第3章 第2話:野球の授業――三振を怖がる四番
夏のグラウンドには、逃げ場のない音があった。
金属バットがボールを弾く音。
スパイクが乾いた土を削る音。
白球がミットに収まる音。
外野から響く掛け声。
そして、バックネット裏の木陰で鳴く蝉の声。
地方高校の野球部は、朝から練習を始めていた。夏の大会を一週間後に控え、グラウンドには張りつめた空気が漂っている。
「悠真、次!」
監督の佐伯が声を張った。
四番打者の悠真は、ヘルメットをかぶり直して打席に入った。
背は高く、肩幅もある。春までは、誰もが彼の打球を見て目を輝かせた。外野の頭を越す長打。フェンス直撃の二塁打。芯で捉えた時の音は、ほかの部員とは違っていた。
だが今、そのバットは重そうに見えた。
悠真は構える。
以前より、バットを少し短く持っていた。
本人は無意識だった。だが、短く持つことで確実に当てようとしているのは明らかだった。
投手が振りかぶる。
一球目。
外角低め。
悠真の目はボールを捉えていた。
けれど、バットは出ない。
「ストライク!」
捕手のミットが乾いた音を立てる。
佐伯監督が腕を組んだ。
「今のは見えていただろ」
「はい」
「なら振れ」
「はい」
二球目。
内角高め。
悠真の体がわずかに引ける。
バットは半分だけ出て、止まった。
「ストライク!」
ベンチの空気が少し重くなる。
悠真は唇を噛んだ。
振ろうとしている。
振らなければならないことは、わかっている。
でも、最後の瞬間に体が止まる。
三球目。
外角低め。
スライダー。
悠真は見た。
見えた。
去年の夏、最後に見逃した球と同じ軌道に見えた。
バットが出ない。
「ストライク、バッターアウト!」
練習なのに、胸の奥が冷たくなった。
三振。
まただ。
「悠真!」
佐伯監督の声が飛ぶ。
「振らなきゃ何も起きないぞ!」
「はい!」
「思い切って振れ!」
「はい!」
悠真は打席を出た。
返事だけは大きかった。
だが、胸の中では何も動いていない。
思い切って振れ。
何度も言われた。
自分でもそう思う。
それなのに、ボールが来ると体が止まる。
怖いのだ。
三振が。
空振りも怖い。
見逃しも怖い。
振っても当たらないかもしれない。
振らなければ、また見逃し三振だ。
どちらにしても、あの夏へ戻される。
部室の壁には、去年の大会の写真が貼られている。
最終回。
二死満塁。
一点差。
打席には四番の悠真。
スコアボードには相手校の名前と、自分たちの学校の名前。
その写真を見るたび、悠真は喉の奥が詰まる。
最後の球は外角低めだった。
見逃した。
審判の右手が上がった。
試合が終わった。
仲間たちは泣いた。
悠真はバットを握ったまま、動けなかった。
それ以来、彼は三振が怖くなった。
怖いと言うことすら、怖かった。
四番だから。
主将だから。
打たなければならないから。
午前練習の途中、グラウンドの入口に一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白いラインの引かれた野球場には少し不思議な姿だったが、その人はバックネット越しに打撃練習をじっと見ていた。
「白瀬先生」
佐伯監督が気づいて歩み寄る。
「遠いところをありがとうございます」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は少し、授業に混ぜてもらいます」
部員たちが小さくざわついた。
旅する先生。
いろいろな学校を回って、授業をしている先生。
昨日、佐伯監督から紹介されていた。
悠真はベンチの端で水を飲みながら、灯理を横目で見た。
野球の先生ではなさそうだ。
だが、その目は、ただ珍しがっているだけではなかった。
彼女は打球の飛距離よりも、打つ前の悠真の手元を見ていた。
バットを短く持つ指。
投手が動き始めた瞬間に固まる肩。
見逃した後、すぐに目を伏せる癖。
佐伯監督が言った。
「うちの四番です。力はあるんですが、今は迷っている」
悠真は顔をしかめた。
迷っている。
そんな柔らかいものではない。
もっと重く、体の奥に絡みついているものだ。
灯理はしばらく打撃練習を見た後、グラウンドの黒板代わりに使っているホワイトボードの前に立った。
「少しだけ、練習を変えてもいいでしょうか」
佐伯監督が眉を上げる。
「何をしますか」
「三振を記録します」
部員たちは一斉に顔を上げた。
「三振を?」
「はい」
「それ、反省会ですか?」
捕手の健太が聞いた。
「反省も含みます。でも、責めるためではありません」
灯理はホワイトボードに大きく書いた。
『三振の記録』
その下に、三つの欄を作る。
『見た球』
『振れなかった理由』
『次に確かめること』
悠真は眉を寄せた。
三振の記録。
そんなもの、見たくもない。
佐伯監督も少し戸惑っていた。
「白瀬先生、三振は確かに振り返るべきですが、彼らは大会前です。あまり失敗を意識させすぎるのも」
「はい」
灯理は頷いた。
「でも、三振はただの終わりではなく、三つの球を見た記録でもあります」
悠真の胸が小さく動いた。
三つの球。
「先生、三振は失敗です」
悠真は気づけば言っていた。
部員たちの視線が集まる。
灯理は悠真を見る。
「うん。失敗かもしれません」
「かもしれないじゃなくて、失敗です。アウトですから」
「では、その失敗の中に、何球分の情報があった?」
悠真は言葉を止めた。
「……三球」
「なら、三つ学べるかもしれない」
グラウンドに風が吹いた。
土埃が白線の上を流れていく。
悠真はホワイトボードの文字を見つめた。
三振。
終わり。
責任。
敗北。
ずっとそう思っていた。
だが、三つの球を見た記録。
そんなふうに考えたことはなかった。
午後の練習では、一人ずつ打席に入り、結果ではなく球ごとの記録を残すことになった。
打った球も、見逃した球も、空振りした球も書く。
特に三振した場合は、三球それぞれについて記録する。
部員たちは最初、不満そうだった。
「打てたら記録しなくていいですか」
「打っても記録します」
「えー」
「面倒くさい」
佐伯監督が一喝する。
「面倒なことをやれ。試合で面倒な球が来た時に困らないためだ」
灯理は苦笑した。
悠真の番が来た。
投手は二年生の速水。
速球とスライダーが武器の右投手だ。
悠真は打席に入る。
バットを握る。
また、短く持っていることに気づいた。
少しだけ握りを直す。
投手を見る。
一球目。
内角ストレート。
速い。
体が反応する。
だが、バットは出ない。
「ストライク!」
健太がミットを返す。
悠真は奥歯を噛んだ。
ベンチに戻ってから記録するのでは遅い、ということで、打席の後ろに控えているマネージャーが球をメモしている。
二球目。
外角低め。
ボール。
悠真は見送った。
これはいい。
見送るべき球だった。
三球目。
真ん中寄りのストレート。
打てる。
今だ。
頭ではわかった。
だが、体がほんの少し遅れた。
バットは出たが、空を切った。
「ストライク!」
空振り。
ミットの音がやけに大きく聞こえた。
四球目。
外角低めのスライダー。
去年の球。
そう思った瞬間、体が固まった。
ボールはストライクゾーンへ滑り込む。
「ストライク、バッターアウト!」
三振。
悠真はバットを下ろした。
視界の端が暗くなる。
まただ。
去年と同じ。
体が動かない。
ベンチへ戻る足が重い。
佐伯監督が何か言いかけた。
だが、その前に灯理が記録用紙を差し出した。
「悠真くん。今の三振、書いてみましょう」
「……今ですか」
「はい。今見えたものが、消えないうちに」
悠真は紙を受け取った。
手が少し震えている。
一球目。
『内角ストレート。見えたけど体が出なかった』
二球目。
『外角低め。ボール。見送った』
三球目。
『真ん中。振ったけど遅れた』
四球目。
『外角低めスライダー。怖かった。見逃した』
最後の行を書いた時、胸の奥が痛んだ。
怖かった。
その言葉を、自分で書いた。
初めてだった。
灯理が紙を見る。
「最後の球は、振れなかった?」
悠真はすぐに「はい」と言いかけた。
でも、紙の文字が目に入った。
怖かった。
見逃した。
「……振れなかったんじゃない」
声が小さくなった。
「振らなかった。怖かったから」
灯理は頷いた。
「それは、大事な違いですね」
佐伯監督は黙って聞いていた。
悠真は紙を握りしめた。
責められると思った。
情けないと言われると思った。
四番が怖がるなと言われると思った。
だが、灯理はただ問いかけた。
「次に確かめることは?」
悠真は顔を上げた。
「次?」
「はい。今の記録から、次の打席で何を確かめたいですか」
悠真は考えた。
外角低めのスライダー。
去年の記憶。
見逃す恐怖。
振る恐怖。
「最後の球と同じところに来たら、振る準備をする」
「振れるかどうかではなく?」
「はい。まず、準備」
灯理は微笑んだ。
「いいと思います」
次の打席では、悠真は初球をファウルにした。
内角の速球。
詰まった当たりだった。
だが、バットは出た。
ベンチから声が飛ぶ。
「いいぞ!」
「振れてる!」
二球目はボール。
三球目、外角低め。
悠真の体がまた固まりかけた。
だが、今度は足の親指で地面をつかむように意識した。
構え直す。
振る準備。
スライダーではなく、外へ逃げるストレートだった。
バットは出た。
空振り。
それでも、出た。
四球目。
高めのボール球。
手を出しかけて止める。
五球目。
外角低めのスライダー。
また来た。
悠真は息を吸った。
去年の夏が、一瞬だけ重なる。
審判の声。
仲間の泣き顔。
スコアボード。
だが、今は練習だ。
今は、次の球を見るための打席だ。
バットを出す。
空振り。
「ストライク、バッターアウト!」
また三振だった。
だが、ベンチの空気はさっきと少し違った。
悠真は自分から記録用紙を取った。
『外角低めスライダー。振った。空振り。思ったより落ちた』
書きながら、少しだけ息が楽になった。
三振した。
でも、終わりではなかった。
見た。
振った。
空振りした。
落ちた。
その情報が残った。
夕方、練習試合が行われた。
相手は近隣校の野球部だった。
大会前の調整試合。
グラウンドには、部員の家族やOBが数人見に来ていた。去年の夏と同じような空気が、悠真の背中を冷たくする。
試合は一点差で進んだ。
七回裏。
二死一、二塁。
打席には悠真。
四番。
場面としては、嫌になるほど整っていた。
去年と似ている。
ベンチから声が飛ぶ。
「悠真、頼むぞ!」
「一本!」
「思い切っていけ!」
悠真は打席に入った。
相手投手は左腕。
制球がよく、外角低めを丁寧についてくる。
一球目。
外角ストレート。
見送る。
「ストライク!」
ベンチが少しざわつく。
悠真は一度バットを外した。
記録するように、頭の中で言葉にする。
外角ストレート。少し遠い。でもストライク。
二球目。
内角へのボール。
体は引かなかった。
見送る。
三球目。
外角低め。
スライダー。
去年の球。
悠真の肩が固まりかけた。
その時、ベンチから佐伯監督の声が飛んだ。
「悠真!」
いつもの「振れ」ではなかった。
「何を見た!」
悠真は一瞬、驚いた。
何を見た。
その問いが、打席の中に届く。
投手がセットに入る。
悠真はバットを握り直した。
今見たのは、外角低めのスライダー。
少し早く曲がり始めた。
捕手はまた外に構えている。
次も、来るかもしれない。
四球目。
外角低め。
ストレート。
悠真は手を出さない。
ボール。
カウントは二ボール二ストライク。
次で決まるかもしれない。
怖い。
やはり怖い。
三振したくない。
また、あの音を聞きたくない。
だが、怖いことを書いた。
怖いと認めた。
怖いまま、準備することはできる。
五球目。
投手の指からボールが離れた。
外角低め。
スライダー。
悠真の目には、ボールが途中から少し沈むのが見えた。
バットを出す。
芯ではない。
先に当たった。
打球は高く上がる。
ライト方向。
外野手が下がる。
フェンスまでは届かない。
ライトが落下点に入る。
捕球。
アウト。
外野フライだった。
ホームランではない。
ヒットでもない。
試合をひっくり返す一本でもない。
だが、悠真は一塁へ数歩走った後、足を止めた。
バットは振り切っていた。
最後まで。
ベンチから声が上がった。
「ナイススイング!」
「いいぞ、悠真!」
「次だ、次!」
悠真はヘルメットのつばを少し下げた。
涙が出そうになったからだった。
打てなかった。
でも、逃げなかった。
三振ではなかったからではない。
振ったからだ。
怖い球に、バットを出したからだ。
試合はそのまま一点差で負けた。
整列し、礼をする。
悔しさはあった。
勝ちたかった。
最後に打ちたかった。
だが、去年のように足が地面に縫いつけられる感じはなかった。
ベンチに戻ると、悠真は自分からスコアブックを開いた。
マネージャーが驚いた顔をする。
「悠真?」
「書かせて」
空欄に、鉛筆で書く。
『外野フライ。外角低めスライダー。怖かった。でも振れた。少し先。次はもう少し引きつける』
その横に、午前中の記録も書き足す。
『三振。外角低め。怖かった。でも見えた』
文字はきれいではなかった。
だが、自分の言葉だった。
佐伯監督が隣に立った。
「悠真」
「はい」
「最後の打席、何を見た」
悠真はスコアブックを見た。
「外角低め。曲がり始めが早かったです。少し待てばよかった。でも、振れました」
「そうか」
佐伯監督は短く言った。
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「次、見よう」
悠真は顔を上げた。
「はい」
放課後のグラウンドには、夕日が長い影を落としていた。
部員たちは片付けをしている。
ネットを運び、ベースを外し、ボールを数える。
悠真は一人、バッターボックスのそばに立っていた。
足元の土は、何度も踏まれて固くなっている。
去年の夏も、土はこんな色だっただろうか。
覚えていない。
覚えているのは、見逃した球の軌道と、審判の声と、終わった瞬間の空の白さだけだった。
白瀬灯理が近づいてきた。
「お疲れさまでした」
「負けました」
「はい」
「打てませんでした」
「はい」
「でも、前より少しだけ、次がある気がします」
灯理は頷いた。
「今日の打席から、何を持って帰りますか」
悠真は少し考えた。
「怖かったこと」
「うん」
「怖くても振れたこと」
「うん」
「あと、外角低めのスライダーは、思ったより早く見切らないといけないこと」
灯理は微笑んだ。
「とても具体的ですね」
「三振の記録、嫌でした」
「そうでしょうね」
「でも、書いたら、三振がただの黒い塊じゃなくなりました」
「黒い塊?」
「去年から、ずっとそうでした。三振って言葉だけで、全部が固まっていた。でも、一球ずつ書いたら、少し分かれました」
悠真はバットを見た。
「見逃した球。振れなかった球。振ったけど当たらなかった球。本当は振りたかった球」
灯理は静かに聞いていた。
「先生」
「はい」
「三振は、なくならないですよね」
「たぶん」
「大会でも、するかもしれない」
「はい」
「それでも、四番でいていいんでしょうか」
灯理はすぐには答えなかった。
グラウンドの向こうでは、佐伯監督が部員たちと一緒にネットを片付けている。監督なのに、自分でも土埃をかぶりながら動いていた。
「四番は、三振しない人のことですか」
灯理が尋ねた。
悠真は黙った。
「それとも、打席から何かを持ち帰って、次の打席へ立つ人のことかもしれない」
悠真はバットを握った。
まだ答えは出ない。
でも、その問いは胸の中に残った。
夜、灯理は学校の校門を出た。
遠くから、グラウンド整備の音が聞こえている。トンボが土をならす音。部員たちの掛け声。ボールを倉庫にしまう音。
佐伯監督が追いかけてきた。
「白瀬先生」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、いい練習を見せていただきました」
佐伯は少し困ったように帽子を脱いだ。
「私はずっと、悠真に振れと言っていました」
「はい」
「間違ったことを言ったとは思っていません。打者は振らなければ始まらない」
「そう思います」
「でも、あいつが何を見て、何を怖がっているのかを、聞いていなかった」
佐伯はグラウンドを振り返った。
悠真がスコアブックを抱えて、部室へ向かっている。
「明日から、打席の後に聞いてみます。振れたかどうかだけじゃなく、何を見たか」
灯理は頷いた。
「きっと、打席が少し変わります」
「三振も減りますかね」
「それは、私にはわかりません」
佐伯は苦笑した。
「そういう答えでしたね」
「でも、三振の後に残るものは増えるかもしれません」
佐伯は少し黙り、それから深く頷いた。
「それで十分かもしれません」
校門の外には、夕暮れの田んぼ道が続いていた。
夏の匂いが濃く、遠くで蛙が鳴き始めている。
灯理は鞄を持ち直した。
中には、次の依頼状が入っている。
高地の陸上クラブから届いたものだった。
けれど、灯理はすぐには開かなかった。
今はまだ、グラウンドから聞こえる音を聞いていたかった。
金属バットがラックに戻される音。
スコアブックが閉じられる音。
そして、誰かが小さく呟く声。
「次、見るぞ」
それはたぶん、悠真の声だった。
灯理は静かに微笑み、夏の田んぼ道を歩き出した。




