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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第25章 第2話:リハビリの授業――走れないグラウンド


 颯真は、グラウンドの白線を見つめていた。


 朝の土は、まだ少し湿っている。


 前日の雨が残した匂いが、足元から立ち上っていた。トラックの端には小さな水たまりがあり、そこに空の青が歪んで映っている。部室の方からは、スパイクのピンを締める金属音が聞こえた。


 パン、パン、と誰かが手を叩く。


 スタート練習の合図。


 颯真の胸の奥が、反射のように熱くなる。


 走りたい。


 体が前へ出ようとする。


 けれど、右太ももの奥が、まだその熱に追いついていなかった。


「颯真、今日はジョグ二周と補強。それから真壁さんのメニューな」


 顧問の丹羽先生が言った。


 颯真は、短く返事をした。


「はい」


 わかっている。


 まだ全力で走ってはいけない。


 復帰初週。


 肉離れからのリハビリ中。


 理学療法士の真壁さんからも、段階を飛ばさないようにと言われている。


 でも、グラウンドへ戻ってきたのに走れないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 トラックでは、同じ一年の悠介がスタート位置についた。


 悠介は颯真のライバルだった。


 入部してすぐ、二人は短距離で目立った。


 颯真は中学時代から速かった。


 スタートの反応がよく、後半も崩れない。


 丹羽先生にも「一年からリレーメンバーに入れるかもしれない」と言われていた。


 けれど、県大会前の練習で右太ももを痛めた。


 加速走の途中で、脚の奥がばちんと切れるような感覚がした。


 その瞬間から、トラックの景色が変わった。


 走る場所だったグラウンドは、見ている場所になった。


 悠介がスタートする。


 前傾姿勢から、一気に加速。


 土を蹴る音が、乾いたリズムで響く。


 颯真は、その足音を聞きながら、自分の右脚に力が入るのを感じた。


「十一秒八!」


 マネージャーがタイムを読み上げる。


 悠介が振り返り、驚いた顔をした。


「まじ?」


「自己ベストじゃん!」


 部員たちが声を上げる。


 丹羽先生も笑った。


「いい走りだった。後半が伸びたな」


 悠介は照れくさそうに笑っている。


 颯真は、拍手をした。


 手のひらが乾いた音を出す。


 悠介がこちらを見て、少し迷ったように笑った。


「颯真、早く戻ってこいよ」


 悪気はない。


 むしろ、待ってくれている言葉だ。


 でも、颯真の胸には重く落ちた。


 早く戻る。


 戻るとは、何に戻ることだろう。


 悠介と並んで走れた自分。


 スタートラインに立てた自分。


 十一秒台を狙える自分。


 先生に期待されていた自分。


 グラウンドの白線の前で、颯真は拳を握った。


 リハビリ室は、体育館の奥にある小さな部屋だった。


 床にはマットが敷かれ、壁際にはバランスボールやチューブ、ストレッチポールが置かれている。窓を開けると、グラウンドの声が少し遠く聞こえた。


 理学療法士の真壁さんが、記録用紙を見ながら言った。


「今日は痛みの確認をしながら、軽い筋力トレーニングをします。走る動きに入る前の段階です」


 颯真は、頷いた。


「はい」


「焦っていませんか」


「大丈夫です」


 言ってから、少しだけ目を逸らした。


 真壁さんは、その返事をそのまま信じた顔はしなかった。


「大丈夫にも、いろいろありますからね」


 その言葉に、颯真は一瞬、学校の保健室に貼られていたカードを思い出した。


 本当に大丈夫。


 少し休めば大丈夫。


 大丈夫じゃないかもしれない。


 でも、今の颯真はそれを選ぶ余裕がなかった。


 真壁さんは、チューブを渡した。


「痛みが出たら、すぐ言ってください。痛みは我慢するものではなく、体からの情報です」


 情報。


 颯真は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 痛みは情報。


 でも、競技者にとって痛みは、邪魔なものでもあった。


 言えば止められる。


 止められれば遅れる。


 遅れれば、悠介との差が広がる。


 チューブを使ったトレーニングは、地味だった。


 膝を少し曲げて、横へ開く。


 戻す。


 また開く。


 腹筋を意識する。


 骨盤を安定させる。


 真壁さんは、丁寧に説明してくれる。


「ここで股関節周りを安定させることが、走る時の負担を減らします」


「はい」


「今の段階で大事なのは、タイムではなく、体がどう反応するかを見ることです」


「はい」


 返事をしながら、颯真の耳はグラウンドの音を拾っていた。


 スタートの合図。


 スパイクの音。


 笑い声。


 タイムを読み上げる声。


 自分だけが、違う時間にいる気がした。


 数日後、颯真は無理をした。


 練習の終わり。


 丹羽先生が他の部員に指示を出している隙に、颯真はトラックの端に立った。


 三十メートルだけ。


 全力じゃない。


 少しだけ感覚を確かめるだけ。


 自分にそう言い聞かせた。


 スタート姿勢を取る。


 指が土に触れる。


 この感触。


 膝を曲げ、体重を前に乗せる。


 胸の奥が熱くなる。


 行ける。


 そう思った。


 颯真は、地面を蹴った。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 右太ももの奥に、細い針のような張りが走った。


 颯真は、反射的に足を止めた。


 息が詰まる。


 痛いというほどではない。


 でも、怖かった。


「颯真!」


 丹羽先生の声が飛んだ。


 悠介も駆け寄ってくる。


「何やってんだよ」


 颯真は、右脚に手を当てた。


「大丈夫」


 また、その言葉。


 でも、丹羽先生の顔は厳しかった。


「大丈夫じゃないから止まったんだろ」


 颯真は、何も言えなかった。


 グラウンドの視線が集まっている。


 情けない。


 リハビリ中なのに勝手に走ったことも。


 三十メートルも行けなかったことも。


 痛みを隠そうとして、結局止まったことも。


 全部が情けなかった。


 その時、グラウンド脇に立っていた白瀬灯理が歩いてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、怪我からの復帰と部活動支援の授業に来ている先生だった。


 灯理は、颯真の足元を見た。


 そして、丹羽先生に確認する。


「真壁さんを呼びましょうか」


 丹羽先生は頷いた。


「お願いします」


 颯真は、唇を噛んだ。


「大丈夫です」


 丹羽先生が何か言おうとしたが、灯理が静かに言った。


「颯真さん」


「はい」


「今の大丈夫は、どの大丈夫でしょう」


 颯真は、息を止めた。


 答えられない。


 本当に大丈夫ではない。


 でも、大丈夫じゃないと言うのも怖い。


 真壁さんが来て、状態を確認した。


 大きな再損傷ではなさそうだったが、その日の練習は中止になった。


 颯真は、リハビリ室の椅子に座った。


 右脚には軽くアイシングをしている。


 窓の外では、練習が再開されていた。


 悠介がスタート練習をしている。


 自分だけがまた、外れた。


 灯理が、少し離れた椅子に座った。


 真壁さんと丹羽先生もいる。


 怒られるのだと思った。


 勝手に走った。


 約束を破った。


 当然だ。


 丹羽先生は、低い声で言った。


「颯真、勝手に走るのは危険だ」


「はい」


「焦る気持ちはわかる。でも、再発したらもっと長く離れることになる」


「はい」


 わかっている。


 頭ではわかっている。


 でも、グラウンドでみんなが走っているのを見ると、体が勝手に動いてしまう。


 颯真は、アイシングの白い袋を見つめた。


「先生」


「何だ」


 声が、自分でも驚くほど弱くなった。


「前みたいに走れないなら、戻ってきた意味ありますか」


 部屋の空気が、静かに止まった。


 言ってしまった。


 ずっと胸の奥にあった言葉だった。


 戻ってきたのに、走れない。


 トラックにいるのに、全力で蹴れない。


 部員なのに、練習メニューが違う。


 ライバルは速くなっていく。


 自分は、チューブを引いている。


 それを復帰と呼べるのか。


 灯理は、颯真の言葉を否定しなかった。


 そして、問いを返した。


「うん。では、回復とは、前と同じ速さへ急いで戻ることなのでしょうか」


 颯真は、答えられなかった。


 そうだと思っていた。


 回復とは、前と同じように走れること。


 同じタイムを出すこと。


 同じ練習に戻ること。


 悠介と並ぶこと。


 先生の期待に戻ること。


 でも、急いで戻ろうとして、今また足を止めた。


 真壁さんが、記録用紙を机に置いた。


「颯真くん、体は前の状態に一瞬で戻るわけではありません。怪我をした組織は、段階を踏んで負荷に慣れていきます」


「はい」


「でも、説明だけでは足りなかったかもしれません。今の体が何を伝えているか、颯真くん自身が読めるようにしましょう」


 灯理は、大きな紙を広げた。


 中央に、こう書かれている。


『回復の地図』


 その周りに、欄があった。


『怪我前にできていたこと』

『今できること』

『まだ避ける動き』

『痛みや張りのサイン』

『不安が出る瞬間』

『焦りが出る場面』

『今日の練習の目的』

『言えたら守れること』

『チームに共有すること』

『小さな復帰目標』


 颯真は、紙を見た。


 陸上の練習メニューとは違う。


 タイム表でも、順位表でもない。


 でも、今の自分に必要なのは、こういう地図なのかもしれなかった。


 最初に、『怪我前にできていたこと』を書いた。


『全力ダッシュ』

『スタート練習』

『加速走』

『リレー練習』

『百メートル一本』

『二百メートルのテンポ走』

『悠介と競る』

『タイムを測る』


 書くほど、胸が痛くなる。


 失ったものの一覧のようだった。


 次に、『今できること』。


 颯真は、最初なかなか書けなかった。


 できないことばかりが浮かぶ。


 でも、真壁さんが言った。


「本当にゼロでしょうか」


 颯真は、ペンを持ち直した。


『ジョグ』

『ストレッチ』

『チューブトレーニング』

『体幹』

『フォーム動画を見る』

『腕振り』

『軽いスキップ』

『痛みの記録』

『チームのタイム計測』

『スタートの動きを上半身だけ確認』


 思ったより、書けることがあった。


 でも、それらは走っている感覚からは遠かった。


 灯理が言った。


「走っていないように見える練習も、走る体を作っている場合があります」


 颯真は、その言葉をすぐには信じられなかった。


 でも、少しだけ紙の見え方が変わった。


 次に、『痛みや張りのサイン』。


 真壁さんが説明する。


「痛みを点数で書きましょう。ゼロから十。ゼロは痛みなし。十は我慢できない痛み。張り、違和感、怖さも分けて書きます」


 颯真は、今日のダッシュを書いた。


『三歩目で右太もも奥に張り』

『痛み二』

『怖さ六』

『すぐ止まった』


 怖さ六。


 痛みより、怖さの方が大きかった。


 自分でも意外だった。


 真壁さんは頷いた。


「怖さも大切な情報です。体が同じ動きを警戒している」


 丹羽先生が言った。


「俺は今まで、痛みがあるかないかばかり聞いていたな」


 真壁さんは言った。


「痛みがなくても、怖さで動きが崩れることがあります。そこも段階的に慣らします」


 次に、『焦りが出る場面』。


 颯真は、ためらわずに書いた。


『悠介が自己ベストを出した時』

『みんなが全力で走っている時』

『丹羽先生に無理するなと言われた時』

『自分だけ別メニューの時』

『早く戻ってこいと言われた時』

『タイム表を見る時』


 悠介の名前を書いた時、胸がちくりとした。


 悠介は悪くない。


 ただ速くなっただけだ。


 それなのに、自分は焦る。


 悠介がリハビリ室の入口に立っていた。


 いつからいたのか、颯真にはわからなかった。


 丹羽先生が声をかける。


「悠介、入っていい」


 悠介は少し気まずそうに入ってきた。


「ごめん。聞こえた」


 颯真は、顔を背けた。


「別に」


 悠介は、紙の『焦りが出る場面』を見た。


 自分の名前がある。


 少し表情が揺れた。


「俺、早く戻ってこいって、何回も言った」


「言われなくても戻りたい」


「うん」


 悠介は、床を見た。


「待ってるって意味だった。でも、急かしてたかもしれない」


 颯真は、何も言えなかった。


 悠介は続けた。


「俺、颯真が戻ってきたらまた競れるって思ってた。でも、今の颯真の練習も、戻るための練習なんだよな」


 その言葉に、颯真は顔を上げた。


 悠介は、少し照れくさそうに言った。


「チューブとか体幹とか、俺もサボりがちだからさ。今度、一緒にやっていい?」


「お前は走れよ」


「走る。でも、それもやる」


 颯真は、思わず少し笑った。


 笑うと、胸の奥の固さが少し緩んだ。


 丹羽先生は、ホワイトボードに新しい練習メニューを書いた。


『颯真の復帰メニュー』

『目的:タイムではなく状態確認』


一、ジョグ二周。

二、動的ストレッチ。

三、補強。

四、フォーム確認。

五、二十メートル流し、五割。

六、痛みと怖さの記録。

七、翌日の反応確認。


 その横に、チーム全体へ共有する項目も書かれた。


『リハビリ練習もチーム練習』

『痛みを言うことは弱さではなく情報』

『早く戻れ、ではなく、今日の段階は何かを聞く』

『別メニューの意味を理解する』

『再発予防も競技力』


 丹羽先生は、部員たちを集めて話した。


 夕方のグラウンドに、部員たちが円になる。


 土の匂い。


 汗の匂い。


 遠くで野球部の声が響いている。


「颯真は、復帰途中だ」


 丹羽先生の声は、いつもよりゆっくりだった。


「これまで俺は、本人に無理するなと言うだけで、チームには復帰段階の意味をあまり共有していなかった。これからは、怪我をした選手のリハビリもチームの練習として扱う」


 部員たちは静かに聞いていた。


「痛みや違和感を言うことは、弱さじゃない。情報だ。言えた方が、長く競技を続けられる」


 颯真は、少し俯いていた。


 みんなの前で言われるのは恥ずかしい。


 でも、同時に少し楽だった。


 自分だけが別メニューをしている理由が、見える場所へ出た。


 隠さなくてよくなった。


 翌日、グラウンドに新しい白線が引かれた。


 三十メートルではない。


 二十メートル。


 丹羽先生が、颯真用に引いた線だった。


「今日はここまで」


 颯真は、線を見た。


 短い。


 今までならアップにもならない距離だ。


 でも、今日の目的はタイムではない。


 状態確認。


 真壁さんが横に立っている。


 悠介は、少し離れた場所で見守っていた。


 颯真は、スタート位置に立つ。


 スパイクではなく、ランニングシューズ。


 土を蹴る感触は少し違う。


 息を吸う。


 右太ももの奥を感じる。


 怖さはある。


 でも、昨日のように突っ走る怖さではない。


 自分の体の声を聞く準備がある。


「五割で」


 丹羽先生が言う。


 颯真は頷いた。


 スタート。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 ゆっくり加速する。


 右脚の動き。


 骨盤。


 腕振り。


 呼吸。


 太ももの奥に、軽い張り。


 痛みは一。


 怖さは四。


 二十メートルの線を越えたところで、颯真は止まった。


 息は上がっていない。


 でも、心臓は速い。


 丹羽先生が聞いた。


「どうだ」


 颯真は、反射的に「大丈夫」と言いそうになった。


 でも、言葉を飲み込んだ。


 真壁さんが、記録用紙を差し出す。


 颯真は、右太ももに手を当てた。


「痛みは一です。張りは少しあります。怖さは、四くらい」


 丹羽先生は頷いた。


「よく言えた」


 真壁さんも頷く。


「今日はそこで止めましょう。明日の反応を見ます」


 以前の颯真なら、もう一本と言っていた。


 今も、言いたい気持ちはある。


 でも、颯真は頷いた。


「はい」


 悠介が近づいてきた。


「今の、フォームきれいだった」


「遅いだろ」


「五割だし」


「それでも」


 悠介は、少し考えて言った。


「戻ってる途中って感じだった」


 颯真は、返事に困った。


 戻っている途中。


 それは、遅いという意味ではなかった。


 止まっているわけでも、戻っていないわけでもない。


 途中にいる。


 その言葉は、今の自分に合っている気がした。


 練習後、颯真はリハビリノートを開いた。


 今日のメニュー。


 二十メートル五割。


 痛み一。


 張り少し。


 怖さ四。


 翌日確認。


 その下に、灯理がくれた問いを書いた。


『回復とは、前と同じ速さへ急いで戻ることなのか』


 颯真は、しばらくペンを持ったまま考えた。


 前と同じ速さ。


 もちろん、いつかそこへ戻りたい。


 記録も出したい。


 悠介とも競りたい。


 大会にも出たい。


 その気持ちは消えない。


 でも、今の体を無視してそこへ急げば、また止まる。


 今の体には、今の情報がある。


 痛み。


 張り。


 怖さ。


 できる動き。


 避ける動き。


 翌日の反応。


 それを読むことも、競技の一部なのかもしれない。


 颯真は、ノートの端に一文を書いた。


『走れない日も、走る体を作っている日だった』


 文字は、少し力が入りすぎて歪んだ。


 でも、消さなかった。


 数日後、颯真の復帰メニューは少し進んだ。


 二十メートル五割。


 二十メートル六割。


 スキップドリル。


 軽い流し。


 補強。


 ストレッチ。


 痛みの記録。


 怖さの記録。


 変化は小さい。


 それでも、颯真は毎日ノートをつけた。


 ある日は、前日より張りが強かった。


 その日は走る距離を減らした。


 以前なら悔しくて黙っていた。


 でも、真壁さんに伝えた。


「今日は張りが三です」


 真壁さんは、メニューを調整した。


「よく言えました。今日は補強中心にしましょう」


 その日は走れなかった。


 でも、颯真はノートに書いた。


『減らした。逃げたわけではない。明日の脚を守った』


 悠介は、相変わらず記録を伸ばしていた。


 それを見ると、まだ焦る。


 焦らないふりはできない。


 でも、焦りもノートに書くようになった。


『悠介が速い。焦り七』

『でも、今日の目的はフォーム確認』

『比べる相手は怪我前の自分だけではなく、今日の体』


 丹羽先生は、チーム全体の練習後に時々「今日の体のサイン」を聞くようになった。


 疲労。


 張り。


 睡眠不足。


 不安。


 部員たちは最初、少し照れていた。


 けれど、少しずつ言うようになった。


「ふくらはぎが重いです」

「昨日あまり寝てません」

「腰に違和感あります」

「気持ちは走りたいけど、体が重いです」


 丹羽先生は、それを練習の情報として受け取った。


 颯真だけの授業ではなく、チーム全体の学びになっていった。


 夕方、灯理はグラウンドの端に立っていた。


 空は薄い橙色に染まり、トラックの白線が長く伸びている。部員たちは片づけを始め、スパイクの土を落とす音が静かに響いていた。


 颯真は、今日のリハビリノートを鞄にしまった。


 丹羽先生が灯理の隣に来る。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、走る体を学び直す時間を一緒に見せていただきました」


 丹羽先生は、グラウンドを見た。


「俺は、怪我人に無理するなと言っていました。でも、それだけでは足りなかった」


「はい」


「無理するな、だけだと、本人はただ止められているように感じる。何のために止まるのか、今の練習が何につながるのかを共有しないと」


 灯理は頷いた。


「止まる意味が見えないと、戻りたい気持ちだけが強くなりますね」


「はい。痛みを隠すな、と言うなら、痛みを言える空気も作らないといけない」


 少し離れた場所で、颯真と悠介が補強用のマットを片づけていた。


 悠介が何か言い、颯真が軽く言い返す。


 以前と同じではない。


 颯真はまだ全力で走れない。


 悠介のタイムにも届かない。


 でも、同じグラウンドにいる。


 別のメニューをしながらも、チームの中にいる。


 真壁さんが、リハビリ室から出てきた。


「颯真くん、今日はちゃんと張りを言えました」


 丹羽先生が笑った。


「それが一番の成果かもしれません」


 真壁さんは頷いた。


「体の声を聞ける選手は、長く続けられます」


 灯理は、トラックの新しい白線を見た。


 二十メートル。


 以前の颯真なら、短すぎる線。


 けれど今は、回復のための大切な線だった。


 体を取り戻すことは、以前と同じ速さへ急ぐことではない。


 もちろん、競技者は記録を求める。


 速く走りたい。


 勝ちたい。


 ライバルと並びたい。


 それは大切な気持ちだ。


 けれど、怪我をした体は、根性だけでは戻らない。


 痛み。


 張り。


 怖さ。


 疲労。


 翌日の反応。


 それらは、弱さの証拠ではなく、体から届く情報だ。


 その情報を読まずに急げば、回復の道はまた途切れる。


 だから、今日の線を引く。


 二十メートル。


 五割。


 痛み一。


 怖さ四。


 明日の反応を見る。


 その小さな記録の積み重ねが、やがてまた走る体を作っていく。


 灯理は、夕暮れのグラウンドを振り返った。


 颯真のリハビリノートには、彼の字で一文が残っている。


 走れない日も、走る体を作っている日だった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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