第28章 第1話:発言の授業――手を挙げない話し合い
美咲の手は、いつも早く挙がる。
教室の窓は少し開いていて、五月の風がカーテンを揺らしていた。黒板には、白いチョークで大きく「お楽しみ会で何をするか」と書かれている。下には、三井先生の字で「みんなで決める」「時間は二時間」「準備は一週間」と並んでいた。
五年生の教室は、いつもより少し浮き立っていた。
お楽しみ会。
その言葉だけで、机の中から小さなざわめきが出てくるようだった。
「はい!」
三井先生が「まず、やりたいことを出しましょう」と言った瞬間、美咲は手を挙げた。
椅子が少しきしむ。
隣の真央が、その音に小さく肩を揺らした。
「美咲さん」
「ドッジボールがいいと思います! みんなでできるし、絶対盛り上がるからです!」
美咲が言うと、教室のあちこちから「いいね」「やりたい」と声が上がった。
蓮もすぐに手を挙げた。
「はい! ドッジのあとにクイズ大会も入れたらいいと思います。チーム対抗にしたらもっと盛り上がります」
「それいい!」
「景品つけよう!」
「先生、景品ありですか?」
三井先生は笑いながら黒板に書いた。
『ドッジボール』
『クイズ大会』
「他にはありますか」
「はい!」
また美咲の手が挙がった。
「映画鑑賞は、ちょっと静かすぎると思います。せっかくのお楽しみ会だから、動ける方がいいです」
黒板の端に書かれかけた『映画』の文字が、三井先生の手元で止まった。
「そうですね。映画という意見もありますが、静かに見る活動ですね」
蓮が笑いながら言う。
「寝る人出そう」
教室に笑いが起きた。
美咲も笑った。
楽しかった。
話し合いが動いている感じがする。
自分が言うと、みんなが反応する。蓮が乗ってくる。誰かが笑う。黒板に意見が増える。
それは、美咲にとって気持ちのいい時間だった。
何もないところに、声を出す。
みんなの顔が明るくなる。
場が進む。
だから、美咲はまた手を挙げた。
「クイズは、先生問題とか入れたら面白いと思います!」
「それ最高!」
「三井先生の好きな食べ物とか?」
「それ、みんな知ってるでしょ」
教室はどんどん賑やかになる。
その中で、真央は机の上の学級会ノートを見ていた。
ノートの端には、小さな字で書かれている。
『工作』
『読書カフェ』
『運動が苦手な人も入れるもの』
真央は、手を挙げようとして、一度指先を動かした。
でも、美咲と蓮の声が続いている。
「ドッジはトーナメントにしよう」
「負けたチームもクイズで点数取れるようにすればいい」
「司会は誰?」
「美咲、司会やれば?」
手を挙げるタイミングが見つからない。
真央は、ノートに書いた文字を指でなぞった。
工作なら、運動が苦手な子もできる。
読書カフェなら、静かに本を読んだり、好きな本を紹介したりできる。
前に図書室で、普段あまり話さない子が本の話になるとよく笑うのを見たことがあった。
でも、今の教室で「読書カフェ」と言ったらどうなるだろう。
静かすぎる。
つまらない。
お楽しみ会なのに。
そう言われる気がして、真央の手は机の上から離れなかった。
三井先生は、黒板を見ながら言った。
「だいぶ意見が出ましたね。活発な話し合いでいいですね」
美咲は、少し誇らしくなった。
活発。
自分たちのクラスは、ちゃんと話し合えている。
そう思った。
教室の後ろでは、白瀬灯理が静かに様子を見ていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
今日は、学級会の学びを一緒に見てもらうために三井先生が招いた先生だった。
灯理は、黒板に並ぶ意見ではなく、教室の中の手の動きを見ていた。
何度も挙がる手。
一度も挙がらない手。
挙がりかけて、机の上に戻る手。
鉛筆を握ったままの手。
ノートの端に何かを書いている手。
話し合いの時間が終わりに近づいた時、三井先生が言った。
「では、候補としては、ドッジボールとクイズ大会を中心に考える形でよいですか」
「いいと思います!」
美咲が言う。
蓮も頷く。
「絶対盛り上がる」
何人かが「賛成」と言った。
真央は、ノートを見た。
工作。
読書カフェ。
その文字は、誰にも読まれないまま、ノートの端に座っている。
真央は、消しゴムを手に取った。
でも、消すことはできなかった。
学級会が終わった後、美咲は満足していた。
「いい会議だったね」
蓮が言う。
「うん。けっこう決まったし」
美咲は、黒板を見た。
ドッジボール。
クイズ大会。
チーム対抗。
司会。
準備係。
どれも楽しそうだ。
「真央、ドッジのチーム一緒になれるといいね」
美咲が振り返ると、真央はノートを閉じていた。
「うん」
「どうしたの?」
「別に」
「なんか静かだったね」
「うん」
「手、挙げなかったじゃん」
真央は、少しだけ困った顔をした。
「タイミング、なかった」
「え、タイミングって、挙げればいいじゃん」
美咲は、そう言ってから笑った。
悪気はなかった。
自分ならそうする。
言いたいことがあるなら、手を挙げる。
それだけだと思っていた。
けれど、真央は小さく首を横に振った。
「みんな、もう盛り上がってたから」
「盛り上がってた方が言いやすくない?」
「美咲は、そうかも」
真央の声は小さかった。
美咲は、少しだけ引っかかった。
美咲は、そうかも。
その言い方に、何かが含まれているような気がした。
放課後、三井先生は学級会ノートを集めた。
お楽しみ会について、今日の感想を書く欄がある。
美咲は、こう書いた。
『ドッジボールとクイズ大会が楽しみです。みんなでたくさん意見が出せてよかったです。司会もやってみたいです。』
真央のノートには、別のことが書かれていた。
『本当は、工作か読書カフェも入れたかったです。運動が苦手な人や、大きな声が苦手な人も参加しやすいと思ったからです。でも、言えませんでした。』
三井先生は、その一文を見て、しばらく手を止めた。
言えませんでした。
学級会は活発だった。
たくさんの声が出た。
教室は盛り上がっていた。
でも、その盛り上がりの中で、出てこなかった考えがあった。
翌日の学級活動の時間。
黒板には、昨日と同じ議題が残っていた。
ただし、その横に新しく書かれている。
『話し合いの入り口を増やす』
美咲は、首を傾げた。
「昨日、決まったんじゃないの?」
蓮も言った。
「ドッジとクイズでしょ?」
三井先生は、少しゆっくり話し始めた。
「昨日、たくさん意見が出ました。とても活発でした。でも、ノートを読んで、先生は気づいたことがあります」
教室が静かになる。
「手を挙げなかった人の中にも、考えがありました」
美咲は、真央を見た。
真央は、机の上を見ていた。
灯理が教室の前に立った。
「今日は、もう一度話し合います。ただし、最初から手を挙げて話すのではなく、違う方法で意見を出してみましょう」
美咲は、少し納得がいかなかった。
昨日、ちゃんと話し合ったと思っていた。
たくさん意見も出た。
先生も活発だと言った。
それなのに、もう一度。
美咲は手を挙げた。
「先生」
三井先生が頷く。
「美咲さん」
「手を挙げないなら、意見がないってことじゃないんですか」
言った瞬間、教室が少し静かになった。
美咲は、すぐに言い足した。
「いや、悪い意味じゃなくて。言いたいことがあるなら、手を挙げればいいと思うし。黙ってたら、わからないから」
それは、美咲の本音だった。
誰かを責めたいわけではない。
でも、言わなければ伝わらない。
そう思っている。
灯理は、美咲の言葉を急いで否定しなかった。
ただ、静かに頷いた。
「うん。では、声に出なかった考えは、話し合いに存在しなかったことになるのでしょうか」
美咲は、言葉に詰まった。
存在しなかったこと。
そこまで言われると、違う気がした。
真央のノートには、何か書いてあったのかもしれない。
でも、手は挙がらなかった。
それは、存在しなかったことになるのか。
灯理は、黒板に表を書いた。
『昨日の発言回数』
美咲、七回。
蓮、五回。
他数名、二回、一回。
真央、ゼロ回。
同じくゼロ回の名前が、いくつも並んだ。
教室がざわつく。
「美咲、七回も言ったの?」
蓮が言う。
「蓮も五回じゃん」
美咲は言い返したが、自分でも驚いていた。
そんなに話していたのか。
灯理は言った。
「たくさん話せることは、力です。美咲さんや蓮さんが声を出したから、場が動きました」
美咲は、少しだけほっとした。
「ただ、話し合いは、発言の多い人だけでできているわけではありません。手を挙げるのが得意な人もいれば、考えてから話したい人もいます。先に書く方が言いやすい人もいます。小さな声なら言える人もいます。友だちに読んでもらうなら出せる意見もあります」
真央が、少し顔を上げた。
灯理は、机の上に付箋を配った。
黄色、青、桃色。
「まず、誰も話さずに三分間、自分の考えを書きます。黄色には『やりたいこと』、青には『心配なこと』、桃色には『別の案』を書いてください。名前は書いても、書かなくてもいいです」
教室に、紙をめくる音だけが広がった。
三分間。
美咲には、少し長く感じた。
言いたいことならすぐに言える。
でも、黙って書くとなると、少し考える。
黄色の付箋に書く。
『ドッジボール』
『クイズ大会』
青い付箋を見て、手が止まった。
心配なこと。
ドッジとクイズは楽しい。
でも、心配。
美咲は少し考えた。
『ドッジが苦手な人がいるかもしれない』
書いてから、真央の方を見た。
真央は、ゆっくり鉛筆を動かしていた。
黄色の付箋には、
『工作』
桃色には、
『読書カフェ』
青色には、
『運動が苦手な人が参加しにくいかもしれない』
『大きな声がずっと続くと疲れる人がいるかもしれない』
真央は、書いた付箋をしばらく見つめた。
これを出していいのだろうか。
場が盛り下がらないだろうか。
でも、今日は話す前に書く時間だった。
手を挙げなくても、付箋なら出せる。
真央は、そっと付箋を机の端へ置いた。
三井先生が、全員の付箋を集めた。
黒板に、大きく三つの欄を作る。
『やりたい』
『心配』
『別案』
付箋が貼られていく。
やりたい。
ドッジボール。
クイズ大会。
宝探し。
映画。
工作。
読書カフェ。
ボードゲーム。
心配。
運動が苦手な人がいる。
大きい音が苦手。
ドッジで当たるのが怖い。
クイズで答えられないと恥ずかしい。
映画だけだと話せない。
工作は準備が大変。
読書カフェは静かすぎるかも。
別案。
選択制。
前半と後半で分ける。
静かな部屋と動く部屋を作る。
ドッジが苦手な人は応援係や得点係でもいい。
工作したものをクイズの景品にする。
読書カフェでおすすめ本カードを作る。
黒板が、付箋でいっぱいになった。
美咲は、目を丸くした。
「こんなにあったの?」
昨日の黒板とは違う。
昨日は、ドッジとクイズが大きく見えていた。
今日は、その周りに、心配や別案がたくさん座っている。
蓮も、少し驚いた顔をしていた。
「俺、ドッジ嫌な人いるって考えてなかった」
後ろの席の子が、小さく言った。
「当たるの、ちょっと怖い」
その子は、昨日一度も手を挙げていなかった。
美咲は、その声を聞いて胸が少しざわついた。
昨日、その子は教室にいた。
同じ机に座っていた。
でも、その考えは黒板に出なかった。
灯理は、黒板の付箋を指した。
「昨日の話し合いになかった考えは、今日、初めて生まれたのでしょうか」
三井先生が、クラスを見渡した。
真央が、小さく首を横に振った。
「昨日も、ありました」
その声は小さかった。
でも、教室に届いた。
灯理は頷いた。
「はい。昨日もありました。ただ、出る入り口がなかったのかもしれません」
美咲は、真央の付箋を見た。
工作。
読書カフェ。
運動が苦手な人も参加しやすい。
大きな声が続くと疲れる人がいるかもしれない。
真央は、昨日もこれを考えていた。
自分がドッジの話で盛り上がっていた時、真央はこれをノートの端に書いていた。
美咲の胸に、少しだけ重いものが落ちた。
「真央」
休み時間、美咲は真央の席へ行った。
「昨日、言いにくかった?」
真央は、少し迷ってから頷いた。
「うん」
「私、しゃべりすぎた?」
真央は、すぐには答えなかった。
美咲は、少し怖くなった。
でも、真央はゆっくり言った。
「しゃべりすぎっていうか、美咲が言うと、みんながそっちに行く感じがした」
「そっち?」
「ドッジが楽しい、クイズが盛り上がる、映画は静かすぎるってなると、工作って言いにくくなる」
美咲は、机の端に指を置いた。
「私、盛り上げたかっただけなんだけど」
「うん。わかってる」
「でも、押してた?」
真央は、少し考えた。
「少し」
その「少し」が、美咲にはまっすぐ届いた。
大きく責められたわけではない。
でも、確かに自分の声が誰かの声の上に乗っていたのだとわかった。
「ごめん」
美咲が言うと、真央は首を横に振った。
「美咲が悪いだけじゃないと思う。私も言わなかったし」
「でも、言えない形だったんだよね」
真央は、少し驚いたように美咲を見た。
美咲は、黒板の付箋を見た。
「次、私、先に言いすぎないようにする」
真央は、少し笑った。
「言わなさすぎても、美咲じゃないよ」
「それは難しい」
二人は、小さく笑った。
次の学級会では、話し合いの進め方が変わった。
最初に、一分間の沈黙時間。
その後、一人一枚は必ず付箋を書く。
発言は、同じ人が続けて二回言わない。
意見は「賛成」「心配」「別案」に分ける。
手を挙げるのが難しい人は、発言カードを机の上に出す。
カードには、いくつかの言葉が書かれている。
『読んでほしい』
『小さい声でなら言える』
『まだ考え中』
『友だちに代わりに読んでほしい』
『心配があります』
三井先生は、黒板の横に小さく書いた。
『まだ決めない時間』
美咲は、その言葉を見て少し笑った。
昨日までなら、早く決めたいと思っていた。
決まると気持ちいい。
会議が進んだ気がする。
でも、早く決めることで、まだ出ていない声を置いていくこともある。
三井先生が言った。
「では、お楽しみ会の形を考え直します。まず、昨日出た付箋を見ながら、何を大切にしたいか考えましょう」
美咲は手を挙げかけて、止めた。
黒板の横にある発言回数表を見る。
まだ誰も話していない。
美咲は、少しだけ待つことにした。
沈黙が生まれる。
いつもなら、美咲がすぐ埋めていた沈黙。
でも、今日は待つ。
その沈黙の中で、後ろの席の子が発言カードを出した。
『小さい声でなら言える』
三井先生が近づく。
「はい。ここで言っても、先生が読んでも、どちらでもいいですよ」
その子は、小さな声で言った。
「ドッジは見るのは好きだけど、当たるのが怖いです」
三井先生が黒板に書いた。
『ドッジを見るのは好き/当たるのは怖い』
蓮が手を挙げた。
「じゃあ、ドッジをやる人と、応援とか得点係に分けるのは?」
美咲は、思わず「いい!」と言いかけた。
でも、手を挙げてから言った。
「いいと思います。あと、ドッジじゃない活動も同じ時間にあったら、選べるかも」
三井先生が頷く。
「選択制ですね」
真央が発言カードを机に出した。
『読んでほしい』
三井先生が尋ねる。
「真央さん、自分で読みますか。先生が読みますか」
真央は、少し迷ってから言った。
「美咲に読んでほしい」
美咲は驚いた。
「私?」
真央は頷いた。
美咲は、真央の付箋を受け取った。
そこには、丁寧な字で書かれていた。
『工作と読書カフェなら、運動が苦手な人も参加しやすいと思います。作ったものをクイズの景品にしたり、おすすめ本カードを飾ったりすると、にぎやかな活動ともつながると思います。』
美咲は、ゆっくり読んだ。
読みながら、真央の考えが自分の声を通って教室に広がっていくのを感じた。
読み終えると、教室が少し静かになった。
それから、蓮が言った。
「工作で景品作るの、いいかも」
「おすすめ本カードも、読書カフェだけじゃなくて教室に飾れるね」
「ドッジ苦手な人は工作でもいいし、ドッジ好きな人は外でやれる」
意見が、昨日とは違う形でつながっていく。
ドッジ対工作ではなく、ドッジと工作。
クイズと読書カフェ。
にぎやかな活動と静かな活動。
どちらか一つではなく、前半と後半、選択制、役割分け。
話し合いは、時間がかかった。
昨日より、決まるのは遅かった。
でも、黒板には多くの子の考えが残っていた。
最終的に、お楽しみ会の形が決まった。
前半は選択制。
校庭でドッジボール。
教室で工作。
ドッジに参加しない子は、得点係や応援カード作りでもよい。
後半は全員でクイズ大会。
その横に、静かに過ごしたい人のための読書カフェコーナーも作る。
工作で作ったしおりやカードは、クイズの参加賞にする。
読書カフェには、おすすめ本カードを置く。
美咲は、黒板を見た。
ドッジボールは残っている。
クイズ大会も残っている。
でも、それだけではない。
真央の工作。
誰かの心配。
静かな場所。
選べる形。
いろいろな声が、消えずに並んでいる。
三井先生が言った。
「今日は、昨日よりも時間がかかりましたね」
クラスの何人かが頷いた。
「でも、たくさんの考えが出ました。話し合いは、早く決めるだけではなく、まだ声になっていない考えを待つことも大切なのですね」
美咲は、学級会ノートを開いた。
今日の振り返りを書く。
最初は、何を書けばいいかわからなかった。
自分は、話すことが得意だと思っていた。
それは悪いことではない。
自分が声を出すことで、場が明るくなることもある。
でも、自分の声が強くなると、誰かの声が出にくくなることもある。
手が挙がらないから、何も考えていないわけではない。
ノートの端にあった考え。
小さい声。
付箋。
カード。
友だちに読んでもらう言葉。
そこにも、話し合いはあった。
美咲は、鉛筆を動かした。
『手が挙がらなかった場所にも、考えは座っていた』
書き終えると、真央が隣からのぞき込んだ。
「いいね」
美咲は、少し照れた。
「真央の考え、座ってた」
「うん。今日は立てたかも」
「立てた?」
「付箋で」
美咲は笑った。
「次は、最初から椅子用意しよう」
「何の椅子?」
「手を挙げない考えが座る椅子」
真央は、少し考えてから笑った。
「それ、黒板に貼ればいいかも」
放課後、三井先生は学級会ノートを読みながら、机に肘をついた。
美咲の一文。
真央の付箋。
蓮の「待つのむずかしいけど、待ったら知らない意見が出た」という感想。
後ろの席の子の「小さい声でも聞いてもらえた」という言葉。
教室の黒板には、まだ付箋が残っている。
黄色、青、桃色。
風に揺れるたび、小さな紙たちがかすかに音を立てた。
灯理は、窓際でその音を聞いていた。
夕方、小学校の校庭には、低い日差しが伸びていた。
美咲と真央は、昇降口の前で靴を履き替えている。
「お楽しみ会、楽しみだね」
美咲が言う。
「うん」
「ドッジもやるし」
「工作もやるし」
「読書カフェもあるし」
「クイズもある」
二人は顔を見合わせた。
昨日より、少し欲張りなお楽しみ会になった。
でも、それでいい気がした。
一つに絞るより、声が残っている。
校門の方へ歩きながら、美咲は言った。
「私、次の学級会で、最初に待つ係やる」
「待つ係?」
「しゃべりたいけど、三人出るまで待つ係」
「それ、係なの?」
「今作った」
真央は笑った。
「美咲に一番難しい係だ」
「だから練習するの」
二人の声が、夕方の校庭に混じっていく。
灯理は、三井先生と一緒に校舎を出た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
三井先生は、手に学級会ノートを持っていた。
「私は、活発な話し合いを見て安心していました」
「はい」
「でも、発言が多いことと、声が広く入っていることは違うのですね」
灯理は頷いた。
「はい」
「これからは、誰が何回話したか、誰の考えがまだ出ていないかも見ていきたいです。手を挙げることだけを発言と思わないように」
校庭では、美咲が真央に何かを言い、真央が少し笑っていた。
その笑いは、昨日よりも近い場所で交わされているように見えた。
発言を学ぶことは、大きな声を出せるようになることだけではない。
もちろん、手を挙げて話す力は大切だ。
場を動かす声。
明るくする声。
新しい案を出す声。
その力があるから、話し合いは前へ進む。
けれど、話し合いの中には、まだ声になっていない考えもある。
手を挙げる前に考えたい人。
先に書く方が言いやすい人。
小さな声なら言える人。
友だちに読んでもらうなら出せる人。
心配だけなら出せる人。
まだ決めない時間があれば、言葉を探せる人。
声にならなかった考えは、存在しなかったわけではない。
ただ、入口がなかっただけかもしれない。
だから、入口を増やす。
付箋。
発言カード。
沈黙時間。
一人一枚の意見。
賛成、心配、別案の欄。
友だちに読んでもらう方法。
まだ考え中と言えるカード。
話し合いは、声の大きさを競う場所ではなく、考えが座れる椅子を増やす場所になる。
灯理は、夕暮れの教室を振り返った。
黒板には、色とりどりの付箋がまだ貼られている。
学級会ノートのページには、美咲の字で一文が残っている。
手が挙がらなかった場所にも、考えは座っていた。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




