第26章 第1話:見守りの授業――毎朝立つ校門
佐伯先生は、校門の前に立っていた。
朝の空気は、まだ少し冷たい。
校舎の上には薄い雲が流れ、昇降口へ向かう生徒たちの足音が、門から校舎までの道に重なっていく。自転車置き場ではブレーキ音が鳴り、誰かが友人の名前を呼んだ。制服の袖を揺らして走る生徒。眠そうに鞄を肩にかけ直す生徒。笑いながら校門をくぐる生徒。
その流れの端で、佐伯先生は腕時計を見た。
七時五十一分。
紬が来る時間には、まだ少し早い。
それでも、佐伯先生は校門に立っていた。
紬だけではない。
最近、朝の校門で足が止まる生徒が何人かいる。教室には行けないが、保健室なら行ける生徒。別室までなら行ける生徒。昇降口の前で引き返してしまう生徒。
誰かがいるだけで、一歩進める朝がある。
佐伯先生は、それを知っていた。
だから立っている。
毎朝。
雨の日も、寒い日も、前日に保健室対応が長引いた日も。
「佐伯先生、おはようございます」
通りかかった生徒が声をかける。
「おはようございます」
佐伯先生は、いつものように笑顔を返した。
その笑顔が、少しだけ頬に重い。
昨日は保健室で、三人の生徒の相談が続いた。
頭痛で来た生徒。
友人関係で泣きそうになっていた生徒。
大丈夫カードを握ったまま、何も話せなかった生徒。
放課後には、担任との共有記録を書いた。
管理職への報告もあった。
帰宅した後も、明日の紬の登校が気になった。
もし、朝、自分がいなかったら。
紬が校門の前で止まったら。
引き返してしまったら。
その一日が、また遠くなってしまうのではないか。
そう思うと、休めなかった。
七時五十八分。
紬が見えた。
校門から少し離れた歩道で、立ち止まっている。
紬は、鞄の肩紐を両手で握っていた。目は校舎ではなく、佐伯先生の方を探している。
佐伯先生は、急がず手を上げた。
「紬さん、おはようございます」
紬は、少しだけ肩の力を抜いた。
「おはようございます」
「今日は、どこまでにしますか」
紬は、校舎を見た。
「別室まで」
「はい。では、昇降口まで一緒に行きましょう」
佐伯先生は、紬の半歩前を歩いた。
急かさない。
振り返りすぎない。
でも、置いていかない。
その距離を、佐伯先生は何度も考えてきた。
紬は、昇降口の前で一度止まった。
佐伯先生は、何も言わずに待った。
生徒たちの流れが横を通り過ぎていく。
紬の指が、鞄の肩紐を強く握る。
「今日は、人が多いです」
「はい」
「少し待ってもいいですか」
「もちろんです」
数分後、人の流れが少し落ち着いた。
紬は、上履きに履き替えた。
別室まで行くと、佐伯先生は小さく息を吐いた。
紬はそれに気づいた。
「先生、疲れてますか」
佐伯先生は、反射的に笑った。
「大丈夫ですよ」
言った瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
大丈夫。
何度も生徒たちと種類分けしてきた言葉。
今の自分の大丈夫は、どの大丈夫だろう。
紬は、佐伯先生を見ていた。
「本当に?」
その問いに、佐伯先生は少し言葉を失った。
子どもたちは、よく見ている。
支えられる側だと思っていた子も、支える人の疲れに気づくことがある。
「少し、眠いですね」
佐伯先生は、やっとそう答えた。
紬は、小さく頷いた。
「先生も、休むカード使っていいと思います」
その言葉に、佐伯先生は笑った。
今度は、少しだけ本当に笑えた。
けれど、その日の朝、別の生徒の対応が重なり、職員室へ戻った時には、始業のチャイムが鳴っていた。
机の上には、保健室の記録用紙。
担任への連絡メモ。
管理職からの確認書類。
養護教諭としての通常業務。
その全部が、静かに積もっていた。
職員室で、井沢先生が声をかけた。
「佐伯先生、今朝もありがとうございました。紬さん、別室まで行けました」
「はい」
「本当に、佐伯先生がいてくださると安心です」
感謝の言葉だった。
佐伯先生も、それはわかっている。
「いえ、よかったです」
別の先生も言った。
「朝、校門に佐伯先生がいると、生徒も落ち着きますよね」
「保健室も、登校支援も、佐伯先生がいてくれて助かります」
助かります。
ありがたいです。
頼りになります。
その言葉は、温かい。
でも、温かい言葉が重りになることもある。
佐伯先生は、笑顔で頷きながら、椅子に座った。
その日の昼休み、白瀬灯理が保健室を訪れた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
今日は、校内支援体制の見直しのために来ている先生だった。
保健室には、消毒液の匂いと、洗いたてのシーツの匂いが漂っている。窓際のカーテンが、昼の光をやわらかく受けていた。
佐伯先生は、記録用紙に書き込みをしていた。
灯理は、少し離れた椅子に座る。
「佐伯先生」
「はい」
「朝の見守りが、かなり続いているそうですね」
「そうですね」
「毎朝ですか」
「ほとんど毎朝です」
佐伯先生は、ペンを置いた。
「でも、必要なことなので」
灯理は頷いた。
「はい。必要なことですね」
その言い方は、否定ではなかった。
だからこそ、佐伯先生は少しだけ本音を出せた。
「紬さんだけではありません。朝、止まってしまう子が何人かいます。校門に誰かいるだけで、入れる日があるんです」
「はい」
「だから、できるだけ立っていたくて」
「はい」
佐伯先生は、机の上のカードを見た。
大丈夫カード。
何度も生徒たちに渡してきたカード。
自分は、そのカードを使う側ではないと思っていた。
「先生」
「はい」
「私が立っていない朝に、あの子が戻れなくなったらと思うと休めないんです」
口にした瞬間、喉の奥が熱くなった。
支援者がこんなことを言っていいのか。
子どもたちのために必要なことなのだから、疲れたと言ってはいけないのではないか。
佐伯先生は、そんなふうに思っていた。
灯理は、しばらく黙っていた。
そして、静かに問いを返した。
「うん。では、見守る人が倒れそうになりながら立つ校門は、安心な入口と言えるのでしょうか」
佐伯先生は、すぐに答えられなかった。
安心な入口。
自分は、生徒にとってそうでありたいと思っていた。
でも、もし自分が無理をし続けて、急に立てなくなったら。
その入口は、ある日突然消えてしまう。
それは、本当に安心なのだろうか。
放課後、職員室の隣の会議室で、小さな支援ミーティングが開かれた。
参加したのは、佐伯先生、井沢先生、若手の河合先生、教頭先生、灯理だった。
机の上には、大きな模造紙が置かれている。
灯理は、その中央に書いた。
『朝の見守りで起きていること』
その周りに、いくつかの欄が作られた。
『誰が何をしているか』
『佐伯先生に集まっている役割』
『生徒にとって安心な声かけ』
『立つ人が変わっても安心できる方法』
『校門から別室までの道』
『記録共有』
『支援者が休む日』
『事前に伝えること』
最初に、朝の見守りで起きていることを書き出した。
校門に立つ。
生徒に声をかける。
急かさず待つ。
昇降口まで同行する。
保健室へつなぐ。
別室へつなぐ。
担任へ連絡する。
記録を書く。
その日の状態を確認する。
保護者連絡をすることもある。
次の日の登校について相談する。
付箋は、次々に模造紙へ貼られていった。
そして、『誰が何をしているか』の欄へ移す。
佐伯先生。
佐伯先生。
佐伯先生。
佐伯先生。
井沢先生。
佐伯先生。
佐伯先生。
佐伯先生。
佐伯先生。
模造紙の一角が、佐伯先生の名前で埋まっていく。
井沢先生が、顔を曇らせた。
「こんなに佐伯先生に集まっていたんですね」
佐伯先生は、少し苦笑した。
「保健室につながる子が多いので、自然と」
河合先生が、手元の付箋を見ながら言った。
「私、校門に立ってみようと思ったことはあります。でも、何を言えばいいかわからなくて」
佐伯先生は、河合先生を見た。
「そうだったんですか」
「はい。声をかけすぎてしまったらどうしようとか、逆に黙っていたら冷たいかなとか。紬さんのことも、佐伯先生だから安心しているのだと思って、入らない方がいいのかなと」
井沢先生も言った。
「私も担任なのに、朝は佐伯先生に頼っていました。教室の準備があるから、と自分で理由を作っていたところがあります」
教頭先生は、模造紙を見つめていた。
「学校として、仕組みにできていませんでしたね。佐伯先生の善意と力量に頼っていました」
佐伯先生は、少し困ったように笑った。
「善意というほどでは」
灯理が言った。
「善意があることと、仕組みが必要なことは両方あります」
佐伯先生は、その言葉に黙った。
善意を否定されるのではない。
生徒を思う気持ちを責められるのでもない。
ただ、その気持ちだけでは続かないことを、見える場所へ出している。
灯理は、次の欄を指した。
『生徒にとって安心な声かけ』
「佐伯先生が普段している声かけを、共有してみませんか」
佐伯先生は、少し考えながら書いた。
『おはようございます』
『ここまで来られましたね』
『今日はどこまでにしますか』
『校門まででも大丈夫です』
『少し待ちますか』
『保健室と別室、どちらにしますか』
『戻れなかった日も地図から消えません』
『決めるのは今でなくても大丈夫です』
河合先生が、それを見て驚いたように言った。
「頑張って、とは言わないんですね」
「言わないようにしています」
「どうしてですか」
佐伯先生は、少し迷ってから答えた。
「もう頑張っていることが多いので」
河合先生は、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
灯理は、新しいカードを出した。
『見守りカード』
そこには、見守る側のための声かけ例と、手順が書けるようになっている。
『名前』
『今日の担当』
『声かけ』
『選べる行き先』
『急かさないこと』
『確認すること』
『共有先』
『困った時につなぐ人』
写真入りのカードではない。
人の顔に依存するのではなく、声かけと流れを共有するためのカードだった。
井沢先生が言った。
「これがあれば、私も立てます」
河合先生も頷いた。
「私も。言ってよい言葉と、言わない方がよい言葉が見えるだけで、入りやすいです」
教頭先生は、ホワイトボードに見守り当番表を書いた。
月曜日、佐伯先生と井沢先生。
火曜日、河合先生と教頭先生。
水曜日、井沢先生と佐伯先生。
木曜日、河合先生と学年主任。
金曜日、教頭先生と佐伯先生。
さらに、雨の日や行事前は人数を増やす。
見守り後の記録は、共有シートに短く書く。
保健室だけに集めない。
別室担当とも共有する。
佐伯先生の欄には、初めて「立たない日」が書かれた。
火曜日。
佐伯先生は校門に立たない。
その文字を見た時、佐伯先生の胸がざわついた。
「火曜日、紬さんが来られなかったら」
言いかけて、止まる。
灯理は言った。
「その不安も、仕組みの中に入れましょう」
紬に事前に伝える。
火曜日は河合先生が立つこと。
声かけはカードと同じであること。
佐伯先生は保健室にいるが、校門には立たないこと。
不安なら、見守りカードを持って来られること。
昇降口まで行けなかった場合は、校門横のベンチで待ってよいこと。
そうやって、不安を一つずつ手順にした。
翌朝、別室で紬に見守りカードが渡された。
佐伯先生、井沢先生、河合先生が一緒にいた。
カードには、曜日ごとの担当が書かれている。
月曜日、佐伯先生。
火曜日、河合先生。
水曜日、井沢先生。
木曜日、河合先生と教頭先生。
金曜日、佐伯先生。
紬は、火曜日の欄を見つめた。
「佐伯先生、いないんですか」
佐伯先生は、ゆっくり頷いた。
「校門には立ちません。保健室にはいます」
紬の指が、カードの端を押さえた。
「私、入れないかもしれません」
「その時は、校門までで大丈夫です」
河合先生が、少し緊張した顔で言った。
「火曜日は、私が立ちます。佐伯先生と声かけを確認しました。急かしません。紬さんが選べるようにします」
紬は、河合先生を見た。
河合先生は若く、少し早口な先生だった。
紬は、これまであまり話したことがない。
「頑張ってって言いますか」
紬が尋ねると、河合先生は一瞬驚いてから、首を横に振った。
「言いません」
「本当に?」
「はい。カードに書きました」
河合先生は、自分の見守りカードを見せた。
『言わないこと』
『頑張って』
『早く行こう』
『もう大丈夫?』
『みんな待ってるよ』
『言うこと』
『ここまで来られましたね』
『今日はどこまでにしますか』
『待ちます』
『戻れなかった日も、地図から消えません』
紬は、そのカードをじっと見た。
人が変わっても、言葉が変わりすぎない。
それは、少し安心できた。
火曜日の朝。
紬は校門の前で立ち止まった。
佐伯先生はいない。
胸がざわつく。
帰ろうかと思った。
その時、校門の横に河合先生が立っているのが見えた。
河合先生は、紬を見つけても大きく手を振らなかった。
急いで近づいても来なかった。
ただ、カードを手に、少し離れた場所で待っていた。
紬がゆっくり近づく。
河合先生は、カードを見ながら、落ち着いた声で言った。
「紬さん、おはようございます。ここまで来られましたね」
紬は、息を止めた。
佐伯先生と同じ言葉。
でも、河合先生の声。
少し違う。
けれど、急かされていない。
「今日は、どこまでにしますか」
紬は、校舎を見た。
佐伯先生がいない朝。
それだけで足元が不安定になる。
でも、手には見守りカードがある。
保健室には佐伯先生がいる。
校門には河合先生がいる。
井沢先生は別室で待っている。
待ってくれる人が、一人ではない。
「昇降口まで」
紬は、小さく言った。
河合先生は頷いた。
「はい。昇降口まで一緒に行きます。そこから先は、また選びましょう」
歩き出す。
河合先生の歩幅は、少し速くなりかけた。
でも、すぐに気づいて遅くした。
紬は、それにも気づいた。
完璧ではない。
でも、合わせようとしてくれている。
昇降口まで行き、紬は少し迷った。
「今日は、別室まで行きます」
「はい」
河合先生は、別室の前まで同行した。
井沢先生が、別室で待っていた。
「紬さん、おはよう」
「おはようございます」
紬は、椅子に座った。
大きく息を吐く。
佐伯先生がいない校門でも、別室まで来られた。
その事実に、自分で少し驚いた。
昼休み、紬は保健室へ行った。
佐伯先生は、保健室の机で記録を整理していた。
いつもなら朝の見守り後に慌ただしく戻ってくる時間だが、今日は少し落ち着いて見えた。
「紬さん、火曜日の朝、どうでしたか」
紬は、見守りカードを出した。
「怖かったです」
「はい」
「でも、河合先生がカード通りに言ってくれました」
「はい」
「ちょっと歩くの速かったけど、途中で遅くしてくれました」
佐伯先生は、小さく笑った。
「そうでしたか」
紬は、カードの端に鉛筆で書き込んだ。
『河合先生は、最初少し速い。でも、待ってくれる』
佐伯先生は、その一文を見て言った。
「それも大切な情報ですね」
「はい」
紬は、少し黙った。
そして、もう一行書いた。
『待ってくれる人が一人じゃないと、先生も私も少し息ができる』
書き終えて、紬は佐伯先生に見せた。
佐伯先生は、その文字をしばらく見つめていた。
目元が少し揺れた。
「ありがとう、紬さん」
「先生も、火曜日休めましたか」
「少し、保健室の準備ができました」
「休みじゃないですね」
紬が真面目に言うので、佐伯先生は思わず笑った。
「そうですね。次は、本当に休む時間も入れます」
その週の終わり、見守りチームの振り返りが行われた。
会議室の模造紙には、朝の記録が並んでいる。
月曜日、紬は別室まで。
火曜日、河合先生担当。昇降口で一度止まり、別室へ。
水曜日、井沢先生担当。校門横のベンチで十分待ってから保健室へ。
木曜日、別の生徒が校門で止まる。教頭先生がカードを使い、保健室へつなぐ。
金曜日、佐伯先生担当。紬は図書室前まで行けた。
佐伯先生一人の記録ではない。
複数の先生の字が、そこに並んでいる。
河合先生は言った。
「カードがあったので声をかけられました。でも、実際に立ってみると、待つのは難しいですね。つい何か言いたくなります」
井沢先生が頷く。
「私も、教室へ戻ることを急がせないように意識しました。紬さんが今日は保健室までと言った時、もう少し行けそうと思ってしまったので」
教頭先生は、共有シートを見ながら言った。
「見守りは、校門に立つだけではありませんね。記録、共有、次の日へのつなぎまで含めて見守りです」
佐伯先生は、模造紙を見つめていた。
自分の名前だけではない。
井沢先生。
河合先生。
教頭先生。
学年主任。
別室担当。
そして、紬自身の書き込み。
見守りは、少しずつ輪になり始めていた。
灯理が言った。
「佐伯先生、火曜日はいかがでしたか」
佐伯先生は、少し考えた。
「不安でした」
「はい」
「朝、校門に立っていないことに罪悪感がありました。紬さんが来られなかったらどうしようと、何度も時計を見ました」
「はい」
「でも、河合先生の記録を読んで、少し安心しました。私がいなくても、カードとチームがあれば、入口は消えないのだと」
河合先生が、少し照れたように笑った。
「まだ練習中ですが」
「私もです」
佐伯先生は言った。
「見守ることを、一人で抱えない練習中です」
翌週から、校門の見守り当番表が職員室に貼られた。
ただの名前の表ではない。
その横には、声かけ例。
つなぎ先。
記録の書き方。
支援者が困った時の相談先。
そして、『立たない日も支援の一部』という一文が書かれていた。
保健室には、見守りカードの箱が置かれた。
紬は、自分のカードを時々見返した。
佐伯先生の名前。
河合先生の名前。
井沢先生の名前。
教頭先生の名前。
それぞれの声は違う。
歩幅も違う。
待ち方も少しずつ違う。
でも、カードに書かれた約束は同じだった。
急かさない。
選べる。
戻れなかった日も地図から消さない。
ある朝、佐伯先生は校門ではなく、保健室で窓を開けていた。
外から朝の声が聞こえる。
校門には、河合先生と井沢先生が立っている。
佐伯先生は、少しだけ胸がざわつくのを感じた。
でも、机の上には共有シートがある。
見守りカードがある。
当番表がある。
そして、紬が書いた一文が、保健室の壁に貼られている。
待ってくれる人が一人じゃないと、先生も私も少し息ができる。
佐伯先生は、深く息を吸った。
消毒液と、朝の空気の匂いが混じっている。
保健室の準備を整えながら、校門から届く声を待った。
夕方、灯理は中学校を出た。
校門の近くには、朝のざわめきとは違う静けさがあった。部活動の声が遠くに聞こえ、昇降口からは靴箱を閉める音が響いている。空は薄い橙色に染まり、校門の影が長く伸びていた。
佐伯先生が、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、見守りの入口が一人からチームへ広がる時間を一緒に見せていただきました」
佐伯先生は、校門の方を見た。
「私は、生徒のためだと思って立っていました」
「はい」
「でも、私が立てなくなったら、その安心は突然なくなってしまう。続く安心にするには、私以外の人にも渡さなければいけなかったんですね」
灯理は頷いた。
「はい」
「渡すのは、少し怖いです。自分が必要なくなるような気もして」
佐伯先生は、苦笑した。
「でも、違いました。私がいなくなるのではなく、入口が増えるんですね」
井沢先生と河合先生も、職員室から出てきた。
河合先生は、手に見守りカードを持っている。
「私、まだ声が硬いみたいです」
佐伯先生が笑った。
「紬さんが書いてくれていましたね」
「はい。でも、次はもう少し待てると思います」
井沢先生は言った。
「担任として、教室で待つだけではなく、校門までの道にも関わっていきます」
教頭先生の声が、少し離れたところから聞こえた。
「来週の当番表、更新しておきましたよ」
佐伯先生は、その声を聞いて、もう一度校門を見た。
見守ることを学ぶとは、一人が毎日立ち続けることではない。
もちろん、そこに立ってくれる誰かの存在は大きい。
校門の前で足が止まる子にとって、知っている先生の顔は、朝の不安を少しやわらげる。
けれど、その安心が一人の献身だけに乗っていると、支える人も、支えられる人も、いつか息が苦しくなる。
だから、分ける。
声かけを分ける。
道順を分ける。
記録を分ける。
見守りを分ける。
休む日を入れる。
立つ人が変わっても、約束が続くようにする。
安心を、一人の顔だけではなく、複数の人と方法に広げていく。
灯理は、夕暮れの校門を振り返った。
保健室の壁には、紬の見守りカードが貼られている。
その端には、紬の字で一文が残っている。
待ってくれる人が一人じゃないと、先生も私も少し息ができる。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




