第36章 第3話:部室の授業――相談箱に見えるひと息棚
演劇部の部室には、乾いた木の床と古い衣装の匂いが混ざっていた。
壁際には、衣装箱が三つ積まれている。箱の側面には、少し剥がれかけた紙で『現代劇』『時代劇』『小道具』と書かれていた。鏡の前には、発声練習のメニュー表が貼られ、端には台本のコピーがクリップで留められている。
放課後の部室は、いつも少し熱を持っていた。
「あめんぼあかいな、あいうえお」
「もっとお腹から」
「そこ、台詞の入り早い」
「先輩、衣装のボタン取れかけてます」
声が重なり、足音が床を鳴らし、誰かがペットボトルを開ける音がする。
図書室とは、まるで空気が違っていた。
紬は、鞄の中に『ひと息棚担当帳』を入れて、部室の入口に立っていた。
きっかけは、演劇部の部長、莉央からの相談だった。
「図書室のひと息棚みたいなもの、部室にも作れないかな」
莉央はそう言った。
演劇部では、文化祭に向けた稽古が始まっていた。台詞を覚え、動きを合わせ、照明や音響とも連携する。部員たちは一生懸命だったが、その分、無理をしている子もいた。
声が出にくいのに無理して発声練習をする子。
役に入り込みすぎて、稽古後もしばらく黙り込む子。
先輩に合わせようとして、見学したいと言えない後輩。
莉央は、そういう小さな変化に気づいていた。
「相談ってほどじゃないんだけど、今日ちょっとしんどいとか、声が出ないとか、言える場所がほしいんだ」
その言葉を聞いた時、紬はすぐにひと息棚を思い出した。
声に出さなくても置ける場所。
ただ座ってもよい場所。
困りごとを一人で持たない場所。
ひと息棚の考え方なら、部室にも役立つかもしれない。
そう思って、紬は担当帳を持ってきた。
莉央は、部室の隅に小さな青い箱を置いていた。
図書室の青い箱に似た、手のひら二つ分ほどの箱だった。
その横には、莉央の字で札が貼られている。
『声に出せないことを置く箱』
紬は、その札を見た瞬間、少し胸がざわついた。
声に出せないことを置く箱。
意味は、よくわかる。
でも、部室の空気の中では、その言葉が少し重く見えた。
稽古前の部員たちは、その箱をちらりと見る。
けれど、誰も近づかない。
鏡の前で発声練習をしていた後輩の柊は、箱の方を一度見てから、すぐに目をそらした。
莉央が、少し小さな声で言った。
「置いたんだけど、まだ誰も使ってないんだ」
紬は、箱の前に立った。
図書室のひと息棚では、青い箱に封筒が入る日がある。緑の箱、青い箱、赤い封筒に分けたことで、井沢先生が一人で抱えない流れも作った。
でも、ここは部室だ。
本棚ではなく鏡がある。
静かなカードではなく、台詞と発声がある。
ひと息棚の青い箱を、そのまま置けばよいわけではないのかもしれない。
それでも、紬は最初、担当帳を開いて説明した。
莉央と顧問の村瀬先生、数人の部員が周りに集まる。
紬は、しおり型カードに書きながら伝えた。
『図書室では、声に出さなくても置ける場所として始めました』
莉央が頷く。
「うん。そういうのがほしい」
紬は、次のカードを書く。
『でも、置かれたものを一人で抱えない流れも必要です』
村瀬先生が、少し真面目な顔になった。
「それは大切ですね。相談箱になると、誰がいつ読むのか、急ぎのものが入った時にどうするのかを決めないといけません」
莉央が困った顔をする。
「相談箱にしたいわけじゃないんです。もっと軽く、今日ちょっと声が出ないとか、休みたいとか」
柊が、鏡の前で小さく呟いた。
「でも、そこに入れると、本当に悩んでる人みたいで」
部室が少し静かになった。
莉央が柊を見る。
「柊、そう見える?」
柊は、慌てて首を振った。
「いや、悪いとかじゃなくて。なんか、箱に入れるほどじゃない気がして」
「声が出にくい日とかでも?」
「それはあるけど」
柊は、手元の台本を握った。
「でも、相談ってほどじゃないです」
その言葉が、部室の床に落ちた。
相談ってほどじゃない。
紬は、息を止めた。
図書室でも、最初に「相談席」と書くと重すぎた。
相談という言葉が、人を遠ざけることがあった。
だから、ひと息棚に変えた。
なのに、部室へ持ち込む時、また同じような重さを作ってしまったのかもしれない。
青い箱。
『声に出せないことを置く箱』
それは、部室では「相談箱」に見えている。
莉央は、箱の札を見つめた。
「私、部員の様子を見たいと思っただけなんだけど」
村瀬先生が言った。
「部長が全部読む形にすると、莉央さんが抱えすぎることにもなります」
莉央の顔が少し曇る。
「でも、誰かが無理しているのを見落としたくないです」
紬は、カードを一枚取り出した。
手元で少し迷ってから書く。
『先生、ひと息棚の考えを持ってきたのに、部室では相談箱に見えてしまって、誰も近づきませんでした』
書いたカードを、部室の隅に立っていた白瀬灯理へ渡す。
灯理は、今日は演劇部へ招かれていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。部室の壁に貼られた公演ポスターや、鏡の横の発声表、青い箱、莉央の表情、柊の手元の台本を、静かに見ていた。
灯理は、紬のカードを読み、頷いた。
そして、問いを返した。
「うん。では、ひと息棚を持ち替えることは、箱と説明文を同じように置くことなのでしょうか」
箱と説明文を同じように置くこと。
紬は、青い箱を見た。
図書室では、箱が合っていた。
本棚の横にある小さな箱。
声を出さずに書いて入れるカード。
静かな場所に置くには、自然だった。
でも、演劇部では、部員たちは声を出し、体を動かし、台詞を言う。稽古前と稽古後で状態が変わる。書いて封筒に入れるより、その日の声や体調を軽く示せる方が合うのかもしれない。
灯理は、鏡の前に立った。
鏡には、部員たちの姿が映っている。
莉央。
柊。
村瀬先生。
紬。
そして、まだ使われていない青い箱。
「図書室と部室では、何が違うでしょう」
村瀬先生が、ホワイトボードを出した。
莉央がペンを持つ。
まず、紬がカードを書く。
『図書室は静かに書いて置く場所』
莉央が読み、ホワイトボードに書く。
『図書室:静かに書いて置く』
柊が少し考えて言う。
「部室は、声を出す場所」
『部室:声を出す』
別の部員が言った。
「稽古前と稽古後で気分が変わります」
『稽古前後で状態が変わる』
莉央が続ける。
「相談って言うと重いけど、今日は声が出にくいとか、動きたくないとかはある」
『相談ではない小さな状態がある』
村瀬先生が書き足す。
『部長一人で読ませると重い』
ホワイトボードの上に、違いが並んだ。
灯理は頷いた。
「では、演劇部で本当に置きたいものは何でしょう」
莉央は、青い箱ではなく、鏡を見た。
「悩み全部じゃなくて、今日の稽古に入る前の状態かもしれません」
柊が小さく言った。
「声が出るかどうか」
別の部員が続ける。
「台詞合わせしたいか」
「見学したい日もある」
「もう一回やりたい時もある」
「役から戻る時間がほしい時もある」
村瀬先生が、少し驚いた顔をした。
「役から戻る時間?」
莉央が頷く。
「重い役をやったあと、すぐに片づけとか反省会に入れない時があります」
柊が、そっと言う。
「僕、それあります」
部室の空気が少し変わった。
青い箱に入れるほどではない。
相談というほどではない。
でも、確かにある状態。
灯理は言った。
「それは、箱に入れる形が合いそうですか」
莉央は、首を横に振った。
「書いて入れるより、札を選ぶ方が合う気がします」
柊が頷く。
「稽古前に、ぱっと出せる方がいいです」
紬は、しおり型カードに書いた。
『箱ではなく、鏡の横の札』
莉央が、それを見て目を上げた。
「鏡の横なら、発声の前に見る」
村瀬先生も頷いた。
「全員が見る場所ですね」
青い箱は、部室の隅で待っていた。
でも、今日必要なのは、箱ではなく札だった。
莉央は、ホワイトボードの横にマグネットシートを貼った。
白い小さな札を何枚も作る。
最初に書いたのは、
『声出ます』
柊が少し笑った。
「それ、普通の日」
「普通の日も置ける方がいいでしょ」
莉央が言う。
次に、
『声小さめ』
柊が、その札をじっと見た。
「これなら出せるかも」
相談ではない。
弱音でもない。
ただ、今日の声の状態。
次に、別の部員が書いた。
『台詞合わせたい』
もう一枚。
『今日は見学』
村瀬先生が言った。
「見学は、理由を書かなくてもよいことにしましょう」
莉央が頷く。
『理由は言える時だけ』
紬がカードを書く。
『もう一回やりたい』
部員の一人が笑った。
「それも必要。うまくいかなかった時、もう一回って言いにくい時ある」
次に、
『少し休む』
この札を作る時、部室が少し静かになった。
莉央が言う。
「休む札は、出しやすくしたい」
村瀬先生が頷いた。
「稽古の安全にも関わります」
さらに、
『役から戻る時間がほしい』
この札は、少し長かった。
でも、削れなかった。
演劇部ならではの札だった。
最後に、村瀬先生が書いた。
『顧問にあとで一言』
莉央がその札を見た。
「これは、先生が見るんですか」
「はい。部長ではなく、私が確認します」
村瀬先生は、はっきり言った。
「部長が全部抱えないようにしましょう」
莉央は、少しほっとした顔をした。
札が並んだ。
『声出ます』
『声小さめ』
『台詞合わせたい』
『今日は見学』
『もう一回やりたい』
『少し休む』
『役から戻る時間がほしい』
『顧問にあとで一言』
箱ではない。
封筒でもない。
相談文を書くカードでもない。
鏡の横のホワイトボードに、マグネットで貼る「今日の声札」。
莉央は、札の上にタイトルを書いた。
『今日の声札』
その下に、小さな説明。
『悩み相談札ではありません』
『稽古に入る前と後の、自分の状態を置く札です』
『誰でも使えます』
『理由は言える時だけで大丈夫です』
『顧問にあとで一言札は、村瀬先生が確認します』
『部長一人で読まない、抱えない』
紬は、その説明を見て、図書室のひと息棚と少し似ていると思った。
でも、形はまったく違う。
ひと息棚は、静かな棚。
今日の声札は、鏡の横。
ひと息棚は、書いて置く。
今日の声札は、選んで貼る。
ひと息棚は、困りごとの入口。
今日の声札は、稽古に入る前の状態の入口。
違う。
けれど、同じものもある。
声に出しにくい状態を、一人で抱えないこと。
受け取る人が一人で抱えないこと。
場に入る前に、自分の状態を置けること。
試しに、その日の稽古前に使ってみることになった。
莉央が言う。
「今日の声札、使ってみます。無理に貼らなくてもいいです」
最初に、莉央が『声出ます』を貼った。
「私は声出ます」
別の部員が『台詞合わせたい』を貼る。
「二場のところ、誰かお願いします」
もう一人が『もう一回やりたい』を貼って笑った。
「まだやってないのに?」
「昨日の場面をもう一回やりたい」
少し笑いが起きた。
柊は、しばらく札を見ていた。
手が、『声小さめ』の前で止まる。
そして、その札を取って、自分の名前の横に貼った。
『声小さめ』
部室が、少しだけ静かになった。
けれど、誰も大げさに反応しなかった。
莉央が、いつものように言う。
「柊は声小さめ。じゃあ最初の発声は軽めにしよう。台詞は、今日は音量より間で見ます」
村瀬先生も頷いた。
「無理に張らなくていいです」
柊は、ほっとしたように息を吐いた。
「はい」
それだけだった。
相談にならなかった。
心配されすぎもしなかった。
でも、無理に大きな声を出さなくてよくなった。
稽古が始まる。
「あめんぼあかいな、あいうえお」
今日は、全員の声がいつもより少しだけ丁寧に聞こえた。
大きさだけではなく、状態を見ながら出している声だった。
休憩の後、柊は台詞の場面に入った。
声は小さめだったが、台詞の間はよく合っていた。
莉央が言う。
「音量は抑えめだけど、間はすごくよかった」
柊は、小さく頷いた。
稽古後、別の部員が『役から戻る時間がほしい』を貼った。
村瀬先生が、すぐに言う。
「では、その人は片づけの前に五分、廊下で休んでください。片づけは他の人で始めます」
誰かが文句を言うことはなかった。
札があることで、それは特別扱いではなく、部室の約束になっていた。
莉央は、青い箱を見た。
使われなかった箱。
でも、それを失敗とは思わなかった。
この箱があったから、何が重く見えるのかがわかった。
箱ではなく、札。
相談ではなく、今日の声。
その持ち替えが必要だった。
稽古の終わり、莉央は青い箱の札を外した。
『声に出せないことを置く箱』
その札は、使い方帳の「最初に試した形」のページに貼ることにした。
捨てない。
なかったことにしない。
部室では合わなかった形として、残す。
その横に書く。
『相談箱に見えて重くなった』
さらに、
『部室では、鏡横の今日の声札へ持ち替えた』
紬は、しおり型カードを一枚取り出した。
今日の一文を書く。
『ひと息棚を持ち替えることは、同じ箱を置くことではなく、その場の声が軽く置ける入口を探すことだった』
莉央がそれを読んで、ゆっくり頷いた。
「本当にそうだね。相談箱じゃなくて、稽古に入る前の声の置き場だった」
柊が、鏡の横の札を見ながら言った。
「『声小さめ』って言えたら、稽古が休みになるわけじゃないんですね」
莉央が笑う。
「休みたい時は『少し休む』がある」
「そうだけど」
柊は、少し考えてから言った。
「声小さめでも、できる稽古があるってわかった」
村瀬先生が頷いた。
「それを知るための札でもありますね」
紬は、鏡に映る部室を見た。
青い箱は隅に下げられた。
代わりに、鏡の横には白い札が並んでいる。
声出ます。
声小さめ。
台詞合わせたい。
今日は見学。
もう一回やりたい。
少し休む。
役から戻る時間がほしい。
顧問にあとで一言。
それらは、図書室のしおり型カードとは違う。
でも、部室の中で、ちゃんと息をしているように見えた。
夜、白瀬灯理は演劇部の部室を出た。
廊下には、稽古後の熱がまだ少し残っていた。遠くの教室からは、吹奏楽部の音がかすかに聞こえる。窓の外はすっかり暗くなり、校舎のガラスに廊下の明かりが細長く映っていた。
莉央と柊、村瀬先生、紬が部室の前まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
莉央が言った。
「こちらこそ、ひと息棚の意味が演劇部の声へ持ち替えられていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
莉央は、少し恥ずかしそうに青い箱を抱えていた。
「最初は、箱を置けばいいと思っていました」
「はい」
「でも、部室では相談箱に見えました。相談ってほどじゃないことを置きたかったのに、箱にすると重くなってしまって」
柊が、鏡の横を振り返った。
「今日の声札なら、置けました」
村瀬先生が言った。
「相談箱ではなく、稽古に入る前と後の状態を見る札ですね」
紬が、カードを出した。
莉央が読む。
「ひと息棚を持ち替えることは、同じ箱を置くことではなく、その場の声が軽く置ける入口を探すことだった」
灯理は頷いた。
ひと息棚を持ち替えることは、同じ箱を運ぶことではない。
同じ説明文を貼ることでもない。
図書室には、図書室の静けさがある。
本の間に置けるカード。
声に出さずに入れられる箱。
先生へつながる封筒。
それが合う場所だった。
けれど、部室には部室の呼吸がある。
発声練習の前の緊張。
台詞を合わせる声。
役に入ったあとの余韻。
先輩と後輩の距離。
見学したいと言いにくい空気。
もう一回やりたいと言い出す照れ。
そこでは、箱より札が合うことがある。
相談より、今日の声という言葉が合うことがある。
書くより、選んで貼る方が合うことがある。
持ち替えるとは、元の意味を捨てることではない。
その場で使える入口を探すことだ。
声に出しにくいものを置けること。
一人で抱えないこと。
受け取る人も一人で抱えないこと。
それを、部室の鏡の横へ置き直す。
灯理は、夜の廊下から部室を振り返った。
鏡の横には、今日の声札が並んでいる。
紬のしおり型カードには、一文が残っている。
ひと息棚を持ち替えることは、同じ箱を置くことではなく、その場の声が軽く置ける入口を探すことだった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




