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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第26章 第2話:相談係の授業――聞きすぎた昼休み


 菜月の弁当箱は、まだ開いていなかった。


 昼休みの教室には、弁当の匂いとパンの袋を開ける音が混じっている。机を寄せ合って笑う声。購買で買った焼きそばパンを見せ合う声。窓の外では、グラウンドへ向かう生徒たちの足音が遠ざかっていく。


 菜月は、自分の机に座っていた。


 弁当箱の上には、箸が置かれている。


 でも、向かいの椅子には、後輩の日向が座っていた。


「菜月先輩、ちょっとだけ聞いてもらっていいですか」


 日向は、一年生だった。


 大きな目をしていて、いつも少し不安そうに周りを見る。菜月がピアサポートの相談係になってから、何度か話を聞いている後輩だ。


「うん。どうしたの」


 菜月は、笑顔を作った。


 最初は、本当に嬉しかった。


 相談係。


 誰かの話を聞く役割。


 友だちからも「菜月は聞き上手だよね」と言われていたし、先生からも「安心して話せる雰囲気がある」と言われた。


 誰かの役に立てる。


 そう思った。


 けれど最近、昼休みはほとんど相談で埋まっている。


 弁当を食べる時間がなくなる。


 放課後も誰かに呼び止められる。


 夜、布団に入っても、聞いた言葉が頭から離れない。


 日向は、手元のハンカチを握りしめた。


「友だちに、昨日の夜、メッセージ送ったんです。でも、返ってこなくて」


「うん」


「朝、学校で会ったら普通だったんですけど、なんか、私だけ気にしてる感じで」


「うん」


「それで、別の子に聞いたら、私の話をしてたかもしれないって」


 菜月は、日向の表情を見ながら頷いた。


 相づちの速さ。


 目線。


 声の低さ。


 途中で遮らないこと。


 相談係の研修で教わったことを思い出す。


 日向は続けた。


「先生には言わないでください」


 菜月の指が、弁当箱の端で止まった。


 先生には言わないで。


 この言葉を、最近よく聞く。


 誰にも言えないから。


 菜月先輩ならわかってくれるから。


 秘密にしてくれるよね。


 そう言われるたび、菜月の中に小さな重りが置かれていく。


「うん、今すぐは言わないよ」


 菜月は、そう答えた。


 けれど、その言葉が本当に正しいのか、自信がなかった。


 日向の話は、まだ友人関係の不安の範囲かもしれない。


 でも、もしこの先、もっと重くなったら。


 誰かが傷ついていたら。


 菜月一人で秘密にしていていいのだろうか。


 昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。


 日向は、慌てて立ち上がった。


「すみません、先輩、また放課後でもいいですか」


「あ、うん」


「ありがとうございます。菜月先輩に話すと、少し楽になります」


 日向は、小さく頭を下げて教室を出ていった。


 菜月は、弁当箱を見た。


 まだ開いていない。


 箸も袋に入ったまま。


 次の授業の準備をするクラスメイトたちの中で、菜月は少しだけぼんやりした。


 お腹は空いている。


 でも、胸の中がいっぱいで、食べたい感じがしなかった。


「菜月」


 隣の席から、遥が声をかけた。


 遥は、以前、保健室で「大丈夫カード」を使ってから、少しずつ自分の状態を言葉にできるようになっていた。


 菜月も、その時は遥の話をたくさん聞いた。


 遥が「大丈夫」としか言えなかった頃、菜月は何度も隣にいた。


 今度は、遥が菜月を見ている。


「お弁当、食べてない」


「うん。あとで食べる」


「あとでって、いつ?」


「放課後とか」


「放課後、日向ちゃんと話すって言ってなかった?」


 菜月は、笑ってごまかそうとした。


「大丈夫、大丈夫」


 遥は、少しだけ眉を寄せた。


「その大丈夫、どの大丈夫?」


 菜月は、言葉に詰まった。


 自分が前に遥へ言っていたことを、今、返されている。


 大丈夫。


 大丈夫だよ。


 聞けるよ。


 平気だよ。


 そんな言葉で、菜月は自分の疲れを押し込んでいた。


 五時間目の授業中、菜月は黒板の文字を写しながら、日向の言葉を思い出していた。


 先生には言わないでください。


 私の話をしてたかもしれない。


 菜月先輩に話すと、少し楽になります。


 楽になる。


 その言葉は嬉しかった。


 でも、日向の少し楽になった分が、菜月の中に移ってきたような気がした。


 ノートの行がずれる。


 先生の声が遠くなる。


 夜、菜月は布団の中でスマートフォンを見ていた。


 日向からメッセージが来ている。


『今日ありがとうございました』

『でも、またちょっと不安で』

『今、聞いてもらってもいいですか』


 時計は、午後十一時十七分。


 明日も学校がある。


 眠い。


 けれど、日向が不安なまま夜を過ごすのかと思うと、スマートフォンを置けなかった。


 菜月は、返信した。


『少しだけなら』


 すると、すぐに長い文章が送られてきた。


 友だちのこと。


 家で親に言えないこと。


 自分が嫌われているかもしれないこと。


 学校へ行くのが怖い日があること。


 菜月は、画面を見つめた。


 少しだけ。


 そう言ったのに、少しだけでは終わらない。


 返さなければ。


 でも、何を返せばいいのかわからない。


 菜月は、何度も文章を打っては消した。


『それはつらかったね』

『明日、また話そう』

『先生にも相談してみる?』


 先生。


 その言葉を書きかけて、日向の「先生には言わないでください」を思い出す。


 菜月は、結局こう返した。


『つらかったね』

『明日また聞くね』


 送信した後も、胸の重さは消えなかった。


 翌日の昼休み、菜月は相談スペースへ呼ばれた。


 空き教室の一角に、小さな丸机と椅子が置かれている。ピアサポート活動のために用意された場所だった。壁には「ひとりで抱えない」「話してみよう」というポスターが貼られている。


 そこに、白瀬灯理がいた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、ピアサポート活動の見直しと相談係の学びのために来ている先生だった。


 ピアサポート担当の森先生もいる。


 遥も、少し離れた椅子に座っていた。


「菜月さん、来てくれてありがとう」


 森先生が言った。


 菜月は、少し身構えた。


「私、何か失敗しましたか」


 森先生は、すぐに首を横に振った。


「失敗ではありません。むしろ、菜月さんがたくさん話を聞いてくれていることを、私たちは知っています」


 その言葉に、菜月は少しだけ安心した。


 でも、すぐに不安になった。


 たくさん聞いている。


 それは、よいことなのか。


 よくないことなのか。


 灯理は、菜月の前に温かいお茶を置いた。


「今日、お昼は食べましたか」


 菜月は、目を逸らした。


「まだです」


 遥が、小さく息を吐いた。


 森先生の表情が曇る。


「昼休みの相談が続いていますか」


「はい。でも、みんな困っているので」


「はい」


「私が聞くと、少し楽になるって言ってくれます」


「はい」


「だから」


 菜月は、そこで言葉を止めた。


 だから、聞かなければならない。


 そう続けようとして、胸の奥が苦しくなった。


 灯理は静かに尋ねた。


「菜月さんは、聞いた後、どうなりますか」


「どう、って」


「体や心に、何か残りますか」


 菜月は、手元の紙コップを見た。


 湯気が薄く揺れている。


「残ります」


「はい」


「授業中も考えます。夜も、返事が合ってたか気になります。先生に言わないでって言われると、どうしたらいいかわからなくなります」


 言葉が出始めると、止まらなかった。


「聞いてあげたいんです。本当に。私に話してくれるなら、少しでも楽になってほしいです。でも、聞いたあと、その子の言葉が私の中から消えなくて」


 菜月は、顔を上げた。


「先生、聞いてあげたいのに、聞いたあと私の中から消えないんです」


 相談スペースが静かになった。


 遥が、菜月を見ていた。


 菜月は、泣きそうな顔をしている自分に気づき、慌てて目を伏せた。


 灯理は、菜月の言葉を急いで慰めなかった。


 ただ、受け止めてから、静かに問いを返した。


「うん。では、相談に乗ることは、相手の重さを全部自分の中に持ち帰ることなのでしょうか」


 菜月は、答えられなかった。


 持ち帰っていた。


 誰にも見えない袋のようなものに、相談された言葉を入れて、家まで持ち帰っていた。


 夜、布団の中でも開けてしまう。


 授業中も、中身がこぼれてくる。


 でも、持ち帰らないと、冷たい人になる気がしていた。


 森先生は、深く息を吸った。


「菜月さん、ごめんなさい」


 菜月は、驚いて顔を上げた。


「え?」


「ピアサポート活動を始める時、私は『話を聞くこと』を大事に伝えました。でも、『どこまで聞くか』『一人では持てない相談をどうするか』『聞いた後に自分を戻す方法』を十分に作れていませんでした」


 森先生の声は、真剣だった。


「菜月さんの優しさに頼っていました」


 菜月は、首を横に振りかけた。


 頼られているのは嬉しかった。


 でも、頼られすぎていたのも本当だった。


 灯理は、大きな紙を机に広げた。


 中央に、こう書かれている。


『相談の重さ地図』


 その周りには、いくつかの欄があった。


『聞ける相談』

『一人では持てない相談』

『すぐ大人につなぐ相談』

『守れる秘密』

『守れない秘密』

『相談時間』

『自分の休む時間』

『今は聞けませんカード』

『先生と一緒に聞きたいカード』

『聞いた後に自分を戻す方法』

『相談係の交代』

『振り返りミーティング』


 菜月は、その紙を見つめた。


 相談にも、地図がある。


 ただ聞くか、聞かないかではない。


 どこまで聞けるか。


 どこからつなぐか。


 秘密をどう扱うか。


 聞いた後、自分をどう戻すか。


 そんなことを考えたことがなかった。


 まず、『相談で起きていること』を書き出した。


 昼休みに相談される。


 弁当を食べ損ねる。


 放課後に相談が延びる。


 夜にメッセージが来る。


 先生には言わないでと言われる。


 泣かれると帰れない。


 相談内容を授業中も考える。


 自分の話をする時間がない。


 菜月ならわかってくれると言われる。


 菜月は、付箋を貼りながら、自分が思っていたより多くのことを抱えていたことに気づいた。


 遥が、そっと言った。


「私も、前は菜月にいっぱい聞いてもらってた」


 菜月は、遥を見る。


 遥は、申し訳なさそうに続けた。


「菜月が聞いてくれるから、安心してた。でも、菜月がそのあとどうしてるか、考えてなかった」


「遥が悪いわけじゃないよ」


「うん。でも、これからは考えたい」


 遥は、大丈夫カードの小さな束を机に置いた。


「私は、カードがあったから言いやすくなった。菜月にも、聞けるかどうか選べるカードがあっていいと思う」


 灯理は頷いた。


「では、作ってみましょう」


 菜月は、森先生と遥と一緒にカードを作った。


『今は聞けません』

『十分なら聞けます』

『昼休みの後半は食べる時間にします』

『これは一人では聞ききれません』

『先生と一緒に聞きたいです』

『明日、相談スペースで聞きます』

『夜は返信できません』

『秘密にできない内容があります』

『あなたを見捨てるのではなく、安全な場所へつなぎます』


 最後のカードを見た時、菜月の胸が少し熱くなった。


 あなたを見捨てるのではなく、安全な場所へつなぐ。


 先生につなぐことは、裏切りではないのかもしれない。


 一人で聞ききれないと言うことは、冷たさではないのかもしれない。


 次に、『守れる秘密』と『守れない秘密』を分けた。


 森先生が説明した。


「友だちに好きな人がいる、まだ誰にも言いたくない。そういう秘密は守れることが多いです。でも、自分を傷つけそう、誰かから傷つけられている、家に帰るのが怖い、食べられない、眠れない、消えたいと言う。そういう相談は、生徒だけで秘密にしてはいけません」


 菜月は、真剣に聞いた。


「でも、先生には言わないでって言われたら」


 森先生は頷いた。


「その時は、『全部を勝手に話すのではなく、あなたを守るために大人と一緒に考えたい』と伝えます。誰に、どこまで、どう伝えるかをできるだけ本人と決めます」


 灯理が言った。


「秘密を守ることと、その人を守ることが、同じでない時があります」


 菜月は、その言葉をノートに書いた。


 秘密を守ることと、その人を守ることが、同じでない時がある。


 放課後、日向が相談スペースへ来た。


 昨日の続きだった。


 菜月は、少し緊張していた。


 森先生は、少し離れたところにいる。


 日向は椅子に座ると、すぐに言った。


「先輩、昨日のことなんですけど」


「うん」


「やっぱり、先生には言わないでください」


 菜月の胸が、ぎゅっと縮んだ。


 いつもなら、うん、と言っていた。


 けれど、今日はカードがある。


 菜月は、手元のカードを一枚選んだ。


『先生と一緒に聞きたいです』


 そして、日向の前に置いた。


 日向の顔が、不安で固まった。


「え、先生に言うんですか」


「全部を勝手に言うんじゃないよ」


 菜月は、ゆっくり言った。


 声が少し震えている。


「でも、昨日の話を聞いて、私一人ではちゃんと持てないと思った」


「私、菜月先輩だから話したのに」


 その言葉は、菜月の胸に刺さった。


 見捨てている。


 そう思われたかもしれない。


 でも、灯理の問いを思い出す。


 相談に乗ることは、相手の重さを全部自分の中に持ち帰ることなのか。


 違う。


 違うと言えるようになりたい。


 菜月は、もう一枚のカードを出した。


『あなたを見捨てるのではなく、安全な場所へつなぎます』


 日向は、そのカードを見た。


 菜月は続けた。


「日向ちゃんのことを大事にしたいから、私だけで聞くのは違うと思った。森先生と一緒に、どこまで話すかを決めたい」


 日向の目に涙が浮かんだ。


「怒られますか」


 森先生が、離れたところから静かに言った。


「怒りません。話したくないことを無理に聞くこともしません。ただ、日向さんが一人で怖いままにならないように、一緒に考えたいです」


 日向は、長い間黙っていた。


 菜月も黙って待った。


 待つことは、全部を引き受けることとは違う。


 そばにいて、必要な場所へつなぐこと。


 やがて、日向は小さく頷いた。


「菜月先輩も、一緒にいてくれますか」


「いるよ」


「じゃあ、少しだけ」


 その日の相談は、菜月一人ではなく、森先生と一緒に聞いた。


 日向は、友人関係だけでなく、家でも不安を抱えていた。


 すぐに大きな対応が必要な話ではなかったが、継続して大人が見守る必要があった。


 森先生は、日向と確認しながら、記録を残した。


 誰に共有するか。


 今は共有しないこと。


 次に話す日。


 夜に不安になった時の連絡先。


 菜月は隣にいた。


 全部を自分で答えなくてもよかった。


 日向が帰った後、菜月は椅子にもたれた。


 疲れていた。


 でも、昨日の夜の疲れとは違った。


 自分の中に全部を持ち帰らなくていい疲れだった。


 森先生が言った。


「菜月さん、今日はここで終わりにしましょう」


「でも、記録は」


「記録は私が書きます。菜月さんは、自分を戻す時間です」


 菜月は、少し戸惑った。


「自分を戻す時間」


 灯理が、机の上に新しい紙を置いた。


『聞いた後に自分を戻す方法』


 菜月は、そこに書いた。


『水を飲む』

『弁当を食べる』

『五分ひとりになる』

『遥と普通の話をする』

『相談内容を頭の中で繰り返さないためにノートを閉じる』

『森先生に一言共有して終わる』

『夜は返信しない』

『帰り道に音楽を聞く』


 遥が言った。


「普通の話、する?」


 菜月は、少し笑った。


「うん。今日の購買の新作パンの話がいい」


「それ、普通でいいね」


 二人は、相談スペースを出た。


 廊下には、夕方の光が差していた。


 菜月は、鞄から食べ損ねた弁当を取り出した。


 もう冷めている。


 でも、今日は食べようと思った。


 数日後、ピアサポート活動のルールが見直された。


 相談スペースの入口には、新しい掲示が貼られた。


『相談係の安全ルール』


一、相談時間は一回十五分まで。

二、昼休みの前半と後半で、相談係と休憩係を分ける。

三、夜の個別相談には返信しない。

四、一人では持てない相談は、担当教師と一緒に聞く。

五、守れる秘密と守れない秘密がある。

六、相談係も「今は聞けません」と言ってよい。

七、聞いた後には、自分を戻す時間を取る。

八、週に一度、相談係の振り返りミーティングを行う。


 菜月だけでなく、他の相談係も参加する交代制になった。


 最初は、相談に来る生徒たちの中に戸惑いもあった。


「菜月先輩がいい」


 日向も、そう言った日があった。


 菜月は、胸が少し痛んだ。


 でも、カードを出した。


『今日は別の相談係と森先生が聞きます』

『菜月はあなたを見捨てたわけではありません』

『相談できる人を増やしています』


 日向は不安そうにしながらも、少しずつ他の相談係とも話せるようになった。


 菜月は、その様子を見て、寂しさと安心が混じった気持ちになった。


 自分だけが必要とされることは、嬉しかった。


 でも、自分だけしかいない場所は、怖かった。


 相談できる人が増えることは、日向にとっても、自分にとっても安全だった。


 ある昼休み、菜月は弁当箱を開いた。


 卵焼きの甘い匂いがする。


 遥が向かいの席に座っている。


「今日、相談は?」


「後半に一件。前半は食べる時間」


「すごい」


「すごいでしょ」


 菜月は、少し得意げに箸を取った。


 その時、教室の入口から一年生が顔を出した。


「あの、菜月先輩」


 菜月の手が止まりかける。


 でも、すぐにカードを取り出した。


『今は昼食中です』

『相談は昼休み後半か、相談スペースで聞きます』


 菜月は、優しく言った。


「今は食べてる時間だから、後半に相談スペースで聞くね。急ぎなら森先生のところへ行こう」


 一年生は少し驚いたが、頷いた。


「後半で大丈夫です」


「わかった」


 その子が去ると、遥が小さく拍手した。


「言えた」


「言えた」


 菜月は、卵焼きを口に入れた。


 冷めていない卵焼きは、久しぶりだった。


 放課後の振り返りミーティングで、菜月は相談ノートを開いた。


 以前のノートには、相談内容がびっしり書かれていた。


 誰が何を言ったか。


 どう答えたか。


 次に何を聞くか。


 そこには、自分の状態を書く欄がなかった。


 新しい相談ノートには、最後に欄がある。


『聞いた後の自分の状態』

『つないだ先』

『自分を戻す方法』

『次に一人で持たないために』


 菜月は、今日の欄に書いた。


『日向の相談は森先生と共有』

『一人で夜に返信しなかった』

『昼食を食べた』

『相談後、遥と普通の話をした』

『少し疲れたが、持ち帰りすぎていない』


 そして、ノートの端に一文を書いた。


『聞くことは、全部持ち帰ることじゃなくて、一緒に安全な場所へ運ぶことだった』


 書いた文字を見て、菜月は小さく息を吐いた。


 相談に乗ることが嫌になったわけではない。


 誰かの話を聞く力は、大切にしたい。


 日向が少し安心した顔をすることも、誰かが「話せてよかった」と言ってくれることも、やっぱり嬉しい。


 でも、その嬉しさで自分の昼食や眠りや心の余白を消してはいけない。


 聞ける範囲を伝える。


 時間を決める。


 守れない秘密があると伝える。


 先生と一緒に聞く。


 夜は返信しない。


 相談係も休む。


 それは、冷たさではなく、相談を続けるための形だった。


 夕方、灯理は高校を出た。


 校舎の窓には、まだいくつかの教室の明かりが残っている。廊下の奥からは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえた。昇降口には、一日の終わりの靴音が重なっている。


 森先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、聞く力を安全につなぐ時間を一緒に見せていただきました」


 森先生は、手に相談係の新しいルール表を持っていた。


「私は、生徒同士が支え合うことを大切にしたいと思っていました」


「はい」


「でも、支え合いを生徒の優しさに任せすぎていました。聞ける子に、聞けるだけ聞かせてしまっていた」


 灯理は頷いた。


「はい」


「これからは、相談係を育てる時に、共感だけでなく、境界線とつなぐ力を必ず入れます」


 少し離れたところで、菜月と遥が並んで昇降口を出てきた。


 菜月は、弁当箱を鞄にしまいながら、遥に何か言っている。


 遥が笑った。


 その笑いは、相談の重さから少し離れた、普通の放課後の笑いだった。


 灯理は、その姿を静かに見送った。


 相談に乗ることを学ぶとは、相手の重さを全部自分の中に抱え込むことではない。


 話を聞くことは、大切だ。


 遮らずに聞くこと。


 相手の言葉を受け止めること。


 「つらかったね」と返すこと。


 それだけで、少し息ができる人がいる。


 けれど、聞く人にも心がある。


 昼食がある。


 眠る時間がある。


 自分の悩みがある。


 聞いた言葉が、夜まで残ることがある。


 だから、境界線を作る。


 聞ける時間。


 聞ける範囲。


 守れる秘密。


 守れない秘密。


 先生と一緒に聞く相談。


 今は聞けませんと言えるカード。


 聞いた後に自分を戻す方法。


 相談係の交代。


 振り返りミーティング。


 一人で抱えない仕組み。


 それは、相談に来た人を遠ざけるためではない。


 その人の重さを、より安全な場所へ一緒に運ぶための道だった。


 灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。


 相談スペースの机には、菜月の相談ノートが置かれている。


 そのページには、菜月の字で一文が残っている。


 聞くことは、全部持ち帰ることじゃなくて、一緒に安全な場所へ運ぶことだった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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