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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第2章 第4話:医学の授業――聴診器が拾った沈黙


 病院の廊下には、朝の音がいくつも重なっていた。


 車輪のついたベッドが静かに押される音。


 受付番号を呼ぶ電子音。


 遠くの診察室から聞こえる短い会話。


 薬品の匂いと、磨かれた床の匂いと、窓辺に置かれた花のかすかな匂い。


 地方都市にある医療系学校は、附属病院のすぐ隣に建っていた。


 校舎と病院は渡り廊下でつながっている。生徒たちは教室で知識を学び、実習室で技術を練習し、時には病院の協力を得て患者役の人々と向き合う。


 アイシャは、その渡り廊下を歩きながら、手元の問診表を見つめていた。


『主訴』

『現病歴』

『既往歴』

『服薬状況』

『アレルギー』

『生活習慣』

『痛みの部位』

『痛みの程度』

『発症時期』


 すべて覚えている。


 どの順番で聞けばよいかも。


 どの言葉を使えば患者に伝わりやすいかも。


 授業で学んだ手順は、頭の中にきちんと並んでいた。


 アイシャは成績がよかった。


 医学用語の小テストではいつも上位だったし、手洗いの手順も、血圧測定の手順も、包帯の巻き方も、ほとんど間違えなかった。


 セリム先生はよく言った。


「アイシャは正確です。医療の現場では、それは大切な力です」


 その言葉は嬉しかった。


 嬉しかったからこそ、怖かった。


 正確でなければならない。


 間違えてはいけない。


 聞くべきことを聞き漏らしてはいけない。


 患者が黙った時も、何かを言わなければならない。


 沈黙は、空白だ。


 空白は、失敗だ。


 そう思っていた。


 実習室に入ると、すでに他の生徒たちが準備を始めていた。


 白い実習着。


 首から下げた聴診器。


 机の上に並ぶ問診表。


 消毒液の匂い。


 壁には人体図が貼られ、ベッドの横には血圧計と椅子が置かれている。


「アイシャ、おはよう」


 同級生のマリクが声をかけた。


「おはよう」


「今日、患者役の人が来るんだって」


「聞いてる」


「緊張するな。先生役ならまだいいけど、本物の患者さんに近い人だとさ」


「患者役だから、本物じゃない」


 アイシャは問診表をファイルに挟んだ。


 マリクは苦笑した。


「そういうところ、落ち着いてるよね」


「落ち着いてない」


「え?」


「準備してるだけ」


 アイシャはファイルの角を整えた。


 落ち着いているわけではない。


 準備をしていないと、不安が形を持ってしまうだけだ。


 実習室の前方に、セリム先生が立った。


 四十代半ばの穏やかな医師で、授業ではいつも論理的に説明する。患者に対しても生徒に対しても声を荒らげることはないが、必要な知識については厳しかった。


「今日は問診と身体観察の実習です」


 セリム先生は言った。


「患者役の方々に協力していただきます。皆さんは、限られた時間の中で必要な情報を聞き取り、観察し、記録してください」


 限られた時間。


 必要な情報。


 アイシャはファイルを強く持った。


「ただし、機械的な質問にならないように。相手は問診表ではなく、人です」


 先生の言葉に、生徒たちは頷いた。


 アイシャも頷いた。


 頭ではわかっている。


 患者は人だ。


 けれど、実習が始まると、どうしても表を埋めることに意識が向いてしまう。


 白い紙の空欄が、彼女を急かすのだ。


 その時、実習室の扉が開いた。


「失礼します」


 入ってきたのは、白衣ではなく黒い上着を着た先生だった。


 使い込まれた革の鞄を持ち、首から聴診器も下げていない。医療系学校には少し不思議なほど、旅人のような姿だった。


「白瀬先生」


 セリム先生が迎えた。


「遠いところをありがとうございます」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は皆さんの授業に少し混ぜてもらいます」


 生徒たちが小さくざわついた。


 旅する先生。


 世界中の学校を回り、さまざまな授業を行っている先生。


 昨日の連絡でそう聞いていた。


 アイシャは灯理を見た。


 医師ではない。


 看護師でもない。


 それなのに、医療の授業で何を教えるのだろう。


 そんな疑問を抱いた瞬間、灯理と目が合った。


 灯理は、問診表を持つアイシャの手元を見た。


 それから、静かに微笑んだ。


 実習が始まる前に、灯理は生徒たちへ言った。


「今日は、聴診器を使う前に、少しだけ『聞く練習』をしませんか」


 生徒たちは顔を見合わせた。


 マリクが手を挙げる。


「聴診器を使わずに、ですか?」


「はい」


「でも、医療の実習ですよね」


「だからこそです」


 灯理は、実習室に並ぶ椅子を指した。


「最初の三分間、患者役の方にすぐ質問をしないでください」


 アイシャは思わず眉を寄せた。


「質問しない?」


「はい。挨拶をして、座ってもらい、表情、手の動き、呼吸、視線、姿勢を見ます」


「それでは情報が集まりません」


 アイシャは口に出していた。


 灯理は彼女を見た。


「そう思いますか」


「はい。時間が限られています。必要事項を聞き取るには、質問しなければ」


 セリム先生は少しだけアイシャを見たが、止めなかった。


 灯理は頷いた。


「質問は大切です。でも、質問の前に、相手がもう話していることがあります」


「話している?」


「声ではなくても」


 灯理は自分の手を胸元に置いた。


「手や目や呼吸が、先に話している時がある」


 実習室は静かになった。


 アイシャは納得したわけではなかった。


 けれど、反論もできなかった。


 患者役の人々が入ってきた。


 地域の協力者や、病院で長くボランティアをしている人たちだった。年配の女性、杖をついた男性、中年の会社員、若い母親役の人。


 アイシャが担当することになったのは、ハミドという老人だった。


 七十代後半くらい。


 細い体に、濃い灰色の上着を着ている。白い髭はきれいに整えられていたが、目元には疲れがあった。胸元のポケットには、小さな写真が入っているようだった。


 ハミドは椅子に座ると、静かに手を膝の上に置いた。


「よろしくお願いします」


 アイシャは言った。


「よろしく」


 ハミドの声は低く、少しかすれていた。


 アイシャは問診表を開きかけた。


 けれど、灯理の言葉を思い出す。


 最初の三分間、質問しない。


 彼女はファイルを閉じた。


 沈黙が落ちた。


 苦しい。


 たった十秒ほどなのに、アイシャには長く感じた。


 ハミドは視線を床に落としている。


 右手の親指が、左手の薬指のあたりを何度もなぞっていた。


 呼吸は浅い。


 肩は少し丸まっている。


 胸元の写真に、時折指が触れる。


 何かを言わなければ。


 そう思う。


 沈黙が長くなるほど、自分が何もできていないように感じる。


 アイシャは耐えきれずに口を開いた。


「本日は、どのような症状で来られましたか」


 ハミドは少し顔を上げた。


「大丈夫です」


 アイシャの鉛筆が止まった。


「大丈夫、ですか」


「ええ。大丈夫」


 主訴の欄に、何を書けばいいのかわからない。


 大丈夫。


 それは症状ではない。


「痛みはありますか」


「少し」


「どこが痛みますか」


「胸のあたり」


 アイシャはすぐに書き込んだ。


『胸部痛』


「いつからですか」


「今朝」


「痛みの強さを十段階で表すと、どれくらいですか」


「さあ……三くらいでしょうか」


「締め付けるような痛みですか。それとも刺すような痛みですか」


「よくわからない」


「息苦しさは?」


「大丈夫です」


 また、大丈夫。


 アイシャは焦った。


 大丈夫では、情報にならない。


 彼女は次々に質問した。


「冷や汗はありますか」


「いいえ」


「吐き気は?」


「ありません」


「過去に心臓の病気は?」


「ないと思います」


「服薬は?」


「血圧の薬を」


「アレルギーは?」


「ありません」


 問診表は少しずつ埋まっていく。


 空欄が減る。


 それなのに、目の前のハミドという人は、少しずつ遠ざかっている気がした。


 ハミドは答えている。


 でも、話してはいない。


 アイシャはそう感じた。


 しかし、どうすればよいかわからなかった。


 実習の時間が終わると、セリム先生が各組を回りながら講評を始めた。


 アイシャの問診表は整っていた。


 主訴、痛みの部位、強さ、既往歴、服薬状況。


 必要事項はほとんど埋まっている。


 セリム先生は頷いた。


「情報はよく取れています」


「ありがとうございます」


「ただ」


 先生は問診表から顔を上げた。


「ハミドさんが、なぜ不安そうにしていたのかは聞きましたか」


 アイシャは言葉に詰まった。


「不安、ですか」


「そう見えませんでしたか」


 アイシャはハミドを見た。


 老人は少し離れた椅子に座り、胸元の写真に指を触れていた。


 まただ。


 さっきも、何度も。


「大丈夫とおっしゃっていたので」


 アイシャは言った。


「そうですね」


 セリム先生は静かに頷いた。


「大丈夫という言葉は、時に本当に大丈夫な時にも使われます。ですが、そうでない時にも使われます」


 アイシャの手元で、問診表の紙が小さく揺れた。


 灯理が近づいてきた。


「アイシャさん」


「はい」


「大丈夫という言葉の前に、何がありましたか」


 アイシャは顔を上げた。


「前?」


「ハミドさんが『大丈夫』と言う前、身体は何をしていましたか」


 アイシャは記憶をたどった。


 視線は床。


 肩は丸い。


 呼吸は浅い。


 右手の親指が、左手の薬指をなぞっている。


 胸元の写真に触れる。


「写真を……触っていました」


「何度くらい?」


「何度も」


「どんな時に?」


 アイシャは息を止めた。


 思い返す。


 胸の痛みを聞いた時。


 今朝からかと聞いた時。


 既往歴を聞いた時。


 そして、家族のことを聞かなかった時にも。


「胸の話になると、触っていました」


 灯理は頷いた。


「では、次に何を聞きたいですか」


 アイシャは問診表を見た。


 そこには、胸元の写真についての欄はない。


 家族の不安についての欄もない。


 でも、目の前の患者役は、その写真を何度も触っていた。


「写真のことを……聞いてもいいんでしょうか」


「相手の様子を見ながら、丁寧に聞くなら」


 セリム先生が言った。


「医療者は、患者の生活に踏み込みます。だからこそ、礼儀が必要です。ですが、必要なことを避けることが優しさとは限りません」


 アイシャは頷いた。


 再実習の時間が与えられた。


 今度は、五分だけ。


 アイシャはハミドの前に座った。


 問診表は膝の上に置いたが、すぐには開かなかった。


「ハミドさん」


「はい」


「先ほどは、たくさん質問をしました」


「ええ。勉強熱心ですね」


 ハミドは少し笑った。


 その笑みは優しかったが、疲れてもいた。


「でも、私は少し急いでしまいました」


 アイシャは言った。


「もう一度、聞かせてください」


 ハミドは黙って彼女を見た。


 アイシャは沈黙に耐えた。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 今度は、その沈黙をすぐに埋めようとしなかった。


 ハミドの手が、また胸元の写真に触れる。


 アイシャはゆっくりと言った。


「そのお写真は、大切な方ですか」


 ハミドの指が止まった。


 実習室の音が、少し遠くなる。


 ハミドは胸元から小さな写真を取り出した。


 古い写真だった。


 若い女性が写っている。笑っている。風の強い日に撮られたのか、髪が少し乱れていた。


「妻です」


 ハミドは言った。


「きれいな方ですね」


「ええ」


 彼は写真を見つめた。


「今日は、妻の命日です」


 アイシャは鉛筆を握ったまま、動けなかった。


「毎年、この日になると胸が苦しくなる。病院へ来るほどではないと思うのですが、今年は一人で家にいるのが少し怖くてね」


 ハミドは苦笑した。


「胸の痛みというより、寂しさが胸に座っているような感じです」


 アイシャは、問診表の『胸部痛』と書いた欄を見た。


 間違いではない。


 でも、それだけでは足りなかった。


「奥様とは、どのような方でしたか」


 その問いは、問診表にはなかった。


 けれど、今のハミドには必要だと思った。


 ハミドは少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり話し始めた。


「よく笑う人でした。私が心配性でね。少し咳をしただけで病院へ行けと言う。今でも、胸が苦しいと、妻に叱られる気がするんです」


「だから、来られたんですね」


「ええ」


 ハミドは写真を胸元に戻した。


「大丈夫と何度も言ったのは、自分に言っていたのかもしれません」


 アイシャは深く息を吸った。


「ハミドさん」


「はい」


「胸の痛みについて、確認は続けさせてください。身体のことも大切です」


「もちろん」


「でも、奥様のことも、もう少し聞かせていただいていいですか」


 ハミドの目元が、少しだけ緩んだ。


「ええ。喜んで」


 再実習が終わる頃、アイシャの問診表には、きれいに整理された情報の横に、余白のメモが増えていた。


『妻の命日』

『一人でいる不安』

『胸の痛みを寂しさと表現』

『写真に何度も触れる』

『大丈夫=自分への言葉』


 字は少し乱れていた。


 でも、アイシャはその乱れた文字から目をそらさなかった。


 実習後の振り返りで、セリム先生は生徒たちを集めた。


「今日、必要な情報を聞き取れた人」


 何人かが手を挙げた。


 アイシャも少し迷ってから手を挙げた。


「では、患者役の方が言葉にしなかった情報に気づいた人」


 手の数は減った。


 アイシャは、今度は迷わず手を挙げた。


 セリム先生は彼女を見た。


「アイシャ、何に気づきましたか」


 アイシャは立ち上がった。


 白い実習着の裾を握りしめる。


「私は最初、問診表を埋めることばかり考えていました」


 声は少し震えた。


「ハミドさんは何度も『大丈夫』と言いました。私は、それをそのまま受け取ろうとしました。でも、手が写真に触れていて、呼吸が浅くて、目が下を向いていました」


 彼女はハミドの方を見た。


 老人は穏やかに頷いてくれた。


「大丈夫という言葉の中に、不安がありました。胸の痛みだけではなく、奥様の命日に一人でいる寂しさがありました」


 実習室は静かだった。


「沈黙は、失敗ではないと思いました」


 アイシャは続けた。


「患者さんが話していない時間にも、何かが伝わっていることがある。私はそれを待つのが怖かったです。でも、待たないと聞こえないことがありました」


 言い終えると、胸の奥が少し軽くなった。


 セリム先生は静かに頷いた。


「よい振り返りです」


 灯理も後ろで聞いていた。


 セリム先生は生徒たちに向き直った。


「医療者は、知識を持たなければなりません。手順を守らなければなりません。聞くべきことを聞かなければなりません」


 彼は一度言葉を切った。


「ですが、必要事項には、患者が言えずにいることも含まれます」


 その言葉に、アイシャは問診表の余白を見た。


 印刷された欄にはなかったもの。


 けれど、今日もっとも大切だったもの。


 午後の実習では、聴診器を使った身体観察が行われた。


 アイシャはハミドの胸に聴診器を当てた。


 冷たい金属が触れる前に、声をかける。


「少し冷たいです」


「大丈夫ですよ」


 ハミドはまたそう言った。


 だが今度の大丈夫は、先ほどとは違って聞こえた。


 少し笑みがある。


 呼吸も落ち着いている。


 写真に触れる手も、膝の上で休んでいる。


 アイシャは耳に入ってくる音に集中した。


 心音。


 規則的な鼓動。


 呼吸音。


 静かな空気の出入り。


 その音を聞きながら、彼女は思った。


 聴診器は身体の音を拾う。


 でも、医療者が聞くべきものは、それだけではない。


 言葉になる前の不安。


 言葉にならなかった寂しさ。


 何度も繰り返される「大丈夫」の奥にある震え。


 それらは聴診器には入ってこない。


 けれど、人が人として向き合えば、少しだけ聞こえる。


「深呼吸してください」


 アイシャは言った。


 ハミドがゆっくり息を吸う。


 吐く。


 そのたびに、聴診器の中で音が広がった。


 実習の終わりに、ハミドはアイシャへ言った。


「あなたは、よく聞いてくれました」


 アイシャは慌てて首を振った。


「最初は、聞けていませんでした」


「途中から聞いてくれた」


 ハミドは写真の入った胸元を軽く叩いた。


「妻の話を誰かにするのは、久しぶりでした」


「ありがとうございました。話してくださって」


「こちらこそ」


 彼は少し茶目っ気のある顔で言った。


「次に会う時は、もう少し楽しい話も用意しておきます」


 アイシャは笑った。


 その笑いは、緊張で固まったものではなかった。


 放課後、実習室には夕方の光が差し込んでいた。


 生徒たちは片付けを終え、それぞれ帰り支度をしている。


 アイシャは一人、机に向かって問診表を見直していた。


 印刷された欄は、整っている。


 余白のメモは、少し乱れている。


 けれど、今日の実習を思い出すのは、整った欄よりも余白の方だった。


 彼女は新しい問診表を一枚取り出した。


 その下の余白に、小さく書き足す。


『患者が言わなかったことも、観察する』


 しばらく見つめてから、さらに一行加えた。


『沈黙を急いで埋めない』


 書き終えると、背後から声がした。


「いい言葉ですね」


 振り返ると、灯理が立っていた。


「白瀬先生」


「今日の実習、お疲れさまでした」


「疲れました」


 アイシャは正直に言った。


「知識を覚えるより、ずっと」


「人と向き合うのは、疲れますね」


「はい」


 アイシャは問診表を見た。


「私は、正確でいたかったんです」


「うん」


「正確なら、患者さんを傷つけないと思っていました。間違えないで、必要なことを聞いて、きちんと記録すれば」


「大切なことです」


「でも、それだけだと、ハミドさんは遠くなりました」


 灯理は静かに聞いていた。


「先生、沈黙されると、何を聞けばいいかわからなくなります」


「うん」


「怖いです」


「それでも、今日は少し待てました」


「少しだけです」


「少し待つことから始まると思います」


 アイシャは聴診器を手に取った。


 銀色の胸当てが夕方の光を反射する。


「聴診器って、音を拾う道具ですよね」


「はい」


「でも、今日拾った一番大事なものは、聴診器では聞けませんでした」


「何で聞いたんでしょう」


 アイシャは考えた。


 目。


 手。


 呼吸。


 沈黙。


 そして、自分の中に少しだけできた待つ場所。


「たぶん、全部で」


 灯理は頷いた。


「いい答えですね」


「答えなんでしょうか」


「今のアイシャさんには」


 アイシャは少しだけ笑った。


 夜、灯理は医療系学校の校門を出た。


 隣の附属病院には、まだ多くの明かりが灯っている。救急入口には救急車が停まり、看護師たちが忙しく行き交っていた。


 昼間の実習室とは違う、本物の現場の時間が流れている。


 そこでは、きっと今も誰かが大丈夫と言っている。


 本当は大丈夫ではないかもしれない。


 大丈夫になろうとしているだけかもしれない。


 あるいは、誰かに心配をかけたくなくて、その言葉を選んでいるのかもしれない。


 灯理は病院の窓を見上げた。


 その時、セリム先生が校舎から出てきた。


「白瀬先生」


「セリム先生」


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、貴重な授業を見せていただきました」


 セリム先生は少し疲れた顔で笑った。


「私は、問診の型を教えることに力を入れてきました。型がなければ、聞き漏らしが起きる。危険な見落としもある」


「はい。とても大切だと思います」


「ですが、型に生徒を閉じ込めすぎていたのかもしれません」


 彼は自分の胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。


 そこには、授業後に書いたらしい文字があった。


『聞くべきこと』

『患者が言ったこと』

『患者が言えなかったこと』


「次の授業から、問診表の最後に余白を増やします」


「余白ですか」


「ええ。医学的な情報だけでなく、生徒自身が観察したことを書く欄です。表情、手の動き、沈黙、ためらい。もちろん、推測と事実は分けて書かせます」


 セリム先生は病院の明かりを見た。


「余白を埋めるためではありません。余白があることを忘れないために」


 灯理は頷いた。


「きっと、いい学びになります」


「そう願います」


 遠くで救急車のサイレンが鳴った。


 二人はしばらく黙って、その音を聞いていた。


 やがて灯理は鞄を持ち直した。


「では、私はそろそろ」


「次の学校ですか」


「はい」


「今度はどんな授業で?」


 灯理は鞄から一通の封筒を取り出した。


 紙の端には、土のような薄茶色の汚れがついている。


「農業学校です」


 セリム先生は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「医療の次は農業ですか」


「教室は、いろいろな場所にありますから」


「どうか、お気をつけて」


「ありがとうございます」


 灯理は駅へ向かう道を歩き出した。


 夜風は少し冷たく、病院の明かりは背中の方で静かに揺れている。


 鞄の中で、次の依頼状がかすかに音を立てた。


『農業学校の畑で、芽が出ません』


 灯理はその封筒をしまい、歩きながら耳を澄ませた。


 都市の夜には、たくさんの音があった。


 車の音。


 人の声。


 遠くのサイレン。


 病院の自動扉が開く音。


 そのどれもが、誰かの生活の音だった。


 そして、その音の間には、いくつもの沈黙がある。


 灯理はその沈黙を急いで埋めないように、ゆっくりと次の教室へ向かって歩いていった。

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