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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第36章 第4話:朝市の授業――商店街ではない協力札


 朝市の広場には、まだ朝露の匂いが残っていた。


 公園前の石畳に、白いテントがいくつも並んでいる。野菜の箱、焼きたてのパン、手作りの布小物、瓶詰めのジャム。テントの間を、準備中の人たちが行き来していた。


 遠くでは、発電機が低く唸っている。


 テーブルの脚を広げる音。


 ビニール袋を開く音。


 パンの甘い匂い。


 土のついた大根の匂い。


 惣菜店の油の匂い。


 商店街とは違うにぎやかさだった。


 静子は、商店街協力札の袋を抱えて広場に立っていた。


 袋の中には、これまで何度も見直してきた札が入っている。


『道を聞かれたら案内できます』


『水を一杯出せます』


『今日はできません。またできる日にお願いします』


『次ならできます』


『相談してから決めたい』


『試しに一回ならできます』


『来月見直します』


 商店街では、これらの札が少しずつ働くようになっていた。


 無理なく協力できる日。


 休む日。


 まだ選べない日。


 試しに一回だけできること。


 札があることで、店の人たちは大きな役割を抱えずに関われるようになった。


 その話を聞いた朝市運営者の宮田さんが、相談してきたのだ。


「朝市でも、協力札を使えませんか」


 朝市は、月に一度、公園前の広場で開かれる。


 商店街の店だけでなく、農家、パン屋、地域の手作り品の出店者、高校生ボランティア、地域学習センターの小さなブースも参加する。


 人が多く集まる一方で、案内や休憩、水の場所、迷子対応などがその場その場になりがちだった。


 静子は、協力札が役に立つと思った。


 大きな役割ではなく、一枚だけの協力。


 それなら朝市にも合うのではないか。


 そう考えて、札の袋を持ってきた。


 だが、準備が始まってすぐ、商店街とは違う流れが見えてきた。


 朝市は、ずっとある場所ではない。


 今日の午前中だけの場。


 テントは昼にはたたまれる。


 人は時間ごとに入れ替わる。


 朝の準備、開場直後の混雑、十時過ぎの落ち着いた時間、片づけ前の慌ただしさ。


 同じ広場でも、時間によってまったく違う顔をする。


 宮田さんは、本部テントの前で札を確認していた。


「とりあえず、案内係にこれを持ってもらいましょうか」


 そう言って、高校生ボランティアの奈々に札を渡した。


『道を聞かれたら案内できます』


 奈々は、明るく頷いた。


「わかりました」


 彼女は本部テントの横に立ち、来場者にパン屋の場所、トイレの場所、地域学習センターのブースを案内し始めた。


 最初はうまくいっているように見えた。


「トイレはあちらです」


「野菜は左の奥です」


「スタンプカードは本部で配っています」


 奈々は、札を首から下げて笑顔で答えていた。


 しかし、一時間が過ぎ、二時間が近づく頃、奈々の声が少し小さくなった。


 立ちっぱなしだった。


 水を飲む時間も取れていない。


 札には『道を聞かれたら案内できます』と書かれている。


 けれど、いつまで案内するのか、誰と交代するのかは書かれていない。


 奈々は、札を外すタイミングがわからないまま立ち続けていた。


 一方、直人の惣菜テントでも困りごとが起きていた。


 直人は、商店街で「試しに一回ならできます」と言えるようになったばかりだった。


 今日の朝市では、惣菜店として初参加している。


 宮田さんに聞かれ、直人は少し考えてから札を出した。


『水を一杯出せます』


 テントの横に、小さな給水ポットを置いた。


 開場直後は、よかった。


 近くの人が一人、水をもらって礼を言った。


 直人は少し嬉しそうだった。


 でも、十時前になると、惣菜の列が伸び始めた。


「唐揚げ二つ」


「コロッケまだありますか」


「お弁当、三つお願いします」


 その最中に、年配の男性が言った。


「水、もらえる?」


 直人は、手袋を外し、会計を止め、給水ポットへ向かった。


 後ろの列が少し詰まる。


 直人は慌てて戻りながら、札を見た。


『水を一杯出せます』


 出せる。


 でも、今は出しにくい。


 店の準備や販売と重なると、協力が負担になる。


 商店街の店先なら、忙しい時に休む札を出せた。


 でも、朝市では時間が短い。


『今日はできません』を出すと、朝市全体を断っているようにも見える。


『次ならできます』も、次がいつなのか曖昧だった。


 来月なのか、次の時間帯なのか、次の人なのか。


 静子は、広場を見回しながら、胸の奥に小さな違和感を感じていた。


 札はある。


 でも、朝市の時間の流れに合っていない。


 その時、奈々が本部テントの横で小さく座り込んだ。


 倒れたわけではない。


 ただ、足を休めるために、折りたたみ椅子に腰を下ろした。


 でも、首からはまだ『道を聞かれたら案内できます』の札が下がっている。


 来場者が近づいてきた。


「すみません、手作りジャムの場所は?」


 奈々は立ち上がろうとした。


 宮田さんが慌てて声をかける。


「奈々さん、休んでいて大丈夫です」


 奈々は困った顔をした。


「でも、札を持っているので」


 静子は、その言葉を聞いて足を止めた。


 札を持っているので。


 商店街で何度も見てきた言葉の形だった。


 できる札を出したから、できなければならない。


 休む札があるのに、休む空気がない。


 ただ、今回は少し違う。


 朝市では、できるかできないかだけでなく、いつまでできるかが見えていなかった。


 その時、白瀬灯理が本部テントの方へ歩いてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 朝市のテントの間を、急がず歩いている。野菜の箱、惣菜の列、案内札を持った奈々、給水ポットの前で迷う直人、宮田さんの記録板を、ひとつずつ見ていた。


 静子は、灯理に気づくと、少しほっとした。


「白瀬先生」


「おはようございます」


 灯理は、本部テントの下へ入った。


 静子は、商店街札の袋を抱え直した。


「先生、商店街で使えた札を持ってきたのに、朝市では時間が見えなくて、協力する人が疲れてしまいました」


 言いながら、静子は奈々を見た。


「案内できますの札を持った奈々さんは、ずっと立ち続けていました。直人さんは水を出せますと言ったけれど、販売の忙しい時間には対応できませんでした」


 宮田さんも言った。


「札があるのは助かると思ったんです。でも、誰がいつまで持つかまでは決めていませんでした」


 直人が、テントから少し顔を出した。


「水を出せる時間と、出せない時間がありました」


 奈々は、首から下げた札を見た。


「案内できます、って書いてあると、休んでいいのか迷いました」


 灯理は、それぞれの言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、協力札を持ち替えることは、同じ札を違う場所に並べることなのでしょうか」


 同じ札を違う場所に並べること。


 静子は、札の袋の中を見た。


 商店街では、日をまたいで使える札が必要だった。


 今日はできません。


 またできる日に。


 来月見直します。


 次ならできます。


 店の状況に合わせて、できる日と休む日を選ぶ。


 でも、朝市は一日限りだ。


 午前中だけ。


 その中に、準備中、混雑中、休憩中、片づけ前がある。


 同じ「次ならできます」でも、朝市では意味がぼやける。


 次の朝市なのか、次の時間なのか、次の人なのか。


 同じ「今日はできません」も、一日イベントでは重く見える。


 今日は全部できません、に見える。


 朝市に必要なのは、日ではなく時間だった。


 始まりと終わり。


 交代と休憩。


 今は対応中。


 今は準備中。


 十一時まで。


 十分だけ。


 本部へ戻す。


 それが見えなければ、協力は短時間のはずなのに、ずっと続く役割になってしまう。


 灯理は、本部テントの折りたたみ机に白い紙を置いた。


『商店街と朝市の違い』


 宮田さんがペンを持った。


 静子が言う。


「商店街は、店がずっとあります」


『商店街:常設』


 直人が続ける。


「店ごとのペースで札を出せます」


『店ごとのペース』


 前田さんは今日は来ていなかったが、静子は前田さんならこう言いそうだと思った。


「日をまたげる」


『日をまたげる』


 次に、朝市。


 宮田さんが書く。


『朝市:一日限り』


 奈々が言う。


「時間で人が入れ替わります」


『時間で人が入れ替わる』


 直人が続ける。


「忙しい時間がはっきりあります」


『忙しい時間がある』


 宮田さんが言った。


「準備と片づけもあります」


『準備・片づけがある』


 静子は、紙を見た。


 違いがはっきりしてくる。


 商店街の札は、場所に根を張る札だった。


 朝市には、時間を刻む札が必要だった。


 灯理が尋ねる。


「朝市の協力札には、何が書かれているとよいでしょう」


 奈々が、少し遠慮がちに言った。


「いつまで、があると助かります」


 宮田さんが書く。


『いつまで』


 直人が言った。


「何時からならできる、もほしいです」


『何時から』


 別のボランティアが言った。


「休憩中、って出せる札がほしい」


『休憩中』


 宮田さんが続ける。


「交代する札も必要ですね」


『交代』


 静子が言う。


「案内できない時、本部へ聞いてください、も」


『本部へ聞いてください』


 灯理は頷いた。


「では、朝市の時間に合う札を作ってみましょう」


 白いカードが広げられた。


 まず、奈々が書いた。


『十一時までできます』


 手元の字は少し大きかった。


「これなら、十一時になったら外していいってわかります」


 宮田さんが頷く。


「案内係は三十分交代にしましょう」


 新しい札。


『案内は三十分交代です』


 そして、


『次の人へ交代します』


 奈々は、その札を見て、少し表情をゆるめた。


「これ、出したいです」


 静子は、胸の奥が少しほどけるのを感じた。


 交代します、という札があるだけで、休むことが責任放棄ではなくなる。


 次に、直人が水の札を作った。


 最初の札は、


『水を一杯出せます』


 だった。


 でも、それではいつでも対応できるように見える。


 直人は、新しい札に書いた。


『水は十時半から出せます』


 さらに、


『販売中は本部の水へお願いします』


 宮田さんが、本部テントの横の給水ポットを見た。


「本部にも水を置きます。直人さんのところだけに集まらないように」


 直人は、ほっとしたように頷いた。


「助かります」


 別の出店者が言った。


「準備中の札もほしいです。開場前に話しかけられると、手が止まってしまうので」


 札が増える。


『準備中です』


『片づけ中です』


『いま十分だけできます』


『本部へ聞いてください』


『休憩中です』


『十一時までできます』


『次の人へ交代します』


『水は十時半から出せます』


『案内は二人で交代します』


 商店街の札とは、言葉が少し違う。


 今日はできません、よりも、今は準備中。


 次ならできます、よりも、十時半からできます。


 休みます、よりも、十一時までできます、次の人へ交代します。


 時間が入ると、協力の輪郭がはっきりした。


 宮田さんは、朝市記録の板も作り直した。


 これまでは、


『担当』

『場所』

『内容』


 だけだった。


 そこに新しい欄を足す。


『開始時間』

『終了時間』

『交代相手』

『休憩時間』

『本部へ戻すもの』


 奈々の欄には、こう書かれた。


『案内係:九時半から十一時』

『十時に一度休憩』

『十一時に拓也へ交代』


 奈々は、札を掛け替えた。


『案内は十一時までできます』


 その下に、小さく、


『次の人へ交代します』


 の札を重ねて持つ。


 十一時になったら、それを出す。


 それが決まっているだけで、奈々の立ち方が少し変わった。


 先ほどより肩が下がり、声にも余裕が戻っている。


 来場者が尋ねた。


「手作りジャムはどこですか?」


 奈々は、笑顔で答えた。


「右奥の青いテントです。私は十一時まで案内しています。十一時からは別の人に代わります」


 来場者は、札を見て頷いた。


「ありがとう。無理しないでね」


 奈々は、少し驚いた顔をした。


 札に時間があると、見る人も無理を感じ取れる。


 協力は、終わりが見えると、頼む側も受け取りやすくなるのかもしれない。


 十時半、直人のテントに新しい札が出た。


『水は十時半から出せます』


 販売の列が少し落ち着いた時間だった。


 直人は、小さな紙コップを用意し、給水ポットをテントの端に置いた。


 その横に、もう一枚。


『混雑中は本部の水へお願いします』


 年配の男性が水をもらいに来た。


 直人は、今度は慌てなかった。


「どうぞ」


「ありがとう。忙しい時は本部へ行けばいいんだね」


「はい、お願いします」


 短いやりとりだった。


 でも、直人の手は止まりすぎなかった。


 店も、水も、どちらも無理なく動いた。


 その後、奈々は十時の休憩札を出した。


『休憩中です』


 札を出して椅子に座る。


 首から札を外して、本部テーブルに置く。


 宮田さんが、別のボランティアに声をかける。


「十時から十分、案内をお願いします」


 交代した高校生が『いま十分だけできます』札を持った。


 十分だけ。


 その短さが、かえって出しやすかった。


「十分なら大丈夫です」


 高校生はそう言って、本部の前に立った。


 静子は、その様子を見ていた。


 商店街では、一枚だけの協力札が、人を参加しやすくした。


 でも、朝市では、一枚だけでは足りないことがある。


 時間がないと、一枚が長くなりすぎる。


 交代がないと、一枚が重くなる。


 終わりがないと、協力する人が休めなくなる。


 一日限りの場には、一日限りの札が必要だった。


 昼前、朝市の流れが落ち着いてきた。


 宮田さんは、本部テントの記録板を見ながら言った。


「協力内容だけでは足りなかったですね」


 静子が頷く。


「商店街では、できるか休むかを見ていました。でも、朝市では、いつ始めていつ終わるかが見えないといけない」


 奈々は、水を飲みながら言った。


「終わる時間が書いてあると、安心します」


 直人も言った。


「僕も、十時半からなら水を出せるとわかったので、出しやすかったです」


 宮田さんは、朝市記録の下に一文を書いた。


『一日限りの協力には、できることだけでなく、終わる時間と交代の道が必要だった』


 静子は、その言葉を見て、商店街ノートを開いた。


 朝市の広場を見渡す。


 野菜のテント。


 パンの列。


 惣菜の匂い。


 案内札を掛け替える高校生。


 休憩中の札。


 本部へ聞いてくださいの札。


 十一時までできますの札。


 どれも、商店街の札とは少し違う。


 けれど、守りたい意味は同じだった。


 協力を大きな役割にしないこと。


 支える人が疲れすぎないこと。


 できる範囲を見えるようにすること。


 休めること。


 戻れること。


 その意味を、朝市の時間の中へ置き直した。


 静子は、商店街ノートに書いた。


『協力札を持ち替えることは、同じ札を並べることではなく、その場の時間の流れに合わせて終わり方まで作ることだった』


 書き終えると、広場の時計が十一時を指した。


 奈々が『次の人へ交代します』札を出した。


 拓也という高校生が、案内札を受け取る。


「お疲れ」


「ありがとう」


 奈々は椅子に座り、靴のかかとを少し緩めた。


 その顔には、疲れはあった。


 でも、無理をした後の固さはなかった。


 夜、白瀬灯理は朝市の片づいた広場を歩いた。


 昼にはにぎわっていたテントはもうたたまれ、石畳には小さな野菜の葉が一枚落ちている。発電機の音は消え、代わりに公園の木々が風に揺れる音が聞こえていた。


 静子と宮田さん、直人、奈々が、広場の端まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


 宮田さんが言った。


「こちらこそ、商店街の札が朝市の時間へ持ち替えられていく様子を一緒に見せていただきました」


 灯理は静かに答えた。


 静子は、札の袋を抱えていた。


 朝持ってきた時より、袋の中身は少し増えている。


『十一時までできます』


『休憩中です』


『次の人へ交代します』


『本部へ聞いてください』


『いま十分だけできます』


 奈々は、その中から『次の人へ交代します』の札を取り出した。


「これがあって、助かりました」


 直人も言った。


「僕は、水を出せる時間を決めたら、無理なくできました」


 宮田さんは、記録板を持っていた。


「次回から、協力内容だけでなく、開始時間と終了時間、交代相手も書きます」


 静子は、広場を見た。


「商店街の札をそのまま持ってくればいいと思っていました。でも、朝市には朝市の時間がありました」


 灯理は頷いた。


 協力札を持ち替えることは、同じ札を別の場所に並べることではない。


 商店街には、商店街の時間がある。


 店が開き、閉まり、日をまたぎ、季節を越える。


 だから、今日はできません、またできる日に、来月見直しますという札が働く。


 朝市には、朝市の時間がある。


 準備があり、開場があり、混雑があり、休憩があり、交代があり、片づけがある。


 その場では、今日できるかどうかだけでは足りない。


 何時からできるのか。


 何時までできるのか。


 誰と交代するのか。


 どこへ戻せばよいのか。


 休憩中と言えるのか。


 十分だけでもよいのか。


 協力は、終わりが見える時、続けやすくなる。


 終わる時間があるから、始められる。


 交代の道があるから、引き受けられる。


 休憩札があるから、立ち続けずにすむ。


 形は変わった。


 でも、守りたい意味は残った。


 大きな役割ではなく、今できる範囲で関わること。


 支える人が疲れすぎないこと。


 できない時や終わる時を、責めずに言えること。


 その意味が、朝市の短い時間の中で、別の札になって働き始めていた。


 灯理は、夕闇の広場を振り返った。


 静子の商店街ノートには、一文が残っている。


 協力札を持ち替えることは、同じ札を並べることではなく、その場の時間の流れに合わせて終わり方まで作ることだった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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