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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第2章 第5話:農業の授業――芽が出ない畑の理由


 丘陵地帯の朝は、土の色から始まる。


 赤茶けた丘。


 薄く砂をかぶった道。


 風に削られた石垣。


 遠くには低い山並みが続き、その斜面には畑が段々に広がっている。朝日を受けた畑は金色に光って見えたが、近づくと土は硬く、靴の裏に乾いた音を返した。


 農業学校は、その丘の中腹にあった。


 校舎は白い壁と緑の屋根を持つ古い建物で、教室よりも畑の方が広い。校庭の隣には温室があり、その向こうには果樹園、堆肥場、灌水用の水路、実習用の小さな畑が並んでいる。


 朝早くから、生徒たちは作業服に着替えていた。


 鍬を持つ者。


 水桶を運ぶ者。


 苗の様子を記録する者。


 畑に入る前、ほとんどの生徒は自然に土を触る。湿り具合を見るためだったり、温度を確かめるためだったり、ただ癖のように指先で崩すためだったりする。


 けれど、その朝のテオは土に触れなかった。


 彼は実習畑の端に立ち、腕を組んだまま、一つの区画を睨んでいた。


 ほかの区画では、小さな芽が並んでいる。


 緑色の点が、きれいな列になって土から顔を出していた。


 だが、テオたちの担当区画だけは違った。


 何もない。


 ただ、乾いた土が平らに広がっているだけだった。


「また出てない」


 同じ班の少女、イネスがしゃがみ込んで言った。


 指先で土の表面を軽くこする。


「昨日と同じ」


「水はやった」


 テオは答えた。


「種もまいた。深さも間隔も合ってる」


「でも出てない」


「わかってる」


 声が少し強くなった。


 イネスは何か言いかけて、口を閉じた。


 テオは農家の息子だった。


 物心ついたころから、畑の中にいた。季節ごとの匂いも、雨の前の空気も、苗を植える手つきも、家の仕事の中で覚えてきた。


 農業学校に入った時、周囲は当然のように彼を頼った。


「テオならわかるだろ」


「農家の子だもんな」


「土、見ただけで何か言いそう」


 最初は、その言葉が少し嬉しかった。


 自分には経験がある。


 学校の教科書を読む前から、体で知っていることがある。


 だから、できると思っていた。


 ところが、この区画だけ芽が出ない。


 一度目は、種が悪かったのだと思った。


 二度目は、水が足りなかったのだと思った。


 三度目は、気温のせいにした。


 でも、同じ畑の隣の区画では、同じ種が芽を出している。


 自分たちの区画だけが、何も応えない。


「テオ」


 背後からマリア先生の声がした。


 実習担当の教師で、日焼けした頬と鋭い目を持つ女性だった。効率的で、判断が早く、生徒たちからは少し怖がられているが、畑に関する知識は誰よりも豊富だった。


「今日の午前中に判断します」


「判断?」


「この区画を別の作物に切り替えるかどうかです。実習予定が遅れています」


 テオは眉を寄せた。


「まだ、もう一度まけます」


「何度も同じ条件でまいて、同じ結果なら、切り替えも必要です」


「でも」


「農業は予定も大切です。収穫時期から逆算しなければ、学期内に評価ができません」


 マリア先生の言うことは正しい。


 学校の実習には予定がある。


 播種、発芽、間引き、追肥、収穫。


 すべてカレンダーに書かれている。


 でも、テオはその区画を見捨てるようで嫌だった。


 芽が出ないまま別の作物に変える。


 それは、自分の失敗を土の中に埋めてしまうことのように思えた。


 その時、畑の入り口から一人の先生が歩いてきた。


 黒い上着に、革の鞄。


 農業学校の朝の畑には似合わない服装だったが、靴にはすでに土がついていた。校門からここまでの道で、遠慮なく畑の脇を歩いてきたのだろう。


「白瀬先生」


 マリア先生が声をかけた。


「遠いところをありがとうございます」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


 それから、何も生えていない区画の前で足を止めた。


 しゃがみ込む。


 すぐに土を掘らず、まず見た。


 表面の色。


 ひび割れ。


 畝の高さ。


 周囲の雑草。


 水路からの距離。


 風の通り方。


 テオは少し苛立った。


 見ればわかる。


 芽は出ていない。


 それ以上、何を見るというのか。


 灯理は顔を上げた。


「ここが、芽の出ない畑ですか」


「畑ではなく、区画です」


 テオは思わず言った。


「畑全体は問題ありません。この区画だけです」


 灯理は頷いた。


「大事な違いですね」


 その返しに、テオは少しだけ言葉を失った。


 叱られると思ったわけではない。


 けれど、素直に受け取られるとも思わなかった。


 マリア先生が説明する。


「同じ種類の野菜を複数区画で育てています。ほかの区画は発芽しましたが、ここだけ三度失敗しています」


「三度」


「種、播種深度、水やり、時期は記録上ほぼ同じです」


 灯理はテオを見た。


「君が担当ですか」


「班で担当しています」


「その中でも、君がよく見ている?」


 テオは少し黙った。


「農家の子なので」


 言った瞬間、自分の声に棘があることに気づいた。


 灯理は気にした様子もなく、区画の前にしゃがんだままだった。


「では、今日の授業は、すぐに種をまかないところから始めましょう」


 テオは顔を上げた。


「まかない?」


「はい」


「早くまかないと遅れます」


「うん」


「実習が終わってしまう」


「そうですね」


「だったら――」


 灯理は静かに言った。


「芽が出なかった畑は、何も答えていないのかな」


 テオは言葉を止めた。


「え?」


「この区画は、何も教えてくれていないのでしょうか」


 テオは土を見た。


 何も生えていない。


 何も答えていないように見える。


「畑が答えるんですか」


「育たない場所には、育たない理由があると思います」


 灯理は土の表面を指さした。


「まず、それを聞きにいきませんか」


 午前の授業は、予定を変更して観察から始まった。


 マリア先生は最初、実習予定表を気にしていた。


 けれど、灯理が「同じ作業を繰り返す前に条件を比べたい」と言うと、しばらく考えてから頷いた。


「班ごとに記録を取ります」


 マリア先生は生徒たちに指示を出した。


「土の硬さ、水はけ、日当たり、風の当たり方、雑草、虫、前作の記録。見落としがないように」


 生徒たちは道具を持って動き始めた。


 テオの班は、問題の区画を中心に調べることになった。


 まず、土の硬さ。


 イネスが細い棒を土に刺そうとした。


 ほかの区画では、棒はすっと入った。


 しかし問題の区画では、途中で止まる。


「硬い」


 イネスが言った。


「表面だけじゃない。下も」


 テオはしゃがみ込み、自分でも棒を刺した。


 確かに硬い。


 表面は乾いているが、少し掘ると固く締まった層があった。


「昨日、水をやった時は?」


 灯理が尋ねる。


「やりました」


 テオは答えた。


「どんなふうに染み込みましたか」


「普通に」


 そう言いかけて、少し止まった。


 普通。


 本当に普通だったか。


 昨日、水をやった時、水は畝の上を流れた。しみこむまで時間がかかった。端の方へ流れていった水もあった。


 でも、乾いた畑ではよくあることだと思っていた。


「少し、流れました」


「どちらへ?」


 テオは畑を見た。


 畝の傾き。


 水路の位置。


 端に生えている雑草。


「あっち」


 区画の下側を指さす。


 そこには、細い雑草がよく育っていた。


 ほかの場所より、葉が青い。


「雑草は元気ですね」


 灯理が言う。


「雑草は強いですから」


 テオは反射的に答えた。


「それだけ?」


 テオは口を閉じた。


 雑草は強い。


 農家の家で何度も聞いてきた言葉だ。


 だが、今はその一言で終わらせてはいけない気がした。


 イネスが雑草の根元の土を触る。


「ここ、湿ってる」


「畝の水が流れてきてるのかも」


 同じ班のラウルが言った。


 テオは問題の区画をもう一度見る。


 中心は硬く乾いている。


 下側の端は湿っている。


 水をやった。


 けれど、水は種の場所に残らず、表面を流れて端へ集まっていたのかもしれない。


「でも、水だけじゃない」


 テオは言った。


「水が足りないなら、多めにやればいい。でも、三回とも駄目だった」


「では、次は何を見ますか」


 灯理が尋ねる。


 テオは土を手に取った。


 硬い。


 指で崩そうとしても、大きな塊のまま割れる。


 家の畑の土とは違う。


 家の畑は、もっと黒く、柔らかく、手に残る湿り気がある。


 この学校の畑は赤土が多い。


 水を含むと重くなり、乾くと締まりやすい。


 知っていたはずなのに、ちゃんと見ていなかった。


「土が、息できてない」


 テオは呟いた。


 イネスが顔を上げる。


「息?」


「固まりすぎてる。水も入らないし、空気も入らない。種がふくらむ前に乾いたか、腐ったかもしれない」


 ラウルが前作の記録帳を持ってきた。


「去年、この区画だけ試験的に別の肥料を入れてる」


「どんな?」


「速効性のあるやつ。収量比較のため」


 マリア先生がそれを聞いて近づいてきた。


「その記録は確認していませんでした」


 彼女は記録帳を受け取り、眉を寄せる。


「前年度の担当が別だった区画ですね。肥料の影響が残っている可能性があります」


「肥料を入れすぎたんですか」


 イネスが聞く。


「可能性の一つです。土の状態が偏ると、発芽に影響することがあります」


 テオは土を握った。


 種が悪い。


 水が悪い。


 天気が悪い。


 そう思っていた。


 でも、土そのものを見ていなかった。


 いや、見ていたつもりだった。


 農家の子だから、わかるつもりでいた。


 昼前、観察結果が黒板代わりの大きな板にまとめられた。


『土が硬い』

『水が表面を流れる』

『区画下側の雑草が元気』

『前年度の肥料試験区』

『中心部は乾きやすい』

『畝の傾きが強い』

『虫害は目立たない』

『種の発芽率は他区画では問題なし』


 マリア先生は腕を組んでそれを見ていた。


「原因は一つではなさそうですね」


 灯理が言った。


「はい」


 マリア先生は頷いた。


「土の締まり、水の流れ、前年度の管理。それぞれが重なっている可能性があります」


 テオは板を見つめた。


 原因が見えてきた。


 それなのに、胸の中の焦りは消えなかった。


「じゃあ、土をほぐして、堆肥を混ぜて、水の流れを変えて、もう一度まけばいい」


 彼は早口で言った。


「今からやれば、まだ間に合うかもしれない」


 鍬を取りに行こうとした時、灯理が声をかけた。


「テオくん」


「はい」


「今、君が知っている畑と、この畑は同じかな」


 テオは足を止めた。


「どういう意味ですか」


「君はたくさんの畑を知っていると思います。家の畑、子どものころから見てきた土、家族のやり方」


「はい」


「でも、この区画は、その畑と同じですか」


 テオは何も言えなかった。


 同じではない。


 わかっている。


 わかっているはずだった。


 でも、心のどこかで思っていた。


 畑なら、わかる。


 土なら、わかる。


 農家の子なのだから、わかるはずだ。


 わからないことがあると、失敗した気がした。


 農家の子なのに。


 できない。


 それが怖かった。


「知っているつもりでした」


 テオは低く言った。


「うん」


「家の畑なら、こうします。父さんも、祖父も、たぶん同じようにする。でも、ここは違う」


 彼は足元の土を見た。


「違うのに、同じように扱ってました」


 灯理は頷いた。


「畑ごとに、学び直す必要があるのかもしれません」


 その言葉は、少し悔しかった。


 でも、救いでもあった。


 知らないことがあるのは、恥ではない。


 この畑が違うなら、この畑から学べばいい。


 午後の作業は、種まきではなく土づくりになった。


 マリア先生は予定表を広げ、しばらく考えた後、赤い鉛筆で一つの欄を書き加えた。


『観察日・土壌改善』


 その文字を見たテオは、少し驚いた。


「予定、変えるんですか」


「畑が予定通りでないなら、予定の方も少し動かします」


 マリア先生は淡々と言った。


「ただし、記録は丁寧に。何をどう変えたか残さなければ、次の学びになりません」


「はい」


 テオたちは作業を始めた。


 まず、表面の硬い土を崩す。


 鍬を入れると、土は大きな塊になって割れた。


 その塊を手でほぐす。


 石を取り除く。


 前より深くまで空気を入れる。


 堆肥を少しずつ混ぜる。


 入れすぎないよう、区画ごとに量を変えて記録する。


 畝の傾きを緩やかにし、水が中心に残るよう小さな溝を作る。


 下側に集まっていた雑草は、全部抜かず、一部を残した。


 水の流れを見る目印にするためだ。


 作業は地味だった。


 種をまく時のような期待感はない。


 芽が出る瞬間の喜びもない。


 ただ土を崩し、混ぜ、ならし、記録する。


 けれど、テオは次第にその作業に集中していった。


 土の硬さが少しずつ変わる。


 乾いた塊が、堆肥と混じってほぐれていく。


 水を少し垂らすと、さっきよりゆっくり染み込む。


 完全ではない。


 でも、変わっている。


「テオ」


 イネスが言った。


「ここ、さっきより柔らかい」


「うん」


「土って、こんなに違うんだね。同じ畑の中なのに」


「同じじゃなかったんだ」


 テオは答えた。


 その言葉を、自分にも言い聞かせるように。


 夕方近く、ようやく種をまいた。


 今度は、区画を三つに分けた。


 一つは通常の深さ。


 一つは少し浅め。


 一つは堆肥の量を変えた場所。


 水は一気にかけず、少しずつ様子を見ながら与えた。


 水がどこに流れるか、どれくらいでしみこむかを記録する。


 テオは土の表面に手を置いた。


 朝より少しだけ柔らかい。


 まだ硬い部分もある。


 完全に良い土になったわけではない。


 けれど、何も答えない場所ではなくなった。


「これで出ますか」


 イネスが聞いた。


 テオはすぐに答えなかった。


 いつもなら、「出る」と言いたかった。


 農家の子として、頼られる答えを返したかった。


 でも今日は違った。


「わからない」


 テオは言った。


「でも、前よりはこの畑のことを見た」


 イネスは頷いた。


「じゃあ、明日も見る?」


「明日も、明後日も」


 テオは記録帳を閉じた。


「芽が出るまでじゃなくて、出た後も」


 放課後、畑には長い影が伸びていた。


 生徒たちは道具を洗い、温室の戸締まりをしている。


 テオは一人、問題の区画の前にしゃがんでいた。


 何も見えない。


 種は土の中だ。


 今日の作業が正しかったかどうかは、すぐにはわからない。


 農業は、待つ時間が多い。


 それを知っていたはずなのに、学校に来てからのテオは、結果を急いでいた。


 できるところを見せたかった。


 知っているところを証明したかった。


 農家の子なのだから、当然だと思われたかった。


 でも、土はそんなことを気にしない。


 農家の子かどうかではなく、今ここにある条件を見ろと言っていたのかもしれない。


「まだ見ていますか」


 背後から灯理の声がした。


 テオは振り返らずに答えた。


「はい」


「何か見えますか」


「何も」


「それでも?」


「朝よりは、何も見えないことが怖くないです」


 灯理は隣にしゃがんだ。


 夕方の風が、畑の表面をなでる。


「先生」


「はい」


「芽が出なかったら、また失敗ですか」


 灯理は土を見た。


「失敗かもしれません」


 テオは少し驚いた。


 慰められると思ったのだ。


 失敗じゃないと言われると思った。


 でも、灯理は続けた。


「でも、その時はまた、何が起きたのかを見られます」


「また観察?」


「はい」


「農業って、ずっとそれですか」


「そうかもしれません」


 テオは少し笑った。


「思ったより、しつこいですね」


「土も、天気も、作物も、人間の予定に合わせてくれるとは限りませんから」


「それは本当にそうです」


 テオは手のひらについた土を見た。


 爪の間に入り込んでいる。


 家にいたころは、当たり前すぎて気にもしなかった土だった。


 でも今日は、少し違って見える。


「僕、農家の子なのに、わかってませんでした」


「農家の子だから、たくさん知っていたこともあると思います」


「でも、それで見なくなっていたこともある」


 灯理は頷いた。


「知っていることは、時々、目を助けてくれます。でも時々、目をふさいでしまうこともありますね」


 テオは土をそっと撫でた。


「明日は、最初に触ります」


「土を?」


「はい。見ただけでわかったつもりにならないように」


 夜、農業学校の宿舎では、生徒たちが夕食を取っていた。


 豆のスープと硬めのパン、焼いた野菜。


 食堂の窓からは、畑が暗く沈んで見える。


 テオは食事を終えると、記録帳を開いた。


 今日の観察を書き直す。


『表面乾燥』

『下層硬い』

『水が流れる』

『区画下側に湿り』

『雑草の生育に差』

『前年度肥料試験』

『畑ごとに条件が違う』


 最後の一行を書いたところで、手が止まった。


 それは記録というより、自分への言葉だった。


 畑ごとに条件が違う。


 人も、きっとそうだ。


 農家の子。


 できる生徒。


 頼られる人。


 そんな名前だけでは、自分のことも、畑のことも、わかったことにはならない。


 翌朝、テオは誰よりも早く畑へ出た。


 空はまだ淡く、丘の向こうから太陽が昇りかけている。朝露は少なく、風は少し冷たかった。


 問題の区画の前にしゃがむ。


 すぐには目で探さない。


 まず、土に触れる。


 表面は昨日より少し湿っている。


 指で押すと、硬いが、昨日ほど跳ね返す感じはない。


 水は少し残っている。


 テオは記録帳を開いた。


『朝 表面やや湿り』


 書き終えてから、ふと畝の中央を見た。


 何かが、土を押していた。


 ほんの小さな盛り上がり。


 虫かもしれない。


 土の塊かもしれない。


 テオは息を止めた。


 指で触れず、顔を近づける。


 赤茶けた土の割れ目から、薄い緑が見えた。


 一つ。


 本当に小さな芽だった。


 世界の全部から見れば、何でもないような緑。


 けれどテオには、朝日より先にそこだけ光って見えた。


「出た」


 声がかすれた。


 もう一度言う。


「出た」


 宿舎の方へ走ろうとして、足を止める。


 大声で呼びたい。


 みんなに見せたい。


 でも、その前に、テオは土に手を置いた。


 成功した、と言うより先に。


 なぜ出たのかを、ちゃんと見たかった。


 芽の周りの土は、昨日堆肥を少し多く混ぜた区画だった。


 水の溝から近いが、流れすぎる場所ではない。


 播種深度は少し浅め。


 その条件を書き留める。


 そこへ、イネスが眠そうな顔でやってきた。


「テオ? 早すぎ」


「出た」


「え?」


「芽」


 イネスは一瞬で目を覚ました。


 駆け寄り、テオの隣にしゃがみ込む。


「本当だ」


 小さな芽を見て、彼女の顔が明るくなる。


「出た!」


 その声で、ほかの生徒たちも集まってきた。


 マリア先生も畑へ出てくる。


 彼女は小さな芽を見ると、表情を緩めた。


「一つだけですね」


「はい」


 テオは頷いた。


「でも、条件が記録できます」


 マリア先生は彼を見る。


「よく最初に記録しましたね」


「成功かどうか、まだわからないので」


 テオは芽を見た。


「ここからも見ます」


 マリア先生は静かに頷いた。


「では、この区画は予定を変更します。発芽後の観察を継続。ほかの班も比較対象として記録を取ってください」


 予定表に、また余白が増える。


 それは遅れではなく、新しい授業になった。


 灯理は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 テオは小さな芽の前にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。


 イネスが言う。


「嬉しくないの?」


「嬉しい」


「顔が真面目すぎる」


「嬉しいけど、まだわからないことだらけだ」


 テオは土を指先で軽く崩した。


「芽が出た理由も、一つじゃないかもしれない。出なかった理由も、全部わかったわけじゃない」


「じゃあ、まだ続くね」


「うん」


 彼は少し笑った。


「やっと始まった感じがする」


 午前の授業の終わり、マリア先生は生徒たちを畑の前に集めた。


「今回の区画について、実習予定を修正します」


 彼女は手元の予定表を開いた。


 赤い字で、新しい欄が加えられている。


『観察日』

『土壌改善』

『発芽条件比較』

『継続記録』


「農業では、計画が必要です。播種時期、肥料、水管理、収穫時期。これらを無視することはできません」


 生徒たちは静かに聞いている。


「ですが、畑は予定表の通りに育つとは限りません。予定通りにいかなかった時、ただ失敗と片付けるのではなく、なぜそうなったのかを観察すること。それも実習の一部です」


 マリア先生は、テオの方を見た。


「今日の芽は小さいです。収穫を保証するものではありません。ですが、この小さな芽は、私たちが畑を見直すきっかけになりました」


 テオは少し照れたように目を伏せた。


 マリア先生は続けた。


「次回から、各班の記録項目に『畑が困っていること』を加えます」


 生徒たちがざわついた。


「畑が困る?」


「先生、それ白瀬先生っぽい」


 マリア先生は軽く咳払いをした。


「表現は借りました。内容は重要です」


 灯理は畑の端で小さく笑った。


 放課後、灯理は農業学校を出る準備をしていた。


 校門のそばには、低い石垣があり、その向こうに実習畑が見える。


 テオはそこにいた。


 作業服の袖をまくり、手には記録帳を持っている。


「白瀬先生」


「テオくん」


「もう行くんですか」


「はい」


「早いですね」


「旅する先生なので」


 テオはその言葉に少し笑った。


 それから、畑の方を見た。


「先生、あの芽、育つと思いますか」


「わかりません」


「またそれですか」


「はい」


「先生って、あまり安心する答えをくれませんね」


「そのかわり、一緒に見られる問いなら渡せるかもしれません」


 テオは記録帳を開いた。


 今日のページには、小さな芽の絵が描かれていた。


 上手い絵ではない。


 でも、丁寧だった。


「これから、毎日記録します」


「うん」


「枯れたら、その理由も書きます」


「はい」


「育ったら、それも」


「はい」


 テオは少し黙った。


 そして、ぽつりと言った。


「農業って、作物を育てることだと思ってました」


「今は?」


「土に教えてもらうことも、入ってる気がします」


 灯理は頷いた。


「いい言葉ですね」


「父さんに言ったら笑われるかも」


「どうして?」


「そんなの当たり前だって」


 テオは少し困ったように笑った。


「でも、僕は今日わかりました」


「それなら、今日の君の言葉です」


 風が吹いた。


 畑の土の匂いが、校門まで届く。


 乾いた匂いの中に、少しだけ湿り気が混じっていた。


「先生」


「はい」


「僕、農家の子だからわかるんじゃなくて、農家の子だからもっと見なきゃいけないんですね」


 灯理はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「きっと、そうですね」


 テオは記録帳を閉じた。


「次に来た時、もっと畑のことを説明できるようになってます」


「楽しみにしています」


「でも、全部はわかってないかもしれません」


「その方が、畑とは長く付き合えそうです」


 テオは笑った。


 その笑顔は、朝より少しだけ柔らかかった。


 夕暮れ、灯理は丘を下る道を歩いていた。


 農業学校の白い校舎が、少しずつ遠ざかっていく。


 背後には、実習畑が広がっていた。


 芽が出た区画。


 まだ何も見えない区画。


 雑草が残された端。


 水の流れを変えた小さな溝。


 それらは夕方の光の中で、静かに横たわっている。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、次の土地から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 今は、丘の土の匂いを覚えていたかった。


 芽が出ない畑。


 硬い土。


 水の逃げ道。


 知っているつもりで見落としていたもの。


 そして、赤茶けた土を割って出てきた、小さな緑。


 それは成功というには、あまりにも小さかった。


 けれど、学びが始まるには十分だった。


 丘の下に停留所が見えた。


 灯理は一度だけ振り返った。


 遠くの畑で、テオがまたしゃがみ込んでいる。


 たぶん、あの小さな芽を見ているのだろう。


 あるいは、芽の周りの土を見ているのかもしれない。


 灯理は静かに微笑み、次の教室へ向かう道を歩いていった。

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