」


 ナイラは膝に手をついた。


 呼吸が苦しい。


 胸が焼けるようだ。


 だが、頭の中には数字だけが残った。


 二分二十四秒。


 遅い。


 もっといけた。


 また最後に落ちた。


「ナイラ」


 灯理の声がした。


 顔を上げると、彼女が近くに立っていた。


「はい」


「今、どこで呼吸が変わりましたか」


 ナイラは眉を寄せた。


「呼吸?」


「はい」


「……ラストです」


「ラストだけ?」


 ナイラは答えに詰まった。


 走っている間のことを思い返そうとする。


 最初は軽かった。


 途中で時計を見た。


 その後、肩が上がった気がする。


 六百メートルの手前で足が重くなった。


 でも、はっきりとはわからない。


「覚えていません」


 灯理は頷いた。


「では、足が重くなったのは?」


「ラストです」


「本当に?」


 ナイラは少し苛立った。


「走っている時に、そんなに細かく考えられません」


「そうですね」


「タイムを見るので精一杯です」


 灯理はナイラの腕時計を見た。


「今日は、少し違う練習をしてもいいですか」


 ダリオが近づいてくる。


「白瀬先生、何を?」


「タイムを測らない練習です」


 ナイラは顔を上げた。


「タイムを測らない?」


「はい」


「それでは意味がありません」


 ほとんど反射的に言っていた。


「タイムを見ないと、速くなったかどうかわかりません」


 灯理は静かに頷いた。


「タイムは走り終わった後に教えてくれます」


「じゃあ、走っている時は?」


「身体が教えてくれている」


 ナイラは黙った。


 身体。


 自分の身体。


 誰より近くにあるはずなのに、走っている最中の身体のことを、彼女はほとんど説明できなかった。


 ダリオは腕を組んだ。


「白瀬先生、タイム管理は中距離には必要です」


「はい。否定するつもりはありません」


「ペースを覚えるには、数字が必要です」


「その通りです」


「では、なぜ測らない?」


「今日は、数字を見る前に、身体の中で何が起きているかを見たいんです」


 ダリオは少し迷った。


 大会前。


 練習時間は限られている。


 だが、ナイラの失速が続いているのも事実だった。


 彼はストップウォッチを手の中で一度回し、首から下げた。


「一本だけだ」


 ナイラは信じられない思いでコーチを見た。


「コーチ」


「やってみろ」


「でも」


「走るのは同じだ。時計を見ないだけだ」


 灯理は選手たちに小さなカードを配った。


 カードには、項目が書かれている。


『呼吸が変わった場所』

『足が重くなった場所』

『肩や腕の力み』

『景色が見えなくなった場所』

『まだ余裕があった場所』


「走った後、タイムではなくこれを書いてください」


 選手たちは面白がる者もいれば、不安そうな者もいた。


 ナイラはカードを見つめた。


 こんなことを書いて、速くなるのだろうか。


 次の練習は、競技場の外へ出るコースだった。


 町の坂道を含む一周コース。


 風の強い坂を上り、石壁の間を抜け、競技場へ戻ってくる。


 ナイラは腕時計を外すよう言われた。


「外すんですか」


「今日は」


 灯理が言う。


 ナイラはためらった。


 手首から時計を外す。


 軽くなる。


 それなのに、不安だった。


 手首に残った跡が、日焼けの線のように白く見える。


 そこにあるはずの数字がない。


「不安ですか」


 灯理が聞いた。


「はい」


「その不安も、後で書けます」


 ナイラは少しだけ眉を寄せた。


 何でも記録すればいいと思っているのだろうか。


 スタートラインに立つ。


 ダリオはストップウォッチを持っているが、ナイラには見せないと言った。


「位置について」


 ナイラは前を見る。


 ゴールではなく、まず最初の坂道が見える。


「スタート!」


 走り出す。


 時計を見ない。


 最初の数歩で、もう手首が気になった。


 今のペースは速いのか遅いのか。


 わからない。


 不安だ。


 だから少し速くなる。


 坂の手前で、息が浅くなった。


 風が正面から吹く。


 肩に力が入る。


 ナイラはそれでも押した。


 速く。


 速く。


 数字が見えないなら、体感で速く走るしかない。


 坂の中腹。


 足が重くなる。


 まだ半分も来ていない。


 焦る。


 腕を振る。


 しかし、腕ではなく肩が振れている。


 石壁の道に入る頃には、喉が焼けるようだった。


 景色が狭くなる。


 足元しか見えない。


 競技場へ戻る下りで、少しだけスピードが出た。


 けれど、最後のトラックに入った時には、もう足が残っていなかった。


 ラインを越える。


 ナイラは膝に手をつき、荒く息を吐いた。


 ダリオはタイムを言わなかった。


 代わりに、灯理がカードを差し出した。


「書いてみましょう」


 ナイラは紙を受け取る。


 字を書く手が震える。


『呼吸が変わった場所』


 ラスト。


 そう書きかけて止まる。


 違う。


 もっと早かった。


 坂の手前。


 いや、時計がないと気づいた時から少し浅くなっていた。


『スタート直後。不安で浅くなった。坂の手前でさらに乱れた』


『足が重くなった場所』


 ラスト。


 違う。


 坂の中腹。


『肩や腕の力み』


 風の坂。腕ではなく肩が上がった。


『景色が見えなくなった場所』


 石壁の道。足元しか見ていなかった。


『まだ余裕があった場所』


 最初の百メートル。たぶん、もっとゆっくり入れた。


 書き終えると、ナイラは驚いた。


 自分の身体のことなのに、初めて読んだ記録のようだった。


 灯理が尋ねる。


「ゴールに着く前に、身体は何か言っていましたか」


 ナイラはカードを見た。


「言ってました」


「どんなふうに?」


「最初から、不安で呼吸が浅くなってた。坂では、もう足が重くなってた。石壁の道で、景色が見えなくなった」


「それでも走りましたね」


「いつも、そうしてます」


「身体の声を聞かずに?」


 ナイラは何も言えなかった。


 ダリオもカードを覗き込んだ。


「お前、坂の手前で呼吸が乱れていたのか」


「たぶん」


「私は三周目以降だと思っていた」


「私もそう思ってました」


 ナイラはカードを握った。


「でも、もっと前でした」


 昼休み、ナイラは競技場の端に座っていた。


 遠くの山は、昼の光を受けて白く霞んでいる。


 腕時計は鞄の中に入れたままだった。


 手首に何もない感覚は、まだ落ち着かない。


 灯理が隣に来た。


「隣、いいですか」


「はい」


 しばらく二人で競技場を見ていた。


 ほかの選手たちはストレッチをしたり、昼食を取ったりしている。ダリオは記録ボードを見ながら何かを書き込んでいた。


「先生」


 ナイラが言った。


「タイムは嘘をつきません」


「はい」


「走り終われば、速かったか遅かったかわかります」


「うん」


「身体の感覚は、曖昧です。気分で変わるし、苦しいと思っても走れる時があります」


「そうですね」


「だったら、やっぱり数字の方が信じられます」


 灯理は頷いた。


「数字は、とても大切です」


「じゃあ」


「でも、数字は走り終わった後に届く手紙みたいなものかもしれません」


 ナイラは灯理を見た。


「手紙?」


「結果を教えてくれる。どこまで行けたか、どれだけ速かったか。でも、走っている最中に、今肩が上がっているよとか、呼吸が浅いよとか、足が危ないよとは言ってくれない」


 灯理はトラックを見た。


「それを教えてくれるのは、身体の方かもしれません」


 ナイラは自分の手首を見た。


 時計の跡。


 そこばかり見ていた。


 走っている時、身体はずっと何かを伝えていたのかもしれない。


 けれど、自分はそれを根性で黙らせてきた。


 午後の練習は、もう一度同じ坂道コースを走ることになった。


 今度は、タイムを測る。


 ただし、ナイラには走り終わるまで知らせない。


 そして、走る前に自分で目標を書く。


 タイムではなく、身体の使い方の目標。


 ナイラはカードに書いた。


『坂の手前で一度、肩を下げる』

『風の坂で無理に上げない』

『石壁の道で前を見る』

『最後に足を残す』


 ダリオがそれを見た。


「ペースは?」


「前半を少し抑えます」


「どこで?」


 ナイラはコースを思い浮かべた。


「スタート直後。坂の手前まで」


 ダリオは頷いた。


「いい。今日はゴールだけを見るな」


 いつもと違う言葉だった。


 ナイラは顔を上げる。


 ダリオは少し照れたように咳払いをした。


「今の呼吸を見ろ」


 その言葉は、ナイラの胸にゆっくり入ってきた。


 スタートラインに立つ。


 風が吹く。


 手首には時計がない。


 でも、さっきより不安は小さい。


「スタート!」


 走り出す。


 最初の百メートル。


 体は軽い。


 いつもなら、ここで少しでも速く入りたくなる。


 だが、ナイラは一歩だけ抑えた。


 遅いのではない。


 残す。


 坂の手前。


 肩が上がりかける。


 気づく。


 下げる。


 息を少し深く吐く。


 風の坂。


 正面から風が来る。


 無理に押し返そうとすると、また肩が固まる。


 ナイラは腕を小さく振り直した。


 足元だけを見ない。


 坂の上にある古い木を見る。


 そこまで。


 石壁の道。


 呼吸は苦しい。


 足も重い。


 でも、景色は見えている。


 右側の石壁。


 壁の隙間に咲く黄色い花。


 前を走る仲間の背中。


 自分の足音。


 最後の下り。


 まだ足が残っている。


 完全ではない。


 軽くはない。


 でも、動く。


 競技場に戻る。


 ラスト百メートル。


 ゴールが見える。


 いつもなら、ここで全部がばらばらになる。


 今日は、腕を振る。


 肩ではなく、腕。


 足を前に置く。


 呼吸は苦しいまま。


 でも、崩れない。


 ラインを越えた。


 ナイラは膝に手をつき、息を整えた。


 ダリオはストップウォッチを見ていた。


 彼の顔からは、タイムが良かったのか悪かったのかわからない。


「どうだった」


 ダリオが聞いた。


 タイムではなく。


「坂の手前で、肩が上がりました。でも気づきました」


「風の坂は?」


「無理に上げなかった。少し落としました」


「石壁の道は?」


「花が見えました」


 ダリオは一瞬、驚いた顔をした。


 それから笑った。


「花か」


「はい」


「今まで見えていたか?」


「いいえ」


 ダリオはストップウォッチを見せた。


 タイムは自己ベストではなかった。


 けれど、午前より良かった。


 そして何より、ラストの落ち込みが少なかった。


「ベストではない」


 ダリオは言った。


「でも、最後まで走れている」


 ナイラは数字を見た。


 以前なら、自己ベストでないことにまず落ち込んだだろう。


 今も少し悔しい。


 でも、それだけではなかった。


 坂で肩が上がったこと。


 それに気づけたこと。


 石壁の道で花が見えたこと。


 最後に足が残っていたこと。


 数字の横に、身体の記録が並んでいる。


 走り終わった後、選手たちはカードを共有した。


「僕は下りでスピード出しすぎて、最後のカーブで足が流れた」


「私は坂の前で息を止めてたかも」


「石壁の道、景色なんて見たことなかった」


「ナイラ、花見てたの?」


「見えただけ」


「余裕じゃん」


「違う。苦しかった」


 みんなが笑った。


 ナイラも笑った。


 苦しかった。


 でも、苦しいだけではなかった。


 身体はずっと、走っている途中の情報をくれていた。


 それを聞く余裕が、ほんの少し生まれただけだった。


 夕方、練習が終わる頃には、山の影が競技場へ伸びていた。


 選手たちはクールダウンをしながら、ゆっくりトラックを歩いている。


 ナイラは鞄から腕時計を取り出した。


 手のひらに乗せる。


 軽い。


 でも、ずっと重かった。


 灯理が近くに立っていた。


「今日は外していましたね」


「はい」


「どうでしたか」


「不安でした」


「うん」


「でも、時計がないと何もわからないわけじゃありませんでした」


 ナイラは時計を見た。


 数字を教えてくれるもの。


 努力の結果を残してくれるもの。


 それを嫌いになったわけではない。


 必要ないと思ったわけでもない。


「先生」


「はい」


「私、ここばかり見てました」


 ナイラは手首に残った白い跡を指でなぞった。


「でも、今日から見る場所が一つ増えた気がします」


 灯理は頷いた。


「どこですか」


 ナイラは少し考えた。


「走っている途中の、自分の中です」


「いいですね」


「でも、難しいです。走ってる時って苦しいから、聞きたくないことも多い」


「身体は正直ですから」


「時計より?」


「違う正直さかもしれません」


 ナイラは腕時計をもう一度つけた。


 今度は、少し緩めに。


「明日からもタイムは見ます」


「はい」


「でも、走ってる途中で肩が上がったら、気づきたいです」


「うん」


「石壁の道の花も」


 灯理は微笑んだ。


「それは、いい目印ですね」


 ダリオが近づいてきた。


 手には記録ボードがある。


「ナイラ」


「はい」


「明日から、練習後の記録に感覚欄を追加する」


「感覚欄?」


「呼吸、足、腕、景色。お前だけじゃなく、全員だ」


 ナイラは驚いてダリオを見た。


「コーチが?」


「私も、数字ばかり見ていたらしい」


 ダリオは少し苦笑した。


「数字は見る。だが、数字の前に選手が何を感じていたかも見る」


 ナイラは小さく頷いた。


「はい」


「それから」


 ダリオは一瞬だけ言いにくそうにした。


「ゴールを見ろ、だけでは足りなかったな」


 ナイラは目を伏せた。


「いえ」


「次からは、こう言う」


 ダリオはトラックを見た。


「今の呼吸を見ろ。今の足を見ろ。その先にゴールがある」


 ナイラは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「はい」


 夜、灯理は高地の町を出る小さなバス停にいた。


 空気は昼よりさらに冷たく、星が近い。


 町の灯りは斜面に沿って点々と並び、遠くの競技場にはまだ薄い明かりが残っている。


 ナイラは見送りに来ていた。


 首にタオルをかけ、手首には時計がある。


 けれど、その手はもう頻繁には時計へ向かわなかった。


「先生」


「はい」


「明日、また走ります」


「うん」


「たぶん、また苦しいです」


「はい」


「でも、苦しい時に、少し聞いてみます」


「身体に?」


「はい。何を言ってるのか」


 灯理は頷いた。


「きっと、たくさん教えてくれます」


「うるさかったらどうしますか」


「まずは、一番大きな声から聞くといいかもしれません」


 ナイラは笑った。


 バスのライトが坂道の下から近づいてくる。


 乾いた風が吹き、ナイラの髪を揺らした。


「先生」


「はい」


「今日のタイム、ベストじゃなかったんです」


「うん」


「でも、少しだけいい走りだったと思います」


 その言葉を口にして、ナイラは自分で少し驚いた。


 自己ベストではない走りを、自分でいいと言えた。


 それは、数字だけを見ていた時にはできなかったことだった。


 灯理は微笑んだ。


「その感覚も、記録しておくといいですね」


「はい」


 バスが停まった。


 扉が開く。


 灯理は鞄を持ち、乗り込む前にもう一度ナイラを見た。


「明日の坂道で、花が見えるといいですね」


「見ます」


 ナイラは少し間を置いて言った。


「ゴールだけじゃなくて」


 灯理は頷き、バスに乗った。


 窓の外で、ナイラが手を振っている。


 バスが動き出す。


 高地の町の灯りが少しずつ遠ざかる。


 競技場の明かりも、トラックも、風の坂も、石壁の道も、夜の中へ沈んでいく。


 灯理は鞄の中から一通の依頼状を取り出した。


 海辺の水泳学校から届いたものだった。


 けれど、すぐには開かなかった。


 窓の外には、星が近く光っている。


 その下で、明日も誰かが走る。


 時計の数字を見ながら。


 呼吸を聞きながら。


 足の重さを感じながら。


 風の坂で肩を下げ、石壁の道で小さな花を見つけながら。


 灯理は静かに目を閉じた。


 バスは、山道をゆっくりと下っていった。

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