第3章 第1話:サッカーの授業――パスを出せないエース
港町のサッカー場には、朝から土埃が舞っていた。
海から吹く風は少し湿っているのに、グラウンドの土は乾いている。ボールが転がるたびに赤茶けた砂が跳ね、走る足の後ろに細い煙のような跡を残した。
遠くでは船の汽笛が鳴っている。
魚市場のざわめきも、屋台で焼かれる肉の匂いも、坂道を駆け下りる子どもたちの笑い声も、このグラウンドまでは届いていた。
けれど、ピッチの中にいる少年たちにとって、世界は一つのボールを中心に回っている。
「マテオ!」
右サイドから声が飛んだ。
白い練習着の少年が手を挙げている。
だが、マテオは見なかった。
彼は足元に吸いつくようにボールを運び、目の前の相手を一人抜く。体を左に傾け、次の瞬間には右へ抜ける。相手の足が遅れて土を蹴った。
「マテオ、こっち!」
今度は中央から声がした。
マテオは聞こえていた。
聞こえていたが、出さなかった。
もう一人を抜く。
ゴール前へ入る。
コーチのラファエルがサイドラインから叫ぶ。
「周りを見ろ!」
マテオはシュートを打った。
ボールは低く速く飛び、ゴール左隅へ向かう。
しかし、相手キーパーが指先で触れた。
ボールはポストの外へ転がっていく。
外れた。
グラウンドに短い沈黙が落ちる。
次の瞬間、ラファエルコーチの笛が鋭く鳴った。
「止めろ!」
少年たちは足を止めた。
マテオは息を切らしながら、ゴールの外へ転がったボールを見ていた。
外した。
それでも、パスを出すよりはいい。
自分で打って外したなら、自分の責任で済む。
「マテオ」
ラファエルコーチが歩いてくる。
浅黒い肌に短く刈った髪。かつてプロの下部組織でプレーしていたという彼は、声が大きく、目が鋭い。だが怒っている時でも、必ず選手の目を見て話す人だった。
「今、ルイスが右で空いていた」
「見えてました」
「なら、なぜ出さない」
「打てると思いました」
「打てると思った。結果は?」
「外しました」
「それで終わりか?」
マテオは黙った。
終わりだ。
外したら、次は決めればいい。
それ以外に何がある。
ラファエルは深く息を吐いた。
「お前はうまい。誰よりもうまい。だが、お前がボールを持つと、周りが止まる」
「みんなが勝手に止まってるんです」
「なぜ止まると思う」
マテオは答えなかった。
チームメイトたちは少し離れたところで、水を飲んだり、靴紐を結び直したりしていた。けれど、みんなの視線がこちらに向いているのはわかった。
どうせ、また言われる。
パスを出せ。
周りを使え。
仲間を信じろ。
そんなことはわかっている。
でも、信じるだけで勝てるなら苦労しない。
ラファエルは声を少し落とした。
「地域大会まで一週間だ。勝つには、お前の力が必要だ」
その言葉に、マテオは顔を上げた。
「だったら、僕が決めます」
「だからこそ、一人にするなと言っている」
マテオは唇を固く結んだ。
一人にしているのは、自分ではない。
そう言いたかった。
でも言わなかった。
午前の練習が中断した時、グラウンドの入口に一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
サッカー場には似合わない服装だったが、その人は靴に土がつくことを気にする様子もなく、ネット越しに練習を見ていた。
「白瀬先生」
ラファエルコーチが声をかけた。
「着いていたんですね」
「はい。少し早く」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「お邪魔しています」
「ちょうどいいところです」
ラファエルは苦笑した。
「うちの一番うまい選手が、一番困った選手でもある」
マテオはその言葉に顔をしかめた。
困った選手。
自分が点を取ってきた。
何度も勝たせてきた。
それなのに。
灯理はマテオを見た。
責める目ではなかった。
観察する目だった。
それが余計に落ち着かなかった。
「今の練習、少し見せてもらいました」
灯理が言った。
「マテオくんがボールを持つと、相手も味方も、少しずつ止まるんですね」
マテオは眉を寄せた。
「味方が止まるのは、僕のせいですか」
「そうとは言っていません」
「でも、そう聞こえました」
「うん。そう聞こえたなら、ごめんなさい」
灯理は素直に謝った。
マテオは少し拍子抜けした。
ラファエルが腕を組む。
「白瀬先生、今日の特別授業、お願いできますか」
「はい」
「ただ、彼らは大会前です。練習時間は無駄にできません」
「もちろんです」
灯理はピッチを見た。
乾いた土。
白いライン。
転がるボール。
水を飲む少年たち。
そして、足元のボールを離さないマテオ。
「では、今日は少しだけルールを変えてゲームをしましょう」
少年たちが集まってくる。
「どんなルールですか」
右サイドのルイスが聞いた。
マテオに何度もパスを求めていた少年だ。小柄だが足が速く、サイドを駆け上がるのが得意だった。
灯理は言った。
「ゴール前では、必ず一度、誰かにボールを預けてください」
グラウンドがざわついた。
「シュート禁止ってこと?」
「一回パスしないと打てない?」
「ゴール前ってどこから?」
ラファエルが補足した。
「ペナルティエリアの外から中に入ったら、一度パスを挟む。パスを受けた選手が打ってもいいし、もう一度返してもいい」
マテオは顔を上げた。
「それ、意味ありますか」
灯理が彼を見る。
「どう思いますか」
「自分で打てる場面でパスしたら、相手に守る時間を与えるだけです」
「そういう場面もありますね」
「じゃあ、無駄です」
「無駄かどうか、やってみてから考えませんか」
マテオは苛立った。
やらなくてもわかる。
自分で打てるなら打つ。
それが一番速い。
それが一番確実だ。
仲間に渡したら、ミスするかもしれない。
トラップが大きくなるかもしれない。
シュートを外すかもしれない。
そして、また誰かが言うのだ。
なぜお前が決めなかった。
エースなら自分で行け。
練習試合が始まった。
七対七。
ピッチは少し狭くし、ゴールも小さめにした。
マテオのチームは、いつものように彼へボールを集める。
中盤で受けたマテオは、相手を一人かわした。
二人目も抜く。
足元のボールは、まるで彼の身体の一部のように動いた。
ペナルティエリアの手前。
シュートコースが見えた。
いつもなら打つ。
だが、ラファエルの笛が口元に近づくのが見えた。
ルール。
パスを挟まなければならない。
マテオは舌打ちしそうになりながら、右へパスを出した。
ルイスが走り込んでいた。
しかし、パスは少し強かった。
ルイスのトラップが大きくなり、相手ディフェンダーに奪われる。
「ああ!」
マテオは声を上げた。
「ほら!」
ルイスが悔しそうに唇を噛む。
「ごめん」
「今のは止められるだろ!」
「強かったんだよ!」
「走ってたら止めろよ!」
言い合いになりかけたところで、灯理が笛を吹いた。
ラファエルの笛ではない。
小さな銀色の笛だった。
「止めましょう」
マテオは不満そうに振り返った。
「やっぱり無駄です。打てばよかった」
灯理はボールを拾い上げた。
「今のパスは、誰に向けて出しましたか」
「ルイスです」
「ルイスくんの名前は呼びましたか」
マテオは黙った。
呼んでいない。
見ればわかると思った。
そこへ走れ。
受けろ。
決めろ。
それだけだった。
「ルイスくん」
灯理が尋ねる。
「今のパス、どう感じましたか」
ルイスは少し迷ってから答えた。
「来るとは思ってました。でも、どこに欲しいかは言ってないし、マテオも言わなかった」
「受けた後、マテオくんはどうしていましたか」
ルイスはマテオをちらりと見る。
「止まってました」
マテオは反射的に言った。
「パス出したんだから、次はそっちが――」
言いかけて、止まった。
灯理は静かに見ている。
「パスは、成功した時だけ意味があるのかな」
マテオは眉を寄せた。
「失敗したら意味ないでしょう」
「では、今の失敗は何を教えてくれましたか」
「強すぎた」
ルイスが言った。
「名前を呼んでない」
別のチームメイトが言った。
「パス出した後、マテオが止まった」
また別の少年が続ける。
マテオは苛立った。
「だから、僕のせいだって?」
灯理は首を振った。
「誰か一人のせいにするためではなく、次に何を変えられるかを見るためです」
ラファエルが口を開いた。
「マテオ、パスを出すなら、その後もう一度動け。受け手も、欲しい場所を言え。今のは、ボールだけ渡して、考えを渡していない」
考えを渡していない。
その言葉が、マテオの中に少し残った。
練習が再開された。
だが、うまくはいかなかった。
マテオはパスを出す。
仲間がミスする。
仲間がいい場所に走る。
マテオが見ない。
名前を呼ぶ声が重なる。
パスが遅れる。
ゴール前で無理に預けようとして、相手に奪われる。
グラウンドには何度も笛が鳴った。
マテオの苛立ちは増していく。
「先生!」
彼はついに声を荒げた。
「パスしたら失敗するかもしれないんです」
灯理は頷いた。
「うん。ドリブルしても、失敗するかもしれない」
「でも、ドリブルなら僕の失敗です」
「パスなら?」
「仲間の失敗になる」
「本当に?」
マテオは答えなかった。
灯理はボールを地面に置いた。
「失敗した後に、一人で立っているか、誰かと走っているか。その違いはあるかもしれません」
マテオはボールを見た。
白と黒の模様。
土で少し汚れている。
彼の頭の中に、別のグラウンドが浮かんだ。
去年の地域大会。
準決勝。
同点のまま迎えた後半終了間際。
マテオは左サイドを突破した。
シュートも打てた。
けれど、中央にフリーの仲間がいた。
その仲間の名前は、トニだった。
マテオはパスを出した。
トニはシュートを打った。
ボールはゴールの上へ外れた。
試合はその後、PK戦で負けた。
試合後、観客席の誰かが言った。
「マテオが打てばよかったのに」
別の誰かが言った。
「エースなら自分で決めろよ」
トニは翌週、アカデミーを辞めた。
理由は家庭の事情だと聞いた。
でも、マテオはずっと思っていた。
自分がパスを出さなければ。
自分が打っていれば。
トニは、あんな顔をしなくて済んだのかもしれない。
以来、マテオは決めることにした。
自分が打つ。
自分が背負う。
仲間に失敗させない。
自分が全部持っていけば、誰も責められない。
昼休み、マテオはグラウンドの端に座っていた。
足元にはボールがある。
昼の太陽は高く、影は短い。遠くの市場から音楽が聞こえてくる。
灯理が隣に来た。
彼女は何も言わず、少し離れて腰を下ろした。
しばらく二人とも黙っていた。
「先生は、サッカー知ってるんですか」
マテオが先に口を開いた。
「詳しくはありません」
「じゃあ、パスのことなんて」
「うん。サッカーの細かい技術は、ラファエルコーチの方がずっと知っています」
「だったら」
「でも、教室でも、厨房でも、畑でも、似たことは起きます」
マテオは灯理を見た。
「似たこと?」
「一人で全部持とうとする人がいる。失敗を誰にも渡さないようにする人がいる。誰かに任せることを、責任を捨てることだと思ってしまう人がいる」
マテオは口を閉じた。
灯理はボールを見た。
「マテオくんは、仲間を信じていないわけではない気がしました」
「……信じてないですよ」
「そう?」
「信じてたら、出します」
「信じていないから出さないのか、失敗させたくないから出さないのか」
マテオは答えなかった。
風が吹き、グラウンドの土を少し巻き上げた。
「去年」
マテオは低い声で言った。
「パスを出して、負けました」
灯理は何も言わなかった。
「僕が打てばよかった。みんなそう思ってた」
「みんな?」
「観客も。コーチも。チームも」
「ラファエルコーチも?」
マテオは少し黙った。
ラファエルは、あの日、何と言っただろう。
試合後、コーチはトニの肩を抱き、マテオにも言った。
「よく見えていた。あれは悪い判断じゃない」
そう言った。
でも、マテオは信じなかった。
周囲の声の方が大きかった。
「トニは辞めました」
「そのことも、君のせいだと思っている?」
マテオは足元の土を蹴った。
「わかりません」
「うん」
「でも、僕が打って外したなら、僕だけのことだった」
「一人で背負う方が、楽な時もあるね」
その言葉に、マテオは顔を上げた。
責められると思っていた。
違う。
灯理は、まるでそれも理解しているように言った。
「でも、サッカーは一人でできない」
「そんなの知ってます」
「知っていることと、身体でできることは違うのかもしれません」
マテオは黙った。
午後の練習が始まった。
灯理はもう一つ、ルールを加えた。
「パスを出す前に、必ず名前を呼んでください」
少年たちは顔を見合わせた。
「名前?」
「はい。誰に預けるのか、声にしてください」
「恥ずかしいな」
「試合中も呼ぶだろ」
「でも、改めて言われると変」
ラファエルは腕を組んで頷いた。
「いい。やってみよう。声を出せ。名前を呼べ。黙って察してもらうな」
ミニゲームが再開された。
マテオにボールが入る。
相手が寄せる。
彼は一人を抜いた。
ゴールが見える。
右にはルイス。
左にはダニロ。
中央にはセバ。
いつもの癖で、足がシュートへ向かいかける。
だが、ルールを思い出す。
名前。
誰に。
どこへ。
マテオは息を吸った。
「ルイス!」
声が出た。
自分の声が、思ったより大きくグラウンドに響いた。
ルイスが反応する。
マテオは今度、足元ではなく、ルイスの走る少し前へパスを出した。
ルイスが追いつく。
トラップ。
相手が寄せる。
マテオは止まりかけた。
いつもなら、ここで見ている。
決めろ。
失敗するな。
そう思いながら。
だが、ルイスが叫んだ。
「マテオ、もう一回!」
マテオの体が動いた。
走る。
相手ディフェンダーの背後へ。
ルイスはシュートを打たず、中央へ低いボールを返した。
完璧ではない。
少し後ろへずれた。
それでも、マテオは足を伸ばした。
ボールは彼の足先に当たり、ゴール前へ転がる。
そこへ、セバが走り込んでいた。
「セバ!」
今度はマテオではなく、ルイスが叫んだ。
セバが押し込む。
ゴールネットが揺れた。
一瞬、誰も声を出さなかった。
それから、グラウンドが爆発したように歓声に包まれた。
「入った!」
「今の、すげえ!」
「マテオが走った!」
「ルイス、よく返した!」
マテオはゴール前で立ち止まった。
自分が決めたわけではない。
でも、胸の奥が熱い。
ボールは自分の足元を離れた。
ルイスへ渡った。
戻ってきた。
セバへ渡った。
ゴールになった。
その間、自分は一人ではなかった。
責任を手放したのではない。
ボールと一緒に、次の景色をみんなで動かしたのだ。
ルイスが走ってきて、マテオの肩を叩いた。
「今の、もう一回やろう!」
マテオは息を切らしながら言った。
「次は、もっと前に出ろよ」
「パス強すぎるなよ」
「止めろよ」
「名前呼べよ」
「呼んだだろ」
二人は笑った。
その様子を、ラファエルコーチは黙って見ていた。
彼の顔には、安堵と驚きが混じっていた。
灯理が隣に立つ。
「いいプレーでしたね」
「ああ」
ラファエルは低く答えた。
「あいつはずっと、自分がボールを持たなければと思っていた」
「コーチは気づいていましたか」
「気づいていたつもりだった」
ラファエルは苦笑した。
「だが、私も勝つためにマテオに預けていた。チーム全員で、あいつを一人にしていたのかもしれない」
灯理はピッチを見た。
少年たちはもう一度同じ形を試そうとしていた。
失敗する。
笑う。
言い合う。
また走る。
さっきまで止まっていた足が、今は動いている。
「勝つにはマテオくんが必要だとおっしゃっていました」
「ああ」
「必要だからこそ、一人にしない」
ラファエルはその言葉を繰り返すように、ゆっくり頷いた。
「そうだな」
夕方まで、練習は続いた。
特別ルールのミニゲームは何度も止まった。
名前を呼び忘れた時。
パスを出した後に足を止めた時。
受け手が欲しい場所を言わなかった時。
失敗は多かった。
それでも、チームの声は増えていった。
「ダニロ、後ろ!」
「セバ、落とせ!」
「ルイス、走れ!」
「マテオ、もう一回!」
マテオも何度も名前を呼んだ。
最初はぎこちなかった声が、少しずつ自然になっていく。
もちろん、全部がうまくいったわけではない。
ルイスは何度もトラップをミスした。
セバは決定機を外した。
マテオもパスをずらした。
そのたびに、誰かが何かを言った。
文句だけではなく、次のための言葉を。
「足元じゃなくて前!」
「今のは早すぎた!」
「返したら走れ!」
「次、逆サイド見よう!」
練習の最後、ラファエルは全員を集めた。
夕日がグラウンドの端を赤く染めている。
少年たちの顔も、腕も、膝も、土で汚れていた。
「今日の練習で、何が変わった」
ラファエルが聞いた。
最初にルイスが手を挙げた。
「マテオが名前を呼んだ」
笑いが起きる。
マテオは顔をしかめた。
「そこかよ」
セバが言った。
「マテオがパスした後に走った。だから、こっちも返せた」
ダニロが続ける。
「マテオが持つと止まってたけど、今日はみんな動いた」
ラファエルはマテオを見た。
「お前は?」
マテオは少し黙った。
足元のボールを見る。
夕方の光で、ボールの影が長く伸びていた。
「パスって」
彼はゆっくり言った。
「ボールを渡すことじゃなかったんだなって思いました」
少年たちは静かになった。
マテオは続ける。
「パスを出したら、そこで終わりだと思ってました。あとは受けたやつの責任になる。でも、違いました。出した後も走る。返ってくるかもしれないし、別のやつに行くかもしれない。失敗しても、みんなで次を見られる」
少し照れくさくなって、マテオは視線をそらした。
「まあ、まだ下手ですけど」
ルイスが笑った。
「パスは強い」
「お前のトラップが弱い」
「明日やるか?」
「やる」
ラファエルは満足そうに頷いた。
「よし。明日からも続ける。マテオだけを見るな。だが、マテオを見失うな。全員が、全員の次の動きを考えろ」
少年たちは声をそろえて返事をした。
練習後、マテオは一人でゴール前にいた。
ボールを抱え、ネットの揺れを見ている。
灯理が近づくと、彼は振り返った。
「先生」
「はい」
「今日のルール、最初は嫌いでした」
「今は?」
「まだ少し嫌いです」
灯理は笑った。
「正直ですね」
「自分で打てる時は、打ちたいです」
「うん」
「でも、パスも少しわかりました」
マテオはボールを両手で持ち直した。
「ボールを渡すだけじゃなくて、次の景色を一緒に見ること、ですか」
灯理は少し驚いたように目を細めた。
「いい言葉ですね」
「先生が言いそうな言葉です」
「そうですか?」
「はい」
マテオはゴールの方を向いた。
「トニにも、そう言えたらよかった」
灯理は黙っていた。
「去年、僕がパスを出して、トニが外しました。僕はずっと、自分が打てばよかったと思ってました。でも、本当は……」
マテオは言葉を探した。
「パスを出した後、僕は走ってなかったのかもしれない」
「身体の話ですか」
「身体も、気持ちも」
彼はネットに触れた。
「トニに渡して、そこで止まった。決めろって思って、失敗するなって思って、でも一緒には走ってなかった」
風が吹き、ネットがかすかに揺れる。
「今度、トニに会ったら、謝ります」
「うん」
「でも、パスしたことを謝るんじゃなくて」
マテオは少し考えた。
「一人にしたことを」
灯理は静かに頷いた。
「きっと、届くと思います」
マテオはボールを地面に置いた。
足の裏で軽く転がす。
「先生、また来ますか」
「いつか」
「その時は、僕、もっとパス上手くなってます」
「楽しみにしています」
「でも、シュートも上手くなってます」
「それも大事です」
「エースなので」
マテオは少し照れたように笑った。
その笑顔には、朝のような硬さはなかった。
夜、灯理は港町のバス停にいた。
グラウンドからはまだ少年たちの声が聞こえている。
練習は終わったはずなのに、誰かがボールを蹴っているのだろう。乾いた土を蹴る音と、笑い声が夕闇の中を転がってきた。
ラファエルコーチがバス停まで見送りに来た。
「白瀬先生」
「はい」
「今日は助かりました」
「私は、少しルールを変えただけです」
「その少しが難しい」
ラファエルはグラウンドの方を見た。
「私はマテオにパスを出せと言い続けていました。でも、パスを出した後に何をするのか、チームがどう動くのかまでは、十分に練習させていなかった」
「これからできますね」
「ああ」
ラファエルは力強く頷いた。
「明日からは、パスの後の一歩を見ます」
「一歩?」
「ボールを離した後の一歩です。あいつらが、誰と一緒に走ろうとしているのかを見る」
灯理は微笑んだ。
「いい練習になりそうです」
港の方からバスが近づいてくる音がした。
灯理は鞄を持ち直した。
「次はどこへ?」
ラファエルが尋ねる。
灯理は鞄から一通の依頼状を取り出した。
封筒には、日本の地方高校の名前が書かれている。
「野球部です」
「野球か。私は詳しくないな」
「私も、これから学びます」
ラファエルは笑った。
「あなたは本当に、どこでも授業をするんですね」
「教室はいろいろな場所にありますから」
バスが停まった。
扉が開き、灯りが道にこぼれる。
灯理は乗り込む前に、もう一度グラウンドを見た。
暗くなりかけたピッチで、少年たちがボールを回している。
「ルイス!」
「マテオ!」
「セバ、前!」
名前が飛び交う。
ボールは一人の足元に長く留まらず、誰かから誰かへ渡り、また戻り、別の場所へ動いていく。
そのたびに、少年たちの足も動く。
失敗しても、誰かが拾いに走る。
ボールは、もう一人の中に閉じ込められてはいなかった。
灯理は静かに席に座った。
バスがゆっくりと動き出す。
窓の外で、グラウンドの灯りが少しずつ遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、マテオの声だった。
「ルイス、もう一回!」
その声は、港町の夜風に乗って、しばらく灯理の耳に残っていた。




