第25章 第3話:悲しみの授業――笑えない給食時間
結斗は、スプーンを持ったまま止まっていた。
給食の時間だった。
教室には、カレーの匂いが広がっている。湯気の立つ皿、牛乳パックを開ける音、椅子を少しずつ寄せ合う音。窓の外では、昼の光が校庭を白く照らしていた。
いつもなら、カレーの日は少し嬉しい。
隣の大地が「今日のカレー、じゃがいも多くない?」と文句を言いながら、結局おかわりするところまで決まっている。
けれど、今日はスプーンが重かった。
目の前のカレーは、普通に温かい。
クラスの声も、普通に明るい。
誰かが牛乳をこぼして、周りが笑った。
担任の三井先生が「雑巾、持ってきますね」と声をかける。
大地が、いつもの調子で言った。
「結斗、今日のじゃんけん勝ったらデザートくれよ」
結斗は、返事をしようとした。
でも、喉がうまく動かなかった。
大地は一瞬、しまった、という顔をした。
その表情を見て、結斗は余計につらくなった。
祖父が亡くなったのは、一週間前だった。
結斗は、三日間学校を休んだ。
祖父とは、よく将棋を指していた。
放課後、母が仕事から帰るまでの時間、祖父の家に寄る。畳の匂い。古い座布団。低い机。駒を並べる音。
祖父は、勝っても威張らなかった。
負けても手を抜かなかった。
「結斗、そこに銀を上がると、三手あとが苦しくなるぞ」
「三手あとなんてわかんないよ」
「じゃあ、一緒に見てみるか」
祖父は、答えを急がなかった。
盤の上に指を置き、いくつかの道を一緒に辿ってくれた。
結斗は、祖父の手が好きだった。
節の太い指。
駒をつまむ時だけ、驚くほど静かになる手。
その手は、もう駒を動かさない。
学校へ戻った日、クラスのみんなは優しかった。
誰も大きな声で聞いてこなかった。
三井先生も、「つらくなったら保健室や図書室に行っていいですよ」と言ってくれた。
でも、給食時間だけは、どうしていいかわからなかった。
みんなが笑う。
いつものように話す。
カレーを食べる。
デザートじゃんけんで盛り上がる。
その普通さが、結斗の胸に刺さった。
どうして、みんなは普通に笑えるのだろう。
いや、みんなが悪いわけではない。
祖父を亡くしたのは自分で、みんなの日常は続いている。
それはわかっている。
でも、笑い声の中にいると、自分だけ時間が止まった場所に取り残されたように感じた。
「結斗」
大地が、小さな声で呼んだ。
「食べないの?」
「うん」
「カレー、冷めるぞ」
「うん」
大地は、何とか明るくしようとしたのだろう。
「じゃあさ、俺が食べてやろうか」
その瞬間、近くの子が「大地、食いすぎ」と笑った。
大地も少し笑った。
結斗も、笑わなければと思った。
けれど、口元が動かなかった。
スプーンを皿に置く音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめん」
結斗は立ち上がった。
三井先生がすぐに気づいた。
「結斗さん?」
「ちょっと、図書室に行ってもいいですか」
三井先生は、すぐに頷いた。
「はい。行って大丈夫です」
教室の後ろの扉を開ける。
廊下に出ると、給食の匂いと声が少し遠ざかった。
結斗は、息を吐いた。
図書室は、昼休み前の静けさの中にあった。
カウンターには学校司書の里見さんが座っている。窓際の読書スペースには、小さな丸い机と椅子が二つ。棚の間には、紙と本の匂いが穏やかに漂っていた。
里見さんは、結斗を見ると、いつもの声で言った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「奥の席、空いていますよ」
それだけだった。
どうしたの、と聞かれなかったことに、結斗は少し救われた。
奥の読書スペースに座る。
机の木目を見つめる。
給食を残してきた。
大地に変な顔をさせた。
先生に心配をかけた。
みんなは普通に食べているのに、自分だけ抜けてきた。
結斗は、目を閉じた。
祖父と指した将棋の盤が浮かぶ。
最後に指した将棋は、途中で終わった。
祖父が少し咳をして、「今日はここまでだな」と言った。
その時、結斗は不満を言った。
「えー、ここからだったのに」
「続きはまた今度な」
また今度。
その続きは、もう来ない。
結斗は、机の上で手を握った。
涙は出なかった。
泣きたいのかも、よくわからなかった。
ただ、胸の真ん中が空洞みたいだった。
その時、図書室の入口に人影が立った。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理だった。
今日は、学校での喪失体験と子どもの心の学びについて、三井先生と一緒に授業づくりをするために来ていた。
灯理は、里見さんに小さく会釈してから、結斗の席へ近づいた。
「結斗さん」
「はい」
「ここに座ってもいいですか」
結斗は、小さく頷いた。
灯理は、正面ではなく斜めの椅子に座った。
少し離れたところに、三井先生も来ていた。
でも、すぐには話しかけず、棚の近くで立ち止まっていた。
結斗は、机の端を見つめたまま言った。
「給食、食べられませんでした」
「はい」
「みんなは、普通に笑ってました」
「はい」
「それが嫌だったわけじゃないです」
「はい」
「でも、僕だけ変みたいで」
言葉がそこで詰まった。
灯理は、静かに待った。
図書室の時計が、かち、と小さく音を立てる。
結斗は、ようやく顔を上げた。
「先生」
「はい」
「笑える日が来たら、おじいちゃんを忘れたことになりますか」
言った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に熱くなった。
それが一番怖かった。
今は笑えない。
でも、いつか笑えるようになるのだろうか。
もし、給食時間に大地の冗談で笑ったら。
カレーをおかわりして、デザートじゃんけんで勝って喜んだら。
その時、自分は祖父のことを忘れてしまったのではないか。
悲しくなくなったのではないか。
祖父を大切にしていないのではないか。
灯理は、すぐに「そんなことはない」とは言わなかった。
ただ、結斗の問いを、両手で受け取るように頷いた。
「うん。では、悲しみがあることと、笑うことは、一緒にいてはいけないのでしょうか」
結斗は、答えられなかった。
一緒にいていいと思いたい。
でも、まだわからない。
悲しいなら、ずっと悲しくしていなければいけない気もする。
笑った瞬間、悲しみを置いていってしまう気がする。
里見さんが、カウンターから一冊の本を持ってきた。
「結斗さん」
その声は、とても柔らかかった。
「この本、覚えていますか」
里見さんが机に置いたのは、将棋の本だった。
子ども向けの、駒の動かし方と簡単な戦法が載っている本。
表紙の端が少し擦れている。
結斗は、息を止めた。
「これ」
「おじいさまと一緒に、借りに来たことがありましたね」
結斗は頷いた。
覚えている。
祖父は図書室に入る時、少し照れていた。
「小学校の図書室なんて、何十年ぶりだな」
里見さんが「保護者の方も一緒にどうぞ」と言ってくれて、祖父は嬉しそうに棚を見ていた。
この本を借りた日、帰り道で祖父が言った。
「本で覚えた手を、すぐ試したくなるのが結斗のいいところだな」
結斗は、その本の表紙に指を置いた。
紙の手触り。
祖父と一緒に見たページ。
里見さんは言った。
「図書室に、思い出を置いておいてもいいです」
「置く?」
「はい。忘れないように閉じ込めるのではなく、必要な時に開ける場所として」
灯理が頷いた。
「悲しみは、ずっと手で握っていないと消えてしまうものではないのかもしれません」
結斗は、本を見つめた。
ずっと握っていないと消える。
そんなふうに思っていたのかもしれない。
祖父との思い出を忘れないために、笑ってはいけない。
普通に戻ってはいけない。
給食を楽しいと思ってはいけない。
でも、思い出を置ける場所があるなら。
図書室の棚。
将棋の本。
祖父と指した盤の記憶。
それは、笑った日にも消えないのだろうか。
放課後、三井先生は小さな授業を開いた。
参加したのは、結斗、大地、数人のクラスメイト、里見さん、灯理だった。
場所は図書室の読書スペース。
机の上には、白いカードと付箋が置かれている。
灯理は、最初に言った。
「今日は、悲しみをなくす授業ではありません。悲しみと一緒に学校で過ごすために、どんな言葉や場所があるとよいかを考えます」
大地は、いつになく静かだった。
いつもなら真っ先に何か言うのに、今日は手元の付箋を見つめている。
三井先生が黒板代わりの小さなホワイトボードに書いた。
『言われて助かる言葉』
『言われると苦しい言葉』
『悲しい時にいてよい場所』
『話したい日』
『話したくない日』
『元気づける以外の支え方』
まず、『言われると苦しい言葉』から書いた。
結斗は、少し迷って付箋に書いた。
『早く元気になって』
『泣かないで』
『忘れた方がいいよ』
『いつまでも悲しんでたらだめ』
『普通にして』
『もう大丈夫?』
『笑えば元気になるよ』
大地が、その付箋を見て肩を小さくした。
「俺、似たようなこと言ったかも」
結斗は首を横に振った。
「大地は、笑わせようとしてくれたんだと思う」
「うん。でも、笑わせればいいって思ってた」
大地は、自分の付箋に書いた。
『元気出せよ』
『いつもの結斗に戻れよ』
『冗談を言えば戻ると思った』
そして、少し小さい声で言った。
「ごめん」
結斗は、返事に迷った。
怒っていたわけではない。
でも、苦しかったのも本当だ。
「ありがとうって思った時もある。でも、今日は無理だった」
大地は頷いた。
「うん」
次に、『言われて助かる言葉』。
結斗は、すぐには書けなかった。
何を言われたら助かるのか、自分でもわからない。
灯理が言った。
「言葉ではなく、してもらえることでも構いません」
結斗は、ゆっくり書いた。
『無理に話さなくていいよ』
『ここにいていいよ』
『給食を抜けてもいいよ』
『話したくなったら聞くよ』
『今日は隣にいるだけでもいい?』
『笑えない日でも一緒にいていい』
『思い出の話をしてもいい?と聞いてくれる』
大地は、その中の一つを読んだ。
『今日は隣にいるだけでもいい?』
大地は、それを自分のノートに書き写した。
「これ、言ってもいい?」
結斗は、小さく頷いた。
「うん」
三井先生は、ホワイトボードに次の欄を作った。
『給食中につらくなった時の合図』
結斗は、少し考えて言った。
「スプーンを置く」
大地が聞く。
「スプーン?」
「うん。今日みたいに、食べられなくなったら」
三井先生が頷いた。
「では、スプーンを置いたら、無理に話しかけず、先生が近くで確認します。結斗さんが図書室に行きたい時は、行けるようにしましょう」
里見さんも言った。
「図書室の読書スペースを使ってください。話しても、話さなくても大丈夫です」
灯理は、カードを一枚作った。
『図書室カード』
そこには、短い言葉が書かれている。
『少し静かな場所に行きます』
『あとで戻るかもしれません』
『今日は戻らないかもしれません』
『話さずに座りたいです』
結斗は、そのカードを見て、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
給食時間に耐えられなくなったら、逃げたことになると思っていた。
でも、カードがあれば、自分の状態を伝えられる。
図書室は、給食から逃げる場所ではなく、悲しみを置ける場所になる。
次に、里見さんが「思い出カード」を出した。
白いカードの上に、小さく将棋の駒の絵が描かれている。
『覚えていたいこと』
『話したい時に話すこと』
『今はしまっておくこと』
『一緒に置いておきたいもの』
結斗は、カードを手に取った。
祖父との思い出を書く。
少し怖かった。
書いたら、もう本当に思い出になってしまう気がした。
でも、灯理が言った。
「全部書かなくてもいいです。一つだけでも」
結斗は、鉛筆を持った。
『おじいちゃんは、負けても悔しそうに笑った』
『三手あとを一緒に考えてくれた』
『駒を置く音が静かだった』
『将棋の本を一緒に借りた』
『また今度、と言った』
最後の一行で、涙が出た。
また今度。
もう来ない続き。
結斗は、鉛筆を置いた。
大地が、隣で何も言わずに座っていた。
いつもなら、焦って「大丈夫?」と聞いたかもしれない。
でも、今日は違った。
「結斗」
「うん」
「今日は、隣にいるだけでもいい?」
結斗は、涙を拭きながら頷いた。
「うん」
その日の給食時間、教室は少しだけ違っていた。
カレーではなく、うどんだった。
湯気の匂いと、出汁の匂いが教室に広がる。
三井先生は、給食の前にクラス全体へ短く話した。
「悲しいことがあった時、人によって過ごし方は違います。話したい日も、話したくない日もあります。笑える日も、笑えない日もあります。誰かを早く元気にしようと急がず、その人の合図を見て、必要な距離で一緒にいましょう」
クラスは静かに聞いていた。
結斗は、自分だけのために話されているようで少し恥ずかしかった。
でも、三井先生は誰かの名前を出さなかった。
クラス全体の約束として話してくれた。
大地は、結斗の隣に座った。
「今日、デザートじゃんけんあるけど」
結斗は、少し身構えた。
大地は、前より慎重に続けた。
「参加しなくてもいいし、したくなったら途中で入ってもいい」
結斗は、大地を見た。
「大地、そんな言い方できるんだ」
大地は、少しむっとした。
「俺だって学ぶし」
その言い方が少しおかしくて、結斗は思わず笑ってしまった。
短い笑いだった。
笑った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
笑った。
今、笑った。
おじいちゃんがいないのに。
結斗の目に涙が浮かんだ。
大地が慌てかけたが、すぐに口を閉じた。
三井先生が少し離れたところから見守っている。
結斗は、スプーンを置いた。
カタン。
小さな音。
三井先生が近づいた。
「図書室に行きますか」
結斗は、首を横に振った。
「少しだけ、ここにいます」
「はい」
大地が、小さく言った。
「隣にいていい?」
結斗は頷いた。
涙が一粒落ちた。
でも、その後、結斗はスプーンをもう一度持った。
うどんを少し食べる。
出汁の温かさが、喉を通る。
笑った。
泣いた。
食べた。
その全部が、同じ給食時間の中にあった。
それでも、おじいちゃんは消えなかった。
午後、結斗は図書室へ行った。
里見さんが、将棋の本を読書スペースに置いてくれていた。
結斗は、思い出カードを開く。
朝、書いた言葉の下に、新しく一行を書いた。
『給食で笑って、泣いて、少し食べた』
その横に、さらに書く。
『笑った日にも、悲しみは席を持っていてよかった』
書き終えて、結斗はカードを本の間に挟んだ。
しおりのように。
忘れないために握りしめるのではなく、必要な時に開けるように。
里見さんが、そっと隣に座った。
「将棋盤、放課後に図書室へ置いておきましょうか」
結斗は、少し驚いた。
「いいんですか」
「ええ。指したい日があれば。指さずに見るだけの日があってもいいです」
「見るだけでも?」
「もちろん」
結斗は、将棋の本を撫でた。
「まだ、指せるかわかりません」
「わからないままで大丈夫です」
その言葉が、今の結斗にはありがたかった。
悲しみの中にいると、いろいろなことに答えを出さなければならない気がする。
元気か。
大丈夫か。
学校に戻れるか。
笑えるか。
祖父の話をしたいか。
でも、わからないままで座っていていい。
それだけで、図書室は少し温かい場所になった。
数日後、教室の給食時間は少しずつ普通に戻っていった。
いや、完全に前と同じではない。
結斗の机の中には、図書室カードが入っている。
三井先生の机にも、同じカードがある。
大地は、結斗を無理に笑わせようとしなくなった。
代わりに、時々聞く。
「今日は隣にいていい?」
結斗は、その日によって頷いたり、「今日は一人で食べる」と言ったりした。
大地は、少し寂しそうにすることもあったが、怒らなかった。
クラスメイトの中には、祖父の話を聞きたい子もいた。
三井先生は、話す時は結斗に確認するように伝えた。
「聞いてもいい?」
「今日は話せる?」
「無理ならいいよ」
その言葉があるだけで、結斗は少し選べた。
ある昼休み、結斗は図書室で将棋盤を出した。
大地も一緒だった。
「俺、将棋ほぼ知らない」
「駒の動かし方からね」
「結斗、先生みたい」
「おじいちゃんが教えてくれたから」
その言葉を言った瞬間、胸が少し痛んだ。
でも、前ほど苦しくなかった。
祖父の名前を出しても、壊れなかった。
むしろ、祖父からもらったものが、盤の上に少し戻ってきた気がした。
結斗は、大地に歩の動かし方を教えた。
「前に一つだけ」
「弱くない?」
「でも、最後に成ると強くなる」
「ずるい」
「ずるくない」
二人で少し笑った。
その笑いの中に、祖父との時間が混じっていた。
消えたのではない。
形を変えて、そこにあった。
夕方、灯理は小学校を出た。
校舎の窓には、図書室の明かりがまだ残っている。夕焼けが廊下の床に長く伸び、どこかの教室から椅子を重ねる音が聞こえた。
三井先生が、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、悲しみが教室の中に席を持つ時間を一緒に見せていただきました」
三井先生は、手に持った図書室カードを見た。
「私は、結斗さんに元気になってほしいと思っていました」
「はい」
「それは本当です。でも、元気になることを急がせてしまうと、悲しむ場所がなくなるのですね」
灯理は頷いた。
「はい」
「クラス全体にも、どう接すればいいか迷いがありました。触れない方がいいのか、励ました方がいいのか。でも、言葉や合図を一緒に作れば、悲しみを避けるだけではなく、隣にいられるのですね」
里見さんも、図書室の鍵を持って玄関に来た。
「将棋盤、しばらく図書室に置いておきます」
「はい」
「指す日も、指さない日もあると思います。でも、置いてあるだけで意味がある気がして」
灯理は、静かに微笑んだ。
悲しみを学ぶことは、早く元気になることではない。
泣かないことでもない。
笑わないことでもない。
悲しみは、消せば終わるものではない。
忘れれば楽になるものでもない。
それは時々、給食のスプーンを止める。
教室の笑い声を遠くする。
カレーの匂いを苦しくする。
友だちの冗談を受け取れなくする。
けれど、悲しみがあるからといって、生活のすべてが止まり続けるわけでもない。
笑う日がある。
食べられる日がある。
友だちと駒を並べる日がある。
その日にも、悲しみは消えない。
同じ机に、同じ給食時間に、同じ図書室に、席を持っていていい。
だから、急がない。
元気づける言葉を選び直す。
つらくなった時の合図を作る。
図書室カードを持つ。
思い出を置ける本を用意する。
隣にいるだけの日を認める。
話したい日と話したくない日を、本人が選べるようにする。
悲しみを抱えたままでも、教室にいてよい形を作る。
灯理は、夕暮れの図書室を振り返った。
読書スペースの机には、将棋の本が置かれている。
その間には、結斗の思い出カードが挟まれている。
カードには、結斗の字で一文が残っている。
笑った日にも、悲しみは席を持っていてよかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




