第26章 第4話:ボランティアの授業――笑顔の名札が重い日
彩花は、名札を胸につける前に、一度だけ深く息を吸った。
地域学習センターの厨房には、夕飯の匂いが満ちていた。
大鍋で煮込まれた野菜スープの湯気。炊き上がったご飯の甘い匂い。揚げ物を置いたバットの油の匂い。ステンレスの調理台には、水滴が細かく光っている。
廊下の向こうからは、子どもたちの声が近づいてきていた。
「今日カレー?」
「違うよ、スープだって」
「彩花さん来てる?」
「宿題見てもらう!」
その声を聞くと、彩花の口元は自然に笑顔の形になった。
嬉しい。
それは本当だった。
この子ども食堂に来る子たちは、彩花の名前を覚えてくれている。
大学の授業が終わってから急いで電車に乗り、センターへ来る。エプロンをつけ、名札をつける。配膳を手伝い、宿題を見て、話を聞き、片づけをする。
「ありがとう」と言われる。
「また来てね」と言われる。
その言葉に、何度も励まされてきた。
けれど最近、名札をつける瞬間が少し怖くなっていた。
名札には、青いペンで名前が書かれている。
『彩花』
その下に、小さな花のシール。
小学生の陽菜が貼ってくれたものだ。
「彩花さんは、花ついてた方がいいよ」
そう言って笑った陽菜の顔を思い出すと、外すわけにはいかない気がする。
彩花は、名札を胸につけた。
ぱちん。
安全ピンの小さな音がした。
その音を合図にするように、子どもたちが食堂へ入ってきた。
「彩花さん!」
最初に駆け寄ってきたのは、陽菜だった。
小学校三年生。髪を二つに結び、ランドセルを背負ったまま彩花の腰に抱きつく。
「今日も来た!」
「来たよ。ランドセル、先に置こうか」
「彩花さん、宿題見て。算数わかんない」
「うん、あとでね」
「隣に座って」
「今日は配膳もあるから、少し待ってね」
別の子が、後ろから声をかける。
「彩花さん、今日のスープ何味?」
「彩花さん、箸落とした」
「彩花さん、あの子が順番抜かした」
「彩花さん、聞いて!」
声が重なる。
彩花は、ひとつずつ返事をする。
「スープはコンソメだよ」
「新しいお箸持ってくるね」
「順番、ここから並ぼう」
「あとで聞くね」
足は厨房と食堂を行き来する。
手はトレーを並べ、スプーンを配り、こぼれた水を拭く。
口はずっと笑っている。
子どもたちの前で、疲れた顔をしてはいけない気がした。
この場所は、安心して来られる場所だから。
自分が笑っていなければ、子どもたちが不安になるかもしれないから。
センター職員の青柳さんが、厨房から顔を出した。
「彩花さん、配膳のあと、陽菜ちゃんの宿題お願いできますか。あと、初めて来た子が少し不安そうなので、声をかけてもらえると助かります」
「はい」
すぐに返事が出た。
青柳さんは、疲れた顔で笑った。
「本当に助かります。彩花さんがいると、子どもたち落ち着くので」
助かります。
その言葉は、温かい。
でも、彩花の胸には、少しだけ重く乗った。
食事が始まると、彩花は自分の分のスープをよそう時間を逃した。
子どもたちの隣に座り、陽菜の算数のプリントを見る。
「ここ、繰り下がり」
「わかんない」
「じゃあ、十のまとまりで考えよう」
向こうの席で、低学年の子が泣き出す。
彩花は、陽菜に「ちょっと待ってね」と言い、そちらへ行く。
「どうしたの」
「ブロッコリー嫌い」
「そっか。無理に全部じゃなくて、一口だけにしてみる?」
戻ると、陽菜が不満そうに頬を膨らませていた。
「彩花さん、こっち見て」
「ごめんね。続きやろう」
食堂の端では、ベテランボランティアの前田さんが食器を片づけている。
「彩花ちゃん、若いんだから動けるうちに動かないとね」
冗談めいた声だった。
「昔はもっと人も少なくて大変だったのよ」
「そうなんですね」
彩花は笑って返した。
前田さんも悪い人ではない。
長くこの活動を支えてきた人だ。
でも、「昔はもっと大変だった」と言われると、今の疲れを言いにくくなる。
食事が終わる頃には、彩花の足は重くなっていた。
片づけ。
テーブル拭き。
食器の仕分け。
宿題の続き。
初めて来た子への声かけ。
陽菜の「もう帰るの?」という声。
気づけば、時計は午後八時を過ぎていた。
彩花は、名札を外した。
胸の布から安全ピンを抜くと、少しだけ肩が軽くなる。
でも、名札を手のひらに乗せた瞬間、涙が出そうになった。
帰り道、駅へ向かう道は暗かった。
商店街のシャッターが半分下り、焼き鳥屋の煙が細く流れている。手には、食堂で余ったおにぎりが一つ入った袋。自分の夕飯は、それになった。
助けたい場所なのに。
子どもたちが好きなのに。
名札をつけるのが、怖い日がある。
そのことが、彩花は悲しかった。
翌週、地域学習センターでボランティアの振り返り会が開かれた。
会議室には、折りたたみ机が並べられている。壁には、以前作られた「入口はいくつあってもいい」という掲示が残っていた。
参加者は、青柳さん、前田さん、彩花、数人の大学生ボランティア、そして白瀬灯理だった。
灯理は黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持っていた。
青柳さんが、少し申し訳なさそうに話し始めた。
「今日は、子ども食堂の運営を見直したいと思います。利用する子どもたちの入口は増やしてきました。でも、支える側のことを十分に見られていなかったかもしれません」
前田さんが、腕を組む。
「まあ、人手不足はいつものことですけどね」
青柳さんは頷いた。
「はい。ただ、人手不足を個人の頑張りで埋め続けるだけでは、続かないと思っています」
彩花は、名札を握っていた。
今日も胸につけるつもりで持ってきた名札。
でも、会議室ではまだつけていない。
灯理が、彩花に視線を向けた。
「彩花さん」
「はい」
「名札を持っているのですね」
彩花は、手のひらを少し開いた。
花のシールがついた名札。
「陽菜ちゃんが貼ってくれたので」
「大切な名札ですね」
「はい」
彩花は、名札を見つめた。
大切。
そう、大切なのだ。
だから重い。
彩花は、ゆっくり言った。
「先生」
「はい」
「助けたい場所なのに、名札をつけるのが怖い日があります」
言った瞬間、会議室が静かになった。
青柳さんの表情が揺れた。
前田さんも、少しだけ腕を解いた。
彩花は、続けた。
「つけたら、ずっと笑顔でいないといけない気がして。呼ばれたら全部行かないといけない気がして。子どもたちが嫌なわけじゃないです。ここも好きです。でも、帰る時、何も残ってないみたいになる日があります」
灯理は、彩花の言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、誰かを助ける活動は、笑顔で尽くし続けることで成り立つのでしょうか」
彩花は、答えられなかった。
そうだと思っていた。
ボランティアは、笑顔でいる人。
頼まれたら応える人。
困っている子どもがいたら駆けつける人。
疲れた顔を見せない人。
でも、それを続けた先に、自分が来られなくなったら。
それは、本当に支えになっているのだろうか。
灯理は、大きな紙を広げた。
中央に書かれている。
『子ども食堂で起きている役割』
周りには、いくつもの欄があった。
『配膳』
『片づけ』
『宿題を見る』
『遊び相手』
『相談を聞く』
『初めて来た子への声かけ』
『買い出し』
『記録』
『保護者連絡』
『子どもの見守り』
『休憩』
『対応中』
『誰に集中しているか』
『交代できること』
『職員につなぐこと』
最初に、子ども食堂で発生している仕事を書き出した。
配膳。
盛り付け。
アレルギー確認。
食器準備。
テーブル拭き。
こぼれたものの片づけ。
宿題を見る。
低学年の遊び相手。
ケンカの仲裁。
初めて来た子への説明。
子どもの相談を聞く。
保護者への声かけ。
買い出し。
片づけ。
ゴミ出し。
活動記録。
次回の連絡。
付箋は、あっという間に机の上を埋めた。
青柳さんが、ため息をついた。
「こんなにありますね」
次に、『誰が持っているか』を書いた。
配膳、彩花、前田さん、青柳さん。
宿題、彩花。
遊び相手、彩花。
初めて来た子への声かけ、彩花。
相談、彩花、青柳さん。
片づけ、前田さん、彩花。
買い出し、青柳さん、前田さん。
記録、青柳さん。
陽菜の対応、彩花。
泣いた子の対応、彩花。
テーブル拭き、前田さん。
休憩。
誰も名前が書かれなかった。
灯理は、その空白を指した。
「休憩は、誰の役割になっていますか」
誰もすぐには答えられなかった。
前田さんが、少し照れたように言った。
「休憩なんて、手が空いた時に」
青柳さんが首を横に振った。
「でも、手が空かないんですよね」
彩花は、小さく頷いた。
手が空いたら休む。
そう思っていると、休めない。
手はいつも何かを拾ってしまう。
灯理は、名札をもう一枚取り出した。
白い紙に、太い文字で書かれている。
『休憩中』
次に、
『配膳担当』
『宿題担当』
『遊び担当』
『相談は職員へ』
『対応中』
『今日は聞けません』
『片づけ担当』
『初めての人案内』
彩花は、それを見て目を瞬かせた。
「名札を変えるんですか」
「名前だけでなく、今の役割を見えるようにします」
灯理は言った。
「子どもたちは、優しい人、よく応えてくれる人に集まりやすいです。それ自体は自然なことです。でも、役割が見えないと、一人に集中します」
青柳さんが頷いた。
「彩花さんが何でもできる人になっていました」
彩花は、少し困ったように笑った。
「できていたわけじゃないです」
「はい。できているように見えて、持ちすぎていたんですね」
その言葉に、彩花の胸が少し熱くなった。
前田さんが、名札を手に取った。
『休憩中』
しげしげと眺める。
「こんなのつけたら、子どもたちに冷たく見えないかしら」
灯理は、問い返した。
「休憩中の札は、子どもに何を伝える札でしょう」
前田さんは、少し考えた。
「今は頼めない、ってこと?」
「それもあります」
青柳さんが言った。
「でも、戻ってくるよ、ということでもありますね」
彩花は、はっとした。
休憩中。
いなくなるわけではない。
投げ出すわけではない。
戻ってくるために、少し離れる。
灯理は頷いた。
「休憩を見えるようにすることは、支える人が消えないための約束にもなります」
その日の子ども食堂では、新しい札を試すことになった。
食堂の入口に、大きな担当表が貼られた。
『今日の担当』
配膳担当、前田さん、大学生の拓也。
宿題担当、彩花。
遊び担当、大学生の美咲。
相談は、青柳さん。
片づけ担当、全員交代。
休憩時間、十五分ずつ。
そして、彩花の名札には、名前の下に小さな差し替え札がついた。
『宿題担当』
いつもの花のシールは、そのまま残っている。
子どもたちが入ってくると、すぐに陽菜が走ってきた。
「彩花さん!」
「陽菜ちゃん、こんばんは」
「今日も隣に座って」
彩花は、胸の名札を見せた。
「今日は、最初は宿題担当だよ。ご飯の時間は、配膳担当の前田さんが呼んでくれる」
陽菜は、眉を寄せた。
「えー、彩花さんがいい」
予想していた言葉だった。
胸が少し痛む。
今までなら、すぐに「じゃあ少しだけ」と言っていた。
でも、今日は担当表がある。
青柳さんが近づいてきた。
「陽菜ちゃん、今日の彩花さんは宿題担当。ご飯の時は、美咲さんも隣に座れるよ」
「でも」
陽菜は、彩花の名札を見た。
「彩花さん、私のこと嫌になった?」
その言葉は、彩花の胸に真っ直ぐ刺さった。
嫌になっていない。
むしろ、大切だから困っている。
灯理が少し離れたところで見守っている。
彩花は、陽菜の目線までしゃがんだ。
「嫌になってないよ」
「じゃあ、なんで?」
「彩花さんがずっと全部やると、疲れて来られなくなるかもしれないから」
陽菜の目が揺れた。
「来られなくなるの?」
「そうならないために、今日は役割を分けるの」
彩花は、ゆっくり言った。
「宿題は一緒に見る。ご飯の時は美咲さんと座ってみよう。あとで私が休憩から戻ったら、少し話そう」
陽菜は、すぐには納得しなかった。
でも、美咲が少し離れたところから手を振った。
「陽菜ちゃん、私、折り紙得意だよ」
陽菜は、少し疑わしそうに美咲を見た。
「本当に?」
「鶴、三秒は無理だけど三分なら」
「遅い」
「じゃあ教えて」
陽菜は、渋々美咲の方へ行った。
彩花は、その背中を見送りながら、胸の奥が少し寂しくなるのを感じた。
自分だけが選ばれることは、重かった。
でも、自分だけではなくなることも、少し寂しい。
その両方がある。
宿題の時間、彩花は三人の子どもを見た。
担当が決まっているので、以前のように食堂全体から呼ばれることは少なかった。
途中で、別の子が相談のような話を始めた。
「彩花さん、ちょっと聞いて。家でさ」
彩花は、一瞬、身を乗り出しそうになった。
でも、名札を見た。
『宿題担当』
そして、相談担当は青柳さん。
「その話は大事そうだから、青柳さんと一緒に聞こうか」
「えー、彩花さんがいい」
「私も一緒に行く。でも、青柳さんにも聞いてもらおう」
子どもは少し不満そうだったが、青柳さんのところへ行った。
彩花は、全部を自分で受け取らなくていいことを、体で覚えようとしていた。
午後六時四十分。
青柳さんが声をかけた。
「彩花さん、休憩時間です」
彩花は、思わず周りを見た。
まだ宿題をしている子がいる。
陽菜も、こちらをちらちら見ている。
食堂は賑やかで、手伝うことはいくらでもある。
「でも」
言いかけると、前田さんがやってきた。
「休憩札、使うんでしょう」
その声は、少し照れくさそうだった。
前田さんは、自分の胸にも『配膳担当』の札をつけていた。
「私もあとで使ってみるから、先に彩花ちゃんが使って」
彩花は、休憩中札を手に取った。
胸の名札の下へ差し替える。
『休憩中』
その三文字が、自分の胸に大きく見えた。
陽菜がすぐに気づいた。
「彩花さん、休憩?」
「うん。十五分休憩」
「どこ行くの?」
「隣のスタッフルームでお茶飲む」
「戻ってくる?」
「戻ってくるよ。札が終わったら」
陽菜は、少し不安そうだった。
でも、隣にいた美咲が言った。
「その間、折り紙の続きやろう」
陽菜は迷った末に頷いた。
「じゃあ、戻ってきたら見せる」
「うん、見せて」
彩花は、スタッフルームに入った。
ドアを閉めると、食堂の声が少し遠くなる。
椅子に座る。
紙コップのお茶を飲む。
温かさが喉を通った瞬間、自分がずっと喉が渇いていたことに気づいた。
十五分。
短い時間だった。
でも、彩花には久しぶりの静かな時間だった。
名札は胸についている。
でも、そこには『休憩中』と書かれている。
笑顔ではない顔をしていてもいい時間。
誰かに呼ばれても、すぐ立ち上がらなくていい時間。
戻るために離れる時間。
彩花は、紙コップを両手で包んだ。
涙が少し出た。
疲れていた。
ちゃんと疲れていた。
休憩が終わると、彩花は食堂へ戻った。
陽菜が折り紙の箱を見せに来る。
「見て、作った」
「すごい。美咲さんと?」
「うん。でも、ここ失敗した」
「そこもいい感じだよ」
陽菜は少し笑った。
彩花がいない十五分の間に、陽菜は別の人と関わっていた。
それは、彩花にとっても陽菜にとっても、小さな変化だった。
片づけの時間、前田さんが『休憩中』札をつけた。
最初は冗談のように胸を張っていたが、スタッフルームから戻ってくると、少し表情が柔らかくなっていた。
「お茶、座って飲むと味が違うのね」
青柳さんが笑った。
「前田さんも、毎回休憩を入れましょう」
「昔はそんなのなかったわよ」
前田さんは言いかけて、少し黙った。
それから、休憩札を見て言った。
「でも、あった方がよかったのかもね」
活動後の振り返りでは、担当表の効果と課題を書き出した。
『子どもが最初は戸惑った』
『彩花さんへの集中が少し減った』
『相談を青柳さんにつなげた』
『休憩時間を取れた』
『休憩札を見ても、子どもに説明が必要』
『担当外のことを断る言葉を練習する』
『感謝の伝え方を変える』
青柳さんは、最後の項目に線を引いた。
「私、よく『助かります』と言っていました」
彩花は、少し顔を上げた。
青柳さんは続ける。
「感謝しているのは本当です。でも、それだけだと、次も彩花さんにお願いする流れになっていました」
灯理が言った。
「感謝が、役割固定の合図になってしまうことがありますね」
青柳さんは頷いた。
「これからは、『助かります』のあとに、『次は誰と分けるか』まで考えます」
前田さんが言った。
「『ありがとう、休んでね』も言わないとね」
彩花は、その言葉に小さく笑った。
その日の活動ノートに、彩花は書いた。
『宿題担当』
『相談は青柳さんへつないだ』
『十五分休憩した』
『陽菜は美咲さんと折り紙をした』
『前田さんも休憩札を使った』
『名札が少し軽かった』
そして、ノートの端に一文を書く。
『笑顔を続けるために、笑顔じゃない時間も活動の中に入れてよかった』
文字を書き終えると、胸の奥にあった固いものが少しゆるんだ。
この場所を嫌いになったわけではない。
子どもたちを助けたい気持ちは、まだある。
でも、助けたい場所にい続けるためには、自分が消耗しきらない仕組みが必要だった。
名札は、誰かに尽くし続ける証ではない。
今の役割と、休む権利を見えるようにする小さな道具にもなれる。
夜、灯理は地域学習センターを出た。
ガラス扉の向こうには、片づけを終えた食堂の明かりが残っている。机の上には、担当札と休憩札がきれいに並べられていた。厨房からは、洗い終えた食器の水音が少しだけ聞こえる。
青柳さんが、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、支える人の休憩が活動の中に入っていく時間を一緒に見せていただきました」
青柳さんは、手元の担当表を見た。
「私は、子どもたちが来やすい入口を増やすことばかり考えていました」
「はい」
「でも、支える側にも入口と出口が必要でした。入りやすい役割、抜けられる休憩、戻れる仕組み」
灯理は頷いた。
「はい」
「彩花さんがいないと不安な子もいます。でも、彩花さんだけに頼る状態は、その子にとっても危ういのですね」
少し離れたところで、彩花が陽菜と話していた。
陽菜は、折り紙の箱を大事そうに持っている。
「次も美咲さんいる?」
「いると思うよ」
「彩花さんも?」
「私は来る予定。でも、休憩もするよ」
「うん。休憩したら戻ってくるんでしょ」
「戻ってくるよ」
そのやり取りを聞いて、青柳さんは静かに笑った。
誰かを助ける活動を学ぶことは、笑顔で尽くし続けることではない。
もちろん、笑顔は大切だ。
子どもたちの名前を呼ぶこと。
温かいご飯をよそうこと。
宿題の隣に座ること。
不安な子へ声をかけること。
その一つひとつに、善意がある。
けれど、善意だけに頼ると、優しい人、人気のある人、よく気づく人に役割が集まる。
名札が、助けを求める声を全部引き寄せる。
「ありがとう」が、次のお願いを固定する。
「昔はもっと大変だった」が、今の疲れを言いにくくする。
そうして、支える人が静かにすり減っていく。
だから、見えるようにする。
配膳担当。
宿題担当。
遊び担当。
相談は職員へ。
対応中。
休憩中。
今日は聞けません。
役割を交代する。
休憩を予定に入れる。
相談を職員につなぐ。
欠席しても戻れるようにする。
感謝を負担に変えない言葉を選ぶ。
笑顔ではない時間を、活動の外へ追い出さない。
灯理は、夜の地域学習センターを振り返った。
活動ノートのページには、彩花の字で一文が残っている。
笑顔を続けるために、笑顔じゃない時間も活動の中に入れてよかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




