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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第26章 第3話:家族会議の授業――助けを断れない食卓


 翔太は、病院の待合室で英単語帳を開いていた。


 消毒液の匂いと、湿ったコートの匂いが混じっている。窓の外は曇っていて、午後の光が白くぼやけていた。受付の奥からは、名前を呼ぶ声と、診察券を機械に通す電子音が聞こえる。


 隣には、祖母が座っていた。


 薄い紫色の上着を着て、膝の上に小さな鞄を置いている。翔太が小さい頃からよく知っている、少し丸まった背中だった。


「翔太、悪いねえ。学校のあとに」


「いいよ」


 翔太は、単語帳から顔を上げて笑った。


「どうせ今日は部活ないし」


 本当は、友人の健太に誘われていた。


 駅前のフードコートで、受験勉強の合間に少しだけ話そうと。


 翔太は、行きたかった。


 でも、祖母の通院の日だった。


 母は仕事で来られない。


 祖母は一人で病院へ行けないわけではないが、会計機の使い方や、薬局での説明を聞き取ることに不安がある。


 だから、翔太が付き添う。


「助かるよ。翔太がいると安心で」


 祖母は、何度もそう言う。


 その言葉を聞くと、翔太は断れなくなる。


 助けたい気持ちは本当だ。


 祖母は好きだ。


 小さい頃、母が遅い日には夕飯を作ってくれた。風邪をひいた時は、冷たいタオルを額に置いてくれた。将棋はできないが、トランプを何度も一緒にしてくれた。中学に入ってからも、「翔太は大きくなったねえ」と嬉しそうに見上げてくれる。


 だから、助けたい。


 けれど最近、頼まれる声が少し怖い。


「翔太、ちょっといい?」

「翔太、これ見てくれる?」

「翔太、買い物ついでにお願い」

「翔太、スマホが変になった」

「翔太、病院の日なんだけど」


 頼まれるたび、翔太の予定の中にあった小さな時間が消える。


 受験勉強の時間。


 友人と話す時間。


 何も考えずにぼんやりする時間。


 その時間が、家の中では見えにくい。


 祖母の診察が終わるまで、翔太は単語帳を見ていた。


 でも、文字はあまり頭に入らなかった。


『support』

 支える。


『responsibility』

 責任。


『refuse』

 断る。


 最後の単語で、指が止まった。


 断る。


 家族に、断る。


 その言葉は、翔太の胸の奥で重く沈んだ。


 夜、食卓には肉じゃがが並んでいた。


 祖母が作ったものだった。


 じゃがいもは少し崩れていて、甘い匂いが湯気と一緒に立っている。母は仕事から帰ったばかりで、スーツの上着を椅子にかけながら「おいしそう」と言った。


「翔太、今日もありがとうね」


 母が箸を取る。


「おばあちゃんの病院、助かった」


「うん」


「本当に、翔太がいてくれて助かるわ」


 助かる。


 その言葉は、温かいはずだった。


 でも、翔太は味噌汁の湯気を見ながら、少しだけ箸を止めた。


 母は忙しい。


 朝早く出て、夜遅く帰ってくる。


 だから、自分ができることはしたい。


 でも、母の「助かる」は、時々そこで話を終わらせる言葉になる。


 助かる。


 ありがとう。


 じゃあ次もお願いね。


 そんなふうに聞こえてしまう夜がある。


「翔太」


 祖母が、食卓の向こうからスマートフォンを差し出した。


「これ、また変な画面が出たんだけどね」


 翔太は、箸を置いた。


「今?」


「ご飯のあとでもいいんだけど、忘れちゃうから」


 母が言った。


「翔太、見てあげて。お母さん、あとで洗濯しないと」


 翔太は、スマートフォンを受け取った。


 画面には、アプリの更新通知が出ているだけだった。


「これ、更新のお知らせ」


「押していいの?」


「いいけど、パスワードいるかも」


「じゃあ、翔太がやってくれる?」


「うん」


 うん。


 また言った。


 断る前に、うんが出る。


 食後、翔太は祖母のスマートフォンを設定し直し、ついでに写真の保存方法を教え、病院の次回予約日をカレンダーに入れた。


 その後、自分の部屋へ戻った時には、九時を過ぎていた。


 机の上には、未提出の数学プリントが置かれている。


 提出期限は明日。


 翔太は、椅子に座った。


 シャーペンを持つ。


 でも、頭が重い。


 病院の待合室。


 薬局の説明。


 祖母のスマホ。


 母の「助かった」。


 それらが、プリントの上に薄く重なって見えた。


 翌日、翔太は数学のプリントを出せなかった。


 担任の井沢先生が、放課後に声をかけた。


「翔太さん、少し話せますか」


 教室には、帰り支度をする生徒たちの声が残っている。窓の外では、部活動へ向かう生徒の足音がしていた。


 翔太は、少し身構えた。


「はい」


 井沢先生は、教卓の横ではなく、窓際の席に腰を下ろした。


「最近、提出物が少し遅れていますね」


「すみません」


「責めているわけではありません。眠そうな日もありますし、何か家で忙しいことがありますか」


 翔太は、すぐに答えようとした。


 大丈夫です。


 いつもの返事。


 でも、口に出す前に、引っかかった。


 大丈夫ではない、というほど大きなことではない。


 祖母の世話をしているだけ。


 家族だから普通。


 みんなも何かしら家の手伝いをしている。


 それなのに、忙しいと言っていいのか。


「家のこと、少し」


「はい」


「祖母の病院とか、買い物とか、スマホとか」


「翔太さんが手伝っているんですね」


「はい。でも、たいしたことじゃないです」


 井沢先生は、すぐには頷かなかった。


「たいしたことかどうか、少し一緒に見てもよいですか」


 その日、家庭科室では「家族会議の練習」という授業が予定されていた。


 家庭科の村瀬先生と、外部の学習支援者として来ていた白瀬灯理が担当する授業だった。


 翔太は、井沢先生に促され、放課後の小さな補習の形で参加することになった。


 家庭科室は、昼間の調理実習の匂いが少し残っていた。


 洗剤の匂い、木のまな板の匂い、ガス台の金属の匂い。窓際には、乾いたふきんが整然と掛けられている。


 灯理は、黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持っていた。


 翔太が入ると、軽く会釈した。


「翔太さん、こんにちは」


「こんにちは」


 村瀬先生が、机の上にカードを並べる。


 そこには、家の中でよくある頼まれごとが書かれていた。


『買い物』

『通院付き添い』

『スマホ操作』

『ごみ出し』

『弟妹の世話』

『食事の準備』

『洗濯』

『書類の確認』

『予定の管理』

『話し相手』

『急なお願い』


 翔太は、そのカードを見ただけで少し疲れた。


 自分の家のことが、机の上に並んでいるようだった。


 灯理は尋ねた。


「翔太さんは、家族を助けることが嫌ですか」


 翔太は、すぐに首を横に振った。


「嫌じゃないです」


「はい」


「祖母のことは好きです。母も忙しいし、僕ができるならやりたいです」


「はい」


「でも」


 そこで言葉が止まる。


 嫌ではない。


 助けたい。


 けれど、頼まれるたびに胸が固くなる。


 その矛盾をどう言えばいいのかわからない。


 灯理は待った。


 村瀬先生も、井沢先生も、急がせなかった。


 翔太は、膝の上で手を握った。


「先生」


「はい」


「家族を助けたいのに、頼まれるのが怖い時があります」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


 祖母を裏切ったような気がした。


 母を責めているような気がした。


 でも、本当だった。


 灯理は、その言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、家族を大事にすることは、断れない人になることなのでしょうか」


 翔太は、答えられなかった。


 断れない人。


 自分は、そうなっていたのかもしれない。


 家族だから。


 祖母だから。


 母が忙しいから。


 自分が近くにいるから。


 その言葉で、自分の予定を後ろへ押しやっていた。


 村瀬先生が、大きな紙を広げた。


 中央に、こう書かれている。


『家の頼まれごと地図』


 周りには、いくつかの欄があった。


『好きでできること』

『できるけれど疲れること』

『断りにくいこと』

『大人が持つべきこと』

『時間を決めればできること』

『今はできないこと』

『代わりの人や制度』

『頼む時のルール』

『断る時の言葉』


 翔太は、カードを一枚ずつ置いていった。


『好きでできること』


 祖母と買い物に行く。


 スマホで写真を見る。


 話し相手になる。


 祖母の作った料理を一緒に食べる。


『できるけれど疲れること』


 通院付き添い。


 薬局で説明を聞く。


 予約日を管理する。


 スマホの設定。


 重い買い物。


 急な頼まれごと。


『断りにくいこと』


 病院。


 祖母の不安そうな顔。


 母の「助かる」。


 夜のスマホ操作。


 友だちとの予定と重なった時。


『大人が持つべきこと』


 通院日程の調整。


 薬の管理。


 介護サービスの相談。


 お金の手続き。


 翔太は、『大人が持つべきこと』の欄にカードを置きながら、少し怖くなった。


 こんなふうに分けていいのだろうか。


 家族のことなのに。


 でも、村瀬先生は言った。


「家族を支えることと、大人の役割を子どもが全部持つことは違います」


 井沢先生も、静かに頷いた。


「提出物の遅れや眠気は、翔太さんの努力不足だけで見てはいけなかったですね」


 翔太は、少し目を伏せた。


 努力不足。


 自分でもそう思っていた。


 時間の使い方が下手なだけ。


 断れない自分が弱いだけ。


 でも、地図にしてみると、家の役割が自分の時間に入り込んでいたことが見えた。


 灯理は、カードを数枚出した。


『今日はできない』

『何時までならできる』

『これは大人と一緒に』

『別の日にしてほしい』

『先に予定を確認したい』

『外の支援を使いたい』

『手伝いたいけれど、全部は持てない』


 翔太は、そのカードを見た。


 断る言葉。


 でも、拒絶ではない。


 助けたい気持ちを残したまま、範囲を決める言葉。


 村瀬先生は言った。


「家族会議は、家族を責める場ではありません。誰が何を持っているかを見えるようにして、続けられる分け方を作る場です」


 その週末、翔太の家で小さな家族会議が開かれた。


 食卓の上には、夕飯ではなく、紙とペンとカードが置かれている。


 祖母は少し緊張した顔をしていた。


 母も、仕事用のスマートフォンを伏せて座っている。


 灯理と井沢先生は同席せず、事前に作った家族会議カードだけを翔太に渡していた。


 カードの最初には、こう書かれている。


『責めるためではなく、続けるために話します』


 翔太は、その一文を見つめた。


 喉が渇く。


 祖母を傷つけたくない。


 母を責めたくない。


 でも、このままでは自分が苦しい。


 翔太は、カードを一枚選んだ。


『手伝いたいけれど、全部は持てない』


 そして、ゆっくり話し始めた。


「おばあちゃんのこと、助けたくないわけじゃない」


 祖母が、すぐに頷いた。


「うん」


「病院も、買い物も、スマホも、できる時は手伝いたい」


「ありがとうねえ」


「でも、最近、頼まれるのが少し怖い時がある」


 祖母の表情が変わった。


 母も、黙って翔太を見た。


 翔太は、手元の紙を見ながら続けた。


「友だちと約束してても、病院って言われたら断れない。夜に勉強しようとしてても、スマホ見てって言われたらやる。お母さんに助かるって言われると、次もやらなきゃって思う」


 母の顔が少し強張った。


「翔太、そんなふうに思ってたの」


「うん」


「言ってくれればよかったのに」


 その言葉に、翔太は少しだけ苦笑した。


「言えなかった。家族だから」


 祖母は、膝の上で手を握っていた。


「私は、翔太が嫌がってるなんて思わなかったよ」


「嫌じゃない」


 翔太は、すぐに言った。


「嫌じゃないんだ。でも、全部急に頼まれると困る」


 祖母の目が少し潤んだ。


「ごめんねえ。翔太はいつも優しいから、つい」


 母も、深く息を吐いた。


「お母さんも、翔太に甘えてた。助かるって言って、それで終わらせてたね」


 翔太は、首を横に振った。


「お母さんも忙しいから」


「忙しいことと、翔太に全部渡すことは違うね」


 母は、カードを手に取った。


『大人が持つべきこと』


「通院の日程調整と薬の管理は、お母さんがやる。仕事で行けない日は、先に調整する。地域の送迎サービスも調べる」


 祖母は、不安そうに言った。


「そんなサービス、使っていいのかね」


「使っていいと思う。全部翔太に頼むより、その方が続く」


 母は、スマートフォンにメモを取った。


「スマホのことは?」


 祖母が言う。


 翔太は、カードを一枚選んだ。


『何時までならできる』


「スマホは、火曜と土曜の夜、三十分なら見られる」


「毎日じゃだめ?」


 祖母が、少し寂しそうに言う。


 翔太は、一瞬言葉に詰まった。


 でも、カードを見た。


『手伝いたいけれど、全部は持てない』


「毎日は、勉強ができなくなる」


 祖母は、しばらく黙った。


 それから、小さく頷いた。


「そうだね。翔太、受験生だものね」


 その言葉を聞いて、翔太は胸の奥が熱くなった。


 祖母は、自分の時間を大事にしてくれようとしている。


 それだけで、少し救われた。


 家族の役割表が作られた。


『翔太』

 火曜・土曜の夜、スマホや写真整理を三十分手伝う。

 買い物は日曜日の午前、予定がある時は事前に言う。

 通院は基本担当しない。どうしても必要な時は一週間前に相談。


『母』

 通院日程の確認。

 薬の管理。

 送迎サービス、地域包括支援センターへの相談。

 祖母のスマホで急ぎでないことは、翔太の手伝い日に回す。


『祖母』

 頼みたいことをメモに書いておく。

 急ぎか、急ぎでないかを言う。

 翔太の勉強時間には、急ぎでないお願いをしない。


『家族共通』

 「助かる」で終わらせず、「次は誰が持つか」を確認する。

 断られても、嫌われたと思わない。

 頼む前に予定を聞く。


 食卓の上に並んだ役割表を見て、翔太は不思議な気持ちになった。


 家族のことが、少し学校の時間割のように見える。


 冷たいようで、実は温かい。


 誰が何を持つかを決めることは、家族らしさを壊すことではなかった。


 むしろ、助けたい気持ちが続く形になる。


 祖母が、ぽつりと言った。


「翔太に頼めなくなるのは、少し寂しいねえ」


 翔太は、祖母を見た。


 祖母は、困ったように笑っていた。


「でも、頼む日が決まっていた方が、翔太も嫌にならないんだね」


「うん」


「じゃあ、火曜日と土曜日は、スマホ先生だね」


 翔太は、少し笑った。


「先生ってほどじゃないけど」


 母も笑った。


「その日は、お母さんも一緒に覚える。翔太だけがわかる状態にしない」


 会議の終わりに、翔太は家族会議カードの端に一文を書いた。


『助けたい気持ちは、断れない約束じゃなくて、続けられる分け方にできる』


 書き終えると、祖母がその文字をゆっくり読んだ。


「いい言葉だねえ」


 翔太は、少し照れた。


「先生にもらった考えだけど」


「でも、翔太の字だよ」


 その言葉が、翔太には嬉しかった。


 翌週、学校で井沢先生が声をかけた。


「翔太さん、家族会議はどうでしたか」


「緊張しました」


「そうでしょうね」


「でも、話せました」


 翔太は、提出した数学プリントを見せた。


「昨日、スマホの設定を頼まれたんですけど、火曜日にしようって言えました」


「おばあさまは、どうでしたか」


「ちょっと寂しそうでした。でも、メモに書いとくって」


 井沢先生は、穏やかに笑った。


「大切な一歩ですね」


 家庭科室では、村瀬先生が次の授業で、家族会議カードをクラス全体にも紹介した。


 家庭科は、料理や洗濯だけではない。


 誰が何を持つかを話し合うこと。


 頼み方。


 断り方。


 外の支援を使うこと。


 家族の時間を見えるようにすること。


 それも、生活を作る学びだった。


 翔太は、授業中、少しだけ発言した。


「断るって、嫌いって意味じゃないと思いました」


 クラスが少し静かになる。


 翔太は、続けた。


「できる範囲を言うと、次も手伝いやすくなることがあると思います」


 村瀬先生は、深く頷いた。


「とても大切な視点です」


 その日の夜、翔太は自分の机に向かっていた。


 数学の問題集を開く。


 部屋の外から、祖母の声がした。


「翔太、ちょっといいかい」


 体が反射的に動きかける。


 でも、祖母が続けた。


「あ、急ぎじゃないよ。メモに書いておくね。土曜日でいいから」


 翔太は、椅子に座ったまま息を吐いた。


「うん、土曜日ね」


 ドア越しに返す。


「ありがとう」


 祖母の声は、少し寂しそうで、でも穏やかだった。


 翔太は、問題集に目を戻した。


 断ったわけではない。


 投げ出したわけでもない。


 土曜日にする。


 それだけで、今夜の勉強時間が守られた。


 同時に、祖母との時間も消えなかった。


 火曜日の夜、翔太は祖母の隣に座って、スマートフォンの写真整理をした。


「この写真、どこに行ったんだっけ」


「それはアルバム」


「アルバムって、昔は紙だったのにねえ」


「スマホの中にもあるんだよ」


 祖母は、不思議そうに画面をのぞき込む。


 母も横から見て、メモを取っていた。


「次は、お母さんが説明できるように覚える」


「本当に?」


 翔太が言うと、母は少しむっとした。


「本当に」


 祖母が笑う。


 その時間は、以前より短かった。


 三十分。


 でも、前より落ち着いていた。


 終わりの時間が決まっているから、翔太も焦らず教えられる。


 祖母も、メモを見ながら質問をまとめていた。


 母も、一緒に覚えようとしていた。


 助けることが、一人の肩から少しずつ分かれていく。


 その夜、翔太は家族会議カードを机の引き出しにしまった。


 使わなくなるためではない。


 必要な時に、また出せるように。


 夕方、灯理は中学校を出た。


 家庭科室の窓には、まだ柔らかな明かりが残っていた。廊下には、放課後の調理実習で洗った食器のかすかな匂いが漂っている。校庭の向こうでは、部活動を終えた生徒たちの声が遠ざかっていった。


 村瀬先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、家族の中の支え合いを一緒に見せていただきました」


 村瀬先生は、手に家族会議カードを持っていた。


「家庭科で、家事分担は扱ってきました。でも、断る言葉や、頼む時のルールまで授業にする発想は足りなかったかもしれません」


「はい」


「家族だから自然に助け合える、と思ってしまいがちです。でも、自然に任せると、頼みやすい人に集まるのですね」


 井沢先生も、少し遅れて玄関に来た。


「翔太さんの提出物の遅れを、最初は本人の時間管理として見ていました」


「はい」


「でも、家庭の中で見えにくい役割を持っている生徒は、他にもいるかもしれません。学校でも気づけるようにしたいです」


 灯理は頷いた。


 家族を支えることを学ぶとは、頼まれたことをすべて引き受けることではない。


 家族を大事にする気持ちは、確かにある。


 祖母を安心させたい。


 母を助けたい。


 家の中で役に立ちたい。


 その気持ちは、否定しなくていい。


 けれど、助けたい気持ちが、断れない約束になってしまうと、支える人の時間が静かに消えていく。


 勉強する時間。


 友だちと会う時間。


 眠る時間。


 何もしない時間。


 その消えた時間は、家族の食卓では見えにくい。


 だから、見えるようにする。


 好きでできること。


 できるけれど疲れること。


 断りにくいこと。


 大人が持つべきこと。


 時間を決めればできること。


 今はできないこと。


 外の支援に渡せること。


 頼む時のルール。


 断る時の言葉。


 家族会議は、冷たい表ではない。


 助けたい気持ちを続けるための、食卓の上の地図だった。


 灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。


 家庭科室の机には、翔太が使った家族会議カードの写しが残っている。


 その端には、翔太の字で一文が書かれている。


 助けたい気持ちは、断れない約束じゃなくて、続けられる分け方にできる。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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