第27章 第4話:世話役の授業――一番古い鍵束
前田さんの鍵束は、歩くたびに音を立てた。
じゃらり。
地域学習センターの廊下に、その音が響く。
古い金属の音だった。大きな輪に、十本以上の鍵がついている。倉庫の鍵、調理室の鍵、備品棚の鍵、外物置の鍵、舞台袖の鍵、町内会の掲示板の鍵。どれも少しずつ形が違い、前田さんは見ただけでどれがどの鍵かわかる。
「提灯は右奥の棚ね。赤い箱じゃなくて、青い箱。赤い箱は去年の飾りが入ってるから」
前田さんは、倉庫の扉を開けながら言った。
夏祭りの準備の日だった。
地域学習センターの裏手にある倉庫には、町内行事の道具が詰まっている。折りたたみ机、パイプ椅子、提灯、延長コード、屋台用の布、抽選箱、番号札、古いのぼり、雨天時用のブルーシート。
扉を開けると、ほこりと木材と古い紙の匂いが混じった空気が流れ出した。
大学生ボランティアの彩花が、軍手をはめながら中をのぞき込む。
「すごい量ですね」
「毎年使っているものだからね。場所を覚えておかないと、当日大変なのよ」
前田さんは、迷いなく倉庫の奥へ進んだ。
「篠原さん、その段ボールじゃなくて、下の白い箱。そこにコードが入ってるの。青いテープが貼ってある方ね」
若手の町内会員、篠原さんが慌てて箱を持ち替えた。
「あ、これですか」
「そう。それは長いコード。短いのは使わない方がいいわ。去年、届かなくて困ったから」
「なるほど」
「彩花ちゃん、提灯を出す時は、紐を引っ張らないで。破れるから、下から支えて」
「はい」
「その机は三台だけ。全部出すと通路がふさがるの」
「はい」
「青柳さん、業者さんへの連絡はもう?」
センター職員の青柳さんが、手帳を開く。
「昨日メールしました」
「電話も一本入れておいた方がいいわ。あそこの業者さん、メールだけだと見落とす時があるのよ」
「あ、はい。わかりました」
前田さんの指示は的確だった。
誰も困らない。
準備は早く進む。
でも、彩花は倉庫の中で少し立ち止まった。
前田さんが何でも知っている。
そのおかげで動ける。
けれど、前田さんがいなかったら、自分たちは何一つわからないのではないか。
「前田さん」
「何?」
「鍵の場所とか、備品の場所とか、私も覚えたいです」
前田さんは、鍵束を腰のあたりで握り直した。
「これは私が持ってるから大丈夫よ」
「でも、もし前田さんが来られない日があったら」
「来るわよ。毎年来てるんだから」
前田さんは、軽く笑った。
その笑いには、少しだけ強さがあった。
彩花は、それ以上言えなかった。
篠原さんも、何か言いたそうにしていたが、結局黙って箱を運んだ。
前田さんは、次々に指示を出す。
「その順番じゃだめ。提灯を先に出すと、机が通れなくなる」
「のぼりは外物置。鍵が違うから私が開ける」
「雨天用のシートは確認だけでいいわ。広げると畳むのが大変だから」
「去年の反省メモは、私の家にあるからあとで持ってくる」
青柳さんは、メモを取っていた。
けれど、メモが追いつかない。
前田さんの中には、何十年分もの記憶が入っている。
どの箱に何があるか。
どの業者は電話が必要か。
どの町内の人には早めに声をかけるべきか。
雨が降りそうな時、誰が判断するか。
どの机の脚がぐらつくか。
どの延長コードが去年使えなかったか。
それらは、書類ではなく、前田さんの頭と手に入っていた。
作業が一段落した頃、前田さんは倉庫の前で腰を押さえた。
「少し休みましょうか」
青柳さんが声をかける。
「大丈夫よ。まだ掲示板の鍵も開けないと」
「前田さん、少し座ってください」
「座ったら立つのが面倒になるから」
前田さんは、そう言って笑った。
けれど、その額には汗が浮かんでいた。
鍵束が、前田さんの手の中でまた鳴った。
じゃらり。
その音を、白瀬灯理は少し離れた場所で聞いていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
今日は、地域活動の引き継ぎ支援として、青柳さんに呼ばれて来ていた。
灯理は、倉庫の中と、前田さんの手元を見比べていた。
夕方、会議室で準備の振り返りが行われた。
机の上には、夏祭りの予定表、備品リスト、買い出し表、そして前田さんの鍵束が置かれている。
鍵束は、机の上でも存在感があった。
金属の輪に、古い札がついている。
『倉庫』
『掲示板』
『調理室』
『外物置』
文字が薄くなっている札もある。
青柳さんが、少し慎重に話し始めた。
「今日の準備、前田さんのおかげで進みました」
「毎年やってることだからね」
前田さんは、湯呑みを手にして言った。
「でも、見ていて改めて思いました。前田さんが知っていることが多すぎるんです」
「多すぎる?」
「はい。良い意味でも、危うい意味でも」
前田さんの眉が少し上がった。
彩花が、勇気を出して言った。
「私、手伝いたいんです。でも、前田さんが先にわかって動いてくださるので、覚える前に終わってしまいます」
篠原さんも続けた。
「僕も、何か提案しようと思っても、前田さんのやり方が正しい気がして、言い出せなくて」
前田さんは、少し困ったように笑った。
「だって、間違えたら大変でしょう。祭り当日に机が足りないとか、コードが届かないとか、雨で濡れるとか」
「はい」
青柳さんは頷いた。
「その経験が大切なんです。だからこそ、前田さんだけの中に置いておくのはもったいないと思っています」
前田さんは、鍵束に手を伸ばした。
無意識の動きだった。
指が、金属の輪を握る。
灯理が、静かに尋ねた。
「前田さん」
「はい」
「その鍵束は、長く前田さんが持ってこられたのですね」
「ええ。もう何年になるかしら」
前田さんは、鍵を見つめた。
「最初は、前の世話役さんから渡されたんです。あの人も全部知っている人でね。私は何もわからなくて、よく怒られました」
「はい」
「でも、少しずつ覚えたの。倉庫の場所も、町内の人の癖も、雨の日の段取りも。気づいたら、私が鍵を持つ人になっていた」
前田さんの声は、どこか懐かしそうだった。
「今は、みんな私に聞くでしょう。鍵は前田さん。備品は前田さん。夏祭りは前田さん。そう言われると、大変だけど、必要とされている気もするのよ」
彩花は、黙って聞いていた。
前田さんは、少し笑ってから、すぐに目を伏せた。
「でも、最近は疲れるのも本当です。階段の上り下りもきついし、荷物も重い。若い人に任せた方がいいって、頭ではわかってる」
鍵束が、手の中で小さく鳴った。
「でも、先生」
前田さんは、灯理を見た。
「私が持っていないと、この場所で私が何をすればいいのかわからないんです」
会議室が静かになった。
その言葉は、ただ鍵の話ではなかった。
何十年も場を支えてきた人が、自分の役割を手放す時の怖さだった。
鍵を渡したら、自分は必要なくなるのではないか。
みんなが新しいやり方で進め始めたら、自分の時間は消えてしまうのではないか。
長く知ってきたことが、もう古いものとして置いていかれるのではないか。
灯理は、前田さんの言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、長く支えてきた人の居場所は、鍵束を持ち続けることでしか守れないのでしょうか」
前田さんは、すぐには答えなかった。
鍵束を握る手に、少し力が入る。
灯理は、大きな紙を広げた。
中央に、こう書かれている。
『前田さんの知恵を場に残す地図』
その周りには、いくつかの欄があった。
『前田さんだけが知っていること』
『鍵に関すること』
『備品の場所』
『連絡先』
『雨の日の判断』
『昔の失敗』
『地域の人間関係』
『渡せること』
『一緒にやること』
『まだ前田さんが持つこと』
『聞かれたら答える時間』
『先にやらずに見守る時間』
『一参加者として楽しむ時間』
青柳さんが、ペンを持った。
「まず、前田さんが知っていることを書き出しましょう」
前田さんは、少し戸惑った。
「そんなに大したことはないわよ」
彩花が、すぐに言った。
「大したことあります」
篠原さんも頷く。
「今日だけでも、僕は十回以上助かりました」
前田さんは、照れたように口元を押さえた。
そして、少しずつ話し始めた。
「倉庫の右奥の棚は、上から三段目が提灯。二段目は古い飾りだから使わない」
青柳さんが書く。
「延長コードは青いテープが長いもの。赤いテープは古くて接触が悪い」
彩花が付箋に書く。
「机は、脚に緑の印があるものがぐらつきにくい。黄色の印は使うなら壁側」
篠原さんが驚いた。
「印、そんな意味だったんですか」
「そうよ。昔、屋台でぐらついたことがあってね」
前田さんは、昔の失敗を話し始めた。
雨の日にブルーシートを外へ置いたままにして、翌年カビだらけになったこと。
提灯を紐だけ持って運んで、三つ破れたこと。
業者への連絡をメールだけにして、当日朝に氷が届かなかったこと。
掲示板の鍵を忘れて、町内会長の家まで走ったこと。
それらは、失敗談だった。
けれど、聞いているうちに、失敗は知恵の形をしているとわかった。
灯理は言った。
「前田さんの知恵は、正解だけでなく、失敗の理由にも入っていますね」
前田さんは、少し考えて頷いた。
「失敗したから覚えてるのよ」
「はい」
「でも、若い人には失敗してほしくなくて、つい先に言っちゃうの」
彩花が、小さく笑った。
「私たちも、少しは失敗しないと覚えられないのかもしれません」
「大きな失敗は困るわよ」
「小さな失敗で済むように、前田さんの知恵カードがあると助かります」
知恵カード。
その言葉に、前田さんは少し目を瞬いた。
灯理は、新しいカードを取り出した。
『知恵カード』
上には、三つの欄がある。
『何が起きたか』
『なぜ困ったか』
『次はどうするか』
前田さんは、最初の一枚に書いた。
『氷が届かなかった』
『メールだけで業者さんに連絡した』
『電話でも確認する』
次の一枚。
『提灯が破れた』
『紐だけを持って運んだ』
『下から支えて二人で運ぶ』
また一枚。
『コードが届かなかった』
『短いコードを持っていった』
『青いテープの長いコードを使う』
書いていくうちに、前田さんの表情が少し変わった。
「私が知っていること」が、「みんなが使えるカード」になっていく。
鍵束の重さとは違う形で、自分の時間が場に残っていく。
次に、倉庫マップを作った。
青柳さんが、倉庫の簡単な見取り図を描く。
前田さんが、棚の位置を説明する。
彩花が色ペンで箱の名前を書く。
篠原さんが写真を撮り、番号をつける。
右奥の棚。
提灯。
延長コード。
屋台布。
雨天用シート。
抽選箱。
のぼり。
机。
椅子。
古い飾り。
使わない備品。
倉庫の中が、前田さんの頭の中から紙の上へ移っていく。
最後に、鍵当番表を作った。
『倉庫鍵』
第一担当、彩花。
第二担当、篠原さん。
確認役、前田さん。
『外物置鍵』
第一担当、篠原さん。
第二担当、青柳さん。
確認役、前田さん。
『掲示板鍵』
第一担当、青柳さん。
第二担当、彩花。
前田さんの名前は、全部の第一担当ではなくなった。
それを見た時、前田さんの顔が少し曇った。
青柳さんが気づく。
「前田さん、どうですか」
「変な感じね」
「はい」
「私の名前が少ない」
前田さんは、苦笑した。
「楽になるはずなのに、少し寂しいわ」
灯理は頷いた。
「寂しさも、引き継ぎの地図に入れてよいと思います」
前田さんは、少し驚いた顔をした。
「寂しさも?」
「はい。手放すことは、軽くなるだけではないことがありますから」
前田さんは、鍵当番表の端に小さく書いた。
『寂しい』
その文字を見て、彩花が言った。
「前田さん、全部渡していなくなるんじゃなくて、確認役でいてください」
篠原さんも続けた。
「あと、昔の話を聞く時間がほしいです。失敗談、すごく役に立ちます」
青柳さんが言った。
「祭り当日も、前田さんには裏方だけでなく、客席で楽しむ時間を予定に入れたいです」
「客席?」
前田さんは、少し笑った。
「私、祭りで座ったことなんて、ほとんどないわよ」
「だからです」
灯理が言った。
「長く支えてきた人が、一参加者として場にいる時間も、引き継ぎの一部かもしれません」
前田さんは、鍵束を見た。
一参加者。
その言葉は、少しくすぐったかった。
自分はずっと、世話役だった。
裏方だった。
鍵を開ける人。
指示を出す人。
忘れ物を防ぐ人。
困った時に呼ばれる人。
でも、祭りは自分のための場でもあったのだろうか。
次の準備日。
地域学習センターの倉庫前には、彩花と篠原さんが立っていた。
前田さんは、鍵束を手にしている。
青柳さんと灯理もそばにいた。
「では、今日は倉庫鍵の第一担当は彩花さんですね」
青柳さんが言う。
彩花は、少し緊張した顔で頷いた。
「はい」
前田さんは、鍵束から倉庫の鍵を外した。
小さな金属音がした。
その音に、前田さんの指が一瞬止まる。
何十年も、自分の手の中で鳴っていた音。
前田さんは、彩花へ鍵を差し出した。
「はい」
彩花は、両手で受け取った。
「預かります」
「回す時、少し引きながらね。古い鍵だから」
「はい」
彩花は、鍵穴に鍵を入れた。
うまく入らない。
「あれ」
前田さんの体が、反射的に前へ出た。
「違う、もう少し――」
灯理が、静かに言った。
「前田さん」
前田さんは、はっとして足を止めた。
先にやらずに見守る時間。
地図に書いた言葉が頭に浮かぶ。
彩花は、一度鍵を抜き、向きを確かめた。
「あ、こっちですね」
もう一度差し込む。
少し引きながら回す。
かちり。
鍵が開いた。
彩花の顔が明るくなる。
「開きました」
前田さんは、胸の奥が少し揺れるのを感じた。
自分が開けなくても、開いた。
それは寂しくもあり、嬉しくもあった。
倉庫の中へ入る。
彩花が倉庫マップを見る。
「提灯は右奥の棚、上から三段目」
篠原さんが、箱を確認する。
「青い箱ですね」
「赤い箱は去年の飾り」
彩花が言う。
前田さんは、思わず笑った。
「そうそう」
作業は、いつもより少し遅かった。
彩花たちは何度か間違えた。
延長コードの箱を一つ取り違えた。
机の脚の印を見落とした。
掲示板の鍵を外物置の鍵と間違えそうになった。
そのたびに、前田さんの口が動きそうになる。
でも、前田さんは一歩下がった。
聞かれたら答える。
危ない時は止める。
でも、先に全部はやらない。
篠原さんが、机の脚を見て言った。
「緑の印がぐらつきにくい机でしたよね」
前田さんは頷いた。
「ええ。よく覚えてたわね」
「知恵カードに書いてありました」
その言葉に、前田さんの胸が温かくなった。
自分の声が、カードになって、別の人の手にある。
準備の途中、前田さんは倉庫の入口に置かれた椅子に座った。
青柳さんが、麦茶を持ってきた。
「前田さん、休憩です」
「また休憩札?」
「今日は世話役休憩です」
彩花が笑って言った。
前田さんは、麦茶を受け取った。
「まったく、最近は何でも札にするのね」
「見える方が、休めるので」
彩花の言葉に、前田さんは苦笑した。
「そうね」
椅子に座っていると、倉庫の中で彩花と篠原さんが相談する声が聞こえた。
「この箱、マップだと下段」
「でも重いから二人で持とう」
「提灯は下から支える」
「コードは青テープ」
前田さんは、麦茶を飲みながらその声を聞いた。
自分がいないと回らない。
ずっとそう思っていた。
でも今、回っている。
少し遅く、少し不器用に。
でも、確かに回っている。
前田さんは、手元の鍵束を見た。
いつもより、少し軽い。
祭り当日。
地域学習センターの前には、提灯が並んだ。
夕方の空に、赤と白の丸い灯りが揺れている。焼きそばの匂い、綿あめの甘い匂い、子どもたちの走る足音、マイクの調整音。町内の人たちが集まり、受付の机には抽選箱が置かれている。
前田さんは、最初の準備を手伝った。
でも、開始から一時間後、青柳さんが声をかけた。
「前田さん、客席時間です」
「本当に?」
「予定表に入っています」
青柳さんは、笑って予定表を見せた。
『前田さん 一八時三十分〜一九時 客席・食事』
彩花が、焼きそばのパックを持ってきた。
「前田さん、ここ座ってください」
篠原さんが、椅子を用意していた。
「倉庫の鍵は僕が持っています。何かあったら、先にマップを見ます」
前田さんは、少し落ち着かない顔で椅子に座った。
手には、焼きそば。
目の前では、子どもたちが輪投げをしている。
提灯の灯りが、顔に柔らかく当たる。
前田さんは、焼きそばを一口食べた。
「味、濃いわね」
そう言いながら、少し笑った。
青柳さんが隣に座る。
「おいしくないですか」
「おいしいわよ。いつも味見だけだったから、座って食べると違うのね」
前田さんは、祭りの会場を見渡した。
彩花が子どもたちに案内している。
篠原さんが備品の位置を確認している。
青柳さんが受付を交代している。
若い町内会員たちが、提灯の紐を直している。
前田さんの知っていることが、いろいろな人の手の中で動いている。
自分は、鍵束を持って走り回っていない。
でも、この場所にいる。
祭りの一部として。
前田さんは、引き継ぎ地図を膝の上に置いた。
その端に、ゆっくり書いた。
『鍵を渡しても、私のいた時間はこの場所から消えなかった』
書いた文字が、提灯の灯りで少し赤く見えた。
祭りが終わった後、倉庫の片づけは彩花と篠原さんが中心になって進めた。
前田さんは、最後の確認だけをした。
「提灯、紐が絡まないように紙を挟んでね」
「はい。知恵カードに追加します」
「コードは丸める時に、きつくしすぎない」
「これも書きます」
「掲示板の鍵は、青柳さんへ」
「渡しました」
前田さんは、うなずいた。
最後に倉庫の扉を閉める時、彩花が鍵を回した。
かちり。
その音は、以前より少し違って聞こえた。
前田さんの手から離れた鍵が、別の人の手で閉じる音。
でも、それは終わりの音ではなかった。
次につながる音だった。
夜、灯理は地域学習センターを出た。
祭りの片づけを終えた広場には、まだ少しだけ焼きそばと土の匂いが残っている。提灯は外され、空には薄い星が見えていた。倉庫の前には、新しく貼られた倉庫マップが、透明なカバーに入れて掛けられている。
青柳さんが、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、鍵束が場の知恵に変わっていく時間を一緒に見せていただきました」
青柳さんは、倉庫の方を見た。
「前田さんに頼りすぎていました」
「はい」
「でも、前田さんから役割を奪いたかったわけではないんです。そこが難しくて」
灯理は頷いた。
「長く支えてきた人にとって、役割は負担であると同時に居場所でもありますね」
「はい。だから、ただ『若い人に任せましょう』ではなく、前田さんの知恵を場に残し、前田さん自身もいられる形が必要だったんですね」
少し離れた場所で、前田さんが彩花と篠原さんに何かを話していた。
鍵束は、今日は彩花の手にある。
前田さんの手は空いていた。
けれど、前田さんは所在なさそうではなかった。
知恵カードの束を持ち、昔の失敗談を楽しそうに話している。
世話役を続けることを学ぶとは、全部を知っている人であり続けることではない。
もちろん、長く支えてきた人の記憶は大切だ。
どこに何があるか。
誰に連絡すべきか。
どんな失敗があったか。
雨の日に何を優先するか。
地域の人がどんな言葉を喜び、どんな順番を大事にするか。
それは、書類だけでは残しにくい知恵だ。
けれど、その知恵が一人の手の中にだけあると、その人は鍵束を離せなくなる。
自分がいないと回らない。
自分が持っていないと居場所がなくなる。
そう思いながら、体力が落ちても、疲れても、走り続けてしまう。
だから、場に残す。
倉庫マップ。
鍵当番表。
知恵カード。
昔の失敗談。
聞かれたら答える時間。
先にやらずに見守る時間。
確認役として残る場所。
一参加者として楽しむ時間。
鍵を渡すことは、その人の時間を消すことではない。
その人が積み重ねてきた時間を、次の人たちが使える形に変えることだった。
灯理は、夜の地域学習センターを振り返った。
会議室の机には、前田さんの引き継ぎ地図が置かれている。
その端には、前田さんの字で一文が残っている。
鍵を渡しても、私のいた時間はこの場所から消えなかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




