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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第27章 第5話:引き継ぎの授業――名前のない席


 地域学習センターの多目的室には、いくつもの引き継ぎ資料が並んでいた。


 長机の上に、紙、カード、ノート、札、地図が置かれている。窓際には夕方の光が差し込み、床に淡い四角を作っていた。廊下からは受付の声がかすかに聞こえ、遠くの調理室では誰かが食器を重ねる音がした。


 机の端には、真央が持ってきた黒板係チェック表がある。


『黒板を消す』

『チョーク確認』

『クリーナーは放課後』

『忘れたら次の休み時間に戻る』

『手伝ってと言ってよい』


 その隣には、莉央の部活ノート。


『先輩が黙る五分間』

『後輩だけの作戦タイム』

『質問で返す声かけ』

『失敗してよい練習』


 さらに、湊の引き継ぎノート。


『司会席には座らない』

『質問されたら、まず紗良へ戻す』

『沈黙をすぐ埋めない』

『中心を奪わず、場から消えない』


 前田さんの倉庫マップも広げられている。


 提灯の棚、延長コードの箱、雨天用シートの場所、外物置の鍵。知恵カードには、昔の失敗と次に生かす方法が書かれていた。


 彩花は、役割札のケースを机に置いた。


『配膳担当』

『宿題担当』

『相談は職員へ』

『休憩中』


 青柳さんは、第26章で作った支え合いの輪の模造紙を壁に貼っていた。中央には『場』と書かれている。その周りに、見守る人、聞く人、つなぐ人、休む人、交代する人、支える手を支える人。


 今日は、学校と地域合同の引き継ぎワークショップだった。


 係活動、部活動、生徒会、地域行事、ボランティア。


 それぞれの場所で、誰かが役割を持ち、誰かへ渡そうとしている。


 その資料を持ち寄り、引き継ぎについて考える時間。


 司会は、紗良だった。


 紗良は、多目的室の前に立っていた。


 手には、司会台本。


 何度も書き直した跡がある。


 赤ペン。


 付箋。


 鉛筆で消した跡。


 最初に書いた台本は、湊のものによく似ていた。


『では、議題に入ります』

『結論から確認します』

『確認事項を整理します』

『次の担当は』


 それは、湊がよく使っていた言葉だった。


 湊の会議は、速かった。


 見通しがあり、迷いが少なく、みんなが安心できた。


 紗良は、何度もその隣に座ってきた。


 湊の進め方を見て、学んできた。


 だから、会長になるなら、湊のようにならなければいけないと思っていた。


 同じくらい整理できて。


 同じくらい早く判断できて。


 同じくらい安心させられて。


 同じくらい、場の中心に立てる人。


 でも、司会台本を読むたび、自分の声ではない気がした。


 言葉は整っている。


 でも、口に出すと少し硬い。


 湊の形をなぞればなぞるほど、自分が薄くなっていく。


「紗良」


 後ろから湊が声をかけた。


 湊は、今日は司会席ではなく、多目的室の右端に置かれた椅子に座る予定だった。


 その椅子には、まだ名前が貼られていない。


「大丈夫?」


 紗良は、台本を胸に抱えたまま、少し笑った。


「大丈夫って言うと、遥さんに種類を聞かれそう」


 近くにいた遥が、すぐに言った。


「聞きますよ」


 紗良は、少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ、大丈夫じゃないかもしれない、くらい」


 湊は頷いた。


「それ、かなり正確」


「正確なのに、全然安心しない」


「するよ。少なくとも、無理に大丈夫って言ってない」


 紗良は、台本を見た。


「湊」


「うん」


「私、まだ湊の台本に寄せてる」


 湊は、少し黙った。


 それから、静かに言った。


「気づいてる」


「やっぱり?」


「うん」


「変?」


「変じゃない。でも、紗良の言葉が出るところの方が、聞きやすい」


 紗良は、顔を上げた。


「湊が言うと、ちょっとずるい」


「なんで」


「湊みたいになれって言われるより、湊みたいにならなくていいって湊に言われる方が難しい」


 湊は、困ったように笑った。


 その時、白瀬灯理が多目的室に入ってきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 青柳さんが、入口で会釈した。


「白瀬先生、今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。たくさんの引き継ぎの形が集まりましたね」


 灯理は、机の上の資料をゆっくり見た。


 黒板係チェック表。


 部活ノート。


 引き継ぎノート。


 倉庫マップ。


 知恵カード。


 役割札。


 支え合いの輪。


 一つひとつが、誰かの手放しと、誰かの受け取りの跡だった。


 参加者が集まり始めた。


 真央は、黒板係ノートを抱えて少し緊張していた。蓮も一緒に来ていて、チェック表の新しい版を持っている。


 莉央と芽衣は、体育館から直接来たのか、スポーツバッグを持っていた。莉央は芽衣に「今日、話すのは芽衣の番もあるからね」と言い、芽衣は「わかってます」と少し緊張した顔で頷いた。


 前田さんは、知恵カードの束を大事そうに持っていた。鍵束は、今日は彩花の鞄についている。前田さんの手は空いていた。


 彩花は、役割札のケースを机に置きながら、陽菜に「休憩中の札もあるよ」と見せている。


 青柳さんは、全体の進行表を確認していた。


 湊は、少し後ろの席に座った。


 そして、紗良は前に立った。


 深く息を吸う。


 手元の台本を見る。


 最初の一行は、まだ湊の言葉に似ている。


 でも、その下には、紗良自身が書いた言葉がある。


『今日は、正解の引き継ぎ方を決める会ではありません』

『それぞれの場所で、何を渡し、何を変えてよいかを考えます』

『少し考える時間を取りながら進めます』


 紗良は、顔を上げた。


「それでは、学校と地域合同の引き継ぎワークショップを始めます」


 声は少し震えた。


 でも、部屋の後ろまで届いた。


「今日の司会は、紗良です。私はまだ引き継がれる側でもあり、引き継ぐ側でもあります。なので、途中で少し考える時間を取るかもしれません」


 湊なら言わない言葉だ。


 でも、紗良の言葉だった。


「今日は、前の人と同じ形になるためではなく、受け取ったものをどう続けるかを考えたいです」


 灯理が、静かに頷いた。


 最初に、真央が黒板係チェック表を紹介した。


 真央は、少し恥ずかしそうに前へ出た。


「私は、黒板係でした。最初は、黒板を消すのも、チョークをそろえるのも、クリーナーも、ほとんど自分でやっていました」


 蓮が、隣で小さく手を挙げた。


「俺が忘れてました」


 部屋に小さな笑いが起きる。


 真央も少し笑った。


「でも、仕事を書き出したら、黒板係って思ったよりたくさんあって。チェック表を作って、蓮くんと分けました」


 真央は、チェック表を見せた。


「次の係に渡す時は、ただ『黒板を消してね』じゃなくて、いつ何をするか、忘れた時どう戻るか、手伝ってと言っていいことも渡したいです」


 紗良は、ホワイトボードに書いた。


『引き継ぐもの:手順、戻り方、助けを求める言葉』


 次に、莉央が話した。


「私は、後輩に教えすぎていました」


 芽衣が隣で頷く。


「莉央先輩が全部言ってくれるので、私は先輩を見る癖がありました」


 莉央は、苦笑した。


「それで、『先輩が黙る五分間』を作りました。失敗してもすぐ止めない時間です」


 莉央は部活ノートを開いた。


「引き継ぎで渡すのは、答えだけじゃなくて、考える時間も必要だと思いました。先輩が全部説明すると、後輩は自分で試す前に終わってしまうので」


 芽衣が続けた。


「今は、私たちだけの作戦タイムがあります。失敗するけど、自分たちで話すので、次に何を聞けばいいかもわかるようになりました」


 紗良は書いた。


『引き継ぐもの:余白、失敗してよい時間、質問する力』


 湊は、その文字を見ながら、静かに息を吐いた。


 それは、生徒会にも必要な言葉だった。


 次に、湊の番だった。


 湊は、前に出ず、自分の席から話した。


「僕は、生徒会長の引き継ぎで、司会席を空けられませんでした」


 紗良は、少しだけ湊を見た。


 湊は続けた。


「最後まで見ておかないと引き継ぎにならないと思っていました。でも、僕が中心に立ち続けると、紗良が中心に立てないことに気づきました」


 湊は、引き継ぎノートを開いた。


「今は、質問されたらまず紗良へ戻すようにしています。過去の経緯は聞かれた時に話す。沈黙をすぐ埋めない。前会長として、中心を奪わず、場から消えない距離を練習しています」


 紗良は、湊の言葉を聞きながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 湊は、席を空けようとしてくれている。


 でも、自分はまだ、湊の形でその席に座ろうとしている。


 それは、湊が空けた席を、別の意味で埋めてしまうことなのかもしれない。


 紗良は、ホワイトボードに書いた。


『引き継ぐもの:席、判断の理由、中心を移す距離』


 次に、前田さんが立った。


 少し照れくさそうに、知恵カードの束を持っている。


「私は、地域の夏祭りの鍵をずっと持っていました」


 彩花が、鍵束を少し持ち上げる。


 前田さんは、それを見て笑った。


「今は、彩花ちゃんや篠原さんも持っています。最初は寂しかったわ。鍵を渡したら、自分がここで何をすればいいかわからなくなる気がして」


 前田さんは、知恵カードを一枚見せた。


『氷が届かなかった』

『メールだけで業者さんに連絡した』

『電話でも確認する』


「でも、私が持っていたものは、鍵だけじゃなかったのね。失敗したこと、気をつけること、誰にどう声をかけるか。そういうものをカードにしたら、私の知っていたことがみんなで使えるようになりました」


 前田さんは、少し間を置いて言った。


「鍵を渡しても、私のいた時間はこの場所から消えませんでした」


 部屋が静かになった。


 その言葉は、役割を手放す怖さを知っている人たちの胸に、ゆっくり落ちた。


 紗良は書いた。


『引き継ぐもの:知恵、失敗談、場に残る時間』


 最後に、青柳さんが支え合いの輪を紹介した。


「支え合いの場では、一人に役割が戻りやすいです。だから、支える人を支える手も必要です」


 青柳さんは、模造紙の中央を指した。


「中心に人を置かず、場を置く。役割は動く。助ける側と助けられる側を固定しない。これも引き継ぎに必要な考え方だと思います」


 彩花が役割札を持った。


「名札も、名前だけじゃなくて役割を見えるようにしました。休憩中の札もあります。引き継ぐ時も、『誰が何を持つか』だけじゃなくて、『休む時どうするか』も必要だと思います」


 陽菜が小さく手を挙げた。


「休憩したら戻ってくる札です」


 部屋に柔らかい笑いが広がった。


 紗良は書いた。


『引き継ぐもの:役割、休む仕組み、戻ってくる道』


 ホワイトボードには、たくさんの言葉が並んだ。


 手順。


 戻り方。


 助けを求める言葉。


 余白。


 失敗してよい時間。


 質問する力。


 席。


 判断の理由。


 中心を移す距離。


 知恵。


 失敗談。


 場に残る時間。


 役割。


 休む仕組み。


 戻ってくる道。


 紗良は、それを見つめた。


 引き継ぎとは、前の人と同じ形になることだと思っていた。


 でも、ここに並んでいるものは、形だけではなかった。


 むしろ、形の奥にあるものだった。


 なぜそうするのか。


 どこで困ったのか。


 どう戻ればいいのか。


 どこは変えてよいのか。


 誰に聞けばいいのか。


 どう休めば続くのか。


 前の人の姿そのものではなく、その人が残してくれた知恵。


 灯理が、静かに問いかけた。


「紗良さん」


「はい」


「今、ホワイトボードを見て、何を感じていますか」


 紗良は、手元の台本を見た。


 湊に似せた言葉。


 自分で書き足した言葉。


 両方がある。


「先生」


「はい」


「引き継ぐって、前の人みたいになれるかどうかなんじゃないんですか」


 声にした瞬間、自分がずっとその問いを抱えていたことがわかった。


 湊のようになれるか。


 前の会長のようにできるか。


 みんなを安心させられるか。


 同じ席に、同じ形で座れるか。


 灯理は、紗良の問いを静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、引き継ぎとは、前の人の席に同じ形で座ることなのでしょうか」


 紗良は、すぐには答えなかった。


 多目的室の前に、司会用の椅子がある。


 そこには今、自分が立っている。


 湊は後ろにいる。


 でも、自分が湊と同じ形になろうとするなら、湊が空けた席を、自分で狭くしてしまう。


 紗良は、台本を開いた。


 湊に似せた一行を見つめる。


『結論から確認します』


 その下に、自分の字で書いた一行。


『少し考える時間をください』


 紗良は、台本の上の行に線を引いた。


 そして、マイクを持たずに、自分の声で言った。


「少し、考える時間をください」


 部屋は静かになった。


 誰も急かさなかった。


 湊も、答えを言わなかった。


 灯理も、待っていた。


 その沈黙の中で、紗良はホワイトボードを見た。


 真央のチェック表。


 莉央の黙る五分間。


 湊の空けた司会席。


 前田さんの鍵束。


 青柳さんの支え合いの輪。


 それらは全部、「前の人と同じになる」ためのものではなかった。


 次の人が、自分の形で続けるためのものだった。


 紗良は、顔を上げた。


「私は、湊みたいにすぐ整理できません」


 湊は、静かに聞いていた。


「だから、会議では考える時間を取ります。みんなに一つずつ意見を聞くことも多いと思います。湊より少し遅いかもしれません」


 紗良は、参加者を見回した。


「でも、その代わり、話しながら決める会議にしたいです。前の人が残してくれた知恵は使います。でも、言葉や進め方は、私の形でやります」


 言い終えると、胸の奥が少し軽くなった。


 湊が、小さく頷いた。


 その頷きは、許可ではなかった。


 応援に近かった。


 灯理は、新しい紙を出した。


 中央には、こう書かれている。


『引き継ぎで渡すもの・変えてよいもの』


 参加者たちは、それぞれ書き始めた。


 真央は書いた。


『渡すもの:黒板係の手順』

『変えてよいもの:分担の順番』


 蓮は書いた。


『渡すもの:忘れた時に戻る方法』

『変えてよいもの:チェック表の形』


 莉央は書いた。


『渡すもの:危ない時は止める判断』

『変えてよいもの:作戦の立て方』


 芽衣は書いた。


『渡すもの:後輩だけで話す時間』

『変えてよいもの:声の出し方』


 湊は書いた。


『渡すもの:過去の経緯と判断の理由』

『変えてよいもの:司会の言葉、会議の速さ』


 前田さんは書いた。


『渡すもの:倉庫マップと失敗談』

『変えてよいもの:祭りの配置や担当の組み方』


 彩花は書いた。


『渡すもの:役割札と休憩札』

『変えてよいもの:札の使い方、休憩の取り方』


 青柳さんは書いた。


『渡すもの:支え合いの輪』

『変えてよいもの:その年の人に合う輪の形』


 紗良は、自分の紙を見つめた。


 そして、ゆっくり書いた。


『渡すもの:生徒会が続いてきた理由』

『変えてよいもの:私の言葉、私の間、私の決め方』


 その紙を見た湊が、少し笑った。


「いいと思う」


 紗良は、ようやく笑えた。


「上からじゃない?」


「違う。前会長としてじゃなくて、一参加者として」


「じゃあ、受け取る」


 ワークショップの最後に、灯理が提案した。


「この場に、一つ椅子を置きませんか」


 青柳さんが、椅子を一脚持ってきた。


 多目的室の前でも後ろでもない、円の少し外側。


 中心ではないが、遠くもない場所。


 灯理は、その椅子の背に白い紙を貼った。


 けれど、名前は書かなかった。


「これは、名前のない席です」


 参加者たちが、その椅子を見た。


「前の人が、役割を終えた後に座れる席。聞かれたら答えるけれど、先に奪わない席。中心ではないけれど、場から消えなくてよい席」


 湊が、その椅子を見つめた。


 前田さんも、静かに見ていた。


 莉央が小さく言った。


「先輩が黙る五分間の椅子みたい」


 真央が言った。


「係を渡した後も、聞かれたら教えられる席」


 彩花が言った。


「休憩中でも戻ってこられる場所」


 青柳さんが頷いた。


「支える手が、中心から少し離れてもいられる場所ですね」


 紗良は、その椅子を見た。


 湊が生徒会から消えるわけではない。


 前田さんが地域から消えるわけではない。


 莉央が部活の時間から消えるわけではない。


 真央が黒板係ではなくなっても、教室から消えるわけではない。


 役割が終わっても、人は場にいられる。


 ただし、中心を奪わない距離で。


 必要な時に知恵を渡せる距離で。


 湊が、名前のない席に座った。


 紗良は、前に立ったまま、少しだけ胸が熱くなった。


「湊、座り心地は?」


 湊は、椅子の背にもたれた。


「落ち着かない」


 部屋に笑いが起きた。


 湊も笑った。


「でも、たぶん慣れる」


 紗良は、台本を閉じた。


 残りの進行は、自分の言葉で行うことにした。


「では、最後に一人ずつ、今日持ち帰る言葉を紙に書いてください。誰かに見せても、見せなくてもいいです」


 参加者たちは、それぞれペンを持った。


 真央は、黒板係ノートに書いた。


『次の人が困らないように、でも次の人が変えられるように渡す』


 莉央は、部活ノートに書いた。


『教えたあと、黙って見守る時間も残す』


 湊は、引き継ぎノートに書いた。


『名前のない席から、中心を奪わずに支える』


 前田さんは、知恵カードの裏に書いた。


『古い鍵の音は、次の人の手でも鳴る』


 彩花は、役割札のケースに入れるメモに書いた。


『休む仕組みも一緒に渡す』


 青柳さんは、支え合いの輪の端に書いた。


『輪は、人が変わるたびに描き直してよい』


 紗良は、引き継ぎノートを開いた。


 湊から受け取ったノート。


 けれど、今日からは自分のページも増えていく。


 紗良は、ゆっくり書いた。


『受け取るのは前の人の形じゃなくて、この場を続けるための知恵だった』


 文字を書き終えた時、紗良は小さく息を吐いた。


 湊の形になる必要はない。


 でも、湊が残したものを軽く扱うわけでもない。


 判断の理由。


 人への配慮。


 役割を分ける考え方。


 時間割に余白を入れること。


 中心を移す勇気。


 それらを受け取って、自分の言葉で続ければいい。


 ワークショップが終わると、多目的室には柔らかなざわめきが残った。


 真央と蓮は、黒板係チェック表の新しい版について話している。


 莉央は、芽衣に「次の作戦タイム、私は後ろで見てる」と言い、芽衣は「見すぎないでください」と返している。


 前田さんは、彩花に鍵束を見せながら、「この鍵だけは少し癖があるのよ」と説明していた。けれど、手は出さず、彩花が試すのを待っている。


 湊は、名前のない席に座ったまま、紗良のノートをのぞき込もうとして、すぐに姿勢を戻した。


「見ないの?」


 紗良が尋ねる。


「聞かれたら見る」


「じゃあ、今は聞かない」


「わかった」


 二人は笑った。


 青柳さんは、名前のない席の紙を丁寧に貼り直した。


 白い紙には、まだ誰の名前もない。


 だからこそ、誰でも座れる。


 前の人。


 支える人。


 休む人。


 聞かれた時だけ答える人。


 役割を終えた後も、場にいたい人。


 その席は、空いていることで意味を持っていた。


 夜、白瀬灯理は地域学習センターを出た。


 ガラス扉の向こうには、多目的室の明かりがまだ残っている。机の上には、引き継ぎ資料が重ねられ、壁には支え合いの輪と、今日書かれた「名前のない席」の紙が貼られていた。


 青柳さんが、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、役割が次の形へ渡っていく時間を一緒に見せていただきました」


 青柳さんは、多目的室を振り返った。


「引き継ぎは、資料を整えることだと思っていました」


「はい」


「でも、今日見ていると、資料だけでは足りませんね。前の人がどの距離にいるか、次の人が変えてよいと知っているか、役割が終わった人の居場所があるか。それも全部、引き継ぎなんですね」


 灯理は頷いた。


 引き継ぎを学ぶことは、前の人と同じ形になることではない。


 もちろん、手順は大切だ。


 どこに何があるか。


 いつ何をするか。


 誰に連絡するか。


 どこで失敗しやすいか。


 それらが残っていれば、次の人は安心して始められる。


 けれど、本当に渡すべきものは、形だけではない。


 判断の理由。


 戻り方。


 助けを求める言葉。


 失敗してよい余白。


 休む仕組み。


 変えてよい場所。


 前の人が中心を奪わない距離。


 役割を終えた後も場にいられる席。


 前の人の姿を丸ごと写す必要はない。


 前の人が積み重ねた知恵を受け取り、自分の声で、自分の速さで、自分の形で続けていく。


 そうすることで、場は同じまま固まるのではなく、次の人の時間を含んで変わっていく。


 灯理は、夜の地域学習センターを振り返った。


 多目的室の机には、紗良の引き継ぎノートが置かれている。


 そのページには、紗良の字で一文が残っている。


 受け取るのは前の人の形じゃなくて、この場を続けるための知恵だった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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