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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第25章 第4話:燃え尽きの授業――開けない部室の鍵


 杏は、音楽室の前で鍵を握っていた。


 金属の冷たさが、手のひらに食い込んでいる。


 放課後の校舎には、部活動の音が広がっていた。体育館からはボールの弾む音。グラウンドからは掛け声。廊下の窓からは、薄い夕方の光が差し込み、床のワックスに細く反射している。


 音楽室の中からは、楽器の音が聞こえた。


 トランペットのロングトーン。


 フルートの音階練習。


 チューバの低い音。


 誰かが譜面台を立てる金属音。


 いつもなら、その音を聞いただけで体が前へ進んだ。


 自分も早く音を出したい。


 クラリネットを組み立てたい。


 リードを湿らせて、最初の一音を確かめたい。


 そう思っていた。


 でも今は、音が胸に刺さる。


 ドアの鍵穴は、目の前にある。


 鍵を差し込めば開く。


 開ければ、部室に入れる。


 中には、自分の楽器ケースも、譜面も、使い慣れた椅子もある。


 それなのに、杏の手は動かなかった。


 地区大会は、三日前に終わった。


 結果は、銀賞だった。


 金賞を目指していた。


 県大会へ行きたかった。


 今年のメンバーなら届くと、誰もが思っていた。


 朝練もした。


 昼休みも基礎練習をした。


 放課後は暗くなるまで合奏した。


 家に帰ってからも、指回しの練習をした。


 録音を聞いて、音程を確認した。


 リードを何枚も試した。


 息の支え、タンギング、音色、アーティキュレーション。


 できることは全部やったつもりだった。


 それでも、銀賞だった。


 発表の瞬間、拍手はした。


 泣いている後輩の肩を抱いた。


 部長の莉央が「次へ向けて頑張ろう」と言った時、杏も頷いた。


 顧問の柏木先生が「悔しさを次へつなげましょう」と話した時も、頷いた。


 でも、その翌日から、音楽室のドアを開けられなくなった。


 杏は、鍵を握り直した。


 この鍵は、部室の鍵だった。


 大会の日、最後に自分が戸締まりをした。


 そのまま鞄に入れて持ち帰ってしまった。


 返さなければならない。


 部員たちも困る。


 わかっている。


 でも、鍵を差し込むことができない。


 中から、クラリネットの音が聞こえた。


 後輩の真尋だ。


 まだ少し音が揺れるけれど、真面目でよく練習する子だった。


 真尋は、杏に憧れていると言ってくれた。


「杏先輩みたいな音を出したいです」


 そう言われた時、嬉しかった。


 でも今は、その言葉も重かった。


 憧れられるような先輩ではない。


 大会が終わった途端、部室のドアすら開けられない。


 杏は、鍵を握ったまま、音楽室の前から一歩下がった。


「杏」


 廊下の向こうから、莉央が歩いてきた。


 吹奏楽部の部長。


 楽器ケースを肩にかけ、手には譜面の束を持っている。


 莉央は、杏の手元に気づいた。


「鍵、持ってたんだ」


「ごめん」


「いや、困ってたけど、予備で開けてもらったから大丈夫」


 大丈夫。


 その言葉に、杏の胸が少し痛んだ。


 莉央は、音楽室の扉を見る。


「入る?」


 杏は、答えられなかった。


 中から、合奏前の音出しが続いている。


 音の一つひとつが、胸の奥をかき回す。


「今日は、ちょっと」


「そっか」


 莉央は、無理に引き止めなかった。


 でも、心配そうな顔をした。


「柏木先生、杏のこと気にしてたよ」


「うん」


「次の本番、地域コンサートだから。曲も変わるし、少し気持ち切り替えられるかも」


 悪気はない。


 莉央も、部を前に進めようとしている。


 部長として当然だ。


 でも、杏にはその言葉が遠かった。


 次の本番。


 曲が変わる。


 気持ちを切り替える。


 そのどれも、今の杏にはできそうになかった。


「ごめん、今日は帰る」


 杏は、鍵を莉央に渡した。


 手のひらから金属の冷たさが離れる。


 少し楽になるかと思った。


 でも、胸の奥の重さは残ったままだった。


 翌日、杏は音楽室へ行かなかった。


 その次の日も行かなかった。


 放課後になると、足が自然に別の廊下へ向いた。


 図書室。


 空き教室。


 昇降口。


 家に帰っても、クラリネットケースは部屋の隅に置いたままだった。


 蓋を開けられない。


 リードケースも見られない。


 譜面を見ると、地区大会の本番前の空気が戻ってくる。


 ステージ袖の暗さ。


 チューニングの音。


 手の汗。


 指揮台へ向かう柏木先生の背中。


 ホールの天井。


 最後の和音。


 そして、発表の声。


 銀賞。


 その一言で、自分の中の何かが空になった。


 頑張ったのに届かなかった。


 なら、何を信じてまた頑張ればいいのだろう。


 数日後、柏木先生に呼ばれた。


 音楽準備室の小さな机には、楽譜と録音機材が置かれている。棚には古いスコアが並び、部屋の隅には使わなくなった譜面台が重ねられていた。窓際に置かれたメトロノームが、止まったまま静かに立っている。


 柏木先生は、杏に椅子を勧めた。


「杏さん、来てくれてありがとう」


「はい」


「体調はどうですか」


「大丈夫です」


 反射的に出た言葉だった。


 柏木先生は、少しだけ眉を動かした。


「部活に来られていませんね」


「すみません」


「責めているわけではありません」


 先生の声は、柔らかかった。


「ただ、心配しています」


 杏は、膝の上で手を握った。


 心配される資格もない気がした。


 自分だけが止まっている。


 部はもう次へ向かっている。


 後輩も練習している。


 莉央も部長として動いている。


 なのに、自分は鍵を開けることすらできない。


 柏木先生は、少し言葉を選んだ。


「地区大会の結果は、悔しいものでした。でも、次の本番もあります。音楽は続きます。少しずつ、切り替えていきましょう」


 切り替える。


 杏は、その言葉を聞いて、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 先生は励ましてくれている。


 それはわかる。


 でも、切り替えるという言葉は、今までの悔しさを片づけなければならないと言われているようだった。


 杏は、顔を上げられなかった。


 その時、準備室の扉が軽くノックされた。


 白瀬灯理だった。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、大会後の振り返りと部活動の学びを支援するために来ている先生だった。


 柏木先生が、灯理に席を勧める。


 灯理は、杏に確認した。


「同席してもいいですか」


 杏は、小さく頷いた。


 灯理は、机の上のメトロノームを見た。


 針は止まっている。


 その止まった針が、今の杏の心に似ている気がした。


「杏さん」


「はい」


「部室の鍵を開けられなかったと聞きました」


 杏の肩が少し固くなる。


「すみません」


「謝らなくてもよいです」


「でも、迷惑をかけました」


「はい。困ったことはあったかもしれません。でも、今日は迷惑の話だけではなく、その鍵がなぜ重くなったのかを見たいと思います」


 杏は、手元を見た。


 鍵がないのに、まだ手のひらに冷たさが残っている気がした。


 言葉がこぼれた。


「先生」


「はい」


「頑張れなくなったら、今まで頑張ったことも嘘になりますか」


 声が震えた。


 それが、一番怖かった。


 あんなに練習した。


 音楽が好きだった。


 クラリネットの音をよくしたくて、毎日吹いた。


 でも今、楽器を見られない。


 音楽室に入れない。


 頑張れない。


 それなら、あの努力は本物ではなかったのか。


 自分は、音楽が好きなふりをしていただけなのか。


 灯理は、杏の問いを静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、止まってしまった心は、努力してこなかった心なのでしょうか」


 杏は、息を止めた。


 止まってしまった心。


 努力してこなかった心。


 同じではない。


 そう思いたい。


 でも、自分ではうまく信じられない。


 柏木先生も、静かにその問いを聞いていた。


 先生の顔に、少し痛みのようなものが浮かんでいた。


 灯理は、鞄から大きな紙を取り出した。


 中央に、こう書かれている。


『大会後の心の地図』


 その周りには、いくつかの欄があった。


『大会までに使った力』

『我慢したこと』

『期待』

『結果への悔しさ』

『休めなかった理由』

『大会後の空白』

『音を聞くと苦しい理由』

『今できること』

『今はできないこと』

『音楽室以外の関わり方』

『休む日』

『感情の振り返り』

『結果の振り返り』


 杏は、その紙を見た。


 大会の反省会は、もう一度行われていた。


 音程。


 縦のずれ。


 ホールでの響き。


 自由曲の後半の集中力。


 金管とのバランス。


 そういうことは、みんなで話した。


 でも、自分の心がどれだけ力を使ったのかは、話していない。


 灯理は言った。


「まず、大会までに使った力を書いてみましょう」


 杏は、付箋を受け取った。


 最初は少しだけ書くつもりだった。


 けれど、手は止まらなかった。


『朝練』

『昼休みの個人練習』

『放課後の合奏』

『家での指回し』

『リード選び』

『録音を聞く』

『音程表を作る』

『後輩の練習を見る』

『パートの音をまとめる』

『先生に言われたことをメモする』

『ミスしたところを何度も直す』

『本番前に泣きそうな後輩を励ます』

『自分の不安は出さない』

『絶対金賞を取りたいと思い続ける』


 付箋が増える。


 柏木先生は、それをじっと見ていた。


 杏は、次に『我慢したこと』を書いた。


『眠い』

『休みたい』

『遊びの誘いを断った』

『失敗しても泣かなかった』

『音が出ない日も吹いた』

『悔しいと言う前に練習した』

『疲れていると言わなかった』

『楽しくない日も楽しいふりをした』


 最後の一枚を書いた時、手が止まった。


 楽しくない日も楽しいふりをした。


 音楽が好きなのに、楽しくない日があった。


 それを認めるのが怖かった。


 でも、書いた付箋は、そこにあった。


 灯理は言った。


「音楽が好きなことと、毎日楽しいことは同じでしょうか」


 杏は、首を横に振った。


「違うと思います」


「はい」


 柏木先生が、低い声で言った。


「私は、杏さんが努力家だと知っていました。でも、その努力がどれだけの我慢を含んでいたかは、見ていませんでした」


 杏は、先生を見た。


 柏木先生は、続けた。


「大会後、私は次へ切り替えようと言いました。部を前に進めるために必要だと思っていました」


「はい」


「でも、その前に、杏さんがどれだけ力を使い切ったのかを一緒に見る時間が必要だったのかもしれません」


 杏は、胸の奥が少し揺れた。


 次へ進む。


 それは必要なことだ。


 でも、今の杏は、次へ進む足が残っていなかった。


 灯理は、地図の右側を指した。


『結果の振り返り』

『感情の振り返り』


「結果について振り返ることと、感情を置くことを分けてみましょう」


 柏木先生が頷いた。


「結果の振り返りは、技術的な課題ですね」


「はい」


 灯理は言った。


「感情の振り返りは、悔しさ、疲れ、空っぽになった感じ、楽器を見るつらさなどです。技術の反省にすぐ変えなくてもよいものです」


 杏は、『大会後の空白』に書いた。


『何をすればいいかわからない』

『楽器を見たくない』

『音を聞くと本番を思い出す』

『部のみんなが前に進んでいるのが怖い』

『自分だけ置いていかれる』

『でも戻れない』

『頑張れない自分が嫌い』

『銀賞のことを考えると体が重い』


 次に、『今できること』。


 杏は、しばらく書けなかった。


 楽器は吹けない。


 音楽室に入れない。


 譜面も見たくない。


 何もできない。


 そう思っていた。


 灯理は言った。


「できることは、楽器を吹くことだけでしょうか」


 杏は、少し考えた。


『廊下まで行く』

『部室の前に立つ』

『鍵を返した』

『先生と話す』

『大会のことを少し書く』

『音を聞かない場所で譜面を持つ』

『楽器ケースを開けずに見る』

『後輩にメッセージを書く』


 小さなことばかりだった。


 でも、ゼロではなかった。


 次に、『今はできないこと』。


『クラリネットを吹く』

『合奏に入る』

『大会の録音を聞く』

『地域コンサートの曲を練習する』

『みんなと同じテンションで次へ進む』

『金賞の話をする』


 書いてみると、少し楽になった。


 できないことを隠していると、全部が怖くなる。


 でも、できないことに名前をつけると、今の自分の輪郭が見えた。


 放課後、吹奏楽部では大会後の特別ミーティングが開かれた。


 音楽室ではなく、視聴覚室だった。


 楽器は持たない。


 机を円に並べ、中央に模造紙を置く。


 莉央、真尋、ほかの部員たち、柏木先生、灯理、そして杏も参加した。


 杏は、音楽室ではない場所なら座ることができた。


 柏木先生が最初に話した。


「今日は、技術の反省ではなく、感情と疲れを置く時間にします」


 部員たちは少し驚いた顔をした。


 いつも大会後は、すぐに録音を聞き、課題を書き出す。


 でも、今日は録音機材はない。


 柏木先生は続けた。


「結果の振り返りは必要です。ただ、その前に、私たちが大会までにどれだけ力を使ったのか、結果をどう受け止めているのかを見えるようにします」


 灯理が、付箋を配った。


『大会までに使った力』

『悔しかったこと』

『疲れたこと』

『言えなかったこと』

『次へ進む前に置きたいこと』

『今できる関わり方』

『今はできないこと』

『休む日』


 最初は、誰も書かなかった。


 やがて、莉央が書いた。


『部長として泣けなかった』

『みんなの前で次へと言ったけど、本当は悔しかった』

『杏が来ないのが心配だった』

『でも、どう声をかけたらいいかわからなかった』


 真尋は、小さな字で書いた。


『杏先輩がいないと不安』

『でも、戻ってきてと言ったら苦しいかもしれない』

『銀賞が悔しい』

『次も頑張りたいけど、少し怖い』


 ほかの部員たちも書き始めた。


『本番でミスしたところを思い出す』

『録音を聞きたくない』

『悔しいけど疲れている』

『すぐ次の曲と言われると苦しい』

『でも部活が止まるのも怖い』

『休んだら置いていかれそう』

『金賞を取れなかった自分たちを責めている』

『先生に失望されたかと思った』


 柏木先生は、その付箋を見て、深く息を吸った。


「失望などしていません」


 声が少し震えていた。


「ただ、私も悔しくて、次へ進むことばかり考えていました。みんなの疲れや怖さを、十分に聞いていませんでした」


 杏は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しほどけるのを感じた。


 自分だけではなかった。


 莉央も、真尋も、ほかの部員も、それぞれ違う形で疲れていた。


 部が前へ進んでいるように見えても、みんなが同じ速さで進めているわけではなかった。


 灯理は、模造紙に二つの欄を作った。


『結果の振り返り』

『感情の振り返り』


「この二つを、別の日に行うことはできますか」


 柏木先生は頷いた。


「できます。今日は感情の振り返りにします。録音を聞くのは、もう少し後にしましょう」


 莉央が言った。


「次の地域コンサートの練習も、全部すぐに始めるんじゃなくて、最初の一週間は軽めにしませんか」


 部員たちが頷いた。


 真尋が、小さく手を挙げた。


「楽器を吹かない日があってもいいですか」


 柏木先生は、少し考えてから言った。


「はい。大会後の一週間は、楽器を吹かない活動日も作りましょう。譜面整理、音源の準備、パートの話し合い、休養日。音を出すだけが音楽の活動ではありません」


 杏は、その言葉を聞いて顔を上げた。


 音を出すだけが音楽の活動ではない。


 今の自分が、少しだけ部の中に戻れる言葉だった。


 ミーティングの最後、各自が「今できる関わり方」を一つ書いた。


 莉央は、


『部員の状態を聞いてから練習計画を立てる』


 真尋は、


『杏先輩に戻ってきてと急かさず、必要な譜面を整理しておく』


 柏木先生は、


『結果の振り返りと感情の振り返りを分ける』


 杏は、しばらく迷った。


 そして、書いた。


『部室の鍵を開ける。今日は吹かない』


 その付箋を見た莉央が、何も言わずに頷いた。


 翌日、杏は音楽室の前に立った。


 手には、部室の鍵がある。


 莉央が隣にいた。


 少し離れたところに、真尋と柏木先生、灯理もいる。


 杏は、鍵を見た。


 また手のひらが冷たくなる。


 中からは、今日は音がしなかった。


 楽器を吹かない活動日だった。


 譜面整理と、パートごとの片づけの日。


 杏は、鍵を鍵穴に差し込んだ。


 金属が小さく鳴る。


 手が震える。


 でも、回した。


 かちり。


 鍵が開く音が、廊下に響いた。


 杏は、息を吐いた。


 ドアを開ける。


 部室の中は、いつもの匂いがした。


 木の床。


 譜面の紙。


 楽器ケースの合皮。


 少しだけ残った金属とリードの匂い。


 棚には、クラリネットのケースが並んでいる。


 杏のケースもあった。


 杏は、中へ入った。


 でも、楽器ケースには触れなかった。


 譜面棚の前に座る。


 それだけにした。


 莉央が、横に譜面の束を置いた。


「今日は、これ整理するだけでいい?」


 杏は頷いた。


「うん」


 真尋が、少し離れたところから言った。


「杏先輩」


「うん」


「戻ってきてくれて、嬉しいです。でも、吹かなくても大丈夫です」


 杏の目に、少し涙が浮かんだ。


 真尋は、慌てて言った。


「あ、無理に嬉しいって言わない方がよかったですか」


 杏は、首を横に振った。


「大丈夫。今のは、嬉しい大丈夫」


 その言い方に、莉央が小さく笑った。


 杏も、少しだけ笑った。


 その日は、楽器を吹かなかった。


 リードも出さなかった。


 音も出さなかった。


 ただ、譜面棚の前に座り、古い譜面を整理した。


 地区大会の楽譜を封筒に入れる。


 地域コンサートの楽譜を別の棚へ移す。


 パート譜に番号を振る。


 ページの折れを直す。


 それだけの作業だった。


 でも、杏にとっては、音楽室に戻るための大切な時間だった。


 作業の途中、地区大会の自由曲の譜面が出てきた。


 胸が少し痛んだ。


 杏は、譜面を閉じた。


 そして、封筒に入れた。


 捨てるのではない。


 すぐ開くのでもない。


 今は、しまう。


 それでよかった。


 練習ノートを開く。


 しばらく白紙だったページ。


 杏は、そこに今日のことを書いた。


『部室の鍵を開けた』

『楽器は吹かなかった』

『譜面棚の前に座った』

『地区大会の楽譜を封筒に入れた』

『音は出していない』

『でも、音楽室にいた』


 その下に、一文を書く。


『音を出せない日も、音楽から逃げた日じゃなかった』


 書いた文字を見て、杏はゆっくり息を吐いた。


 頑張れない日がある。


 楽器を見たくない日がある。


 音を聞くと苦しい日がある。


 それでも、今まで頑張ったことは嘘にならない。


 止まってしまった心は、努力してこなかった心ではない。


 頑張り続けたからこそ、止まったのかもしれない。


 夕方、灯理は音楽室の前の廊下に立っていた。


 窓の外は薄い橙色に染まり、廊下の床に長い光が伸びている。部室の中では、部員たちが譜面を整理する紙の音がしていた。今日は、楽器の音はほとんどない。


 柏木先生が、静かに隣へ来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、音を出さない音楽の時間を一緒に見せていただきました」


 柏木先生は、部室の中を見た。


「私は、音楽は続くと言いました」


「はい」


「その言葉自体は、間違っていないと思います。でも、続くからこそ、止まる時間も必要なのですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「大会後、すぐに次へ進むことが、部を支えることだと思っていました。でも、感情と疲れを置かないまま次へ行くと、誰かが置いていかれる」


 柏木先生は、譜面棚の前に座る杏を見た。


「楽器を吹かない日を、正式な活動日に入れます。大会後だけでなく、必要な時に」


「はい」


「休むことを、部の外に出ることにしないようにします」


 莉央も、譜面の束を抱えて廊下に出てきた。


「先生、来週の予定表に『音を出さない日』って書いていいですか」


 柏木先生は頷いた。


「書きましょう」


 莉央は少し笑った。


「部長として、前に進めることばかり考えていました。でも、止まってる人のそばで止まることも、部の仕事なんですね」


 灯理は、静かに微笑んだ。


 燃え尽きを学ぶことは、頑張れない自分を責めることではない。


 努力が足りなかったと決めつけることでもない。


 人は、好きなことでも疲れる。


 大切なことでも苦しくなる。


 全力で向かった目標に届かなかった時、心が空になることがある。


 次へ進もうと言われても、足が動かないことがある。


 鍵を開けられない。


 楽器を見られない。


 音を聞けない。


 それは、音楽を嫌いになった証拠とは限らない。


 頑張り続けた心が、休む権利を求めている合図かもしれない。


 だから、分ける。


 結果の振り返り。


 感情の振り返り。


 今できること。


 今はできないこと。


 楽器を吹く日。


 吹かない日。


 部室に入る日。


 廊下まで来る日。


 譜面を整理する日。


 ただ座る日。


 休む日。


 音楽から離れたように見える時間も、音楽と続いていくための時間になることがある。


 灯理は、夕暮れの音楽室を振り返った。


 譜面棚の前には、杏の練習ノートが置かれている。


 そのページには、杏の字で一文が残っている。


 音を出せない日も、音楽から逃げた日じゃなかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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